サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「少年性」の原理に基づく断罪 三島由紀夫「午後の曳航」再読 1

 目下、三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を再読している最中である。未だ通読していないが、覚書を認めておこうと思う。

 「午後の曳航」という小説は二部構成の作品であり、第一部の「夏」と第二部の「冬」との間には、明瞭な対照性が賦与されている。銘々の主題に就いては、主要な登場人物である塚崎竜二の内面に関する描写を徴するのが最も分かり易いのではないかと思われる。

 二十歳の彼は熱烈に思ったものだ。

『光栄を! 光栄を! 光栄を! 俺はそいつにだけふさわしく生れついている』

 どんな種類の光栄がほしいのか、又、どんな種類の光栄が自分にふさわしいのか、彼にはまるでわかっていなかった。ただ世界の闇の奥底に一点の光りがあって、それが彼のためにだけ用意されており、彼を照らすためにだけ近寄ってくることを信じていた。(『午後の曳航』新潮文庫 P18)

  或いは、次のような部分を挙げてみてもいい。

 しかし深夜のワッチに、暗い波浪の彼方、闇にふくらむつややかな海水の堆積の只中に、竜二はなお時折、自分の光栄が夜光虫のように群がり光り、ただ人間世界の絶壁の突端に彼の英姿をあかあかと照らし出すために、ひそかに押し寄せて来るのを感じることがあった。

 そのとき白い操舵室の、操舵輪や、レーダアや、伝声管や、磁気コンパスや、天井から下った金いろの号鐘にかこまれて、彼はなおこう信じることができた。

『俺には何か、特別の運命がそなわっている筈だ。きらきらした、別誂えの、そこらの並の男には決して許されないような運命が』(『午後の曳航』新潮文庫 P19)

 こうした特権性に対する憧憬と恍惚と陶酔は、所謂「少年性」の中核を構成する心理的特質である。ヒロイズムと言い換えてもいい。自分を特別な人間であると看做すこと、その手懸りを営々と探し求めて倦まないこと、こうした精神的方針が人間の魂から「成熟」の萌芽を奪い取る。無論、実際に或る無名の少年が特権的な栄光に浴する事例は、この広い世界では大いに有り得る事態だろう。だが、塚崎竜二が熱烈に欲する「光栄」とは単なる社会的な名声の類ではないと思われる。彼の希求する「光栄」とは即ち「人間を超越すること」であり、彼自身の言葉を借用するならば「並の男」として生きていくことへの峻厳な拒絶を意味している。換言すれば、彼の熱烈なヒロイズムは「人間的なもの」全般に対する否認の意志を含んでいるのである。

 一方、第二部の「冬」の孕んでいる主題を象徴するのは、次のような記述である。

 次第に輪郭のはっきりして来る水面に堺を接した、とあるビルの非常階段の赤い灯に、竜二は痛切に陸の生活の手ざわりを思い描いた。今年の五月には彼も三十四歳になる。もう永すぎた夢想は捨てなくてはならぬ。この世には彼のための特別誂えの栄光などの存在しないことを知らなくてはならぬ。倉庫の弱い軒明りは、灰青色におぼめく朝の最初の光りに、なおかつ目覚めまいとして逆らっているけれど、竜二はもう醒めなくてはならぬ。(『午後の曳航』新潮文庫 P107)

 この述懐が竜二の内面における重要で決定的な転回を明示していることは論を俟たない。海洋の孤独と、熱帯の太陽に象徴される果敢な冒険の日々に埋没して暮らしてきた一人の「英雄」は遂に、偶然知り合った女との愛慾に支えられた「諧和」に憧れて、陸上の生活へ、つまり如何なる特権的な栄光とも無縁の俗っぽい小市民の街衢へ、自らの生の根拠を移管しようと試みている。それを竜二自身は一つの健全で成熟した「覚醒」であると定義しているが、少年たちの視線と立場にとって、竜二の選択した決定的な転回は紛れもない「腐敗」の類例に他ならない。一般的で凡庸な家庭の幸福に足許を掬われること、特権的な栄光の授けられる可能性を雄々しく断念して、退屈で空虚な地上の生活に骨の髄まで蝕まれること、それは竜二にとっては「成熟」であっても、登たちにとっては唾棄すべき歴然たる「堕落」の形態に過ぎないのだ。

 少年と大人との対立、父と子との対立、破滅と生活との対立、美と人生との対立、これらの二元論的な構図は絶えず三島由紀夫という作家の生涯を呪縛し続けた重要な主題であったと言える。ニヒリズムとは煎じ詰めれば「破滅の思想」であり、一切の「生」に対する嫌悪の情熱であり、全的な破局と滅亡に対する絶えざる憧憬である。生きることへの嫌悪と、死ぬことへの憧れ、これらの想念は三島の精神を蚕食する最も根源的な旋律であった。彼は華麗なる文業を通じて常に、両者の相剋の渦中で悪戦苦闘を積み重ねた。無論、彼は絶えず「生きること」への情熱を自らの内面に点火すべく、真摯な努力と研鑽を繰り返してきたのである。しかし、彼の積極的な決断は幾度も深刻な反動と退嬰を伴った。「金閣寺」において「美」を焼き払う決断に深々と荷担しながらも、彼は猶、自身の内側に消え残る「破滅」への欲望を完全に払拭することが出来なかった。「美しい星」の大杉重一郎と羽黒真澄との間で演じられた核心的な議論と問答の極限に至っても猶、彼は長年の宿痾である「破滅の思想」を完全に解毒することに失敗した。そして三島は「午後の曳航」において、世俗の論理に懐柔されて栄光に満ちた英雄的な「死」を断念した男に向かって、苛烈な断罪の矛先を突き付けた。「滅亡」の象徴たる一人の「英雄」が自らの意志に基づき、陳腐な俗情に絆されて退屈な「生活」の深淵に足を踏み入れたことを、三島の内面に生き残った根深いタナトス(thanatos)はどうしても容認することが出来なかったのである。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)

 

虚無と諧謔 三島由紀夫「美しい星」

 三島由紀夫の『美しい星』(新潮文庫)を読了したので、拙い感想を書き留めておく。

 死の臭気と濃密な官能の織り成す厳粛で陰惨な悲劇を描き出すことに長けた三島の文学的経歴の中で、荒唐無稽の絵空事の代表とも目される「宇宙人」や「空飛ぶ円盤」の登場する登場する本作は、作者の文学の本流から逸脱した異色の作品であると看做されることが多いかも知れない。けれども「宇宙人」や「空飛ぶ円盤」という材料の表層的な外観に眩惑されて、この「美しい星」を傍流の系譜に属する作品であるかのように定義し、厳格で活発な議論の対象から除外するような態度は、三島の遺した芸術的達成に対する不当な迫害に類する行為であると言えよう。「美しい星」には寧ろ、作者の文学的経歴における重要で決定的な転回の瞬間が明瞭に刻み込まれているのであり、作者がそうした重大な分水嶺へ足を踏み入れる上で、過去の重要な作品の系譜は不可欠のスプリングボードとしての役割を担っているのである。

