サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ハラスメント、即ち「関係性の事故」に就いて

 先般、財務省福田淳事務次官が、テレビ朝日の女性記者からセクシャル・ハラスメントの廉で告発され、メディアや国会は大騒ぎになっている。私は事態の審らかな経緯を理解していないが、告発された当人は自分の言動がセクハラに該当するとは認めず、寧ろ今回の件を報道した発信源である新潮社に対して、名誉毀損の訴えを起こすと息巻いているらしい。テレビ画面の向こうで、マスコミに囲まれながら釈明する福田氏の発言は不得要領の極みで、何を言いたいのか不明瞭な答え方であるが、兎に角自分の落ち度を認めようという姿勢は微塵も見られない。そのくせ、事務次官の職は退くのだから、結局彼が何を考えているのか、本音のところが余計に曖昧に霞んで感じられる。濡れ衣だと言い張るのならば、何故事務次官の地位を擲つ必要があるのか、曲がりなりにも艱難辛苦を乗り越えて漸く辿り着いた社会的な栄誉の座を、自ら冤罪だと言い張りながら罪人のように諦めるのは一体如何なる料簡に基づく決断なのか、意味不明である。少なくとも傍目には、福田氏が何らかの後ろ暗い記憶を抱え込んでいるように見えるのも当然である。辞めれば文句はないだろうと言わんばかりの幕引きの手法には、金輪際反省も改悛もする気がないという寒々しい底意が透けて見える。何とも卑しく浅ましい事件である。

 財務省事務次官という顕職には、誰でも憧れればなれるというものではないだろうし、この国の生粋の選良だけがその座席を占めることを許される極めて栄光に満ちた地位であろうかと思われるのだが、にも拘らず、あのような低俗な発言を行なったことが事実であり、しかもそれによって或る女性の精神に不快な傷痕を刻み込んだことが事実であるならば、救い難い愚者として扱われても文句は言えないだろう。事務次官を庇いたがる麻生財務大臣の種々の発言も、絶望的なまでに男権主義的である。もっと言えば、彼らは端的に人を見下している。百歩譲って、人を見下すのも、猥褻な欲望を懐くのも個人の自由であろうが、それを世人の前で剥き出して一向に恥じず、悔い改めもしない。悔い改める必要もないほどに自分は偉いのだと信じ込んでいるのだろう。

 但し、これは他人事ではない。何らかの地位を、仮に事務次官のような顕職でなくとも、部下や後輩を抱えるような立場に昇ったとき、権力の多寡に拘らず、兎に角何らかの権力を持ったと本人が認識したとき、大概の人間は、私も含めて偉そうな態度を取るだろう。そして大概の男性は、女性に対して何らかの性的な関心を持っているだろう。つまり、権力者としての驕慢と、女性に対する性的関心を槍玉に挙げるならば、その批判の矛先は大概の男性に跳ね返る筈なのである。無論、私も部下を抱える立場で、屡々偉そうな言動に走るし、女性に対する関心も人並みに持ち合わせている。その意味では、私はあの助平な事務次官と同類なのである。

 但し、それが結果的に相手からの告発を招き、しかも告発されながらも厚かましく居直るように報道した企業を名誉毀損で訴えると息巻き、辞任会見でも一向に自分の落ち度を認めず、不明瞭な理由で職を辞して表舞台から遁走を図ろうとする福田氏の一世一代の醜態には、周囲の人間との「関係性」を把握する能力の深刻な欠陥が露呈しているように感じられ、その点に私は何とも痛ましい惨めさを見出さずにはいられない。下らない助平親爺だと斬り捨てるのは簡単だが、助平な人間が悉く、あんな見苦しい茶番劇を演じる訳ではない。

 煎じ詰めれば、性的なものに限らず、あらゆる種類のハラスメントは「関係性の事故」である。或いは、人間関係における病、権力に関する病である。自分と他人との関係性が如何なるものなのか、どういう構造を持ち、どういう原理で動いているのか、それを見誤ることで発症する重篤な災厄である。福田事務次官は、被害を受けた女性記者と自身との関係性を、如何なるものとして定義していたのだろうか。報道が事実ならば、福田氏が女性記者に対して繰り返した発言の内容は、露骨に性的なものであり、端的に言って下品であり、余り親しくもない女性は固より、一定の親密さを備えた関係であっても、危険な水域に達する次元である。あのような発言を女性記者に対して繰り返すことが、如何なる危険を孕み得るかという問題に就いて、事務次官の優秀な頭脳は適切な回答を弾き出すことが出来なかったのだろうか?

 無論、性的な欲望と感情は男女を問わず、人間の心を極限まで腐敗させる。権力もまた、人間の精神に異常な歪みを齎すことが珍しくない。それらの剣呑な要素が複合したとき、ハラスメントという事故が起きて、関係者が銘々の苦しみを抱え込むこととなる。ハラスメントが起きるとき、大抵の場合、加害者の見ている世界は異様な歪曲と屈折を帯びている。級友に対するイジメが度を越して自殺に追い込んでしまうとき、幼い子供に対する虐待がエスカレートして殺害に至ってしまうとき、異常に亢進した性慾が強姦や猥褻行為に発展してしまうとき、加害者の見ている世界は、如何なる論理的条件によって支えられているのだろうか?

