サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(榎本武揚・誠品書店・箴言集)

*近頃は『他人の顔』を読み終えた勢いに乗じて、安部公房の『榎本武揚』(中公文庫)を読んでいたのだが、段々と気が進まなくなって中断した。先日の仕事の帰りに、日本橋室町のコレドに入っている誠品書店へ立ち寄り、台湾のテント生地を使用した水色のブックカバーと併せて、新訳のラ・ロシュフコーの『箴言集』(講談社学術文庫)を衝動的に購入したのが、直接的な引鉄であったかも知れない。「榎本武揚」は、非現実的な設定を駆使して、我々の属する社会的現実を随意に改変してしまう奇抜な作風を旨とする安部公房の文業においては、異色の系統に列するもので、所謂「歴史小説」の特性を備えている。作品が退屈という訳ではない。安部公房の作風なるものを勝手に決定して、それを基準として、逸脱を望まない態度は、読者の心構えとしては余りに偏狭で、殊勝さを欠いている。だから、私が繙読を中絶したのは作品の側の瑕疵が原因という訳ではない。恐らく「物語」という形態に、性急さゆえの倦怠を覚えるタイミングというものが、時折私の精神を掠めて陰翳を投じるのである。
 或いは単純に、同一の作者の作品ばかりを集中的に通読するという近年の習慣に飽いたということかも知れない。それは文学に飽きたから思想や歴史を扱った書物に鞍替えしたいという意味ではなく、端的に言って、多様性に餓えているという意味だ。同一性に対する反復は、確かに有意義な習熟を人間に齎す。しかし、それは視野を単一の論理に隷属させる危険を常に孕んでおり、世界を狭めて、思考や感性を硬直させる弊害を含んでいる。習熟と洗煉の価値は言うまでもないが、同時に粗野であっても拙劣であってもいいから、可能性の範囲を拡張するという努力も不可欠である。純化のみならず、貪婪な食欲を発揮することにも相応の労力を支払うべきである。
 以前にも多様な書物を読み漁ろうと一念発起して、セネカバートランド・ラッセルエピクロスの書物を手に取ったことがあった。そのときは、繙読を進める裡に、西洋の伝統的教養の基底を成す古代ギリシアの思想から出発して段階的に歴史を辿って行かないと充分な理解に達し得ないと悟り、来る日も来る日もプラトンの典籍を咀嚼する日々を過ごした。プラトンが終わればアリストテレス、という具合に予め順序を定めてしまうと、何年経ってもデカルトスピノザライプニッツには辿り着けないことになってしまう。古代ローマストア学派の主要な文献だけでも、突破するのに数年の日月を閲するだろう。そういう前途遼遠の感慨に気後れして、やがて繙読も沙汰止みとなった。結局は同じことで、多様性の消失が精神の鬱屈と倦怠を醸成したのである。
 固より私は文学や哲学の専門家を志す訳でもなく、本職の学者の如く、特定の著者に狙いを定めて微に入り細を穿つ精緻な研究に打ち込む根性も能力も欠いている。飽く迄も素人の好事家どまり、飽き性のディレッタントを気取っているに過ぎないのだから、もっと自由に、もっと放埓に、もっと無節操に、書物の森林を渉猟しても一向に差し支えない訳だ。一知半解でも構わない筈だ。私は私個人の矮小な人生に些少の充実と成長を齎す為に、古今東西の賢人の謦咳に、和訳の活字を通じて接することを目論んでいるだけである。固より完璧な学術的理解を期することが無謀であり、古代ギリシア語を解さない私が、それらの典籍を訳した先賢以上の理解度に達する見込みは絶無なのである。それを望むのは知的好奇心というよりも単なる独り善がりの虚栄心の為せる業に過ぎない。思い立ったが吉日という俚諺に託けて、己の性急な気質を正当化するのが私の習慣である。だから、途端に「榎本武揚」を自宅の小さな書棚へ強制送還して、ラ・ロシュフコーの底意地の悪い「道徳的考察」を啄むことに急遽方針を革めたのである。恋人を次々に取り替えるのは不実の謗りを免かれないが、書物を次々に取り替えるのは何ら公序良俗に反する行為ではない。元来硬質で融通の利かない脳味噌を軟化させる為にも、今後暫くは幅広い分野の探索を金科玉条として取り組んで参りたい。

榎本武揚 (中公文庫)

榎本武揚 (中公文庫)

 
箴言集 (講談社学術文庫)

箴言集 (講談社学術文庫)