 軍国主義に覆われた戦時下の特殊な時代に貴重な青春を過ごした三島が、或る巨大で決定的な「滅亡」の魅力に骨の髄まで囚われていたことは、彼の遺した作品を徴すれば直ちに明らかになる端的な事実である。予定された「滅亡」の破壊的な影響力を前提に据えて、眼前の生活に対する特権的な超越性を確保するという実存的な手法は、彼にとって重要な意義を有する崇高な思想であり、絶対的な理念であった。だが、敗戦によって「確実な破滅」の予感を奪い取られた彼は、兎に角眼前の単調で退屈な「人生」に向かって歩み出すことを余儀無くされた。彼の生涯は、そうした「虚無」と「人生」との絶えざる相剋の生み出す種々の悲喜劇に覆われていると看做して差し支えない。

 例えば三島の代表作である「金閣寺」において、語り手である溝口は幾度も「人生」と「美」との根源的な対立関係に就いて苦々しげに述べている。彼が具体的な行為によって織り成された「人生」の領域へ一歩踏み出そうと試みる度に、絶対的な「美」の象徴としての「金閣」が顕現して、彼を虚無的な閉域の深奥へ拉致してしまう。最終的に彼は「金閣」へ放火することによって、半ば象徴的な仕方で具体的な「人生」の領域へ移行しようと企てる。爾来、美しい「金閣」を焼亡へ追い込んだ後の「人生」の形態を精緻に描き出すことが、作者の文学と生活における最も重要な倫理的課題と化した。

 だが、虚無と美のアマルガムによって構成された感性的な恩寵の世界から、様々な社会的通念と人間的価値に縦横無尽に搦め捕られた現実的な「生活」の領野へ移行することは、怪物的な感受性に恵まれた作家にとっては少しも容易な選択ではなかったと思われる。彼の文業には絶えず絢爛たる英雄的な「滅亡」への抜き難い憧憬と、現実的で社会的な、成熟した「生活」への倫理的な衝迫が同時に刻み込まれ、何れの側にも安定的な仕方で偏することが出来ずに無限の振り子のような彷徨を続ける精神の苛酷な様態が克明に描き出されている。

 三島由紀夫の実存の原風景には何時も、荒涼たる「虚無」の暗澹たる色彩が覆い被さっているように思われる。例えば「美しい星」の主要な登場人物である大杉重一郎の内面にも、次のような原初の精神的光景が宿っている。

 東京へ遊びに出かけるたびに、つぎつぎと新築される巨大なビルの、昼間から蛍光燈をともしている窓々が、重一郎に恐怖を与えた。人々は声高に喋りながら、確実にそれらの窓ごとに働いていた。何の目的もなしに!

 重一郎はこの世界に完全に統一感の欠けていることを見抜いていた。すべてはおそろしいほどばらばらだった。すべての自動車のハンドルと車輪とはばらばらであり、すべての人間の脳髄と胃とはばらばらだった。(『美しい星』新潮文庫 P18)

 世界を統一的に纏め上げる超越的な「意味」の欠如に苦しむことは、ニヒリズムの出発点であり、「虚無」の典型的な症状である。この世界には如何なる意味も価値もないという精神的情況は、三島が「鏡子の家」を通じて詳細な検討を加えた主題である。作者は「美しい星」の中で、かつて山形夏雄という画家が中途で断念したオカルティズムの道程を再び俎上に載せて、その行く末を精緻に描き出したのだと看做すことが出来る。重一郎は「空飛ぶ円盤」との不意の遭遇という事件を契機として、神秘的な「法悦」を通じて「虚無」からの恢復を果たすのである。

 まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を充たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、澄明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。……

 重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして坐ったまま、自分の記憶の底深く下りてゆこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中へつっこんだ手、天井の木目のなかに現われる奇怪な顔、……それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄しと飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向っていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。そしてその廊下の角度は、正確に、円盤の航跡と合していた。

『俺の記憶の源はたしかにあそこにある』と重一郎は考えた。今まではただその事実から目を覆われていただけであったのだ。(『美しい星』新潮文庫 P23-P24)

 失われ、忘れ去られていた遠い過去の記憶が甦るような仕方で、眼前の世界を虚無的な瓦礫の堆積から救済し、或る超越的な体系と構造を授ける「円盤」の神秘的な性質は、オカルティズムによる強制的で堅牢な「意味の補給」に他ならない。それは世界を不可視の根底から支える絶対的な「意味」の実在を、感覚的な現象に先行させる思考の様式の所産である。換言すれば、こうした精神的様式は、プラトニックな超越的理念の実在に対する揺るぎない信仰の情熱によって形成されているのである(プラトニズムは「思考」を「想起」として定義する慣例を持っている)。無意味な断片の散乱する荒寥たる廃墟のような世界に属して暮らしていた重一郎にとって、唐突に出現した「円盤」の神秘的な啓示は正しく恩寵である。それは無意味な世界に、或る秘められた超越的で崇高な「意味」を補給する源泉として機能する。しかも「円盤」は不意に現れた見知らぬ異邦人ではなく、重一郎の「記憶の源」であり、今まで不幸にも忘却の深淵に没したままになっていた「故郷」へ通じる重要な回路なのである。彼は時空の彼方に沈んでいた自己の「根源」との貴重で神秘的な邂逅を果たしたのだ。それは長きに亘って重一郎の患っていた深刻なニヒリズムの病毒を駆逐する効能を発揮する。

 重一郎は「円盤」との奇怪な邂逅を通じて、人間の暮らす地上の世界に「永遠の平和」を確立するという超越的な使命に開眼する。それは、彼自身が「宇宙人」であるという「覚醒」の体験に基づいた認識から派生した使命である。人間という生き物を遥かなる天上の高みから睥睨する特権を獲得した重一郎は、恰かもメシアであるかのように地上の絶対的な「諧和」の実現を目指して日夜奔走する。

 他方、仙台の大学に助教授として勤める羽黒真澄は、自らを「白鳥座六十一番星」から地球へ到来した「宇宙人」として認識している。彼は重一郎の一派とは対蹠的に地上の「破滅」を希求しており、この「美しい星」という奇態な小説のクライマックスは、大杉重一郎と羽黒真澄との間に交わされる激烈な論争の場面に設定されている。その論争の本質的な焦点は「ニヒリズムに抗して、人間という存在の価値を猶も承認し、肯定し得るか」という命題に集約されるのではないかと思う。もっと約めて言えば「ニヒリズムヒューマニズムとの相剋」という具合に纏められるかも知れない。

 人間という存在に価値を認める一切の思想を安直に「ヒューマニズム」と呼称する場合、そうした朗らかな思想に対して「ニヒリズム」は、最も深刻で致命的な脅威として顕現する。あらゆる「意味」や「価値」の源泉である「人間」への凄絶で執拗な憎悪と敵愾心は、重篤な「ニヒリズム」の優れた温床である。人間的なものを否定するとき、人は必ず否が応でも世界を漆黒の虚無で覆い尽くし、その一切合財を「滅亡」の旋律で包囲してしまわずにはいられない。恐らく作者は大杉重一郎と羽黒真澄との凄まじい「口論」を描き出すことで、両者の優劣を徹底的に問い詰め、追究しようと試みたのではないだろうか?

