サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「顔」の見えない時代)

*最近、部下の男性社員が同棲していた年下の恋人と別れて、落ち込んでいる。尤も、私と同い年の男だから、子供みたいに陰鬱な雰囲気を職場で醸し出しているという訳ではない。仕事は仕事できちんと取り組んでいる。だが、茫漠たる寂寥や虚無の感情は如何ともし難いだろう。時間が最良の薬であることは言うまでもない。人間の記憶は、それほど耐用年数の長いものではない。大切な記憶を風化させる哀しみが存在することは事実だが、何もかも忘れられないのであれば、人間は未来へ向かって前進する力を失ってしまう。

 恋に落ちるということは、言い換えれば「その人がいないと生きていけないように現実を再構成する」という営為である。恋愛の熱病の症状が悪化すれば、四六時中、恋人のことを考えずにはいられなくなる。逢えない時間が重苦しい懲役のように感じられ、時間と空間を共有していないことが何かの間違いであるように思われる。共に過ごしている時間だけが本来の「正しい時間」であるように感じられ、それ以外の時間は総て副次的な、色褪せた虚無的な時間のように思われる。こうした執着が奇態な情熱であり、必ずしも健全な感情でないことは事実だが、こういう不毛な感情の暴走がなければ、人間の生活は随分と健全で、同時に果てしなく無味乾燥なものになるだろう。

 訣別は、恋人の存在を前提として組み立てられた世界の秩序を書き換える行為であり、かつて恋人の存在が占めていた領域の空白を他の要素で補填していく地道な作業である。時間が経ってしまえば、その空白には新しい恋人の笑顔が象嵌されるかも知れない。趣味や仕事や、その他の様々な事物が割り込んで来るかも知れない。けれども、埋まるまでの時間が途方もなく長く感じられ、永遠に埋められないのではないかという恐怖と絶望と悲観が、我々の前向きな希望を容易に挫いてしまう。

 去っていった恋人の後ろ姿を見凝めることを断念し、徐々に生活が平常に復したとしても、それはそれで、過去の幸福な季節が単なる紛い物に過ぎなかったのではないかという疑念を齎し、美化された過去が復旧した現在の索漠たる性質を浮き彫りにするという成行も、珍しいものではない。そうなると、現在の自分の健全な復旧が単なる美しい過去からの遁走に過ぎないのではないかという考えに拘束されることとなり、一層虚しさが募るようになる。こういう悪循環には、悪魔的な陰湿さが備わっている。

 だが、恋愛が個人的な感情の問題であり、そして人間の感情が極めて移ろい易い繊細な性質を孕んでいる事実を徴すれば、こうした離別の苦しみが不可避的なものであることは明瞭に看取される。恋に落ちることは常に危険な損害の懸念を含んだものであり、永遠を願うことは往々にして不可能な希求である。だが、誰が崩壊の予兆を織り込んで恋に落ちることが出来るだろう。眼前の幸福の遠くない破綻を絶えず意識しながら、恋に落ちるなどということが有り得ようか? 無論、未来のことは誰にも分からない。確実な未来、現在と同等の確実性を帯びた未来、そんなものは幻想の裡にしか存在しない。結婚すれば安心というものでもない。入籍の手続きは発走の号砲であり、確実な未来を証するものではない。

 原理的に言えば、恋愛という感情と無縁で生きること、それが最も賢明だという結論に至る。しかし、恋愛が常に離別の悲嘆、或いは感情の消滅に伴う虚無へ帰結するものだとしても、人間はそれを回避することが出来ない。無論、そうした感情に対する嫌悪は日に日に強まり、それが恋愛や結婚に無関心な人々を増産しつつあることも我々の時代の実相である。

 或る意味では、現代の社会的変化は「恋愛」という行為を純化している。蒸留して、不純物を取り除いていると言ってもいい。性慾ということに関して言えば、各種の風俗産業のみならず、インターネットの向こう側にはあらゆる性的嗜好を充足へ導く刺激的な情報が氾濫している。VRの技術が発展すれば、生身の女性と関係を持たずとも、それに匹敵する肉体的な感覚を味わうことが出来るだろう。或いは生活の問題。二十四時間、食料品を購入することが出来て、豊富な家電が煩雑な家事の負担を軽減する時代にあって、昭和の専業主婦が担っていた家政の業務は実質的に大きくアウトソーシングされている。性愛と家政、これらの要素が外部に委託し得るものであれば、子供を欲しない限り、恋愛や婚姻といった深淵に踏み込まなければならない不可避的な要素は消え去る。

