サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

恋することは愛することと重ならない 3

 「結婚=生殖の一体的運用」というイデオロギーを解体することは、広義の「共生」に対する人間の欲望を適切に保護する手立ての一環となるだろう。「恋愛結婚」という理念は、共生的愛情に「恋情=性的欲求」の要素を強制的に附加することで「生殖への欲求」を保全し、促進する為のイデオロギーである。国家が「結婚」を祝福し、称揚する最大の理由は「生殖の促進」に他ならない。論理的に考えて、生殖活動が途絶した国家においては、成員の絶滅は不可避であり、成員の存在しない国家は成立し得ないから、最終的に国家が滅亡することは明確なコロラリーである。少子化が国家的課題に挙げられるのは、それが国家の存亡に直結する問題であるからだ。

 しかし、我々は既に「恋愛結婚」の極端な推進が、共生的能力の根絶と結婚制度そのものの消滅に帰結し得ることを確認した。従って「恋愛結婚」の奨励によって「生殖」を促進するという少子化対策は棄却されねばならない。「異性愛の配偶者によって独占的に養育される子供」という図式自体が、構造的な限界に迫られつつあるのである。

 先ず「結婚」という制度の再設計に就いて検討を進めてみたい。私見では、この再設計において最も基礎的な方針となるのは「結婚=共生」という素朴な定義を復権させること、そして「結婚=共生」の定義を大幅に多様化すること、これら二点である。

 日本国憲法の第24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。この条文における「両性」という限定は除去されねばならないだろう。つまり「結婚」に関して「異性愛」を前提とする生殖的含意を削除することが、結婚制度の再設計においては不可欠なのである。何故なら「結婚=生殖」という絶対的含意を除去することが、「結婚」を「広義の共生」に資する制度として改訂する上では極めて重要な手続きであるからだ。端的に言えば「結婚」を無条件に「セクシュアルな仕組み」と看做す伝統的信仰を排撃することが必要なのである。無論、配偶者が異性愛者で、濃密な性的関係を相互に望むことは一向に差し支えない。私の関心は「結婚」を純化することではなく、より包括的なものに置き換えることに向けられているからだ。

 こうした改訂が如何なる変化を社会に齎すか、想像的に検討してみたい。先ず「結婚」に関する性別の規定の撤廃は、同性愛などの性的少数者に「結婚」へ通じる門戸を開くことになるだろう。性的指向に関わらず、誰もが「結婚」という形で特定の伴侶との共生的関係を法律的に庇護されることになる。

 第二に「結婚=生殖」の癒合を解除する措置は、夫婦間の「望まない性交」を「暴力」と看做す現代的な考え方を更に尖鋭化し、一般化するだろう。「夫婦であれば性交に応じるのが当然である」という旧弊な固定観念が、陰惨な性暴力の温床として作用してきた歴史的事実を看過してはならない。また、こうした措置は「愛情=恋情」という等式、即ち「性交を愛情の確たる証拠」と看做す狭隘な偏見を除去することに繋がるだろう。「愛情の有無」と「性交の可否」を一義的に結び付けないことは、性暴力の被害から人々を護る上で重要な倫理的規約である。

 第三に「結婚=生殖」の癒合を撤廃することは、各自の「出産」や「養育」に関する自己決定の権利を保全することに繋がる。現代でも未だ「子供を持たない夫婦」への隠然たる蔑視は根強い。しかしながら「妊娠の強要」を行なう権利が、誰の手に握られているだろうか? 妊娠は、母胎への深刻な負荷を伴う営為であり、従ってその可否の決定は当事者の主体的判断に委ねられるのが妥当である。「子供を持たない夫婦」に対して、恰かも彼らが「怠慢」であるかのように謗る人間は恐らく「結婚=生殖」という伝統的イデオロギーの忠実な信徒なのである。しかし、育児に疲弊した夫婦が、育児に着手しない夫婦を暗黙裡に批難するのは不毛な諍いでしかない。「生殖=育児」に関する社会的支援や庇護の拡充は「子供を持つこと」に関する自己決定の権利の保全とは別個の問題として論じられるべきである。

 第四に「結婚=生殖」の通念を解体することで、監護者による無意識的な「子の私有」に伴う弊害(代表的なものとして挙げられるべきは「虐待」)の発生を緩和する効果が期待され得る。「結婚=生殖」のイデオロギーを解体するということは、言い換えれば「子の養育」という重要な営為を「家庭」という単位で仕切らない状態を意味する。広義の「集団的保育」が常態化し、子供たちは多様な共生的関係の下に生まれ育つことになる。それは裏を返せば「父母」に「養育」の全権を委ねる酷薄な社会的構造を是正することにも繋がる。また、劣悪な家庭環境が子供たちの成長に及ぼす望ましくない影響も相対的に緩和され、教育や保健に関する格差も縮小するだろう。

 第五に「結婚=共生」としての再設計を進めることは、様々な社会的孤立の事例を減殺することに寄与するだろう。単純に考えて、性別に関する規定を撤廃するだけでも、婚姻の件数は増大に向かう筈である。性的な含意を含まない純然たる「友情」に基づく「結婚」も認められるのだから、多くの人々にとって「配偶者」の選択肢は増大し、入籍する確率は上昇するだろう。「結婚」の成立する要件が緩和されれば、それを維持する難易度も相対的に低下するので、離婚に踏み切る事例は減少するだろう。「生殖」と関連しないのであれば、必然的に「年齢」に基づく結婚の制限も無用となるので、適齢期という観念は消滅し、極端な晩婚も何ら問題視されなくなる。高齢化社会においては配偶者との死別が頻発するだろうから、晩年の「孤独死」を防ぐ為に「終末婚」が奨励されるようになるかも知れない。

 第六に「結婚=生殖」の癒合の解除は「相続」に関する旧態依然とした考え方を更新するだろう。配偶者への遺産の分与は保全されるとしても、血縁を理由とした相続は廃止され、飽く迄も故人の遺志が尊重されることになる。それは巨額の遺産を巡る血族同士の諍いを抑制するだろう。

 第七に「結婚=生殖」の癒合の解除は「集団的保育の推進」と同期して「集団的介護の推進」を促すだろう。

 これらの空想的な検討は、煎じ詰めれば「結婚」という概念の包摂する範囲の拡張を企図している。「結婚」の定義が書き換えられれば、必然的に「家族」の定義も書き換えられるだろう。それは古典的な「家族」のイメージを信奉する人々の眼には「家族の解体」として映じるに違いない。「血縁」という伝統的な紐帯は、その特権的な価値を失墜させる。同性愛の夫婦が養子縁組を行なって、一つの「家族」を形成するとき、彼らを相互に結び付ける媒体は「血縁」ではない。