 だが、作者は決して「美しい星」という奇態な小説を、単純なヒューマニズムに支配された勧善懲悪の物語として拵えた訳ではない。寧ろ彼は考えれば考えるほどに「虚無」と「破滅」の抗し難い現実性に心身を蝕まれて、劇しく苦悶したのではないかと推察される。彼は極限の領域に爪先立って、死病に五体を苛まれるような堪え難い窮状の渦中に我が身を置きながら、辛うじて人間に対する麗しい「讃歌」の文句を案出したのである。

 人間は、朝の太陽が山の端を離れ、山腹の色がたちまち変るのを見て、はじめて笑ったにちがいない。宇宙的虚無が、こんなに微妙な色彩の濃淡で人の目をたのしませるのは、全く不合理なことであり、可笑しな、笑うべきことだからだ。虚無がいちいち道化た形姿を示すたびに、彼らは笑った。平原を走ってくる微風が、群なす羊の毛をそば立たせるのを見て、彼らは笑った。偉大な虚無のこんな些細な関心が可笑しかったからだ。そして笑っているときだけ、彼らは虚無をないもののように感じ、いわば虚無から癒やされたのだ。

 そのうちに人間どもは、自分たちの手で笑いの種子を作るようになった。しかしいつも笑いの背後には、虚無の影が必要で、それがなければ、人間の笑いの劇は完成しない。その劇には、必ず見えない重要な登場人物が背後をよぎり、しかもそれが笑いによって吹き飛ばされる役を荷っていた。(『美しい星』新潮文庫 P300-P301)

 作者は「人間的なもの」の本質を「虚無への抵抗」という原理の裡に見出そうとしているのではないだろうか? この作品を彩る喜劇的な性質もまた、そうした論理に基づいて醸成されているように私は感じる。

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

 

ニヒリズムと青春の終わり

 世の中には「アイデンティティ・クライシス」(identity crisis)という言葉がある。主には思春期から青年期に至る期間に、つまり子供から大人へと変容していく過程において生じる心理的な不安定化や危機のことを指す概念であるらしい。似たような用語として「ミッドライフ・クライシス」(midlife crisis)という言葉もあり、此方は三十代後半から四十代くらいの年齢の人々において顕れる精神的な危機を指し示すものであるらしい。

 こうした心理学的な観念(或いは、社会学的な?)は、具体的で明瞭な個物を指し示すものではないから、その定義にも自ずと可変的な振幅が備わり、議論の焦点を却って曖昧に霞ませるような弊害も伴うものだが、自分自身の人生を顧みても、確かにそうした自己同一性の危機は幾度も襲来して、出口の見えない底知れぬ煩悶や懊悩に精神を振り回され、引き摺り回されたような覚えがある。態々こんな大袈裟で硬質な用語を拝借せずとも、生きていれば奇妙な虚無感に囚われ、何事にも意欲や情熱を燃やすことが出来なくなる時期は必ず訪れるものである。そうした苦悩の深淵を幾度も踏み越え這い上がって、人間は少しずつ己の魂を錬磨していくのが世間の通例であると思う。その意味では、心理的なcrisisの襲来する時期を細々と区分する作業に重要な意義があるとは考え難い。誰でも常に自己の存在する意味や価値を喪失する危険と隣接しながら日々、暮らしているのだ。

 毎日の生活に情熱の捌け口を見出せないとか、生きていることそのものに価値を感じられないとか、自分の人生の向かっていく先に胸の躍るような理想的状態を想い描けないとか、こうした心理的な鬱屈を乱暴に要約してしまえば「虚無」或いは「ニヒリズム」(nihilism)という言葉に尽きるのではないかと思う。特に若々しく粗暴で無鉄砲な青春の季節から、社会的な責務の観念に五体を縛られた息苦しい「大人」の境遇へ向かって成熟の階梯を攀じ登っていく局面においては、自己の存在の意義を「書き換える」という作業に失敗する確率も上がるので、心が「虚無」の冷ややかな毒性に浸蝕されることも全く奇異な事態ではない。「自分の生き方は、このままで良いのだろうか?」という根深い迷妄に呑み込まれたとき、その骨が軋むような苦しみは容易く乗り超えられるものではない。

 三島由紀夫の「鏡子の家」に就いて長々と感想文を認めながら、彼もまた一つの「アイデンティティ・クライシス」の渦中に身を置いて、この大部な小説と格闘していたのではないかと不意に考えた。無論、これは聊かも私の創見ではない。「鏡子の家」執筆の当時、三島は結婚して子を生し、新居を建て、孤独な芸術家の青年から、一人前の社会人(古い言葉を用いるならば「家長」だろう)として重たい義務と責任を鉄鎖の如く引き摺って歩く生活へ移行しつつあった。少なくとも、彼の遺した日録形式のエッセイ(「裸体と衣裳」)には、そのような記述が明瞭に刻み込まれている。

 三島は「鏡子の家」において、肉薄するニヒリズムの邪悪で禍々しい毒手に対処する為の方途を、四人の青年の処世に仮託して描き、精緻な検討を加えている。新婚であった当時の三島の眼には、恐らく杉本清一郎の生き方が最善の選択肢として(それは必ずしも「最高」の選択肢ではない)映じていたのではないかと推察されるが、広く知られるように、彼は善良で道徳的な夫を、或いは社会に対する卓越した適応性を備えた配偶者としての自分を、死ぬまで演じ続けることに究極的な価値を見出さなかった。寧ろ彼の末期は、挫折した拳闘選手である深井峻吉の、作中では描かれることのなかった後半生の余白を埋めるかのような内容であった。「鏡子の家」を通じて悲劇的な行動家のヒロイズムを葬り、狡猾な俗物の仮面を被って生きることを決意した筈の三島は結局、自己の内奥に深々と食い込んだ感性的な青年の客気を、自らの最期に至るまで扼殺し続けることに失敗した。彼は杉本清一郎のように人間的な世界の「確実な破滅」を信じ切って、俗塵に塗れたニヒリストの生涯を送ることに堪えられなくなったのだろう。そして所謂「暴発」へと雪崩れ込み、華麗な文名を蹂躙するような奇矯な蛮行を演じて、世間の誹謗を一身に浴びながらも、軽業師のように身を翻して伝説的な作家となった。

 「鏡子の家」という作品は、三島由紀夫の徹底的で精密な「自己解剖」の過程で織り上げられた、極めて個人的な小説なのではないだろうか? 彼は自己に内在する総ての志向性を吟味して、それを四人の青年に託して鮮明に浮き上がらせ、その可能的な形態と経路を丹念に追究した。彼は或る意味では「青春」という特殊な季節を終結へ導き得なかったのであり、戦時下に懐いた「確実な破滅」への信仰を終生手放せずに、足早に死んでいったのである。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 

Cahier(弔事・歯車・遺された者たち)

*九月の一日に岳父が心臓を病んで急逝し、瞬く間に通夜と葬儀が営まれ、遽しい日々を過ごした。漸く人心地がついたところだが、妻の方は未だ相続の手続きやら四十九日の法要の仕度やらに追われて日々忙しく追い立てられている最中である。