 要約すれば「一人で生きること」が容易な時代になった訳だ。他人と協同しない限り、まともな生活が覚束ない時代であれば、誰もが恋愛や結婚に命を賭けただろう。けれども、他人との関わりが面倒であれば「関わらなくても済む」時代にあって、恋愛というのは酔狂な営為に変貌しつつある。実際、他人と関わることを好まない人間にとって、恋愛の煩雑な過程は鬱陶しいものでしかないだろう。相手の心理を絶えず解読し、適切な気遣いを行なうと共に、自分の要求も示して、変動し易い合意形成の過程に身を置き続けること。「一人で生きること」を選択すれば、そういう煩雑な業務から、少なくとも自身の私生活を遠ざけることは可能である。その涯に「孤独死」という暗鬱な終幕が待ち構えているとしても、どうせ人間、一人で生まれて一人で死ぬのだと嘯けば、とりあえず自分自身の内在的な不安に麻酔を打ち込むことは出来るかも知れない。

 だが、他人と関わる技術を錬磨する過程から身を退いてしまえば、やがて「一人でも生きられる」という認識は「一人でしか生きられない」という認識へ徐々に横滑りしていくことになるだろう。そもそも「一人でも生きられる」というのは狭隘な認識で、そうした生活の条件を成り立たせるのは高度に発達した「分業社会」であり、互いの顔が見えないだけで、寧ろ他者との相互的依存は益々深まりつつあるのだ。厳密に言えば、我々の生活は他者から遠ざけられているのではない。「他者の顔が見えない」という構造的な条件が増幅されているというだけの話である。「顔の見えない時代」を迎えたからと言って、他者と関わる技術や素養の価値が下落する訳ではない。世界的な格差社会の到来は寧ろ、他者と関わる技術、要約すれば「倫理」の重要性を高めているのである。身近な他者との間に倫理的関与を持つ能力さえ欠いた人間が、保護主義の蔓延する「分断の時代」を生き延びることは困難であろう。「公共性」という概念の意義が益々高まることは確実なのだ。共同体的な抑圧の原理からの脱却は、共同体を超越する公共性の原理の構築を明瞭に促している。

自壊する論理とニヒリズム 三島由紀夫「卵」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を読んでいる。

 「卵」と題された短篇は、三島由紀夫の遺した作品の中では、異彩を放つ部類に属していると言えるだろう。こういう表現が適切であるかどうか分からないが、明らかに「卵」は作者の「余技」であり、そこには彼が生涯を費やして執拗な追究を重ねた重要な主題の旋律は反響していない。

 人間という生き物は怖ろしいほど「意味という病」(柄谷行人)に取り憑かれ、浸蝕された存在であるから、馬鹿げたナンセンス(nonsense)に直面しても猶、そこに秘められた暗示的な「意味」を見出そうと本能的に考え込んでしまう。どんな無意味な配列、どんな無意味な出来事の羅列、どんな無意味な悲劇、どんな無意味な偶然にさえ、我々の脳髄は死力を尽くして奇蹟のような物語を、恩寵のような暗喩を探し当てて、その手前勝手な努力の堆積で自分自身を説得してしまう。

 批評家の柄谷行人は『意味という病』(講談社文芸文庫)に収められた「マクベス論」の中で、キリスト教という西欧の重要で根源的な思想的秩序が宿している抜き難いオプティミズムに就いて語っている。地上の出来事の総てを超越的な道徳律と「天国と地獄」の彼岸へ結びつけることで、あらゆる事柄に潜在的な「意味」を見出そうとする西欧の精神が、如何なる理由もなく個人に襲い掛かる不条理な「悲劇」の観念を自動的に排斥してしまうこと、従って西欧において「悲劇」の成立は不可能であること、しかし、シェイクスピアはそうした西欧に固有の条件を反転させて「意味づけることの悲劇」を構築してみせたこと、柄谷行人はこうした主題に就いて明晰な筆鋒を躍動させ、乱舞させている。

