サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ヘルパンギーナ」 3

 物が言える年頃に至っても、私は寧ろ積極的に緘黙の姿勢を重んじていた。この季節の幼児が舌足らずの口調でどのような言葉を発するものか、それを不自然にならぬように再現し続けることに関して、胸の内に一向に自信が湧いて来なかった為である。そうであるならば、沈黙は金、雄弁は銀という古来の俚諺に従い、唇を塞いで舌禍の萌芽を予め摘み取っておくのが賢明な振舞いであると言えるだろう。同世代の子供たちの振舞い方を見て倣おうにも、幼稚園へ上がるまでは有用なサンプルが身近に多数存在している訳でもなく、大体、余所の子供たちを真似なければ子供らしく振舞えないというのは、如何にも鈍重な子供である。必然的に、無口で不活発な幼児としての自己形成を否応なしに強いられた私の鈍重な成育を、両親も親族も非常に心配した。医者へ診せた方が良いんじゃないかとか、舌や口蓋の構造に先天的な欠陥があるんじゃないのかとか、乳母でも雇って初等教育を仕込ませた方が良いんじゃないかとか、兎に角彼是と多彩な角度から変化球の意見が続々と抛り込まれるので、父親は未だしも、母親の方は随分と気が滅入った様子で、半ばノイローゼのような状態にまで沈みかかっていた。こういう場合に、親族が軒並み徒歩で移動し得る範囲内に暮らしているのは絶望的に忌々しい条件であって、母親にしてみれば殆ど四面楚歌の窮境であったに相違ない。彼らは彼らなりの切実な良心に基づいて、桐原一族の直系の嫡男の成長具合を憂えて様々な忠告を投じているのだが、どれも尤もらしい根拠は備えているにせよ、所詮は素人の脳髄の中に湧き出した妄想に類する着想でしかないから、本気で受け取って取り組んでみたところで大した成果は出ない。無論、私としても、緘黙を重視することによって却って周囲の注視を集めることになっては本末転倒であるから、愈々追い詰められた母親が発狂の手前の不安定な高波の如き精神状態を持て余した揚句、私を医者へ連れて行くと言い出した段になって、どうにか二言三言でも子供らしい発言を試みねばならなくなった。医者からこの子は脳味噌に器質的障害があるとか、或いは単に精神的なストレスを抱えているようだとか、そういう尤もらしい診断を下されてしまえば、誰もがその判決文を有難がって大騒ぎを始めてしまい、私の奇怪な本性が見透かされてしまう危険は高まるであろう。私は慎重な性格であったから、自らの保身を希って、そういう小賢しい計算を繰り返すことが苦痛ではなかった。生き延びる為なら、手段は選べない。後に学習して分かったことだが、それは嘗て関東圏のそれなりに立派な武将であった頃の経験から導き出された肉体的な哲学のようなものであったのだろう。草の根を分けてでも殺すべき獲物を捕えて致命的に屠り、泥水を啜ってでも片腕を斬り落とされてでも余喘を保つこと、それは私がこの世界の秩序と構造に関して所持している乏しい信条の中で、最も根本的な理念である。先ずは生き延びて、たとえ芋虫のような見苦しい姿に成り果て、四肢の自由を奪われようとも、蛆の群がる屍体にならぬことが肝要なのだ。
 近所の開業医の小児科へ、高価な乳母車に乗せられて私の小さな体躯は運ばれていった。蔵部医院くらべいいんという年季の入った看板が路傍に面して高々と掲げられているその町医者は、蔵部憲吉くらべけんきちという如何にも堅苦しく融通の利かない、煉瓦塀の如き字面の姓名を有する老爺の経営する古びた診療所で、その老人は桐原家の総帥である桐原哲雄氏と小学校以来の無二の親友であり、従って桐原家の子供たちは、高熱を発したり下痢を垂れ流したり扁桃腺を腫らしたり鼓膜の奥に膿を溜め込んだりすると必ず、旧千葉街道へ面した蔵部先生の門扉を敲くのが、半世紀以上も続く問答無用の慣わしとなっていた。高潔な山羊のような純白の細い髭を脂で固めた蔵部先生は、医業に仕える身分でありながら葉巻が大好物で、何度も咽頭や気管支に炎症を患って臨時休業を決め込んでいる不養生で無反省な痩せぎすの好々爺である。建物自体も頗る年代物で、くすんだ白色の混凝土の壁は霹靂のような傷や蔓草のような罅割れを其処彼処に抱え込んでいて、閲してきた月日の底知れぬ厖大さを暗黙裡に物語っていた。