 結婚式ならば一年先の遠く離れた日取りに向けて入念に準備を積み重ねることも可能だが、葬儀は俄かに襲い掛かるものであるから仕度が目紛しい忙殺という形を取ることは避け難い。

 私の父も先日心不全で病院へ緊急搬送されたところだから、岳父の死は少しも他人事ではない。私は長男坊であるから、父の身に万一の事態が起これば最前線の当事者に祀り上げられることになる。こういう気の重い責務に挺身せねばならない年齢に差し掛かったことを改めて痛感させられる。人間は誰しも何時か他界する定めを負った生き物であると知りながらも、そうした理窟に生々しい実感を纏わせるのは至難の業である。

 何より、日常の生活の秩序が乱れるということは疲労の溜まる話だ。これは身近な人間の死去に限らず、離婚でも転職でも被災でも、思わぬタイミングで不意打ちのように訪れる出来事によって齎される突発的な変化であるから、周到に計画を立てて生きている積りでも完璧な回避など望みようがない。

 仕事の上でも直属の部下の交代があったばかりで、後任の社員の着任する日付が折悪しく岳父の急逝と重なってしまった。私はその日、朝から晩まで仕事の予定であったのだが、午前中に後任の社員との面談を済ませ、立て続けにアルバイトの採用面接をしている最中に売場からスタッフが飛んできて、不穏な面持で奥様から電話がありました、急いで折り返して欲しいようですと伝えに来た。直ぐに病院へ向かうことになり、上司に連絡を入れたり売り場のスタッフに指示を与えたり、諸々の始末を卒えて地下のロッカーへ着替えに往く途次、再び妻から携帯へ着信が入った。涙声の訃報であった。

 病院で遺体と対面し、幕張の葬儀会館へ移動して早速通夜と告別式の打ち合わせが始まった。夕刻、私は葬儀会館を後にして売場へ戻り、周りに怖々と気遣われながら仕事を再開した。変化の上に変化が折り重なるような一日で、自分が疲れているのかどうかの確かな手応えすら曖昧に霞んで揺れた。

 私生活の歯車が狂い出すと、途端に読書も捗らなくなる。漸く今日になって「鏡子の家」に就いての長ったらしい読書感想文を草し終えることが出来たばかりである。目下繙読中の「美しい星」は数日間塩漬けの状態になっている。これから少しずつ、不幸にも捩れてしまった日常の歯車を原状へ戻していかねばならない。死者の供養が生ける者の大事な務めであることは論を俟たぬ。けれども同時に、生きている者には日々の生活を黙々と営むという根本的な責務が課せられていることを失念すべきではない。供養は死者の為に営まれる厳粛な務めである一方で、遺された者が未来へ前進する為の大切な区切りという意味合いも兼ね備えている。供養が生者の歩く力を復活させず、停滞させるものであっては本末転倒であろう。生者の停滞を死者が希求するとは思い難い。朗らかに、健やかに暮らすことが本当は死者に対する最善の供養なのだと信じたい。

ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 7

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

⑥「他者」の価値観に擬態するニヒリストの肖像

 オカルティズムの深淵から感性的な現実の世界へ帰還した山形夏雄は、自分が陥っていた虚無の荒寥たる領域の消息に就いて語りながら、次のように述べる。

 神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、急に人間界のほうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のように、解釈しやすい数式のように見える。世界政治の動向も、経済の帰趨も、青年層の不平不満も、芸術の行き詰りも、およそ人間精神の関与するものなら、彼には、簡単な数式のように解けてしまい、あいまいな謎はすこしも残さず、言葉は過度に明晰になる。……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまい、世界の解釈を放棄し、その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまう。(『鏡子の家新潮文庫 P603)

 夏雄の提示した「虚無」に関する人間の側の対応の類型を参照すれば、恐らく杉本清一郎は「知性の人」ということになるだろう。あらゆる人間的な営為を「虚無」の領野から冷厳で乾燥した眼差しを通じて眺め、仔細に観察し、その構造と秩序を明晰に透視すること、それが知性的なニヒリストの実存の基本的な様態である。「虚無」の世界に立脚して人間たちの生活と社会を顧みれば、そこには明確で半ば自動的な構造だけが顕現する。それはニヒリズムが諸々の人間的な価値に視野を妨げられず、その現実的な構造だけに着眼して思索することの結果である。

 三社の合併によってこの早春山川物産が復活してから、清一郎は入社後三年をすごしたNビルの事務室を移って、会社ごと、この伝統ある山川ビルへ引移って来たのであった。古い光輝あるものはのこらず復活していた。彼はこのビルに移って、はじめて入口をくぐったとき、自分自身に言いきかせた綱領の数々を思い出した。そのモットーは今もなお忠実に守られていた。

 一、絶望は実際家を育くむことを銘記せよ。

 一、ヒロイズムと完全に手を切るべきこと。

 一、おのれの軽蔑するものに絶対服従を誓うべきこと。慣習を軽蔑するなら慣習に。輿論を軽蔑するなら輿論に。

 一、月並こそ至高の徳なるべきこと。(『鏡子の家新潮文庫 P54-P55)

 これらの綱領が能動的なニヒリストの行動を規定する重要で明確な規約であることは附言するまでもない。ここには「青の時代」の川崎誠を彷彿とさせる、身も蓋もない乾燥した合理性と現実主義の規範が象嵌されている。彼が自らの綱領の劈頭に掲げている「絶望」が、一切の人間的な価値に対する不信と、その滅亡の確信を意味していることは明白である。換言すれば、彼は一切の人間的な価値に毫も惑わされない滑らかな「絶望」の力を借りることで、人間的な価値に対する最も忠良なる信徒の仮装を確保し、世俗の雑踏へ巧みに紛れ込んでいるのである。人間的価値を少しも信頼しないことが、人間的価値に対する最大限の忠節として顕れるという奇怪な逆説は、能動的なニヒリストたちの行動の最も本質的な規約として機能している。

『俺は結婚するだろう。遠からず結婚するだろう』……いつとしもなく、誰をも愛することなしに、彼はそう思いはじめていた。しらない間に、この言葉は叫びのようになり、やみがたい欲求でもないのに、欲求のようになった。清一郎は慣習を渇望するという社会的習性が、一人の男のなかで、破滅の思想と仲好く同居するのにおどろいた。

 他人と寸分ちがわぬレッテルを体じゅうに貼りつけて、それでもまだ足りずに、彼は「結婚した男」というレッテルを手に入れようとしていた。なるたけ珍奇な切手をではなく、なるたけ流通度のひろい切手を全部手に入れようとしている、風変りな切手蒐集家のようだと自分を思った。いつか鏡の中に、一人の満足した良人の肖像を見出だすだろうと思うと、こんな自分自身の戯画のデッサンを彼は熱心にとり直した。(『鏡子の家新潮文庫 P73-P74)

 世間一般の素朴な通例と風習、つまり相互に愛し合う男女の幸福な結婚という夢想に、清一郎は聊かの敬意も信仰も寄せていない。彼が欲しているのは「結婚した男」という社会的に善良な仮面であり、その具体的な内実、豊饒な内実ではない。彼の情熱は専ら「月並」への擬態に注がれていて、擬態が空虚な成功を収めれば収めるほど、彼の実存の様式は一層堅固な均衡を獲得するのである。そうした彼の奇怪な曲芸のような処世の方法は、彼自身を生々しい人間の通俗的な愛憎から庇護している。彼は泥臭い「真率な感情」の蔓延する世界から一歩退いて、己の精神的な安寧を堅持している。彼の目的は一体何なのか? 彼のニヒリズムは、ニヒリズムからの逆説的な恢復を希って編み出された実存的な戦略なのだろうか?