 尤も、あらゆる事柄には必ず明暗の両面が備わるものである。仮に「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的信仰を解体したとき、如何なる弊害が生じるかに就いても検討を試みなければ、この考察は公正を欠くことになるだろう。

 「恋愛=結婚=生殖」の解体は、民法上の「貞操義務」という理念を弱体化させるだろう。少なくとも配偶者間の合意に基づいた「婚外恋愛」は、社会的制裁の対象としては認定されない。古典的な「妻妾同居」の復権も有り得る。「貞操義務」という理念の弱体化が極限まで亢進すれば、所謂「一夫一妻制」の原則も瓦解し、同一の人間が「複数の家族」に同時に帰属する事態も起こり得る。「結婚=生殖」が分離されるので、恐らく生物学的な「実親」と監護者たる「養親」との不一致も常態化するだろう。これらの現象を要約すれば、特定の相手との「持続的共生」が困難になるということである。言い換えれば「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的信仰の廃絶は、その極端な尖鋭化と同一の帰結に到達するということである。

 「恋愛=結婚」の同一視を極限まで推し進めたとき、我々は「感情の変化」という不可避的な理由に基づいて、共生的関係の短命化を強いられる。他方、仮に「恋愛=結婚」の同一視を完全に撤廃したとしても、我々は特定の相手との共生的関係を維持することに困難を覚える。前者は「共生的関係」の「時間的複数化」として、後者は「共生的関係」の「空間的複数化」として要約し得る。「時間的複数化」においては、人は共生すべき「唯一の伴侶」を次々と取り換える。「空間的複数化」においては、人は共生すべき「複数の伴侶」を同時に保有する。つまり、何れの場合にも人は「絶対的伴侶」という崇高な理念を喪失する羽目に陥るのである。

 無論「絶対的伴侶の実在など、信じるに値しない妄想である」とニヒリスティックに言い放つことは容易である。「運命の人」という古典的なロマンティシズムを廃棄するのは、合理的な措置であると言い得る。事実、我々は夥しい偶然に導かれて、結果的に「伴侶」と邂逅し、関係を結んでいるに過ぎない。相対主義的な偶然性を否認することは、無益な抵抗に他ならないのだ。こうした賢明な諦念が「伴侶を任意に選択する」という自由主義的な発想を涵養する。けれども本来「共生」とは「偶然知り合った他者と紐帯を締結し、信頼関係を構築する営為」ではないだろうか。極端な言い方をするならば「共生=結婚」は、誰を相手に選ぼうと同じことである。「腹に入れば皆同じ」という慣用句に倣って「結婚してしまえば皆同じ」と言ってしまって差し支えない。問われるべきは「如何にして共生を実現するか」であって「どんな相手が自分に相応しいか」ではない。誰を伴侶に選ぼうとも、当人が相互に「共生」へ向けた創意工夫を持続しなければ、破局は避け難い。その意味では「恋心」と「結婚」は確かに無関係であり、所謂「恋愛結婚」の神威は虚しい幻影に過ぎない。「伴侶を選択する」という水平的な課題と「伴侶と共生する」という垂直的な課題は切り分けて論じられるべきなのだ。人が人を「選ぶこと」など出来ない。ただ「共に生きる」という唯一の途が残されているだけなのである。

恋することは愛することと重ならない 2

 「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という二つの社会的な趨勢が齎す現代的な困難は、様々な指標を通じて可視化されている。未婚率の上昇、離婚件数の増加、晩婚化、少子化核家族化といった社会的現象は、上記の二つの潮流の合理的な帰結である。

 「恋愛の自由化」は、言い換えれば「恋愛の自己責任化」である。誰でも意のままに、自分の好む異性(場合によっては同性)と性的な関係を、相互の合意に基づいて締結することが出来るということは、裏を返せば、他人と性的な合意を成立させることの出来ない人間への社会的な救済が撤廃されるということを含意している。従って、生得的な条件や後天的な努力を複合させて、他者を魅惑する技能を培うことに失敗した人間は、半永久的に「恋愛」の機会から疎外されることとなる。つまり、自由主義的な原則の導入によって「恋愛」は市場化され、格差社会化されるのである。魅力的な人間には恋愛の機会が集中的に与えられるが、魅力を持たない人間には一切、チャンスが訪れない。こうした不平等は自由主義の必然的な暗部であり、自由主義の原則を尊重する限り、こうした格差によって惹起される潜在的な不満は解消されない。

 更なる困難は「恋愛と結婚の一体化」という現代的な「神話」によって増幅される。「幸福な恋愛の帰結として幸福な結婚が存在する」という強力なイデオロギーが蔓延する社会において、恋愛の自由化が強力に推進されると、必然的に「結婚する人間」と「結婚しない人間」の二極化が顕在化する。魅力を持たない人間は「恋愛」のみならず「結婚」の機会からも疎外され、更に「結婚」と「生殖」との強力な法律的結合(未婚の父母に対する公的な支援が薄弱である現実は、暗黙裡に「生殖」を「結婚」と同一視していることの証明である)によって「生殖」の機会からも疎外される。極端な表現を用いるならば、恋愛の市場において魅力を示すことの出来ない人間は、間接的に「断種」されてしまうのである。要約すれば「恋愛の自由化」は、結果として「優生学的な淘汰」を齎すのだ。

 同時に「恋愛と結婚の一体化」というイデオロギーは、結婚という社会的制度そのものを空洞化する。恋愛感情が結婚を成立させ、正当化する最大の根拠であるならば、恋愛感情の死滅は結婚生活の破綻に直結する。「恋愛結婚」の推進は必然的に「離婚」及び「再婚」の増加を惹起するのである。何故なら、人間の感情は基本的に不安定で、恣意的な統制を受け付けず、当人の意図を離れて浮動するものであるからだ。「愛のない結婚は不幸である」という定式が社会的に共有されれば、「愛のない結婚」からの脱却は勇敢な美徳として称揚される。言い換えれば「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という社会的潮流は「結婚の短命化」に帰結するのである。