 ハラスメントは様々な環境や事象の中で生起する現象だが、共通して言えることは、それが何らかの「権威」に基づいているという点である。若しも福田事務次官が被害を受けた女性記者に対して基本的な敬意を有していたら、あれらの下劣な発言を行なうことはなかっただろう。彼は恐らく、女性記者に対して敬意を払う必要を認めていなかった。その根拠となるのが彼の社会的地位であり、その権威である。そこに「事故」の発生する最大の土壌が形作られているのだ。

 権威は意図的に悪用される場合もあれば、無意識に濫用される場合もある。何れにせよ、権威というものは極めて取扱いの困難な劇薬である。何故なら、権威には明瞭な物質的輪郭が備わっていないからだ。具体的な形状を持たず、従って私たちは権威を実体的な方法で規制したり抑圧したりすることが出来ない。権威は種々の曖昧な妄信や偏見の上に形作られるものであり、それは厳密には「権限」と異質な何かである。権限の内訳は法律によって明瞭に規定され得るし、明確な定義を有するからこそ、その限界に就いても広範な合意を確保することが出来る。だが「権威」というのはもっと茫洋とした靄のような何かである。それは自在に伸縮する主観的で恣意的な観念であり、文書によって明瞭に定義され得る性質のものではない。寧ろ、それは行間、或いは余白のようなものである。だからこそ、それは様々な「関係性の事故」の温床となり得るのだ。

 権限は公共的な合意に基づいて決められた約束事の集積であるが、権威は主観的な幻想であり、それは何らかの根拠を有するものの、根拠そのものとは必ずしも合致せず、往々にして観念的な膨張と修正を経由している。従って、様々な恣意的歪曲に馴染み易い。ハラスメントの根本的な悪質さは、権威というものの実体を欠いた曖昧模糊たる性質に由来しているのである。

己の善性を誇張する勿れ

 自分では如何に厳しく冷静に現実を見凝めている積りであっても、人間の主観には必ず生得的な偏倚と後天的な歪曲の二つが絡み付いているものである。純然たるリアリズムというのは理論的に想定された不可能な観念に過ぎず、実際の生身の人間は決して「純然たる現実」を直視する公正な能力を持たない。誰しも物事を自分の立場や事情に応じて任意に改変する習慣を持ち合わせているもので、その御都合主義の色眼鏡の言い訳には、世界の本質的な不可知性が暗黙裡に活用される慣わしである。言い換えれば、自分が物事を自分の利得に応じて自在に改竄することの口実に、人間に備わった本然の認識論的装置の構造的な限界を持ち出して、己の不実を彌縫する訳である。

 だが、そういう不自然な彌縫が何の為に行われるのか。往々にして、それは自分にとって都合の良い世界観を採択することで自身の人生の行路から無用の艱難を取り除くことが目的である。罪悪感や羞恥心を抑制することも重要な効用の一つであろう。私たちは自分の掲げる倫理的な正義や美徳に基づいて、己の言動を律することが出来るほど、強靭な神経の持ち主ではない。大体の場合、私たちは自分の遣りたいことや遣ってしまったことに対外的な、或いは対自的な正当性を与えて種々の軋轢や葛藤を消去する為に、後から適切な世界観を拵えて帳尻を合わすのである。

 だから、私たちの精神は標準的な設計として、己の善性を誇張する生き物に仕上がっていると考えておけば、認識と現実との半ば自動的に生成される齟齬は幾らか中和され、訂正される。自分の悪徳や罪過を正当な感情や思想の下に位置付けようとする観念的な策略は、他人から見れば薄汚い詭弁だが、本人の眼には真っ当な真実のように映じるものである。

 それでも時に人間は、他人から己の用いている都合の良い色眼鏡の甚しい偏向を指摘されて覚醒する場合がある。己の信奉する善性の欺瞞的な鍍金が剥がれる音を自らの鼓膜で聞くのである。それは人間が己の不毛な思想や認識を是正する上では実に貴重な好機なのだが、その痛烈な批判の痛みに堪えかねて崩れ落ちるのも耳を塞ぐのも、余り有意義な反応ではない。他人の批判に耳を傾ける姿勢は殊勝な態度であると賞讃されがちであるが、そういう傾向に便乗して悪辣な支配や権謀術数を目論む手合も少なくないのである。

 己の善性を誇張する傾向にある人間の本質的な性向を見凝めることは、そうした逆説的な策略、道徳や愛情の皮を被った陰湿な攻撃に抗う為の術にもなる。善人であることは、世界の本質的な善性を素朴に信じ込んで疑わぬ敬虔さの中にはない。無知な善良さは要するに悪人の手頃な獲物に過ぎず、結局は世界というものの真実が有する酷薄な威力に粉砕されることしか知らない。だが、面の皮の厚い悪人が褒められる義理もないし、悪徳に逃げ込むことで世界の真理から顔を背ける類の人間は、無知な悪徳という意味では、単に狡猾なだけの凡人に過ぎない。重要なのは総てを知悉した上で便宜的に善良な行為を選び取る器量の大きさを学ぶことであろう。本質的な意味で善人であろうと試みるならば、人間の心の泥濘や暗渠が放つ腐臭を愛さねばならず、それは単に善良な凡人には到底成し遂げられない難事である。無知な善良さは、直ぐに素朴で表面的な道徳の鎧を珍重したがるし、道徳の鎧に守ってもらわなければ直ぐに気絶してしまうほど脆弱な心胆の持ち主である。彼らは己の善性を極めて容易く誇張しながら、しかも見苦しいほど卑屈な根性を養っているのである。