 オフィスにいるとき、あのように恒久不変の堅固な物質の中にいた清一郎は、こうして街をひとりでゆくとき、まるで薄いきらきらする箔で作られ、ほんの一触で毀れそうな繊細な硝子細工の骨組を持ったあやうい世界の中をゆく心地がした。これこそは彼にとって親しい世界だった。多くのけばけばしい看板やネオンサインは、いつわりの美の法則に対する忠実さを競っていた。一つのネオンが古風な「不夜城」の赤い三字を浮き出させているが、夜は事実その周囲にせまり、字劃のほそい隙間をさえ犯している。清一郎はネオンサインになりたいと思った。そうすれば彼の欺瞞への奉仕は完成されるだろう。一瞬たりとも自分自身の法則のためには生きないという、この無目的なストイシズムは、ネオンサインの身になれば、何でもない日常普通の、自然な習慣にすぎなくなるだろう。(『鏡子の家新潮文庫 P93-P94)

 こうしたストイシズムには「仮面の告白」で作者が示した社会的な秩序に対する適合の欲望、或いはもっと端的に「擬態」への欲望が残響しているように聞こえる。「正常な人間」として擬装することへの欲望、尚且つそうした擬態が「自然な習慣」に見えるほどに堅牢な外殻を獲得することへの欲望、これらの志向性と衝迫は、作家の精神に棲息する頑迷な宿痾のようなものである。だが、それは「正常でありたい」という率直で純潔な欲望とは全く異なっている。彼は正常であることの不可能性に基づいて、寧ろ正常であることの馬鹿馬鹿しさを心の底から痛感した上で、敢えて正常な外観を構築し、その凡庸な仮装を防護服のように身に纏っているのだ。

 大将になりたい! 顕官になりたい! 大発明家になりたい! 大人道主義者になりたい! 大実業家になりたい!……ああ、子供のころのどんな記憶の片隅をさぐってみても、彼はそういうものになりたいと思ったことがなかった。ほかの子供たちのように、車掌や兵隊や消防夫になりたがりもしなかった。誰から見ても世間普通の快活な男の子にすぎなかったが、彼の心は空洞のようで、この世で自分のなりたいと思う姿をすこしでも思い描いてみることがなかった。(『鏡子の家新潮文庫 P94)

 幼時からの根深いニヒリズム、人間的な価値に対する切実で抜き難い無関心、それらの乾燥した冷厳な情緒を赤裸々に押し出して披露すれば、彼は通俗的な社会の渦中で忌まわしい受難と迫害に晒されるだろう。筋金入りのニヒリストが自己の存在を社会的な外圧から防衛する為には、道徳的で通俗的で凡庸な「擬態」の才覚が不可欠である。同時にその擬態の営々たる努力を支える為には、無際限な日常性という観念は深刻な障碍となる。永久的な擬態への努力は、ニヒリストの精神に残虐で堪え難い重圧を科すだろう。予定された破滅と崩壊を信じることによって、ニヒリストは擬態の努力が有限であることを知り、己の精神的な重圧を緩和することが出来る。滅亡が確約されているという認識が、清一郎の内なる虚無と、虚無に基づいた自在な擬態の能力を支える根拠として作用する。こうした処世の方法は、或る意味では清一郎が「虚無」を愛し、その抜き差しならない峻厳な性質を片時も疑っていないことの証明であるとも言える。彼は「虚無」を肯定することで、余人には模倣し難い稀有の闊達な行動力を確保している。彼にとって「虚無」と「破滅」の思想は、彼自身の流暢な実存を構成する重要な礎石なのである。

 清一郎は「虚無」を飼い馴らしているように見える。目的を欠いた暴力的な政治運動(それは遅かれ早かれ「テロリズム」へ発展するだろう)に加盟することを選択した深井峻吉や、高利貸の女との情死に最終的な救済を求めた舟木収と比較しても、清一郎の「虚無」に対する洗練された対処の作法は水際立っている。換言すれば、彼は他の誰よりも強く「破滅」の確実性を信じることによって、結果的に「破滅」への陥落を免かれているのである。それに比べれば、峻吉や収の選択した末路は「虚無」への紛れもない屈服であり、避け難い敗北であったと看做すことが出来る。

 許婚とはふしぎな感情である。清一郎はいろんなやくざな色恋で、所有の予感に慄えたこともあったけれど、それはなお不確定な未来への不安をひそめたもので、こんなに確実な所有の予約をたのしむ気持ではなかった。それはもう確かに彼の手に帰していて、あとは寝室へゆくまでの時間しか残っていない。しかも時間にはなお綽々たる余裕があり、手の中でたわめたり、その重みをたのしんだり、時には忘れていたりすることさえできる時間なのである。彼はこんな類いの時間をかつて持ったことがなかったような気がした。

 しかしこういうことはすべて清一郎の性分に合っていた。彼は不安がきらいだったのである。戦争直後のあの「不安」の時代は、彼の少年期にいやな醜い印象をのこしていた。不安は希望の兄弟で、どちらも思い切り醜い顔をしている、と少年の彼は思った。不安なんぞ決して持つまいと決心した少年は、処刑の朝の死刑囚の心情にあこがれた。絞首台へ上る階段のむこうに確実な死があり、その窓は朝焼けでいっぱいで。(『鏡子の家新潮文庫 P199-P200)

 如何なる種類の「希望」とも「不安」とも縁を切ること、そして「破滅」の確実な到来だけを信じること、こうした清一郎のニヒリズムは、夏雄が語った「知性の人」の特質に相応しい。知性的なニヒリストにとって、確実なのは「破滅」だけに限らない。あらゆる事象が、ニヒリストの眼には絶対的な不動性を備えて映じる。純粋な構造だけが抽出され、解剖学者の冷徹な視線に晒される。換言すれば、確実視された「破滅」という理念によって、あらゆる人間的価値が幻想の弊衣を引き剥がされて、裸形の純然たる構造的現実に還元されてしまう。この瞬間の喜怒哀楽の価値は、確実に到来する「破滅」の絶対的な暴力性の前では、如何なる具体的な役割も持ち得ない。

 清一郎は藤子とたびたび会う毎に、その明るい豊かな顔のむこうに、確実な未来を何の不安もなしに眺めることが、少しもいやではなかった。未来に確実な破滅があり、その前に結婚があるということは、法に叶っていた。不安や誘惑よりも、それは現実の壁をおぼろげに見せ、許嫁の前にいてすら彼をときどき幻想へ運んだ。すべては終末の前のひとときの休止だった。こういう仮構の、決定された時間のなかを歩むたのしみは、清一郎がもし芸術家だったら、とうの昔に知っていたたのしみにちがいない。(『鏡子の家新潮文庫 P200)