 だから作者の三島自身、巻末の解説で次のような註釈を加えておいたのだろう。

『卵』(昭和二八年六月号・群像増刊号)は、かつてただ一人の批評家にも読者にもみとめられたことのない作であるが、ポオのファルスを模したこの珍品は、私の偏愛の対象になっている。学生運動を裁く権力の諷刺と読まれることは自由であるが、私の狙いは諷刺を越えたノンセンスにあって、私の筆はめったにこういう「純粋なばからしさ」の高みにまで達することがない。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 P283)

 「意味」というものは不可解な代物で、若しも我々の認識と思考が外界に対して如何なる「意味」も読み取ることが出来ないのならば、人間の理性という機能が備えている革命的な意義は消滅し、世界は平板で無機質な蠕動へ様変わりするだろう。宗教的なものの衰退は(或いは、その過剰な隆盛は)我々から巨大な「意味の天蓋」を奪い去り、あらゆる出来事を自動的に一つの巨大な物語の枠組みへ回収する、便利だが非常に抑圧的な機構からの解放を地上に齎す。けれども、人間は意味を求めずにはいられない生き物であり、その劇しい精神的飢渇が反動的な衝迫と化して、我々を政治における全体主義や、宗教における原理主義へ向かって駆り立て、束の間の自由を破滅させるのだ。

 「意味の欠如」としてのニヒリズムが、二十世紀の世界において猖獗を極めた重大な精神的疾病であり、それが結果として全体主義原理主義の過激な蔓延を齎したという歴史的事実を教訓とするならば、我々にとって新たな喫緊の課題は、意味と無意味との間を自在に往来する機敏で柔軟な知性の働きを学ぶことに存するだろう。ニヒリズムは単に我々の精神を絶望へ導き入れるばかりでなく、論理の脱臼としての諧謔を分泌する。「卵」のナンセンスな風合いを暗喩的な諷刺へ置換するのは、確かに作者の言う通り「読者の自由」であるが、それは結局のところ、諧謔に対する無理解と盲目を意味するばかりである。作者は壮麗な論理的体系を骨折させる為に、こうした奇態な諧謔を駆使しているのであり、しかし作者の諧謔が遂に彼自身の宿痾と思しき「夭折の論理」を解体するには至らなかったことを考慮すると、私は名状し難い荒寥たる心情に囚われてしまう。三島由紀夫という作家は「無意味」という観念に堪え難い嫌悪を懐いており、そのニヒリスティックな空洞を破壊する為に「夭折」のロマンティシズムを氾濫させるという古式床しき暴挙に及んだ。その善悪を論じるのは無益な話かも知れない。それが三島由紀夫という一個の偉大な文学者の、稀有な宿命であったと結論する以外に途はないのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

強さを褒められることよりも、弱さを赦されることを

①「脆弱性」(vulnerability)の問題

 人間は誰でも多かれ少なかれ孤独に弱く、他者からの愛情や承認に飢え、孤立よりも連帯を愛することの多い生き物である。孤独は、それだけで人間の精神や肉体から、社会性という言葉で指し示されるような類の双方向的な開放性を滅茶苦茶に引き裂いてしまう。だからこそ、我々は時に恐るべき狂態や犯罪を演じてでも、性急な態度で他者へ通じる神秘的で友愛に充ちた「回路」を開拓しようと試みる。例えば痴漢という卑劣で歪んだ犯罪でさえ、その根底には切迫の余り黒々と混濁した「他者」への劇しい欲望が蟠り、煮え滾っているのではないだろうか。たとえ痴漢の犯人が、被害者の女性を純然たる「肉体」としてのみ捕捉しているのだとしても、そこに「他者」への欲望の片鱗さえ認めないという判定は、聊か偏向しているだろう。

 人間は自己への揺るぎない信頼を持ち、自分の人生は好調に推移していると思い込んで疑わないとき、他者を欲する切実な欲望に拘泥することが少ない。何もかも順風満帆で、自分は総てを巧く取り仕切っていると考えられるのならば、他者の情愛に縋る必要は生じないし、堅固な外界を前にして途方に暮れる心配もない。何らかの素晴らしい個人的な夢想や野心に没頭しているとき、彼は他者の存在を失念して、或る幻想的な孤独の内に惑溺していると言える。完全に集中した人間は、他者の存在を要請しない。これは誰にとっても心当たりのある経験的な実感ではないだろうか。

 だが、こうした幻想的な孤独を、つまり充実した孤独を、果たして孤独と呼べるかどうかは分からない。他者を意識しない限り、或る孤立した生存が痛みや渇愛に苦しめられることはない。孤独が独特の寂寥の苦しみを我々に齎すのは、決まって他者の存在が鋭敏に知覚されている場合に限られている。例えば劇しい歯痛に苦しめられ、そのことで意識の全面が占有されているとき、我々は他者を気遣う余裕を失うと同時に、孤独の苦しみを明瞭に感受する余裕すら同時に失っているのではないだろうか?