三島由紀夫「禁色」に関する覚書 5

 目下、三島由紀夫の「沈める滝」(新潮文庫)を読んでいる最中なのだが、不図思い立って再び「禁色」(同上)に就いて考えたことを備忘録として書き遺しておく。

⑤同性愛の形而上学的性質と「享楽」

 私は同性愛というものの実態に就いて具体的な知見を持たないし、男性に対して性的な感情を懐いた経験もないので、「禁色」の世界に織り込まれている男色の精密な描写に就いても深く理解していると自信を持って言い切ることは出来ない。そして「禁色」においては「同性愛」が「禁じられた官能」の象徴であることによって文学的な意義を獲得していると、私は個人的に考えているので、同性愛の実態に関する精細で稠密な描写それ自体に固有の芸術的価値を、作者が認めているとは思っていない。だが、そうやって乱雑に主観的な斬り捨て方を選び取るだけでは、折角の読書体験から生産的な知見を汲み上げることも、己の狭隘な視野を開拓することも出来ないという反省に基づき、もう一度「同性愛」というものの特質に就いて漫然たる思索の一端を披瀝してみたい。

『よしんばこの青年と一緒に出かけても』と悠一は盃を見つめながら、考えた。『何一つ新らしいものはなく、依然独創性の要求は充たされないことがわかっている。男同士の愛はどうしてこんなに果敢ないのか。それというのも、事の後に単なる清浄な友愛に終るあの状態が、男色の本質だからではないのか。情慾がはててお互いが単なる同性という個体にかえる孤独な状態、あの状態を作りあげるために賦与えられたたぐいの情慾ではないのか。この種族は、男であるがゆえに愛し合う、と思いたがっているが、実は残酷にも、愛し合うが故にはじめて男であることを発見するのではないのか。愛する以前のこの人たちの意識には、何かひどくあいまいなものがある。この欲望には、肉慾というよりも、もっと形而上学的欲求に近いものがある。それは何だろう?』

 ともあれ彼が、いたるところに見出すのは厭離の心である。西鶴の男色物の恋人たちは、出家か心中にしかその帰結を見出さない。(P490-P491)

 この一節に含まれている認識の意味を精確に言い当てることは至難の業である。少なくともここには、同性愛を異性愛の性別における変種、或いは単純な対義語として捉える代わりに、同性愛の原理が抱え込んでいる構造的な特異性そのものへの悲嘆を交えた認識が刻まれている。言い換えれば、ここには「男色への欲望は果たして『肉慾』なのか?」という疑問符が大書されているのである。

 私は人間が必ずしも異性だけを愛するとは限らず、人間の官能的な欲望が絶えず異性だけを希求するとは限らないことを知識としては弁えている積りだ。だが、男が男を欲するときの感情と、自分が女性を欲するときの感情との間に、同一の構造を見出すことが可能なのか、その点に就いては判断を下す為の具体的な材料も根拠も持ち合わせていない。

 だから、共感や実体験を礎として分析を進めることが出来ない代わりに、飽く迄も客観的で表層的な事実から、己の思索を敷衍していくしかない。例えば端的に言って、異性愛には原則として「生殖」という結果が附随し、それが様々な社会的制度の基礎的な部分を形作っている。異性愛には種族の生物学的繁栄に資する創造的な効果が生得的に埋め込まれている。無論、この特徴を過度に強調すれば、同性愛に対する差別的な観念の働きを助長してしまう虞があることは承知しているが、もう少し話を前に進めさせてもらいたい。

 同性愛は原則として「生殖」の原理に貢献しない。その意味では、同性愛は本質的な意味で「享楽」以上の結果を齎すことは出来ない。異性愛の場合には、その過程で如何なる無感動が介入しようとも「生殖」の可能性を堅持することは出来る。無論、異性愛であっても肉慾を享楽の段階に留めておくことは、技術的には可能である。だが、異性愛の場合には、そこから先へ進むことが出来る。こうした問題は、生物学的な問題であると同時に、社会的或いは政治的な問題であるとも言える。同性愛は、既存の社会の存続に生物学的な意味で貢献することが出来ず、従って社会の存続という観点から眺めれば、常に少数派として抑圧しておくことが望ましいという結論に至る。愛情というヒューマニスティックな理念は一旦棚上げにしておこう。良くも悪くも、無粋な言い方にはなるが、男女の情交は子孫の繁栄を本質的な効果として担っている。そこに附随する愛情の様々な詩的表現は、生殖という圧倒的な原理の力強さの前では容易に色褪せてしまう。そして同性愛は「生殖」というプロセスを通じて、社会的な原理の循環に介入したり関与したりする資格を概ね剥奪されてしまっている。

 男女の愛情が生殖を推進し、やがて子供という象徴的な存在を生み出し、延いては社会の存続に貢献するという生物学的な真実に、男色家たちは絶えず疎外されてしまっている。性的マイノリティの人権の保護が発展し、彼らの性的な自由が法的に庇護されるようになったとしても、生殖という厳然たる事実が存在し、出生率の低下と人口の減少が重大な社会的問題として認知されている世界で、同性愛が本当の意味で主流の地位を占めることは恐らく有り得ないだろう。彼らの愛情が、或る特殊性を備えて眺められるのは、単に彼らが少数派であることだけが理由ではない。彼らの性的な行動と欲望と志向性が、共同体の物理的な存続に寄与し得ないという厳然たる事実が、彼らの性的な権利を社会の根幹に位置付けることを妨げてしまうのである。

 かつて不妊の男女が社会的な弾圧の対象となり、今でも苦しむ人々が少なくないように、同性愛に対する社会的な偏見の根深さは、彼らの存在が「生殖」という人類学的な伝統と原理に適合していないことに起因しているのではないかと思われる。そういう観点から眺めたとき、男色家の孤独は極めて根源的な理由によって支えられ、定義されることとなる。「清浄な友愛」に帰結することを強いられた男色家たちには、社会的に公認された「未来」や「物語」が欠如している。これは所謂「性同一性障害」の問題とは異質である。性別に関して生じる精神と肉体の「齟齬」だけが問題ならば、その解決は技術的なものとなる。性転換手術が成功すれば、彼らは社会が公認し推進する「異性愛の原理」に参与することが可能となる。だが、純然たる男色には、そのような技術的な解決の介入する余地がない。それは根本的に「生殖」の原理から乖離している。或いは、このように考えるべきだろうか。同性愛の世界には、所属する万人に共通する要素であるとは言えないものの、「異性愛の原理」の核心に位置する「生殖」という理念への「抵抗」の欲求が潜在しているのではないか、と。