 しかしながら、短命化した「結婚」は果たして「結婚」の要件を満たすだろうか? 短期的な終焉を繰り返す「結婚」ならば、それは一過性の「恋愛」と構造において異ならない。従って「結婚」と「恋愛」との境界線は、法的な保護以外の差異を持たなくなる。そうなれば今度は、そもそも個人の自由な恋愛に法的な保障を附加する理由が疑問視されるようになるだろう。こうして「結婚」という社会的制度は、廃絶の刻限を迎える。我々は「終生の伴侶」という崇高な理念を放棄する。「恋愛の自由化」の最終的な帰結が「結婚の廃絶」であることは「コロラリー」(corollary)なのである。

 「結婚の廃絶」という帰結が、我々の社会に不利益を齎さないのであれば、このコロラリーに服属することは何ら問題ではない。人間は生涯の間に幾度も伴侶を交換し、場合によっては如何なる伴侶も持たずに死を迎えるという社会的慣習を獲得する。「永遠の愛」という神話は嘲笑され、恋愛感情の賞味期限は刻々と短縮されていくだろう。一旦「永遠」という理念を手放してしまえば、「一年間」の恋も「一分間」の恋も、本質的には同一であるからだ。

 言い換えれば、我々は他者との間に長期的な「共生」(symbiosis)の関係を構築する理由を加速度的に喪失していくだろう。選り好みする審美的な価値観ばかりが異様に発達し、尖鋭化することで、我々は必然的に「寛容」の美徳の倫理的価値を切り下げていくだろう。「共生」する能力の衰弱は、やがて配偶者のみならず、親子の間の紐帯にも影響を及ぼし、血縁の神話的な価値は暴落し、個人の「原子化」は極限まで亢進するだろう。究極的には、我々は「赤の他人」しか存在しない社会に生きることになるのである。「窓のないモナド」としての「個人」が、無感情に離合集散を繰り返す社会の完成である。だが、それは本当に人間の魂の望む未来図だろうか? 人間は「親密な関係」への欲望を根本的に棄却し得るだろうか?

 他者との「共生」を厭う根強い感情と同じくらい切実に、人間は「孤独」の寂寥を忌み嫌う。誰の援助も得られず、如何なる共感も望めず、万事を孤独の裡に進めて、時が満ちれば屍となって大地へ還るという生涯を、誰かが心の底から欲するとは思われないし、若しもそれを望む者がいたとすれば、その人間は寿命を待たずに自殺するだろう。そもそも、人間は養育に極めて厖大な時間と労力を要する生き物であり、生まれて直ぐに立ち上がれなくとも、数多の懇切な扶助に迎えられて命脈を繋ぐのが習いである。従って「共生」という理念は、当人が意識的な反出生主義者であろうとも、人間の生存の根幹を占めているのだと言える。「共生」を否定する言説を弄する者も、必ず「共生」の恩恵の下に、その言説を表明する能力と機会を享受しているのである。

 そもそも「恋愛の自由化」という社会的要求は、形骸化した親密さの代わりに、血の通った幸福な親密さを樹立しようと試みる感情に由来している筈である。従ってその極端な帰結が「共生の廃絶」に至るのならば、それは不合理な自殺を犯すことに等しいのであり、我々は何処かで方針を転換しなければならない。恐らく「恋愛の自由化」という趨勢は抑制し難い健全な要求であるから(厳密には、恋愛感情というのは本質的に自由なものであり、他律的な活動を行ない得ないものである)、我々が差し当たり再審に附すべき問題は「恋愛と結婚の一体化」という方針であろう。つまり、両者の混同が妥当な判断であるかどうかを再検討する必要が生じているのである。

 「恋愛結婚」というイデオロギーが活発に機能する社会では、必然的に「恋愛の自由化」は「結婚の自由化」を齎す。我々がその是非を議論すべきなのは、恐らく「恋愛の自由化」ではなく「結婚の自由化」に関してである。自立した人間が周囲の誰を好きになるか、という問題は専ら当人の主観的裁量に委ねられるべきで、他者が容喙する理由は存在しない。しかし、誰と結婚すべきかという問題に関しては、社会的な意見や統計的な傾向を考慮する必要がある。それは「恋愛」と「結婚」が本来、異質な原理に基づいた営為であるからだ。恋愛感情を懐く相手と、結婚する相手が見事に合致していなければ不自然であるという現代的な偏見を、我々は一旦解除しなければならない。別の言い方を試みるならば、我々は「愛情」という概念を、性的な「恋情」と混同する通俗的な謬見から解き放たれる必要があるのだ。

 本来、愛情という概念は多様な形態を選択し得る。あらゆる人間関係において、愛情は「共生を求める感情」として、その関係性に即した形式で発現し得る。しかし「結婚」という形態においては、「愛情」に「恋情」(性的な欲求)が含有されていることが必然であると考えられている。そうした信仰は恐らく「結婚」が「生殖」を前提として発達した制度であることに関連している。「生殖」を行なう為には「恋情」の媒介が不可欠である。つまり「結婚」という制度が「恋愛」との一体的運用を求められるのは、暗黙裡に「結婚」が「生殖の保全」という役割を期待されていることの反映なのである。

 「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的イデオロギーは、言い換えれば「結婚」という制度を「性交=生殖=養育」のプロセスの保全を目的として運用する為の思想的拘束である。従って「恋愛結婚」という現代的理想の呪縛を解除し、本来の趣旨である「共生」の理念を恢復する為には、「結婚」と「生殖」の不可避的な癒合を、任意の関係に改訂しなければならない。「生殖」を保全する為の「結婚」という制度設計は、既に破綻の危機に瀕している。若しも「結婚=生殖」の一体的運用を今後も維持するのならば、未婚率の上昇や離婚件数の増加という潮流は決して抑制されず、寧ろ激化の一途を辿るだろう。

恋することは愛することと重ならない 1

 「恋愛」と「結婚」を一体的なものと看做す価値観は、それほど歴史の長いものではない。江戸時代の日本においては、未婚の男女の間で行われる性交は「不義密通」として断罪の対象であった。言い換えれば「自由恋愛」という観念は聊かも公共の標準ではなかった。

 結婚の本源的な機能が「生殖」にあることは明らかである。子供を産み、養育して、家産を継承させ、延いては社会全体を存続させるということが、その伝統的な企図である。「家庭」という単位を維持する上で「結婚」というプロセスは不可避のものであったから、世の中には「結婚」に対する同調圧力が恐らく現代よりも遥かに根強く瀰漫していたに違いないと思われる。「仲人」や「御見合い」といった文化が広範に存在していたことも、その事実を傍証している。これらの御節介な制度は、自発的に異性を求めようとしない人々を、半ば強引に「家庭」という匣へ押し込んでしまう機能を備えている。言い換えれば「結婚」という営為は、個人の感情よりも優先されるべき公共の義務であったのだ。異性との交流が不得手であろうとなかろうと、配偶者を得ることは万人に課せられた責務だったのである。