 他者を求める感情は当然のことながら、他者の存在に対する認識と同期している。他者の存在へ通じる回路の欠如を感じるとき、或いは隔たりを感じるとき、我々は奇怪で深甚な疲労を改善する手立てを、他者の内側に探し求めて彷徨する。或いは自信を喪失し、迷妄に苛まれ、自分自身との明確で宥和的な合一の状態を破られたとき、我々は心細さを覚え、寂寥の感情に打ちのめされて、他者の頼もしく優しい腕に縋りたいという息苦しい欲望を制御し切れなくなる。

 例えば人間が恋に落ちるとき、往々にして「自己」という明確な存在の組成に何らかの齟齬や狂いが生じている。首尾一貫した堅牢な自己、明瞭な描線に従って活動する安定した主体的自己、そうした自画像が何らかの罅割れに見舞われているとき、我々は不安定な感覚に苦しめられ、支えとなる存在を強く欲する。

 人間が本当の意味で他者を信頼し、秘められた内在的な領域の扉を解錠して、相手の存在を、自分自身の存在の最も滑らかで脆弱な領域へ導き入れるとき、紐帯となるものは「弱さ」ではないかと思う。一般的に社会は弱肉強食、優勝劣敗の身も蓋もない原理に支配されて運営されており、弱者は滅び去り、強者が生き残る自然界の素朴な原理を、特に「格差社会」と呼ばれる現代の日本においては、人々は動かし難い現実の絶対的な秩序として、半ば絶望しながら受容しているように見える。社会を構成する枢軸としての「体制」は、優れたものに評価と褒賞を授け、劣ったものに厳しい訓育の措置を講じることによって、社会の全体的な進化と改良を促そうと試みる。優れた業績を上げ、社会の発達に貢献した人間が、然るべき名誉と報酬を受け取るのは少しも奇異な話ではない。だが、或る人間の明瞭な「美質」に向かって捧げられる夥しい喝采は、必ずしも人間同士の強固な紐帯の成立を意味しない。それはもっとパブリックで、厳しい競争原理に晒された、輝かしい栄光である。しかし、栄光によって結び付けられた人間たちの瓦解は、案外に容易なのではないかと思う。

 子供が、学校の勉強で良い成績を取って褒められるのは、社会的な評価であり、実績と行為に対する褒賞である。それは愛情と呼ばれる、あの奇態な情熱と理知の混合された活動とは聊か異質な事象である。愛情は、相手の強さを褒め称えるのみならず、相手の弱さに寛大な愛着を示すものである。相手の欠点が何もかも弾劾されるべき汚らしい罪悪のように感じられるのならば、そこに愛情は存在しない。何故なら、愛情は如何なる峻厳な正義とも無縁の感情であり、あらゆる正義の挫折を包摂する巨大な情熱の異称であるからだ。

 人間が他者の愛情を感じるとき、それは己の強さを褒められたときではなく、己の弱さを赦されたときであると私は思う。勿論、人間には、己を絶えず成長させていく為の努力や錬磨が求められるものであり、従って正義の理念が我々の社会から駆逐されることは有り得ない。高みを求め、努力を積み重ね、相互に切磋琢磨して、誰も切り拓いたことのない世界へ辿り着こうと悪戦苦闘する人間の直向きな眼差しが美しいことは論を俟たない。けれども、そうした角度だけで人間の実相の全貌を捉え切ることは不可能である。人間は強弱のアマルガムであり、誰もが夥しい美質と汚点の複雑な混淆の中で生きている。それは必ずしも「脆弱性」(vulnerability)の中に居直っても構わないという意味合いではない。個々の欠点は徐々に矯正されて然るべきであろう。しかし、強さに向かって束ねられ、積み重ねられた努力の成果は必ずしも脆弱性の全面的な排除と改善を意味するものではないのだ。