 無論、総ての同性愛者の胸底に「生殖」への嫌悪が存在するなどと独善的な強弁を弄する積りはない。私が論じているのは可能的な理念としての「同性愛」であって、それが千差万別の個性を持った男色家たちの具体的な生態と完全に重なり合うとは考えていない。ただ、彼らの精神的な秩序の中に「生殖」を重要な核心として備えた「異性愛の原理」に対する抵抗の意識が埋め込まれている可能性を検討してみたいと思うだけだ。

 自分たちの至福の世界の到来をねがい、共同の呪われた利害で結ばれ、かれらは一つの単純な公理を夢みていた。即ち男は男を愛するものだという公理が、男は女を愛するものだという古い公理をくつがえす日を夢みていたのである。(P156)

 少なくとも「禁色」の世界において、男色家たちは「男は女を愛するものだという公理」との共存共栄を企図してはいない。彼らは「異性愛の原理」の絶対的且つ歴史的な覇権を「同性愛の原理」によって転覆することを希求しているのである。だが、それは同性愛という原理が長年に亘って深刻な社会的弾圧の対象に選ばれてきた現実への報復の欲望に過ぎないのであろうか? そもそも、同性愛という原理そのものの内部に、異性愛の原理に対する或る根源的な敵愾心のようなものが不可避的に組み込まれているのではないだろうか? 私は何も、異性愛と同性愛との間に無用の対立や抗争を喚起したいと考えて、このような理窟を述べ立てている訳ではない。重要なのは、同性愛を異性愛の単なる変種と看做す認識論的な枠組みの正当性に慎重な疑義を呈することである。つまり「異性愛の原理」に則った関係性を、生物学的に同性の伴侶が演じているに過ぎないという短絡的な想像を安易に肯定しないことが肝要なのだ。

 私は同性愛の官能的な側面に就いては詳しく立ち入ろうとは思わないし、立ち入る為の経験的な根拠も持っていない。ただ、同性愛を異性愛の単純な変種として捉える限り、恐らく「禁色」の世界の深層を理解することは不可能に等しくなるだろうと感じるのである。

 ……それもその筈だった。ルドンを中心とする世界には、熱帯地方のような生活、つまり流謫にひとしい植民地官吏のような生活しかなかった。要するに、この世界には感性のその日暮しが、感性の暴力的な秩序があるだけだった。(しかもそれこそこの種族の政治的運命だったとしたら、誰が抵抗できよう!)

 そこは異様な粘着力のある植物が密生したいわば感性の密林だったのである。(P159-P160)

 若しも同性愛が異性愛の単純な変種に過ぎなかったとしたら、男色家たちの生活は必ずしも「感性の暴力的な秩序」の専制に苦しめられ、虐げられる宿命を背負い込まずとも済んだであろう。彼らの生活が「感性の密林」に呑み込まれてしまうのは、異性愛の原理を奉じる社会にとって、彼らが危険な存在である為だ。男色を認めることの中に、既存の旧弊な社会を成り立たせてきた根源的な機構への危うい痛撃が含まれているからこそ、男色への歴史的弾圧は極めて峻厳な性格を営々と保ってきたのである。「生殖の否定」という本質的な性格が存在しなければ、同性愛への迫害はもっと穏健な形態を選択し得たであろう。恐らく、同性愛への弾圧の厳しさは、生殖に結び付かない、純然たる享楽を目的とした性愛への弾圧の厳しさと同期している(カトリシズムにおける同性愛と中絶への峻厳で抑圧的な取り扱いを考慮してみるべきである)。「生殖の否定」を伴う性愛が、共同体の存続に背反するものであることは、冷静に検討してみれば直ちに明白に理解され得る端的な事実である。同性愛は本質的に、如何なる意味でも「生殖の原理」とは相関し得ない。つまり、同性愛には不可避的な「享楽性」が象嵌されており、それは種族の存続に貢献し得ないゆえに、半ば自動的に「姦淫」の範疇に類するものと看做され、禁圧されてしまうのである。

 男の肉体は明るい平野の起伏のように、一望の下に隈なく見渡されるものだった。それは女の肉体のように散歩の都度あたらしく見出される小さな泉の驚異や、奥へゆくほど見事な晶化の見られる鉱石の洞穴をもってはいなかった。単なる外面であり、純粋な可視の美の体現だった。最初の熱烈な好奇心に愛と欲情の凡てが賭けられ、その後の愛情は精神の中へ埋没するか、ほかの肉体の上へ軽やかに辷ってゆくかしかなかった。(P150)

 同性愛の欲望は飽く迄も肉体の「外面」に留まり続け、それ以上の深みへ陥入することが出来ない。言い換えれば常に「清浄な友愛」以上の結果へ突き進むことが出来ない。その形而上学的な性質、或る抽象的な性格が、異性愛の原理に依拠して構築された社会と世界を震撼させるのではないか。同性愛の形而上学的な性質は要するに「享楽」というものの本質的な抽象性と符合しているのである。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)

 

 

Cahier(「沈める滝」・作家主義・mysticism)