 しかしながら「個人の権利の尊重」という近代的な理想は、旧弊な「結婚」の制度にも深刻な影響を及ぼした。あらゆる分野に押し寄せる「自由化」の趨勢は、当然のことながら「結婚」の抑圧的な性質を批判するようになったのである。当事者同士の合意ではなく、親同士の交渉や第三者の仲介で成り立つ「結婚」の非人道的な性質を批判することが「正義である」と認知されるようになったのである。敗戦の後に公布された新たな日本国憲法は、結婚の根拠を「両性の合意」に求めている。つまり、結婚するかどうか、誰を伴侶に選ぶかということは、当事者の主体的な判断に一任するという社会的合意が打ち出されたのである。この間の消息は「結婚の自由主義化」と言い換えても差し支えない。

 伴侶の選択のみならず、そもそも結婚したり子供を持ったりすること自体が「個人の判断」によって決められるようになったことは、明らかに文化的な進歩である。他人に隷従するのではなく、自分自身の頭で物事を考え、行動を決定し、その責任を負うという自由主義的な原則は、人類の発展に欠かせない美徳であるからだ。けれども、こうした自由主義化の風潮は同時に、結婚に関する新たな困難を生み出した。それはかつて結婚が義務であった時代に生じていた抑圧的な困難とは異質な問題を孕んでいる。

 愛のない相手との婚姻を強いられ、離婚も儘ならないとか、或いは不妊であることを理由に離縁されたとか、こうした類の困難は「結婚が社会的義務であり、個人の選択する余地のないもの」であった時代には全国的に頻発していただろうと思われる。当時の結婚は、当事者間の幸福に資する為に営まれるものではなく、家庭や地域の共同体を存続させる為の社会的責務であったから、愛情のない結婚が成立することは珍しくなく、寧ろ入籍の段階では愛情の有無など問題にもならなかったのではないかと思われる。人間の好悪の感情は極めて曖昧で流動的なものであるから、そんな頼りない根拠を社会的責務の基盤に据えるべきではないという考えも根強かっただろう。一つ屋根の下で、相互扶助の精神を以て暮らしている裡に、何れは愛情も生まれるだろうという楽観的な見通しの下に、社会は若者たちの強制的な結婚を推進したのである。

 自由主義化の推進は、咬み砕いて言えば「個人の我儘を許容する」社会の構築ということである。当人の主体的な判断が、社会や組織の都合よりも優先され、尊重されるのが自由主義的な社会の特質である。その弛まぬ思想的宣伝の努力が、未婚率の上昇、離婚件数の増加、少子化核家族化、晩婚化といった成果に結実しつつあることは明瞭である。これらの現象は、我々の社会の合意や方針に叛いて顕在化しつつあるのではなく、自由主義的理念の齎す必然的帰結なのである。若しもこうした現象を悪しき風潮と捉えて是正の方策を講じるのならば、我々は先ず「結婚の義務化」から着手せねばならない。しかし、そうした旧弊で反動的な政策が受け容れられるとは考え難いし、そうした対策は、そもそも何故「自由主義」が重んじられてきたのかという歴史的経緯を黙殺することに等しい。「主体性の確立」や「自己決定の尊重」は、万人の幸福の確立を目指して掲げられた大義である。その重要性や意義を閑却して、盲目的に旧習へ復するのは蒙昧な判断であると言わざるを得ない。寧ろ我々は、この風潮を尖鋭化することによって、過渡期の困難を解決に導かねばならないだろう。

 「恋愛結婚」という理念は、両性の合意に基づかない他律的な結婚への批判的視座として生み出されたものである。それは自由意志に基づく「恋愛」と、社会的義務としての「結婚」を一体的に運用しようとする価値観に基づいている。言い換えれば、社会は「結婚」の定義を「他者に強いられるもの」から「自ら望むもの」へ切り替えようと企ててきたのだ。けれども本来、両者は「水と油」なのである。自由意志としての「恋愛感情」を以て「結婚」という社会的責務(それは数十年間という生身の人間にとっては殆ど「永遠」に等しい長期間に亘って継続されるべきものである)の基礎に据えるという論理は、冷静に考えるならば不可能な事態なのだ。数十年間の長期に亘って、自己の感情を一定の温度と形態に保持することが可能な人間が実在するだろうか?

 「強いられた結婚」という観念は今日、自由主義的な理念から眺めるならば一つの「悪徳」であり、その「悪徳」を絶ち切る為に「離婚」を選択することは寧ろ勇敢な「美徳」であるかのように看做されている。「自ら望むもの」としての結婚が推奨される時代において「他者に強いられるもの」としての結婚に挺身することは、不幸な悲劇なのである。誰しも不幸よりは幸福を求める。結果として吹聴される「望まない結婚は廃絶されねばならない」というラディカリズムは、そもそも「結婚」という法律的制度の趣旨に合致しない。こうした課題は恐らく「恋愛結婚」という現代的なイデオロギーの裡に内在している。つまり「恋愛」と「結婚」を混同する素朴な御伽噺によって、我々の精神は度し難い混乱の深淵へ追い込まれているのである。「恋愛したい」という感情と「結婚したい」という感情は相互に異質で、両者の目指すところは必ずしも重なり合わない。「望まぬ恋愛」はナンセンスだが、「望まぬ結婚」は有り得るし、しかもそれは必ずしも不幸に帰結するとは限らないのである。

 恋愛感情は個人の自発的な感情であり、それが巧妙な錯覚であったとしても、他人に強いられたものではないということは大前提である。言い換えれば、恋愛感情は自分自身によっても他者によっても制御されない。つまり「望まぬ恋愛」という観念は定義上、成立し得ないのである。どんなに禍々しい相手に報われぬ慕情を寄せたとしても、恋に落ちたのならば、それは自己にとって「望ましい恋愛」なのだ。そして、こうした制御し難い感情を「結婚」の根底に据えることの危険と愚かしさを、我々は人生の早い段階で適切に学習しなければならない。「崇高な恋愛」というものは有り得ない。それは流行性感冒のようなもので、如何に真摯な情熱に裏打ちされていたとしても、一過性の症状であり、然るべき期間を経過すれば必ず「平熱」に復帰するのである。

