小説「ヘルパンギーナ」
「聞こえてんのか、ジジイ」 戦慄くような母の声には、裏切られた患者の途方もない怨嗟が言霊のように鬩ぎ合いながら充ちていた。私は様子を窺いながら、茫然とした。予想もつかない痛烈な科白が、普段は大人しくカルガモのようにひっそりと己の我儘な感情や…
「大きく口を開けてごらん、坊や」 一歳の誕生日を過ぎた幼児の不貞腐れたような真顔を老眼鏡越しに鋭く睨み据えて、老い耄れた医者は灰白色の立派な眉を顰めた。伸び放題に伸び切った眉毛の尖端は栄養が行き届かない所為もあって猫の毛のように細く繊弱に見…
物が言える年頃に至っても、私は寧ろ積極的に緘黙の姿勢を重んじていた。この季節の幼児が舌足らずの口調でどのような言葉を発するものか、それを不自然にならぬように再現し続けることに関して、胸の内に一向に自信が湧いて来なかった為である。そうである…
私が生を享けた桐原家は、千葉県千葉市花見川区に居を構える古くからの地主の家柄であった。区域を南北に流れる花見川の滔々たる水面の輝きは、転生した私の眼にも眩しく映り込んだ。広々とした敷地は、私の生みの親が自力で勝ち得たものではなく、累代の遺…
日本の片隅で生まれた平凡な私に語れることなど、そうそう幾つもある筈がないのは、読者諸賢も既に御明察であろう。薄暗い湿っぽい秘境、母親の胎内からドリルのように旋回して狭苦しい子宮口を抉じ開け、やっとの思いで外界の新鮮な空気を肺臓一杯に吸い込…