三島由紀夫の「潮騒」を読み終えて感想文を書いたので、今日から同じ作者の「沈める滝」(新潮文庫)を繙き始めた。未だ冒頭の数ページしか読んでいないので、具体的な感想など書きようもないが、主役の城所昇の人物像には「禁色」の南悠一と「青の時代」の川崎誠を混ぜ合わせたようなニュアンスが付き纏っている。

 様々な作家の様々な作品を、その時々の個人的な興味や関心に応じて、或いは全くの偶発的な邂逅に委ねて、手当たり次第に自由自在に啄んで巡るのも愉しいが、或る作家の遺した無数の作品をバラバラに切り離して、作品という孤立した単位として扱うのではなく、一人の作家の存在を基軸に据えた上で、その著作を集中的に読み込んでいくと、浮薄な放浪の読書では得られることのない綜合的な感想や発見を手に入れることが出来る。少なくとも、作品の孤独な完結性に着目するばかりの読書よりは、もっと作品を宏大な文脈と経緯の中に位置付けて捉えることが出来るので、作品に対する理解度が高まるように感じられる。無論、濫読には濫読に固有の巨大な体系性が存在するとも言えるから、一概にどちらが好ましいかという問いへ明瞭な答えを与えることは難しい。

 無論、作品に作家性を求めるのはナンセンスな偏見であり、作品は作品自体として様々な外在的な文脈から切り離された状態で鑑賞されるべきだという見解にも一定の説得力があることを認めない訳ではないが、そもそも作品が一つの明瞭な輪郭を携えた個体であるかのような捉え方が極めて恣意的な信仰に支えられているに過ぎないことは、予め自覚しておいた方が賢明であろう。確かに作品の解釈が作品そのものの放出する種々の情報と関わりのない、専ら外在的な基準や文脈による査定に傾斜してしまうのは、作品の固有性や独自性を無効化し、剥奪することに繋がってしまう。それでは作品が作品として結晶したことの本質的な意義が見失われてしまうではないかという危惧が、そのような作品至上主義の果敢な提言を生み出すのであろう。

 けれども、作品というものが絶えず堅固な固有の実体を備えているべきだという考え方には、芸術の意義や価値に関する過度に美化された期待のようなものが色濃く刻み込まれていて、必ずしも一から十まで承服し得るとは思えない。作品が、様々な問題や観念の集積する特異な領域として、或いは人間の精神的な「焦点」のようなものとして存在し、その解釈が時代や世相を反映して多彩に遷移していったり、或いは独特の視点から加えられた省察によって斬新な変異を遂げたりすることは、少しも芸術にとって損失ではない筈だ。作品そのものの独立した価値を強く主張することは、一種の神秘主義的な閉鎖性へ人々の心を突き落とす、剣呑な副作用を孕んでいると私は思う。こういう芸術的ミスティシズム(mysticism)は、如何なる解釈も超越した絶対的な正解が存在するかのような錯覚を却って招き易い。それならば、あらゆる多様な解釈を野放図に容認する野蛮なアナーキズムの方が、芸術と作品の立場にとっては遙かに生産的ではないだろうか。

 芸術は人間によって生み出され、人間の特異な実存との間に必ず緊密な紐帯を維持しているものであり、芸術を作品という結果だけに基づいて論じる合理的な態度が、純粋であるから客観的であり、客観的であるから妥当であるという論法は成立しない。作品を純化して、あらゆる外在的な文脈から切断してしまえば、真実の価値だけが消え残るという信憑に、そもそも実証的な根拠が宛がわれている訳でもないのだ。

 無論、作家の思想が作品という形で結実するという単純な作家主義的方法論でアプローチするのも片手落ちである。作品が作家の意向に対して全面的に隷従するなどという神話は今日、すっかり黴の生えた異端的な信仰として排斥されている。如何にも近代的な主体性の思想に何もかも預けて委ねてしまい、作品を作家の道具と看做して敬意を欠いた解剖を試みるのは、如何にも野卑な振舞いである。重要なのは、丁寧に読むこと、そして読むことから触発された考えや発想を自分自身の頭で捉え直してみることである。作品は、あらゆる価値を詰め込んだ実体的な存在ではなく、いわば一つの歴史的な装置であり、人間の精神を浸蝕する特殊な放射線増幅器である。作品そのものを一字一句違えずに尊重するのは最低限の礼儀だが、経文の如く暗誦すればいいというものではない。如何なる作品も他者の想像力によって補われるべき余白を常に保っているものなのだ。その余白を埋める為に或る作家の文業を集中的に辿ってみることは、有益な挑戦であると個人的に信じている。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

 

 

清浄なる異性愛の幻想曲 三島由紀夫「潮騒」

 三島由紀夫の「潮騒」(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 新潮社文学賞と称する栄典の第一回を授与された「潮騒」という小説が、三島由紀夫の文学的経歴においては極めて異色の風合いを備えた作品であることは、多くの論者によって指摘されているし、市井の読者の間でも周知の事実であろうかと思う。実際、夥しい観念と愛慾の輻輳する大作「禁色」を書き上げた三島が、都会の風俗から隔絶した離島を舞台に、清純極まりない男女の古典的な恋愛の模様を描くなどという所業は、当時の読書や評家たちの意表を衝いたのではないだろうか。「禁色」において、あれほど執拗に表現された「異性愛の原理」との確執は、何処へ消え去ってしまったのか? 作者は本当に俗説の通り、ギリシャの風光を浴びて別人へと変貌を遂げてしまったのか? 無論、話はそれほど単純ではない筈である。