 そして「結婚」はそもそも「平熱」で取り組むべき公共の責務である。一過性の感情で「結婚」に同意することは不誠実な選択である。ロマンティックなプロポーズで舞い上がりながら軽率に許諾を与えるべき事案ではない。結婚指環の輝きに酔い痴れて、夢見心地で判子を捺すべき事柄ではない。譫言と悪寒に苛まれる「高熱」の状態で「結婚」の理想的な幻影に見蕩れてしまったら、数十年間も持続する「平熱」の日々を淡々と受け容れることは困難だろう。「平熱」に復した伴侶を「愛情の消滅」として難詰するのは不当な誹謗である。寧ろ相手の「平熱」を「健康の象徴」として祝福すべきである。そして「高熱」に憧れる自己の奇癖を恥じるべきである。

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 2

 終戦によって齎された絶望を如何にして克服するか、それが溝口の実存における最大の課題となる。そこに顕れる奇矯な学友・柏木の論理は、溝口の思想に重要な影響を及ぼす。

 俺は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、生れついた内翻足だった。……さて俺がこんな風に告白をはじめると、君は俺のことを、相手かまわず身の上話をやりだす哀れな病人だと思うだろうが、俺は誰にでもこんなことを話すわけじゃない。俺のほうでも、恥かしいことだが、君を打明け話の相手として最初から選んでいたんだ。というのは、どうやら俺のやって来たことは多分君にとっていちばん値打があり、俺のやって来たとおりにすれば、多分それが君にとって一等いい道だと思われたからだ。宗教家はそういう風にして信者を嗅ぎだし、禁酒家はそういう風にして同志を嗅ぎだすことを君も承知だろう。(『金閣寺新潮文庫 pp.119-120)

 柏木は、溝口の思想に具体的な展望を授ける「先覚者」の役回りを負っている。両者は「性的不能」によって「新鮮な現実」への参与に失敗するという共通の課題によって結ばれているからである。そして柏木の独創的な思想は、溝口の陥った絶望の構造そのものから「欲望」或いは「快楽」を抽出しようとする。それを柏木自身は「そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理」と呼んでいる。

 俺の考え方はわかりにくいだろうか。説明を要するだろうか。しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになったことは、君にもわかるだろう。不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止しており、同時に到達しているのだ。この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註する必要があるだろうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと。――やがて俺は、決して愛されないという俺の確信が、人間存在の根本的な様態だと知るようになった。これが俺の童貞を破った顚末だよ。(『金閣寺新潮文庫 p.130)

 「金閣」の内包する「実相」としての「美」に憧れる溝口の感情は、正に「仮象が実相に結びつこうとする迷蒙」そのものである。その不可能性は既に「終戦詔勅」を通じて厳然と告示されている。柏木の独創性は、そうした絶望を保存したまま、世界の眺め方を切り替えた点に存する。彼は感性的な認識を排除し、不可知の「実相」に認識の焦点を合わせることで肉体的な不能を超克する。それはプラトニズムの徹底的な純化である。柏木の用いる「夢」という言葉は恐らく「仮象」の同義語だ。

 溝口の野心は「実相」と「仮象」を重ね合わせ、それを飽く迄も肉体的な感官を通じて味わうことである。しかもその野心は「真理」や「正義」ではなく、専ら「美」に向かって捧げられている。絶対的な「美」の「実相」が、感官を通じて捉え得る「仮象」の肉体を伴って地上に顕現することを、彼は熱烈に祈願している。他方、柏木はそのようなロマンティシズムをはっきりと棄却している。

 老いた寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内翻足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。(『金閣寺新潮文庫 p.129)

 柏木は「仮象」の価値を認めないことによって、肉体的な興奮を担保している。この奇妙な転倒は、プラトニックな求道者の志向とは必ずしも合致しない。生粋のプラトニストは「仮象」の無価値を前提することで、あらゆる肉体的な興奮から解脱することを目指すだろう。しかし柏木は寧ろ欲望を奪還する為に「実相」を観想しているのだ。

 注意すべきことは、彼が溝口のように「実相」と「仮象」の審美的融合を求めていないという点に存する。寧ろ彼が求めているものは両者の厳然たる断絶である。何故、両者の断絶が柏木の性的不能を癒やすのか。言い換えれば、何故「実相」と「仮象」の接触が、彼の官能を凍らせる結果に繋がるのか。

 このときから、俺には精神よりも、俄かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈なく愛撫し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確乎とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.125-126)

 柏木の語る欲望の形態は、例えば「豊饒の海」における本多繁邦の窃視や、或いは「月澹荘綺譚」に登場する侯爵を想起させる。具体的な関係を持つのではなく、透明な存在と化して只管に「認識」の快楽に溺れること、つまり純然たる「観照」の主体となること。しかし「内翻足」という生の条件が、そのような「観照」の特権を柏木に許さない。「実相」の側に立って「仮象」を見物する天使のような超越性は決して下賜されない。

 しかし忽ち内翻足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる「物」として、そこに存在していた。(『金閣寺新潮文庫 p.126)

 「透明なもの、見えないもの、つまり風になること」へのプラトニックな憧憬は、決して他人に看過されることのない「内翻足」によって挫折を強いられる。「風」とは純然たる観照的主体の比喩であり、その成立の為には理論上、生成的な「肉体」の棄却が必要とされる。地上の「仮象」を悉く超越し、純然たる「認識」の裡に逼塞しない限り、人間が「風」と化すことは出来ない。言い換えれば、柏木が自分自身を純然たる「精神」であると信じ込もうと試みても、黙殺し難い「内翻足」という肉体的条件がそれを頑なに阻止するのである。

プラトン「国家」に関する覚書 13

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの縷説する「教育」の本義が、単なる外在的知識の蒐集ではなく、視線の「転向」に存することに就いては既に確認を終えた。彼はその具体的なプログラムとして、幾何学天文学の習得を挙げる。尤も、幾何学天文学それ自体が、彼の信じる教育の枢要を成している訳ではない。プラトンにとって最大の関心は「感覚的仮象を離れ、超越的実在に向かって上昇する」というプロセスの裡に存する。幾何学天文学が、可感的な図形や天体の観察に明け暮れるものに過ぎないのならば、それはプラトンの実存的関心を満足させるものとはならない。彼にとって、これらの学科は「実在」への導きの糸であり、飽く迄も個別の図形や天体は便宜的な手段であるに過ぎない。