 誰もが脆弱な部分を持ち、それを日頃は外界の脅威から隠して、庇うように生きている。その脆弱な部分を悉く鉄筋の入ったコンクリートのように丈夫で無機質なものに作り変えることは出来ない。人間の実存的な本質は常に、その人間の最も脆弱な、内在的な領域と強固に結び付いている。言い換えれば、強さに対する称讃は、最も表層的な栄光なのである。強さの中に、個人の実存的本質が開示されることはない。社会的な仮面の裡に、その輝かしい栄光と名誉の渦中に、その人間の最も脆弱で繊細な本質が塗り込まれていると考えるのは、人間性に関する省察としては浅薄なものである。

 愛することは、相手の強さを褒めることではなく、その弱さを赦すことであり、或いはその繊細な脆弱性に黙って寄り添うことである。丁々発止の論戦が絶えず争われている社会的な戦場の血腥い風景から遠く離れて、何時でも人間の秘められた深層に揺曳している実存的な中核の存在に想いを馳せること。それこそ「慈愛」というものではないだろうか? だからこそ、相手の消極的な「負」の側面に直面した途端に色褪せる愛情とは、恐らく単なる社会的な陶酔であって、そもそも最初から「慈愛」の称号には値しなかったのだ。相手の美しい姿だけを眺めて心を奪われるのならば、それは浮薄な恋心ではあっても、どうせ一過性の華やかで儚い夢想的な麻疹に過ぎない。相手の醜い部分を目の当たりにして、それさえも相手の脆弱性として容認すること、それが「慈愛」という崇高な理性的情熱の最も悲劇的で充実した意義なのではないか。

②「慈愛」と「正義」の厄介な関係

 過日、女性に対する暴力や金銭の横領を週刊誌に暴かれて、急遽芸能界からの引退を発表した「純烈」の友井雄亮氏に関する報道を漫然と徴しながら、配偶者や恋人に対する暴力の孕んでいる奇怪な性質に就いて考えざるを得なかった。本来、配偶者や恋人は「慈愛」の対象であるべきだが、相手の欠点に腹を立てて啀み合うという状況は誰の身の上にも生じ得る凡庸な現象であり、それは両者の関係が、その出発点において相手の「善性」に対する肯定的な感情に由来している為ではないかと思われた。無論、そのこと自体が、つまり相手の美質や長所に惹かれることが蹉跌の種子だと言いたい訳ではない。恋愛であれ、それ以外の関係であれ、人間の人間に対する肯定的評価が、相手の美質に魅惑されることによって、その審判を開始することは至極当然の成行である。

 しかし、関係を構築する過程において、相互的な理解が深まると共に、我々は相手の秘められた暗部の存在に目覚めていくことになる。美質という絶対値が、周囲の環境的与件の変動に基づいて無限に正負の符号を反転させる性質を備えていることは周知の事実である。だから、或る美質に惹かれることと、或る欠点に苛まれることは、同じ現象の異なる側面に過ぎず、何れか一方のみを抽出して取り扱うことは原理的に不可能である。従って、相手の美質に惹かれた瞬間から既に、我々は潜在的な仕方で相手の暗部との接触を命じられているのである。

 友井氏は引退を表明する会見の中で、同棲相手の女性に繰り返し暴力を揮った理由に就いて「自分の弱さ」という表現を用いた。だが、この言い方は的確だろうか? 彼の暴力的行為の根底には「他者の弱さに対する寛容の欠如」という精神的特徴が横たわっているものと推察される。彼は日頃、他人の弱さを侮蔑的に扱っていただろう。他人の脆弱な部分を踏み躙ることは、強い人間に許された当然の権利だと信じていたのかも知れない。だが、社会的な批判を浴びた途端に「自分の弱さ」を持ち出すことで、弱さに対する寛容を慌てて購おうと試みるのは如何にも拙劣な選択であったように思われる。