 三島が同性愛やサディズムに親和性を有していたのか、その真相を私が探り当てる手段はない。そんなことは、本人でさえ明瞭に自覚しているかどうかも分からない性質の事柄である。但し、彼の文学的な履歴、つまり彼が地上に遺した作品の多くに、絶えず愛慾の複雑な諸相が彫り込まれており、そこに清純とは御世辞にも言い難い背徳や不倫の陰翳が差していることは端的な事実である。そもそも彼の文学的な立身と向後の華々しい栄光を劃した「仮面の告白」にも、同性愛とサディズムの表現は随所に氾濫している。「愛の渇き」にしても「禁色」にしても、彼の描き出す恋愛の諸相には一筋縄ではいかない漆黒の混濁と汚穢が絶えず付き纏っている。そういう経緯を踏まえれば、猶の事「潮騒」に描かれた古代的な純愛の明朗な様態が奇異に感じられるのも、詮方ないことである。

 それにしても「潮騒」という作品の世界に象嵌された恋愛の様式の、甚だしい道徳性と清浄なる外貌は、私たちの暮らす日常的な現実から大きく乖離している。如何なる留保もなしに、男女間の異性愛という枠組みが前提とされていること、婚前交渉の禁止、勧善懲悪、人々の祝福、性交の場面の割愛、恋愛と結婚との極めて滑らかな接合。これらの要素が、一般的な社会が最も重んじる美徳の数々を一層理想的な仕方で形象化したものであることは附言するまでもない。此処には確かに恋愛という営為の道徳的な理想形が彫琢されている。それは万人が愛好する恋愛の形式であるとは言えないが、恋愛という本来は原始的な情欲の営みを社会的な秩序と調和させる上では、最も無難で健全な形式であると言える。此処には性的な多様性に対する政治的配慮の必要など微塵も存在していない。何故なら、最初から性的多様性という観念は厳格に排除されているからだ。単純な異性愛、単純な欲望、単純な恋の鞘当てが描かれるばかりで、しかも恋愛は結婚へ直接的に結び付いている。このような単純明快の世界観を、あの三島由紀夫が素朴な意味で信じていた筈はない。彼は、このような世界の現前が殆ど不可能な夢想に過ぎないことを承知の上で、しかも自身の性向が「潮騒」の提示する恋愛の理想形とは全く相容れないものであることを充分に知悉した上で、一つの華麗な逆説の如く、この道徳的な理想郷を紙上に建設してみせたのではないか。

 今にして新治は思うのであった。あのような辛苦にもかかわらず、結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかったことを。つまり闇に包まれているこの小さな島が、かれらの幸福を守り、かれらの恋を成就させてくれたということを。……(P187)

 或る一つの道徳律によって支配され、庇護されている小さな世界、いわば単一の象徴によって包摂される同質性の集団、そこでは性的な多様性が抑圧されるように、人々の信じる規律も単一のものへと収斂を命じられる。総てが単純で力強い描線によって構成され、人々は外部から異質な他者の侵入する脅威に晒されることも、その虞を警戒することも知らない。その閉鎖的な箱庭のような世界の片隅で成就する一つの清浄なる恋愛は、恐らく三島にとっては侮蔑の対象ではなく、痛切な憧憬の対象であったのだろうと思われる。「愛の渇き」や「禁色」における、地上の愛慾の百面相を極めて残酷に解剖していく冷徹な外科医の如き筆致は、この「潮騒」においては慎重に手控えられている。彼は飽く迄も丁寧な指遣いで、美しい理想的な世界の幻像を積み上げていく作業に専心している。但し、この場合の「憧憬」という言葉は、彼が自らそのような人間になりたいと願っていたという意味ではない。彼は余分な想像力や感性を持たず、肉体的な論理に閉ざされて生きる人間の簡明な健康さに憧れを懐いただろうが、それが自身にとって不可能な夢想であることも同時に生々しく理解していた筈である。端的に言って彼は、この地上に存在し得ない仮初の虚像を描いたのであり、その筆致が如何に心根の優しいユーモアの旋律を奏でていたとしても、それは作家の本領に合致するものではなかったと看做すべきである。

 言い換えれば、三島が「潮騒」を通じて表象したのは、俗世間に覆い被さる男女関係の理想的な「神話」である。異性愛、恋愛結婚、家族の三位一体主義の最も理想的に整えられた幻想的な形態として「潮騒」の物語は存在しており、しかもそれは「神々の加護」によって幾多の艱難から守られているのである。こうした幻想を持ち前の流麗な文体で完璧に仕上げてみせた作家の手腕と企図には、憧憬と共に皮肉な悪意が潜んでいる。童貞と処女の二人が、親の許可を勝ち得て所帯を持ち、やがて子を生すという典型的な「純潔」の神話を誇張して描き出すことで、彼は「仮面の告白」以来の「擬態」の能力を存分に発揮してみせたのだ。その意味では、如何にナチュラルな気品に満ちているように見えたとしても、飽く迄も「潮騒」の審美的な価値は「人為」の塊であると言うべきである。

潮騒 (新潮文庫)

潮騒 (新潮文庫)

 

 

幸福に堪えられない人間

 人は誰しも幸福であることを願うものだが、幸福には厄介な側面が備わっている。それは「何事も起こらない平穏に順応する」という論理的構造を含んでいるが、その幸福な平穏は必ずしも人を満足させない。退屈は人を殺しかねない。古伝に「小人閑居して不善を為す」という言い回しがある通り、平穏無事の幸福に充足する為には精神的な修養が不可欠である。目先の刺激に振り回されて、安穏な日常を溝へ抛り込むような愚行は、世間に有り触れている。