 一切の感覚的認識から離脱した純然たる理性的思惟を樹立すること、これがプラトンの困難な宿願である。如何なる感覚的認識にも妨げられず、又それに依存することもなく、ただ理性の自己完結的な活動によって真理へ達すること、只管に「ロゴス」(logos)の自存的な運動だけを頼って事物の「実相」を究明すること、言い換えれば感覚的仮象に内在する普遍的な精髄へ到ること、それがプラトンの厖大な思索の赴く理想郷である。こうした真理への厳格な情熱が、如何なる心事に由来するのか、私には分からない。兎に角、プラトンが曖昧で不確定な認識に依拠することを劇しく嫌っていたであろうことが想像されるばかりだ。彼は複数の仮説が等価に扱われ、何れの認識も「真理」という絶対的な審級へ上昇することが承認されないような状況を、堪え難い「蒙昧」として排撃したくなる衝動を抑えられなかったのではないか。「真理」とは即ち「絶対的な正しさ」である。この世界には「絶対的な正しさ」が存在し得るという信仰が、プラトンの強靭で精緻な思索の成果を支えている。

 自己の感覚的認識を絶対化することは出来ない。自己の感覚的認識を単一の「真理」として認定することは狂人の振舞いである。何故なら、我々の感覚は個人によって異なり、たとえ同一の人間の内部にあっても、感覚の示す真実は絶えず変動するからである。プラトンにとって「真理」の概念は、如何なる変動も起こり得ない普遍的な真実を意味している。従って「真理」が時間的な生成の裡に存在すると考えることは不可能な帰結である。感覚的な認識、仮にそれが科学的な実証主義を通じて獲得された認識であったとしても、それが感覚以外の根拠を持たない限り、絶対的な「真理」として承認されることは有り得ない。言い換えれば、この世界の「真理」は「ロゴス」の裡に予め普遍的な仕方で内在しているのだ。だからこそ「想起説」という考え方が編み出されるのである。「真理」は人間の外部に存在するものではなく、感覚的証拠(それは別の言い方を用いるならば「客観的証拠」と呼ばれるべきだろう)を以て立証されるものでもない。こうした観点に立つならば、理性を純化すること、つまり理性から無数の感覚的謬見を悉く除去することが出来れば、真理は自ずと開示されるという結論に至る。プラトンが数学や天文学の習得を奨励するのは、知識の累積が「真理」を告示すると信じるからではない。重要なのは、それらの学科が純然たる理性の行使によって「真理」に到達すると看做されている点である。数学的な正しさは、数学の内部において、その自存的な論理の機能によって立証される。そのとき、感覚的な観察の成果が決定的な要件として用いられることはない。

 こうしたプラトンの思想は極めて神学的な性質を帯びている。何故なら、神学が対象とする「神」の実相を、我々は感覚的な証拠を用いて論じることが出来ないからだ。不可視の対象に就いて「真理」を求めるとき、我々は純然たる「ロゴス」以外の力に頼ることが出来ない。「ロゴス」の自存的な運動に身を任せる以外に、感覚的把握の及ばない事物に就いて議論を重ね、思索を深めることは不可能である。我々は感覚的な事実が辿るであろう現象的な継起を、ただ「ロゴス」の内在的な連鎖によって想像的に仮構する以外に術を持たないのである。

 「それでは、グラウコンよ」とぼくは言った、「いまやようやく、ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは、哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども、比喩的にこれを再現しようと思えば、先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち、すでにして実物としての動物のほうへ、天空の星々のほうへ、そして最後には太陽そのもののほうへと、目を向けようとつとめるとわれわれが語った、あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように、ひとが哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論(理)を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに〈善〉であるところのものそれ自体を、知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界(可知界)の究極に至ることになる。それは、先の場合にわれわれの比喩で語られた人が、目に見える世界(可視界)の究極に至るのと対応するわけだ」

 「ええ、まったくそのとおりです」と彼は言った。

 「ではどうかね、このような行程を、君は哲学的問答法(ディアレクティケー)と呼ばないだろうか?」(『国家』岩波文庫 pp.157-158)

 この「ディアレクティケー」が「ロゴス」の自存的な運動の過程であることは明白である。言い換えれば、プラトンにとって「ロゴス」とは生成的な現象とは無関係に自存する普遍的な認識の連鎖であり、従ってそれは絶対的な「真理」の眷属なのである。彼の知性的な野心は、感覚的な認識の介入を悉く排除した場合に、如何なる別種の「認識」が出現するか、という奇抜な着想に基づいている。「ロゴス」を純化したときに、如何なる「認識」が啓示されるのかという挑戦が、プラトンの独創性の淵源なのである。彼にとって「知識」とは、ロジカルな認識の成果だけを意味する概念である。感覚を通じて得られた認識は、それ自体では「知識」の名に値しない。況してや社会的常識や旧弊な慣習、曖昧な伝承、局所的な規範などは、聊かも「真理」の要件を満たさない。プラトンは決して無益な空理空論を語り、社会的現実からの気儘な遁走を図った訳ではない。それは彼が「理想的国家の建設」という極めて公共的な主題に対して尋常ならざる情熱を炎上させていることからも明らかである。彼が絶対的な「真理」に固執したのは、余りに雑駁で相対的な「真理」が巷間に濫立し、繁茂している為であろう。誰もが自分自身の素朴な個人的見解を無邪気に「真理」と看做して自若としている。自分自身の存在しか包摂し得ない狭隘な論理を「真理」と信じて疑いもしない。

 「友よ、法というものの関心事は、国のなかの一部の種族だけが特別に幸福になるということではないのであって、国全体のうちにあまねく幸福を行きわたらせることをこそ、法は工夫するものだということを、また忘れたね? 国民を説得や強制によって和合させ、めいめいが公共の福祉のために寄与することのできるような利益があれば、これをお互いに分かち合うようにさせるのが、法というものなのだ。法がみずから国の内に彼らのようなすぐれた人々をつくり出すのも、彼らを放任してめいめいの好むところへ向かわせるためではなく、法自身が国の団結のために彼らを使うということのためなのだ」(『国家』岩波文庫 pp.119-120)