そこへ住まっている祖父の幼馴染の医者も当然のことながら今では廃用間近の耄碌した人物だが、それでも現代医学の目紛しい発達の恩恵を見事に蒙っているのか、桐原哲雄ほどではないけれども自分の手足で大体の用は足せるし、風邪の類ならば充分に診療出来るだけの医学的技倆を辛うじて保っていた。私が生まれて間もない頃に、長年の連れ合いを咽頭癌で亡くしてから随分と老け込んだという話で、それまでは案外桐原哲雄に匹敵するくらいの達者な老人であったのかも知れない。盆暮れには桐原家との間に中元歳暮の進物を交わし合う間柄で、どうやら書道の心得があるらしく熨斗紙の表書きは人任せにするのを嫌って必ず自分で毛筆を握るのが拘りであったが、年々字体が達筆になり過ぎて判読の難易度は上がる一方であり、不運にも贈答の時期に体調を崩した場合には単なる墨の縺れ合いのように見えることさえあった。それでも長年維持してきた慣習を革めるのは忸怩たるものがあるのか、愈々卒中で倒れて右手が利かなくなり医家を廃業するに至るまでは、頑固に自筆での表書きを貫き通していた。祖父の方でも竹馬の友の強情で剛毅な性格を知り抜いているのか、筆先が安全靴に踏みつけられた家守のように苦しげにのた打ち回っていても、不確かな指先を虐使する蔵部先生の苦闘を見苦しいなどと嘲弄することは絶対に控えて、寧ろ励ますように憐れむように、居間の座椅子に胡坐を掻いて感慨深げに熨斗紙を見凝めて暫く黙り込んでいるのであった。
 だが、そういう蔵部先生の詳細なプロファイルに就いては後々少しずつ学んでいったのであり、物を言わない乳幼児の行く末を心配して一族が騒ぎ出した頃には未だ、彼の眼力に対する不信感はなく、従って本性を見透かされて声高に指弾されるかも知れないという危惧が尽きる理由はなかった。医者というのは無条件に偉いものであるという刷り込みが記憶の断片に捻じ込まれており、それが私を力尽くで不安にさせ、日々地道に積み重ねている営々たる努力が破綻するかも知れないという懸念は、見た目には理由の分からない嬰児の泣きじゃくりとして表現された。この子は自分が何処へ連れて行かれるのか、幼い本能で明瞭に感じ取っているんだわ、だから決して知恵遅れなんかじゃないわ、と母親は言い募ったが、一旦定まった方針を無造作に覆す訳にもいかないのが桐原家長子の惺と、その跡取りである私とに課せられた立場というものであったから、母の抗弁は直ちに却下された。母としても、白痴の息子を産み落としたなどと罵られるのだけは絶対に我慢し難いことであったから、医者へ行く必要などないと言い張りたかったのだ。追い詰められた私が如何にも態とらしく舌足らずの口調で「ママ」と二三度繰り返した御蔭で、彼女は大喜びでこの子は口が利ける、見た目は鈍臭くても本当は賢い子なんだと熱り立って触れ回ったが、その試みも捗々しい効果を上げるには至らなかった。一遍医者に診てもらうべきだというのは、桐原一族の総帥である祖父の意向に即したものであったからだ。誰も祖父の決定に逆らうことは出来ないし、耄碌の件は都合良く棚上げして、桐原哲雄は蔵部憲吉の医者としての技倆に絶大な信頼を捧げていた。幼馴染、彼らの年齢を考えれば、その付き合いの深さは殆ど血族と同等の強靭さを備えている訳で、生半可な身内よりも共に過ごしてきた歳月は長いのだから、祖父が蔵部先生の診療所へ孫を連れて行くことに関して、誰の異論も認めないのは避け難い結論であると言えた。だから最終的に、母親は涙ながらに息子の診療を受け容れたのだ。
 がらんとした医院の大きな窓は、どれも軒並み磨り硝子で、八月の夏の真昼の鮮烈な光さえ、その分厚い隔壁に濾されて、不健康に色褪せて見えた。耄碌して、すっかり足腰の弱くなった老爺が経営する医院である以上、建物まで古びて刻んだ年輪の果てしなさを痛感させるのは止むを得ない現象であろう。だが、私の中身はもっと古く、最早想像することさえ困難であるような時代の不透明な残滓を全身に纏わりつかせているのだから、彼の古さを罪悪のように罵る訳にはいかない。黴臭いような、或いは何らかの医学的な薬品の臭いなのか、静まり返った待合室のどんよりと澱んだ空気の中には、異様な、不穏な、何とも名状し難い運命が待ち受けているかのようなイメージが氾濫していた。私は乳母車に、いや、ベビーカーとやらに載せられて、緩やかに覆い被さる幌の隙間から、その忌々しい光景を凝と観察していた。開いた円らな瞳は単に赤児の無垢な精神の表れのように、第三者の眼には映じたであろうが、私は何も考えていない空っぽの、タブラ・ラサの人間の雛型ではなく、古びた魂を時空の彼方から持ち越した奇矯な存在であった。