 「すべては終末の前のひとときの休止だった」という一文は、清一郎という犀利なニヒリストの選択した実存的様式の本質を簡潔に照らし出している。四囲の世界を、このような「末期の眼」を以て睥睨すること、それが清一郎の身に馴染んだ基本的な作法である。だが、どうして清一郎は「確実な破滅」に対する完璧な信仰を維持し得るのだろうか? 重要なのは、それが既に獲得された認識でも、神秘的な天啓を通じて授けられた宗教的な夢想でもなく、飽く迄も一つの「信仰」であり、あらゆる煩瑣な神学的議論に先立って存在する「公理」(axiom)のようなものであるという点だ。それは生きていく過程で様々な経験を通じて練り上げられた思索の「成果」ではなく、あらゆる思索を成り立たせる根源的な基層である。「確実な破滅」という条件を前提としなければ、そもそも清一郎の生涯は成立しない。清一郎の生涯は「確実な破滅」という公理から半ば自動的に演繹された現象なのである。従って「確実な破滅」への信仰の来歴を探究することは、少なくとも文学的な議論としては有効な営為であるとは言い難い。

 「確実な破滅」を信じるということは、何らかの具体的な行為を通じて「破滅」の到来に働きかけるという意味ではない。寧ろ反対に、彼は「確実な破滅」を信じることで一切の義務や責任を免かれ、運命に対する絶対的な受動性を確保しているのである。彼が俗世間の風習に水のように染み込むことが出来るのも、こうしたニヒリスティックな免罪符の効能を十全に活用しているからである。「確実な破滅」が訪れるならば、殊更に「破滅」の到来を希求したり、促進したりする必要すら生じない。あらゆる行動は任意の選択肢と化し、如何なる大義名分に基づいた積極的な行動も、単なる恣意的な遊戯の同族として扱われることになる。

 刺客とその世界顚覆の幻想。そのふくれ上った使命感。そのヒロイズム。……そういうものは夭折すべきだし、刺客は夭折する筈だ。夭折する理想はみんな醜かった。今では彼はあらゆる種類の革命を蔑んでいた。もし世界の破滅に手を貸すことが必要だとしたら、破滅の確実さはあいまいになり、それは最悪のもの、すなわち不安を醸成するからだ。(『鏡子の家新潮文庫 P201)

 こうした清一郎の考え方は、夭折した兄を「行動の亀鑑」として称讃していた深井峻吉の精神とは対極的な原理を備えている。峻吉はニヒリズムの飢渇を癒やす為に絶えず「行為」を必要としたが、清一郎は「行為」の特権的な価値を毫も認めていない。彼にとって「行為」は、それ自体では如何なる意義も価値も有さない、恣意的な選択肢のカタログに過ぎない。尤も、無価値であるからこそ如何なる「行為」にも没頭することが出来るという奇怪な論理的逆転に、清一郎の生き方の真骨頂が存している事実を忘却してはならない。「行為」に価値を認めないからと言って、清一郎は決して夏雄のように「認識」の審美的な自由へ逼塞しようとは考えないのである。純然たる認識の愉悦に安穏と閉じ籠もって審美的な価値のみを追求する「観賞」の世界は、清一郎の選択した栖ではない。彼はあらゆる価値を軽蔑し、絶えず「確実な破滅」の信仰の裡に暮らすことで、如何なる「素顔」も排除した徹底的な「擬態」の男に化身するのである。

 君にいつも話していた破滅の思想が、社会の裡に、僕を一種の透明人間に変えてしまってから随分久しい。それはその思想の持ち主に何らの責任を強いない思想で、だからこそ僕はその思想と共に透明になってしまえるのだ。社会的地位の向上を目ざす僕の嬉々たる努力には、いつもひどく風変りな自尊心の裏打ちがついていた。それは、このひろい世間に誰一人として、僕のような心境で出世を志している男はないだろうという自尊心だ。人の希望の芽を僕の手が摘んでしまうこと、しかもその希望の無価値を誰よりもよく知っているのは僕であること、こういう自尊心は僕の身を離れたことがない。(『鏡子の家新潮文庫 P383)

 あらゆる人間的価値、あらゆる社会的価値の重要性を蔑視する清一郎の乾燥した合理主義は、彼が如何なる価値も信奉していないという事実にその根拠を有しており、尚且つ彼がそのような乾燥した合理主義を堅持し得るのは、彼が「確実な破滅」という奇態な理念に対する懐疑を自らに向かって厳格に禁じている為である。「確実な破滅」を疑わない、つまり「確実な破滅」を積極的に招来しようと試みる如何なる具体的な行動にも指一本触れぬこと、それが彼の「透明人間」としての万能な超越性を保証する重要で決定的な根拠として作用している。一切の責任を解除され、つまり「責任」という如何にも人間的で社会的な観念に振り回されたり制約されたりする虞のない地点に立脚して、清一郎は「透明人間」としての持ち前を存分に活用し、あらゆる種類の「他人」に擬態することが出来る。換言すれば、彼は「本来の自己」という曖昧な観念に対する信頼を微塵も所有していないのである。

 君は『他人の情念』が好きだし、僕は『他人の希望』が好きだ。どちらも僕たちの犠なのだ。どうして他人への関心が、こうまで僕らにとって重大なのだろう。野蛮人が勇敢な敵手の肉を喰って、その勇気をわがものにしたと信じるように、僕は他人の希望を喰うことで、他人の属性をわがものにしたと信じ込むことができる。ああ、他人こそ、犠であり、かけがえのない実在なのだ。僕は他人が必死にのぞんでいる海外転勤の辞令を手に入れたとき、僕自身が、それを必死にのぞんできた他人になりすましたような喜びを味わった。僕のあらゆる行為の動機はここにあるのだ。実に微妙なペテン……。その上、僕の行住座臥の関心事が、他人の希んでいるようなものを望んでいる人間たることを装うところにあるのは、君も知ってのとおりだ。何もないものをあるように装って、その結果僕の得るものは、別に珍奇なものでも貴重なものでもなく、正に今まで僕が既に『持っている』と装っていたそのものなのだが、しかしこれさえ確実に得たかどうか疑わしい。だから又しても、更に他人の希望が欲しくなり、御承知のように僕は『朴訥で優秀』だから、ますます出世してゆくという寸法だ。(『鏡子の家新潮文庫 P383-P384)

 こうした「他人に擬態すること」への欲望は、作者が自らの出世作である「仮面の告白」においても明瞭に提示していた思想の形態である。自己の内部から湧出する本来的な欲望、半ば本能から自然な仕方で流露し氾濫するプリミティブな衝迫に身を委ねること、それは徹底して「擬態の欲望」に魂を搦め捕られていた三島由紀夫にとっては困難な実存の形式であったのではないかと思われる。彼にとって欲望の焦点は「擬態」にあり、それは知性的な努力と「仮構」への弛まぬ克己的な意志を要求するものであって、無意識的な衝迫に耽溺して押し流されるような生き方の対極に位置する身構えである。そして、そのような意志的努力を根幹に据えた実存の様式を成立させる為には、どうしても自らの存在を「透明人間」に変異させてしまう「破滅の思想」の助力が要るのである。