 プラトンの信じる「真理」は、人々が後生大事に抱え込んでいる銘々の「真理」を破壊する効果を秘めている。何故なら、プラトンにとって「真理」は単一であり普遍的なものであり、従って如何なる例外も許容しない峻厳な性質を伴っているからだ。けれどもそれは、自分自身を「真理」の代弁者として神格化しようとする傲慢な衝動の顕れだと解釈して差し支えないものだろうか? 彼は自身の個人的な信条を絶対的な「真理」へ格上げする為に厖大な「詭弁」を弄したのであろうか? 私の考えでは、そうした裁定は「短見」の部類に属すると思われる。彼の見出した普遍的な「真理」は恐らく、彼自身の経験的な信条や定見さえも虐殺したのである。プラトンにとって「真理」は断じて属人的なものではない。「真理」はプラトンの開創ではなく、そもそも人類の存亡とは無関係に持続する絶対的な事実である。そうした超越的「実相」が、人間の感覚的な認識によって立証されるということは有り得ない。何故なら、人間の感覚は極めて属人的な認識の体系であるからだ。「真理が属人的なものであることを認めない」という原則は、プラトンの思惟を貫く倫理的な規約である。個人の相対的な特徴によって左右される「真理」は属人的な謬見に過ぎない。従って「真理」を把握する為には、属人的な感覚を排除し、あらゆる生成的な変化を免かれた手段に依拠する以外に途がない。

 「ロゴス」は普遍的な規則であり、万人に妥当する共通の「本質」として定立される。それだけが普遍的な「真理」を構築し得る唯一の方途である。感覚的な「仮象」を離れて「実在」へ赴こうとするプラトンの魂胆は、こうした「ロゴス」の徹底的な純化によって成し遂げられる。従って彼の論じる「教育」の本義は、個人の関心を「属人的なもの」から「公共的なもの」へ転轍させることに求められる。「ディアレクティケー」の技術は、人々の関心を属人的な正義から切り離し、普遍的な規約へ赴かせる。絶対的な「実在」への信仰は、自己の感覚的な事実を鵜呑みにしない禁欲的な知性の誕生と不可分なのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

プラトン「国家」に関する覚書 12

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「実在」と「生成」に関するプラトンの区別は、認識の真偽という観点においては、極めて明確に「生成」の劣位を認めている。だが、そうした前提は決して「実在」の観照への逼塞を奨励するものではない。つまり、生成界と訣別して実在界の高みへ移住することを目的として、プラトンは超越的な思惟の鍛錬を推進しているのではない。何故なら、彼の主要な関心は、宗教的な神秘主義に基づいて現世の生活を蔑視し、世俗の論理と絶縁する「隠者」の境涯に向けて捧げられている訳ではないからだ。彼の野心は飽く迄も政治的で社会的なものに注がれている。現世を脱却して彼岸へ遁走することが彼の欲望の本質である訳ではない。

 事物の認識に際して、現前する感覚だけを盲信している限り、我々の認識の範囲は或る肉体的な制限を脱却し得ない。感覚が捉え得る情報は、感官に備わっている機能の構造的な限界を超越出来ない。尚且つ、感覚は様々な与件に影響されて、その認識の内容を変化させてしまうことが珍しくない。言い換えれば、感覚的な認識は常に「時間」の制約を蒙るのである。「時間」に応じて変化する認識だけを根拠に持つ思惟は、長期的な探究に堪え得ない。絶えず認識の対象が浮動し続ける為に、首尾一貫した論理の流れを維持することが困難になるからだ。

 プラトンの企図は「時間」の制約を受けない思惟を確立することに存する。「時間=生成」の制約を免かれた普遍的な本質に「事物」を還元することが、その初歩である。尤も、プラトンはそうした形而上学的な還元を決して人工的な操作とは看做しておらず、寧ろそれこそが「認識」の本来的な様態であるという見地に立脚している。感覚的な認識は、形而上学的な認識を妨礙する障壁として作用する。それゆえに、如何に感覚を離れて理性的な思惟に回帰するかということが、教育を論じるに際しての最も重要な懸案となる。それは「タブラ・ラサ」としての人間の精神に、外部から新たな情報を移植するということとは本質的に異なる営為である。

 「ではどうだろう」とぼくは言った、「次のことは、そうありそうなこと、いやむしろこれまでに言われてきたところからすれば、必ずそうでなければならぬことではないだろうか? つまり、教育を受けず、真理をあずかり知らぬ者には、国をじゅうぶんに統治することはできないが、そうかといってまた、教育を積むことだけの生活に終始するのを許されているような人々にも、それはできないだろうということだ。前者の場合は、公私におけるすべての行動が目指すべき、人生の一つの目標というものを、彼らがもっていないことがその理由であり、他方後者の場合は、そういう人々はまだ生きているうちから〈幸福者の島〉に移住してしまったようなつもりになって、すすんで実践に参加しようとはしないことが、その理由である」(『国家』岩波文庫 p.118)

 プラトン的な「教育」は、新たな知識や情報の獲得を意味するものではない。精確な知識は予め人間の「魂」の裡に宿っており、学習はそれを「想起」する作業に過ぎないというプラトンの考え方は、知識を自己の外部に求める作業を重視しないのである。重要なことは、感覚から理性への「転向」を実現する過程の裡に存する。言い換えれば、事物の偶有的な要素を離れて、普遍的な本質へ視線を転じることが肝要なのである。その重要な「転向」を果たさぬまま、徒らに感覚的な「仮象」の記憶を集めても、根本的な飛躍は望めない。

 しかし、普遍的な本質を観照すること自体が、プラトンの提示する「教育」の最終的な到達地点である訳ではない。彼は普遍的な本質を把握した上で、感覚的な「仮象」に支配される人々の暮らす「洞窟」へ帰還することを厳格に要求する。彼は超越的な「彼岸」の逼塞する隠者の優雅を評価しない。何故なら、プラトンの思想は常に政治的な野心と不可分であるからだ。地上の現実を離れた超越的な思惟に邁進したプラトンが、却って現世との社会的な関係に固執し、感覚的な認識を重んじたエピクロスの方が寧ろ隠者の生活を称揚したという史実は興味深い。

 時間の制約を超越した普遍的な本質を「実在」と看做すプラトンの思想は、科学的な実証主義に馴染んだ人の眼には、壮大な空論のように映じるかも知れない。けれども、実際に我が身を振り返ってみれば、彼の形而上学的な発想がそれほど奇矯なものではないことは直ちに諒解し得るのではないかと思われる。自己の感官が告げる情報だけを鵜呑みにして生きることは、極端な視野狭窄として世人の冷笑を浴びるだろう。無論、感覚を軽蔑して壮麗な観念の世界だけを信仰することも同様に嘲弄の対象となるに違いない。だからこそプラトンは、生きながらにして「幸福者の島」に移住する厭世的な態度を戒めたのである。