 退屈な幸福と、刺激的な不幸との二元論的な対立は、私たちの心を底知れぬ悩ましさの淵へ突き落とす、邪悪で贅沢な設問である。そもそも、このような選択は安閑たる幸福を獲得した、恵まれた境遇にある人間にしか取り組むことの出来ない、稀少な問題なのだ。だが、社会的に恵まれている人間に、如何なる懊悩の権利も資格も認めないという見解は、貧者のルサンチマンに満ちた偏見に過ぎない。相対的に恵まれているからと言って、人間の懊悩が根絶されることは有り得ないのだ。如何なる環境と社会的な条件の中においても、人間は等しく不幸と煩悶を享受する力を備えている。どんな境遇の中においても、人間の心を懊悩は等しく捕える。

 幸福は、或る意味では麻薬のようなもので、徐々に耐性が増していく。人間は無いものねだりを繰り返すのが習い性であり、既に手に入れたものの有難味を容易に忘れ去り、未だ手に入っていないものに憧れを募らせ、古びたものより新鮮なものにより多くの価値が備わっていると迂闊に信じ込む生き物である。私たちは、あらゆる種類の欲望が満たされたときに、幸福を覚えるのではない。幸福は寧ろ、享楽的なものを否定する理性的な働きによって齎される。享楽的な精神は常に飢渇を覚え、その飢渇に駆り立てられて何物かを劇しく欲し、それを獲得した瞬間の強烈な陶酔と法悦に痺れるような幸福を見出す。だが、それは幸福ではなく、欲望の一時的な充足である。快楽は射精に似ているが、幸福は寧ろ射精を否定するところに建設される不壊の建築である。だが、人間の内なる邪悪な側面は、そのような不壊の建築に対する破壊的な衝動へ囚われる場合がある。退屈な幸福に向かって殺意に類する感情を覚えることがあるのだ。

 享楽的な精神は満たされないことによって駆動するが、そのような無限の輪廻にも似た享楽を低次元の動物的な欲望として蔑視し、欲望を否認することで安寧の境地へ至ろうとする態度が、特別に高級な人間性を証するものだとは言い切れない。享楽的な精神が永遠の飢渇に苛まれるからと言って、敢えて享楽を否定することに別種の充足を見出そうとする観念的な工夫は、如何にも人間らしい賢しらの狡智である。結局は、それも欲望の一種に過ぎず、いわば「享楽を否定する享楽」という捻りを加えた新手の満足を発明したに過ぎないのではないか。宗教的な禁欲が、それ自体の内部に奇妙な充足の根拠を見出していると考えても奇異ではない。欲望を禁じることに快楽を見出す欲望が存在し、それが清廉潔白な聖人君子の群れを少数派ながらも生み出しているのだとすれば、それも一つの欲望の類型に過ぎず、単なるエピキュリアンと比べて聖者が偉いとは断定し難くなる。

 禁欲的な退屈、享楽に付き纏う危険を抑制する為に極めて保守的な身構えを選び取ること、そのような道徳的幸福論に堪え難い虚無を感じることがあるのも、人間の心理的な特質の一つであろう。ストイシズムには、ストイシズムに固有の秘められた愉楽が潜んでおり、それは如何にも仰々しい派手な享楽の態度とは対蹠的な外貌を持ちながらも、実際には特殊な欲望に衝き動かされているに過ぎないと言い得るのであり、従って人間は何処まで行っても欲望と衝迫の不可解な権力に抗うことは出来ないのである。欲望を自制し、軽蔑すること自体が一つの特異な欲望の形式であるならば、そのような畏まった欲望の偽善的な虚しさに苛立って牙を剥きたくなるのも立派な人情である。

 幸福、つまり欲望の断念と引き換えに顕れる奇妙な充足の感覚、それは確かに人間の傷ついた心を潤すものである。享楽が齎す様々な苦しみと悲しみ、怒りや懼れ、それらの複雑な愛憎の百鬼夜行を否定することは、大人へ通じる階梯であるとも言い得る。だが、そのような「成熟」の理念を金科玉条として崇拝することが直ちに賢明で良識的な態度であると褒められるのは、随分と偏った一面的な見方ではないか。このブログで何度も執拗に取り上げている坂口安吾の「風と光と二十の私と」では、自然との交歓という形で描き出された禁欲的な充足を、作者は否定的な眼差しで哀惜している。人間の尊厳を「苦しむこと」に見出そうとする坂口安吾の独特なモラルは、欲望の断念としての幸福(彼の言葉を借りるならば「老成の実際の空虚」)を偽善的な幻想として斥けている。ストイシズムの空虚な内実を否定し、あらゆる道徳的な幸福論の欺瞞を摘発することが、彼の個人的な倫理学の核心であったのだろうと、私は思う。

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

 
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

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「共同性」への普遍的な欲望

 人間は誰しも、自分と他者とを隔てている根源的な境界を打破し、超越したいという欲望に精神を搦め捕られている。この普遍的な欲望を簡潔に「共同性への欲望」と名付けてみたい。自分という孤立した個体の枠組みから離れて、絶対的な境界線を踏み越えたいという、この普遍的な欲望には、容易に抵抗することの出来ない甘美な魅惑が深々と突き刺さり、滲み出ている。

 「共同性」という言葉は随分と大雑把なラベリングに聞こえるかも知れないが、差し当たり、自他の境界線を消去しようとする性向のことだと捉えてもらいたい。この根源的で普遍的な性向は殆ど、人間という種族の生物学的な本能の範疇に属する衝迫であると看做しても差し支えない。他者との融合に対する飽くなき欲望は、人類の存続を支える重要な「基層」である。