 受付へ、幾つも段差を踏み越えて不用意に揺さ振られながら(母は愈々差し迫った診察の瞬間に怯えて、精神の均衡を危うげに傾がせていたのだ)、私は重態の敗兵のように運搬された。受付の窓口で待ち構えていた年配の肥った女は、乳母車、いやベビーカーの寝台に横たえられた無邪気な赤ん坊の茫漠たる表情に、慈愛に満ちた、観音様のような眼差しを無遠慮に注ぎかけた。全く、赤ん坊ほど見られることに無防備で無抵抗な存在は、他に想像し難い。その点では殆ど、飼猫にも等しい受動的な立場を強いられている。見られることに逆らえないのは紛れもなく人権への冒涜であり、尊厳に対する陰惨な侮辱である。
「婦長です」
 肥った女は無防備な被害者からゆっくりと視線を外して、怯える余りに険しく強張ってしまった母の顔を無造作に見凝めて名乗った。
「予約されていた方かしら。確か、桐原さんのところの」
「そうです」
 母の口調は、荒涼たるサハラ沙漠に点在する岩屋よりも乾き切った、退屈な音律に縁取られていた。内側に溜め込まれた種々の不快、親族たちの高圧的な提案の数々に対する遣る瀬ない憤懣が、そのまま軋むような和音を奏でているのだ。無論、恰幅の良い婦長の側では、訪れた患者の保護者の内なる葛藤など管轄外であるから、その口調に籠められた隠微な意味合いなど、歯牙にも掛けなかった。歯牙にも掛けないどころか、彼女は無遠慮に乳母車の中へ寝かせられた私の顔を覗き込もうと、母に断わりの一言さえ投げ与えずに薄手の化繊で出来た幌をばさりと押し上げた。その単刀直入な振舞いに母は顔色を変えたが、莞爾として微笑む婦長の男勝りの面構え、それは恐らく医療の現場という疾風怒濤の凛冽たる戦場に長く身を挺してきたが故の鍛え上げられた風貌なのであろうが、その逞しい眼差しと微笑みを前にしては、彼是と不躾な罵りの文句を並べ立てる訳にもいかない。そもそも、彼女は祖父の友人が経営する、こじんまりした医院の被用者なのであり、婦長の傲然たる態度に仮借無い批判を浴びせれば、その禍いは巡り巡ってブーメランの如く帰還して母の繊細な蒼白い眉間を断ち割ること必定であったから、固より我慢する以外の選択肢は存在していないのであった。両者の不均衡極まりない関係性は、片方が看護する側であり、もう一方が診療を受ける側であるという非対称性によっても猶更強化されており、しかも実際に蔵部先生の耄碌した指先による触診を蒙るのが幼気な嬰児では、そのアンバランスな権力の秩序が覆される見込みは皆無に等しいと言って差し支えなかった。
「喋らないんですってね」
 一頻り、年老いて脂の薄くなった指先で私のぷっくりと膨れたマシュマロの如き頬を(父方の伯母である相模恭子女史は、それを「紅ほっぺ」と呼んで大層可愛がってくれていた)突き回した後で、婦長は真面目な顔になって母親の眼を脅すように見据えた。その鋭利な猛禽の剣幕に気圧されて半歩退却しながら、母は躊躇いがちに頷いて、婦長の追及に慎重な対処を試みた。
「まあ、個人差ってものがあるからねえ。小さいうちは、特にバラバラよ、育ち方ってのはね」
 受付の右手にある、ブラインドで仕切られた診察室への入口を一瞥してから、婦長は灌木の幹のような腰回りに両方の掌を押し当てて、鼻息を荒くした。象牙色の蛇腹のようなブラインドは色褪せていて、所々に黄色い汚点が目立ち、如何にも長年の手垢の蓄積に窶れているように見えた。人間に限らず、事物には必ず表情というものが備わっていて、無論それは人間の眼で眺めるから表情があるように見える訳で、そこには必ず比喩的な解釈という人間の古き良き文学的慣習が関与している。その象牙色の蛇腹の仕切りは、もう何十年も同じ場所に腰を据えて、待合室と診察室との間に具体的な境界線を生み出し続けてきた、その永年の労苦が皺に詰まった埃のように、歪んだ蛇腹の谷間へ沈々と溜まっている。