 だが、問題の構造はそれほど単純な代物ではない。罪を犯すこと、それは確かに人間の脆弱な部分に由来する惨禍である。友井氏は弱者を虐げることで、自ら社会的な弱者の立場に頽落した。弱者を虐げた人間を断罪することは立派な社会的正義である。そのこと自体は疑いを容れない。だが、罪を犯した人間に対する不寛容もまた、一つの弱者に対する虐待には違いない。我々は弱者に対する不寛容という悪徳の、無際限な循環の裡に住まっている。弱者に対する寛容が「慈愛」の本質的な原理であり、機能であることは誰でも弁えている。だが、罪人が罪人であることによって社会的弱者の地位に縛り付けられている事実に対して、寛容の美徳を発揮することの困難さから、我々は眼を背けているのではないだろうか? 我々は忌まわしい悪人が逮捕されたことに拍手喝采を惜しまない。これで社会の平和は恢復されたと安堵する。だが、逮捕された後の、罪人の脆弱性に対する寛容の問題が真剣に論じられることは少ない。だからこそ、日本では死刑廃絶という国際的な潮流に反するように、罪人への厳罰化を望む輿論が根強いのだろう。児童虐待の罪を犯した人間は峻厳な批難を浴びせられ、社会的に抹殺される。子供という最も象徴的な弱者に対する暴力が、我々の良心と正義を高ぶらせることは当然である。或いは性暴力の犯人に対する厳しい断罪の声を徴してみてもいい。女性という弱者(この表現の性差別的なニュアンスに就いては別途論じることにしよう)に対する醜悪な暴力と侮蔑に就いて、社会的な良心が劇しい嫌悪を示すことは健全な進歩であると言える。だが、児童虐待や性暴力の加害者に対する顕著な不寛容は、煎じ詰めれば、虐待の加害者が実践した弱者への不寛容と、構造的には同一ではないだろうか?

 児童虐待の加害者に対する更生支援の取り組みは実際に行なわれている。被害者のケアが何よりも重要であることは火を見るより明らかであるが、同時に加害者の矯正という問題にも取り組まなければ、つまり虐待の加害者の「脆弱性」に対する最低限の寛容が社会的に維持されなければ、こうした虐待の連鎖は決して廃絶されない。子供という弱者を虐待した人間が、社会的正義によって虐待されるという閉塞的な輪廻の状況は、正義という理念の本質的な限界に就いて我々に重要な示唆を与える。正義は慈愛によって補完されなければならない。

 脆弱性の無条件の肯定と容認は、社会の度し難い堕落を喚起するだろう。従って「慈愛」の重要性を提唱することで「正義」の社会的な機能を抑圧するのは賢明な措置ではない。問題は、脆弱性に対する直視である。それは人間の弱さを隠蔽したり反動的な仕方で美化したりする奇怪な慣習の廃絶を意味する。我々は人間の弱さを、毀誉褒貶と無縁の地点から眺めて、沈着な是正を図るしかない。強さの肯定が直ちに弱さの否定に帰結する単純で粗雑な論理から脱却しなければならない。寛容とは短絡的な判断の否定であり、充分な「思慮」を蓄積することの重要性に対する信仰の異称である。言い換えれば、寛容とは理性の働きを重んじることに他ならない。理性の役目は諸々の脆弱性の欠陥を糾弾することではなく、理想的な正義の理念を声高に提唱することでもなく、黙って現実の構造を、つまり「真実」を探究することに集約される。詳さに眺められた真実は、自ずと慈愛の精神を析出するであろう。理性と慈悲を結び付ける場所に辿り着くこと、それこそが涵養された人間性の到達すべき最も崇高な境涯であると私は思う。

硝子越しに眺められた慕情 三島由紀夫「遠乗会」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集である『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を少しずつ繙読する日々を過ごしている。

 戦後に執筆され公刊された「遠乗会」という短篇は、最初期の部類に属する「花ざかりの森」や「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」と異なり、漠然たる散文詩的な文体を逃れて、彫琢された写実的な修辞で綴られた堅固な小説の構成を獲得している。その端正で切り詰められた文体には、緊密な濃度と骨格が備わり、客観的な事実の構図や秩序を丹念に切り取って読者の眼前へ照らし出してみせる、成熟した技倆の風格が備わっている。

 筋書き自体は、短篇小説であるから、それほど煩雑に仕組まれている訳ではないし、意表を衝くような仕掛けが凝らしてある訳でもない。簡素なスケッチの内側に、如何にも三島らしい皮肉な心理的解剖の効果が砂金を混ぜたように燦めいているというだけの話である。我々はその聊か苦みを帯びた平淡な味わいを堪能すれば良いのである。