 僕にはたえず充塡作用が要る。君もそうだ。僕らの心は、いつも破滅を直下に見て、空っぽに掃除されてしまっているから、その時その時の間に合わせのやくざな野心や夢で、何とか充塡して行かねばならない。その間に合せのためには、月並や凡庸というものは、何という尽きせぬ霊感の泉だろう! 『借りものですませる』というのが僕らの簡潔な主義なのだが、借りものはできるだけ劃一的な意匠を持っていなければならない。凝った『借りもの』だの、芸術的な『借りもの』だのに僕らは一顧も与えない。それらは有害だからだ。僕が社会的に優秀なのは、ひとえにこういう衛生学を自ら実行して、何分の一ミリグラムの有害な毒素をさえ身内に残そうとしないからだが、実はこんな無害な衛生的な人間は存在する筈がなく、その存在の秘密こそあの破滅の思想なのだ。(『鏡子の家新潮文庫 P384-P385)

 清一郎が「無害な衛生的な人間」に化身し得るのは、彼が人間の社会に蔓延する諸々の価値を少しも信用せず、それらの最終的な破滅だけを頑迷に信仰しているからである。密かに隠し持った「破滅の思想」の確実性を片時も疑わないことによって、彼の堅牢なニヒリズムは逆説的に社会の要請する諸々の人間的価値との間に幸福な適応の関係を締結する。清一郎は絶えず「充塡作用」を欲しているが、彼は決して大多数の他人のように、絶対的で未来永劫失われることのない頑丈な「充塡作用」を望まない。絶対的で明確な生の根拠或いは目的を望んでしまった瞬間から、彼の秘密裡に抱懐している「破滅の思想」は霧散して、清一郎の「透明人間」としての特殊な超越性の効用は揮発してしまうからである。

 死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。朝焼けのように、世界崩壊の兆候は夜あけ毎にどの窓からもはっきりと目に映るのだ。清一郎には、収も峻吉も夏雄も、こういう事態を前にしながら、個人的な破滅に急いだのが気に入らなかった。個人的な「世界崩壊」ももちろん必至である。人々の肉体的な死も、精神的な死も、そのたび毎に世界を硝子のように粉砕する。かれらは似合う着物を選ぶ。……だがそういう彼自身の確信が、清一郎はきらいだった。彼だけは自分の確信にそむいて生きようと思う。彼だけは決して急がず、あせらず、あの預言的な一般的な世界崩壊、制服のように誰にも似合う包括的な世界崩壊へむかって生きようと思っていた。そのためには彼の金科玉条がある。すなわち他人の人生を生きること。(『鏡子の家新潮文庫 P518)

 煎じ詰めれば、この作品に登場する四人の青年たちは皆一様に、蒼白く燃え盛るような「虚無」の猛毒に抗する方途を探し倦ねて、銘々の末路へ向かって突き進んだのである。峻吉は「思考」を排除し「行為」に専念することで、そもそも「虚無」という巨大な索漠たる曠野から顔を背けようとした。収は他者との絶対的な融合を通じて、自己そのものを滅ぼし抹消して、内在的な「虚無」の成立する基礎的な条件そのものを破壊しようと試みた。神秘主義の泥濘へ陥没する危殆に見舞われた夏雄は、持ち前の審美的な芸術家の特権を活かし、人間的な「意味」の代わりに感性的な「色彩」の論理を用いることで「虚無」の破壊的な毒性の中和に成功した。そして清一郎は「確実な破滅」を信じることで「虚無」の毒性を逆用し、あらゆる人間的価値への不信と軽蔑を逆手に取ることで、世俗の論理と「他人の希望」への完璧な適合を堅持しているのだ。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 

小説「月影」 3

 小学校に上がる少し前から、燈里は夜中に起き出して夢遊病者の如き症状を呈することが多くなった。当時、子供の寝室に充てていた居間の隣の和室から、不自然な物音が漏れてくる。何事かと思って身を硬くすると、瞼の開いていない燈里が寝乱れた黒髪を複雑に丸めたり絡ませたりして、覚束ない足取りで襖を引いて姿を現わす。明らかに意識は覚醒しておらず、その頼りない足取りが何を目指して動いているのかも判然としない。

 最初は寝惚けて用便に立っているだけかと思っていたが、時には症状が昂じて二階へ通じる階段を黙々と攀じ登っていくこともあった。慌てて追いかけて行くと、彼女はベランダの硝子戸を何度も小さな拳で叩いて不満げに肩を怒らせていた。それでも二つの瞼は閉ざされたままで、ただ無限に続く奇態な情熱に導かれ、衝き動かされて、硝子戸の向こうの静まり返った沈鬱な暗闇へ恋い焦がれるように迫っているのである。その小さくて痩せた背中、千々に乱れて縺れ合った無粋な黒髪、月明かりに照らされて浮かび上がる白い足首、或いはそこに翳りを与える夜半の電柱、その黒白の冴え渡った画面が今も時折眼裏に、不意に差し出された紙芝居の一枚のように、焼け爛れた夏の路上に落ちていたフィルムの断片のように、鮮烈な花火となって甦ることがある。記憶だけが弾丸のように時空を遡り、意識が現在の瞬間から俄かに剥離する。

 目醒めてしまえば、彼女は殆ど何も記憶していない場合が過半を占めていた。何かに導かれるように二階へ上がってベランダの彼方の闇に惹かれていたことも、その衝動の由来する淵源も、彼女の意識の内側には明確な痕跡を遺していなかった。彼女はただ、普段よりも強い眠気に苛まれて不機嫌な表情を見せるだけだった。それだけが深更の奇態な行動の残り香であり、彼女の素性の知れない不可思議な変異の傍証であった。

 妻は心配して一度医者に掛かって悪いところがないか調べてもらった方がいいのではないかと言い出し、果たして夢遊病なるものに明確な医学的根拠が存在するとは考え難いと思いながらも、敢えて彼女の不安と一つの提案を遮って弊履の如く投げ捨てる理由もなかったから、我々は近隣に暮らす親戚の者から紹介された或る精神科の開業医の許を訪れて診察を乞うた。彼は日頃の燈里の行状に就いて一通り如何にも腕利きの医者らしい沈着で能面のような面持ちで話を聴き取り、高価な万年筆を指でくるくると回転させて弄びながら、至極あっさりとした口調で「夢遊病というものには、特効薬みたいなものを期待しても仕方ありません。器質的に原因が究明されているものではないですから。向精神薬みたいなものを、こんな年齢の子供に処方するのも考え物ですからね。眼を離さないということ以外に、目下具体的な対策はありませんね」と言い切った。妻は聊か憤激した様子で、帰宅の途次も彼是と精神科医の事務的で冷淡な応対に不満を述べ続けたが、私としては漠然と想定していた範囲内の回答であったので、今後も事故の起きぬように監視するしかないと覚悟を決めた。