 だが、同時に「共同性」への切々たる欲望の駆動は、私たちの世界に無数の邪悪な惨劇を齎してきた。二十世紀におけるファシズムの猛烈な災禍を徴するだけでも、全体主義の恐るべき暗部に備わっている破壊力が、どれほど人類の社会に深刻な損害を齎すのか、慄然たる心持ちで学ぶことは容易である。無論、その学習の成果は極めて安易に踏み躙られ、忘却の深淵に沈み込み、再び悲劇が地上を覆うまで、閉架書庫の筐底に収められたまま朽ちてしまうことも一再ではない。私たちの健忘症は、忌まわしい歴史的悲劇に対しても充分に傲岸且つ驕慢な態度を保持しているのだ。

 「共同性」という言葉、或いは観念が抱え込んでいる錯雑した両義性は、すっきりとした明快な解決にあらゆる方向から逆らっているように思われる。そこには明確な善悪の基準が存在せず、常に相対的な「是々非々」の判断が無限に累積していくばかりの、底知れぬ迷宮が広がっている。誰かと一体化して、一切の隔絶を消し去ってしまいたいという痛切な熱望は、相手の主体性に対する情緒的な暴力としての側面を併せ持っている。だが、何れの選択にも相応の妥当な論理が象嵌されており、その両義性を簡明な命題へ蒸留酒の如く純化してしまうことは出来ない。

 だが、私たちの内なる共同性への欲望を完全に扼殺してしまったとき、社会の解体は必然的な災厄として人類を見舞うことになるだろう。そこでは、無数のエゴイズムが相互的な連絡を欠如した状態で乱立することとなる。一つ一つのエゴイスティックな主体は他者への無関心を基本的な状態として採択する。

 「共同性」という観念が複雑な両義性を孕むのは、それが他者との相互的な協力と尊崇を齎す一方で、自他の不自然で奇怪な融合にも傾斜し得るという対蹠的な特質を併存させているからである。この問題を解決する為の準備的な措置として、私たちは「共同性」という観念を更に細分化して解析する必要に迫られている。つまり「共同性」という観念によって指示される対象の内的な構造や性質に関して、具体的な定義と解明を行わねばならない。漠然たる「共同性」の認識論的な靄に囚われていては、両義性に対する無気力な拝跪から脱却する方途が発見出来ない。両義性という観念的な用語には、人間の思考を安直な停滞へ頽落させる危険な魔力が備わっているのである。

 如何なる共同性からも距離を置いたとき、人は如何なる状態へ行き着くだろうか? 仮に人間の世界から遠く離れて、無人島に暮らす隠者の如き生活を選び取ったとしても、私たちには「擬人化」という豊饒な想像力に裏打ちされた精神的作用が残されている。花鳥風月を愛でる心情の中には未だ、漠然たる共同性への欲望が息衝いている。俗世から遁走するだけでは、共同性に対する欲望を振り切ったとは言えないのだ。

 自分の外部へ向かおうとするプリミティブな衝迫、それを共同性への欲望と名付けるならば、どれだけ自立を志向しようとも、人間が共同性に対する郷愁のような情熱を完全に廃絶することは出来ないだろう。他者の存在を認識する限り、自己の外部を想定する限り、人間は既に共同性の領域へ一歩踏み出していると言い得る。時に人は、そのような外部へ辿り着く為に手段を選ばず、強硬な暴力に訴えることさえも辞さない生き物である。この根源的で普遍的な欲望を抑圧することは出来ない。束の間の抑制が技術的に可能であったとしても、それは欲望自体の完全な死滅を意味しない。抑え付けられた欲望は、理性や規則の間隙を盗んで必ず地上へ顕現し、暴力的な爆発を演じるだろう。

 だが、共同性に対する欲望には常に、自他の境界線を乱暴な仕方で蹂躙しかねないという危険な側面が附随している。自他の境界線を踏み躙ることは、相手の存在に対する暴力的な関与を意味する。相手の存在を尊重し、その自主性と主体性を維持したまま、共同の関係を構築する為に智慧を働かせ、創意工夫を積み重ねることが人間の社会的な努力である。但し、その匙加減には一律的な規範など望み得ない。結局、事例に応じて臨機応変の対処を心掛けるしかない。

 逆説的に言えば、私たちが健全で相互に恩恵を蒙るような形の共同性を構築する為には、成る可く共同性に対する欲望を自制することが肝要な条件となるのかも知れない。人を正しく愛する為には依存を去って自立を果たさねばならない、つまり愛する為には孤独の内に踏み止まる強さを持たなければならない、という理窟は、このような消息を踏まえたものであると言えるだろう。或いは、自他の境界線を踏み越えたいという欲望の充足が常に「一時的な幻影」であることに留意し続けることが、私たちを他者への暴力的な関与から逃れさせるのではないか。どれほど互いを求め合い、あらゆる手段を弄して自他の距離を「融合」の次元にまで接近させようと企てても、両者が完全なる合一と同化を果たすことは出来ないし、それは厳密に言えば「共同性」という観念の定義に適合しない。共同性が成立する為の要件は、互いに異質な他者の存在である。つまり共同性とは、複数の個体の間の「異質性」を消去するのではなく、寧ろ保存することを前提としているのだ。

 共同性に対する欲望は、単純な一体化への欲望とは弁別して理解されなければならない。そうでなければ、共同性は或る強力な権威を備えた主体による一方的な包括となり、延いてはファシズム的な他者性の蹂躙に帰結するからだ。共同性の成立する要件として「異質性の保存」を明記しなければならない理由は、その点に関わっている。他者性を毀損することで成立する擬似的な共同性は寧ろ「自同性」と称すべきであり、それは結局のところ、自己のナルシシズム的な拡張に過ぎない。自己と他者を同一視する「自同性」の認識論的装置は、共同性とは全く異質な原理に基づいて稼働している。