 まるで誰もが硝子張りの透明な肉体の裡に数多の感情を潜めているかのように、三島の柔軟で機敏な筆鋒は、作中に仮構された人々の複雑な心理の文目を悉く明晰に浮き上がらせてみせる。表向きの仮面と秘められた本音、その本音の更に奥底へ隠匿された誰も気付くことのない深層の情念に至るまで、作者は仮借無い鋭さで総てを白日の下に曝露する。その華麗な筆致は特に、愛慾と恋情に関連する錯雑した心理の織り目を解き明かすときに最も伸びやかな躍動を示す傾向がある(三島の遺した作品の過半が「愛慾」の世界を取り扱っていることに御留意されたい)。

 ほぼ三十年前に彼女は当時大尉であった由利氏の求婚を拒んだ。何の理由もなく、嫌悪もなく、強制もなしに、である。この結婚は、両家の家柄や財産状態を考えても、当人同士の十歳あまりの隔たりを考えても、何ら障害のない、これと謂って非難すべき点のない縁組であった。それにもかかわらず、ほんのちょっとした少女の驕慢が、それを拒ませたのである。障害のなかったこと、二人の結びつきを妨げるべき何ものもなかったこと、他ならぬこれらの好条件が、彼女には自分の自由に対する侮辱のように思われた。別段強いられた縁組ではなかったのに、鋭敏な彼女は危険を全身で感じる兎のように、この整いすぎた好条件の無言の強制力、何ら妨げのないということそのこと自体が彼女を決定してしまうその理不尽な力を予感した。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 P70)

 恋愛の情熱を最も劇しく煽り立てるものが、両者の関係に困難な疎隔を齎す種々の障害であることは言うまでもない。総てが最高の状態で御膳立てされているとき、そこで約束された完璧な幸福は、自ら苦心惨憺の涯に掴み取った幸福のような確かな手応えを有していない。言い換えれば、葛城夫人は恩寵のような「宿命」に対する幼稚で驕慢な叛逆を試みたのである。如何なる愛情も、それが一切の障害や迂路を経由することなく、最初から完璧な状態で提供されている場合、我々はその切実な価値を理解することが出来ない。恋愛が恋愛として成立する為には、隔絶された距離という観念が不可欠なのである。尤も、三島は作品の掉尾で、そのような夫人の類型的なロマンティシズムを嘲弄するような、退屈な現実の断面を的確に挿入し、甘美な情熱的妄想に冷や水を浴びせ掛けることを忘れない。そのシニックな苦みが結果として、砂糖と酒精に塗れた素材の味わいをきりりと引き立てているのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

「性暴力」と「非婚化」の時代

①「性暴力」の排他的原理

 昔に比べて統計的に増えているのかどうか知らないが、最近テレビやネットのニュースを眺めていると、随分と性犯罪に関する報道が頻繁に挙げられているように感じる。セクシャル・ハラスメントに関する社会の認知度は着実に向上しているし、国内外を問わず、性暴力に対する厳罰化の潮流は明瞭に亢進している。そういう世の中の雰囲気の中で、性犯罪に対するジャーナリズムの関心、国家の公安に携わる正義の人々の関心が高まっていることも、性犯罪に関する報道が増大する背景となるだろう。

 幼い娘を抱えていると、そういう性犯罪に関する報道は余計に気懸りなものとなる(無論、性暴力の被害者は女性とは限らず、現に2017年に実施された刑法改正では、女性のみを被害者とする「強姦罪」を廃止して、性別不問の「強制性交等罪」が新たに設けられている)。特に近年、あらゆる悪質な手口、殆ど非人間的とも思える悲惨な性暴力の事例が相次いで世間の上澄みへ出没するようになり、今までは水面下で済崩しに片付けられていた種々の残虐な悲劇も、多くの人々の耳目に触れるようになって、娘が性暴力に巻き込まれるかも知れないという不安を募らせる要素や材料は増殖する一方である。

 昨今の日本社会で発生している様々な潮流を俯瞰的に眺めた上で、それらを互いに結び付けながら、或る一枚の包括的な図面を形作るように考えを進めてみたい。性暴力とは一般に、性的な事柄に関わる「人間関係」の悪意に満ちた犯罪的行為の総称である。つまり、それは人間同士の間で一般的に営まれる性的な合意形成の過程における不適切な事件、或いは事故の産物である。