 妻は二階の部屋の扉を施錠しようと言い出したが、私は反対した。夢遊病者の演じる行動を無理に妨礙しようと試みた場合、激越な反撃を招いて危険な修羅場を現出させる虞のあることを、以前に何かの本で読み齧っていたのである。未だベランダを攀じ登れるほどの膂力も背丈もない娘であったから、知らぬ間に飛び降りて頭蓋骨を砕くようなことはないだろうと、部分的に楽観することによって、私は余りに過剰で保守的な哨戒の網目で燈里の四囲を包み込むことを回避した。それに、夜中に立ち上がって階段をふらふらと登り、硝子戸越しに天空へ懸かった燃えるような満月の明瞭な輝きへ向かって、殆ど哀しげな調子で手を差し伸べて硝子戸に精一杯の繊弱な衝撃を与え続ける燈里の後姿には、親と雖も侵し難い神聖で清澄な気合がふわりと滲んでいたのである。

 小学校にも未だ上がらない年齢の幼女の奇態な行動に、得体の知れぬ聖性を感じて立ち竦むなどという大仰な言種は、一歩間違えれば恥知らずな父親の迂遠な自慢に聞こえるかも知れない。娘を曖昧模糊たる理由で失った惨めな男が、幸福な過去の生活を顧みて感傷の快楽に溺れる余りに、みっともない大声で歌っているだけだと、世人は嗤笑するかも分からない。だが、幼い子供の脆い横顔には時折、そういう侵し難い聖性のような、凛冽たる気配が俄かに宿るものである。そこには異様に達観した賢者の理智のようなものが、磨き上げられた艶やかな庖丁の腹のように閃いて、大人たちの不躾な土足の闖入を厳しく拒んでいる。彼らは誰にも理解することの出来ない峻厳な秘密を華奢な体躯の内側に折り畳んで丁寧に溜め込んでいる。彼らの真意を、俗っぽい大人たちの使い古された知性はどうしても正しく理解することが出来ない。耳垢の詰まった脂染みた耳孔では、どうしても彼らの秘めた静謐な音律を聴き取ることが出来ない。

小説「月影」 2

 大切なものの価値や有難味や尊さを、人は失ってから初めて悟ると世間は口を酸っぱくして哀しげに、憂鬱な表情で何度も言い募る。如何にも言い古されて手垢に塗れた言葉だが、実際問題、それは揺るぎない真理であろう。燈里が普通に私の手の届く範囲で成長し、日々の生活を営んでいた頃にも、彼女の、つまり娘の尊さを感じていなかった訳ではない。だが、殊更に虚空の酸素へ普段の円滑な呼吸に就いての謝辞を述べることがないように、当たり前に存在するものの価値を、常日頃から絶えず脳裡の中央へ明確に据え続けるのは難事である。

 だが、過ぎてしまえば、その困難に何故当時の自分は挑まなかったのかと、歯咬みしたくなる気持ちもある。過ぎ去ってしまえば、これほど胸が苦しくなり、悔恨が満ち潮のように高まり、どうにかして時計の針を逆さに回して現実の世界を根底から引っ繰り返すことが出来ないものかと無駄な思弁に時間を費やすことになるというのに、出来事の渦中に身を置いている間は、つまり喪失の予感を信頼していない間は、暢気に貴重な時間を暗渠へ投げ捨てて躊躇いも振り返りもしないのだ。現実の渦中に埋もれて齷齪と立ち働いているときは、眼前の現実が絶対的な強度を備えて屹立しているように感じられる。どんな行為も、現実の絶対的な堅牢さを覆し、その進んでいく方向を捻じ曲げられるほどの力を孕んではいないと信じて疑わずに過ごせる。それが根本的な錯覚であることを心から悟る為には、現実の鉄壁が脆くも崩れ去り、隠されていた荒寥たる原野が視界を封じる必要がある。その荒寥たる現実の罅割れるような手触りを学んで初めて、我々は漸く己が度し難い愚物であることに想到する。そのときには万事休す、手遅れだ。終電を逃がした酔客と同じ茫然たる想いと苛立ちと、未来に対する暗澹たる予覚、それらが綯交ぜになって心の内側へ濁った重油の如く降り頻る。

 彼女が地上を去った後、私はあらゆる想い出の切れ端を拾い集めて、脳内のスクリーンへ繰り返し執拗に投影した。それ以外に迫り上がる厖大な虚無の洞々たる暗黒に立ち向かう術は思い浮かばなかった。或いは、それこそが内なる虚無を無際限に膨張させる命懸けの悪手だったのかも知れない。だが、悪手だと悟っても猶、その唯一の道筋から踵を返すことが可能であったかどうかは心許ない。他に私の選び得る道程が存在しただろうか? 燈里の消滅の痕跡を、その実在の痕跡と置き換えようとする涙ぐましい悲惨な試みを、冷め切った沈着な心境で避けて通ることなど出来ただろうか? 不可能な選択肢を夢見ても、息苦しさが一層募るばかりである。私には、他の選択肢は与えられていなかったのだと、たとえそれが精確な事実ではなかったとしても、信じてみたいのだ。

 幼稚園に上がった頃、入園祝いに私は燈里へ数冊の図鑑を買ってやった。分厚く、綺麗な写真や図版が豊富に掲載されている、幼稚園児には少し難解に感じられるかも知れない類の図鑑であった。それでも、細々とルビを振られた文字や記号以上に、圧倒的な存在の輝きを示す数多くの美しく獰猛な図版の類は、幼い燈里の仄白く繊弱な顔つきに重要な影響を確かに及ぼしていた。特に彼女が好んだのは天体や宇宙や気象といった超越的な性質の主題を取り扱った図鑑で、コンピュータの力を借りて美麗に彩色され造型された星々の姿態を夢中で貪るように、白熱した眼差しで眺めていることが度々あった。天体を支配する超越的な法則と摂理の数々、それを暗示する特殊な言葉や数値や記号、それらの織り成す華麗な空中の伽藍、彼女の円らで澄み渡った黒眼はそれらの秘密の物語を取り分け愛した。満月から新月へ移り変わっていく繊細で神秘的な月齢の遷移図、地球と月との間に保たれる漆黒の透明な距離、燈里の幼い知性はそれらの暗号に強い関心を燃え立たせた。それさえ徴候であったと今ならば分かるけれども、当時の私は娘の素朴な好奇心に温かい感情を以て接しているだけだった。そこから未来の根拠を抽出し得る力を、そんな占星術師のような奇蹟的な力を、私は欠片も持ち合わせていなかった。

 夜になれば、彼女は星座を仰ぎ見ることに奇妙な情熱を示した。地方都市の夜空、人工的な建造物が放つ種々の過度に鮮やかな光の矢に穢された夜空には、彼女の望む豪奢な星屑の饗宴を見出すことは酷く難しい。それでも、限られた漆黒の領域に強い光芒を刻む有力な星々の描き出す幾何学的な紋様を、彼女は眠たい瞳を擦りながら懸命に追跡した。あらゆる星の瞬きは、天空の深みから送り届けられた貴重な贈り物のように、燈里の痩せた胸許を、繊弱な心臓を熱く騒めかせた。ベランダに出て、肌寒い夜風から直ぐに風邪を引いてしまう小さな体躯を護る為に上衣を着せかけてやりながら、我々は電線に切り取られ、建物の輪郭に遮られた天空の暗闇を仰いで、様々な光の文字を読んだ。幼い天文学者の少女は、舌足らずの発音で、異国の古人が定めた星々の神話的な名前を繰り返し祈りのように呼んで燥ぎ立てた。