 事物の「本質」を実体化する考え方は、聊か眉唾物であると言わねばなるまい。事物の普遍的な特性を考究することは、感覚に惑わされない堅牢な認識を構築する上では必須の営為である。但し、そうやって見出された普遍的本質を、感覚的な仮象に先行する実在として規定することは、必ずしも不可避の措置ではない。このような考え方は、例えば人工的な物体に関する定義としては妥当なものである。自転車を製造する者は、事前に「自転車」という一つの普遍的な観念を有している。その普遍的本質に様々な偶有的要素を附加することで、自転車は具体的な事物として創造される。言い換えれば、プラトンの思想は暗黙裡に我々の暮らす世界を、超越的な絶対者による「被造物」として眺めているのである。後年の対話篇「ティマイオス」においてプラトンは、その超越的な絶対者に「デミウルゴス」という呼称を与えた。

 この世界は予め合理的な意志に従って設計されたものであるという理念は、当然のことながら事物の普遍的な「本質」を、実際の個体に先行する「実在」として定義するように要求する。世界を合理的な必然性に支配されたものであると看做すかどうかは、重要な分水嶺である。誰かの意志で設計されたものであるならば、それが誤作動を起こしたとしても、その過程には必ず精妙な因果律が内在している。

 エピクロスは「クリナメン」(clinamen)という純然たる「偶然」の要素を導入することで、宇宙の誕生から続く必然的な因果律の鎖に切れ目を入れた。それは直ちに因果律の存在を全面的に否認するものではないが、予期し難いクリナメンの介入を認める限り、事物の普遍的な「本質」という理念は成立しなくなる。如何なる事物の特質も、クリナメンの唐突な関与によって覆される可能性を含むことになるからだ。クリナメンの最大の特徴は、その発生が時間的にも空間的にも決して事前に定められないという点に存する。事物の普遍的な「本質」が、あらゆる感覚的現象に先行して実在するという考え方は、こうしたクリナメンの概念を論理的に包摂することが出来ない。しかし、感覚的現象を基点に据えて、帰納的に思惟するエピクロスのような人間にとっては、クリナメンの概念は、デミウルゴス専制を打倒する為の重要な武器として有益である。

 設計主義的な思考は、純然たる偶然の介入を嫌悪する。理想的な国家の建設に関するプラトンの厖大な議論は、明らかに「正しい設計図」の獲得を目的としている。事前に設計図を明確化した上で、理想的な国家の建設に着手すべきだという考えは、教育に関する彼の議論とも符節を合している。

 されば君たちは、各人が順番に下へ降りて来て、他の人たちといっしょに住まなければならぬ。そして暗闇のなかの事物を見ることに、慣れてもらわねばならぬ。けだし、慣れさえすれば君たちの目は、そこに居つづけの者たちよりも、何千倍もよく見えることだろう。君たちはそこにある模像のひとつひとつが何であり、何の模像であるかを、識別することができるだろう。なにしろ君たちは、美なるもの、正なるもの、善なるものについて、すでにその真実を見てとってしまっているのだから。(『国家』岩波文庫 p.121)

 洞窟を出ることは、精密な設計図を手に入れることに等しい。但し、完璧な設計図に見蕩れることが哲学者の役割であるとは言えない。その設計図に基づいて、理想的な社会を創出することが、プラトンの野望の中核を成す構想なのである。クリナメンの概念を創案し、純然たる偶然の裡に自由意志の萌芽を見出したエピクロスが、隠棲の日々を肯定するのは自然な帰結であろう。彼にとって「理想の社会を設計する」という発想は余りにも傲慢で、抑圧的な精神の発露のように感じられただろうから。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

「純潔」の逆説 三島由紀夫「十九歳」

 三島由紀夫の短篇小説「十九歳」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 少年期に固有の精妙な心情を描くことは、三島が様々な作品において幾度も試みた主題である。「殉教」や「午後の曳航」に登場する陰湿な少年たちは、社会と大人に対する冷徹な憎悪を燃え上がらせ、透明な矜持にまで磨き上げている。その基礎的な特徴の一つが「純潔」に対する侮蔑である。

 彼は入学匇々迫害された。少年というものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、亘理は冷眼視しているように思われるのだった。彼はむしろ脆弱さを守ろうとしていた。自分自身であろうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であろうとする少年は少年たちの迫害に会うのである。少年は一刻でも他の何物かであろうと努力すべきであった。(「殉教」『殉教』新潮文庫 pp.71-72)

 「純潔」を幼児性の象徴と看做し、素朴な美徳を蹂躙することに憧れを覚えるのは、少年たちの生理的な宿命である。「粗雑」であることは、襲い掛かる不条理な現実への高度な耐性を含意する。鋼鉄の精神の所有者として自己を定義すること、それが少年たちの虚栄心の対象である。彼らは純朴で繊細な存在として遇されることを厭う。

 しかし、純潔であることを殊更に侮蔑しようとする心理的な機制が、却って彼らの「純潔」を立証する皮肉な根拠であることを看過すべきではない。純潔を失った人間にとっては、少年の純潔は眩しい美質であり、二度と還らぬ郷愁の対象である。それを態々踏み躙ろうと試みるのは、当人が紛れもない「純潔」の渦中に置かれていることを間接的に物語っているのだ。

 少年は年嵩の画家に向かって、己の「不純」を証明する為に無数の背徳的な挿話を語る。彼は後ろ暗い「過去」を曝露することで自らの内なる「純潔」を蹂躙しようと躍起になっているのだ。しかし、その策略は純朴極まりない恋心の吐露によって破綻を来す。少年の「過去」は未だ、彼自身の「純潔」を破壊するほどの毒素を湛えていない。寧ろ彼の「過去」は、如何なる悪辣な履歴によっても毀損されない純真な慕情の存在を、鮮明に浮かび上がらせる下地の役割を担っている。「純潔」を意図的に排撃しようとする精神は、それ自体が一つの「純潔」である。

 「純潔」という美徳は「絶対」という超越的観念との間に緊密な紐帯を築いている。不合理な混迷に覆われた相対的な「仮象」の世界に惑溺することは、純潔な人間にとっては苦痛な事態である。第一に彼ら少年は、自己の絶対性という如何にも純潔な信仰を棄却することが出来ない。自分を特別な存在と看做したがる心理的性向は、絶対者への憧憬と不可分なのだ。だからこそ、有り触れた幼年期の凡庸な記憶を語る代わりに、清一は特注品の黒ずんだ「過去」を誇示するのである。「粗雑さ」を求める奇態な欲望は、本物の粗雑な世界に骨の髄まで浸り込んだ人間には無縁の心理である。彼らは寧ろ、永久に失われてしまった「純潔」の夢想を存分に懐かしむだろう。結局、人間は手の届かない対象にしか憧憬の感情を懐くことが出来ない生き物なのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)