 例えば昨年、財務省の福田事務次官が女性記者にセクシャル・ハラスメントを行なった廉で更迭されるという事件があった。また、ジャニーズ事務所に所属するヴェテランのタレントである山口達也氏が、職務を介して知り合った未成年の女性を自宅に呼びつけ、性的な接触を強要した嫌疑で書類送検されるという事件も起きた。先程テレビでは、東大病院の医師が電車の中で見知らぬ女子高生をいきなり抱き寄せて躰を触り、被害者の手で駅員に身柄を引き渡されたという報道が流れていた。個々の事例、その詳細な経緯は様々な特性を備えているだろうが、これらの事件に共通して指摘し得るのは「関係性の誤認」であろう。自分と他者との間に如何なる社会的関係が存在しているのか、それを客観的に把握していれば、取材に来た女性のジャーナリストに「手を縛ってもいいか」などと気色の悪い発言を仕掛けたり、酔った勢いで未成年の女性を呼び出して性的接触を強要したり、電車の中で見知らぬ女性をいきなり抱き寄せたりすることの愚かしさと危険性に想到しない筈はない。若しかすると事務次官は、相手の女性記者が件の性的な発言をいわば「冗談」の類として許容してくれると考えていたのかも知れない。山口氏は自分の性的欲望を相手の女子高生が受け容れてくれると考えていたのかも知れない。東大病院の医師が起こした事件は聊か不可解だが、見知らぬ男性にいきなり抱き寄せられることに、女性が如何なる恐怖や不安を覚えるか、それを少しも想像出来ないほどに関係性の認識能力に深刻な障碍を抱えていたのかも知れない。

 こうした問題を論じるに当たって、先ず確認しておかなければならない基礎的な認識は「人間の性慾そのものに善悪は存在しない」という命題である。男女が相互に性的な欲望を懐き、何らかの合意形成の過程を経由して、性的な行為を営むという一連のプロセス自体は、別段倫理的な非難の対象を享けるべき事柄ではない。性欲を懐くこと、性的な行為に及ぶこと自体が非道な罪悪であるならば、人類はとっくの昔に滅亡しているし、総ての既婚者、総ての人の親は軒並み犯罪者として逮捕されねばならない。

 問題は、相互の合意形成の過程を省略した上で行われる総ての性的行為である。社会的な権力を笠に着て行われるハラスメント、暴力や脅迫によって相手の自由を奪った上で行なわれるレイプ、或いは薬品などで相手の意識を物理的に崩壊させた上で実行される性暴力などは、相手の合意を前提とせず、専ら自己の性的欲望を充足することのみに専心しているという点で、許し難い犯罪性を濃密に帯びている。

 東京大学千葉大学慶應大学などで相次いで発覚した、大学生による集団強姦の事件においては、アルコールなどの力を借りて被害者の女性を無抵抗な状態に追い込んだ上で、言い換えれば女性の存在を単なる「物体」へ還元した上で、相手の主体的な判断や意志や自由を破壊した上で、性暴力に及んでいる。こうした事例においては、最早犯罪の主体は、性的行為における合意形成の意義などという御題目を聊かも信じておらず、寧ろ積極的に蹂躙し、冒瀆していると言える。そこでは昔から擦り切れるほど言い古されてきた議論、つまり「愛情と性慾はイコールなのか?」という議論の構図が介入する余地すら残されていない。彼らは性的行為に「愛情」に類する観念が必要であるという認識さえ持ち合わせていない。無論、愛情と性慾は必ずしもイコールではないだろう(「性慾を伴わない愛情」という観念を否定することは、様々な社会的事例を徴する限り困難である)。だが、愛情を伴わないとしても、最低限、相手の嫌がることはしない、といった基礎的な社会的通念に対する服従は必要である。そうした通念さえも平然と踏み躙り、相手の人格に堪え難い損失と傷痍を与えるのは、唾棄すべき犯罪である。

 これらの性暴力の事例を総括して言えるのは、ここに「他者への敬意」という最低限の社会的倫理が絶望的なまでに欠如しているという事実である。自己の性的充足の為ならば、権力や薬品を用いて相手の自由な主体性を毀損しても一向に差し支えない、という邪悪な認識が存在しなければ、これらの野蛮な犯罪は惹起されない。そして、これらの根深い問題は既に、性犯罪に限らず、社会の様々な領域へ堰を切って氾濫し、広がり続けているのである。

 私は異性愛者の男性なので、性的な欲望を懐く相手は常に女性である。私は純然たる性欲の充足のみを理由として、女性と関係を持とうとした経験はないが(尤も、その時々の局面で、相手が私に対して如何なる感情を有していたかは分からない。遡って確かめることも困難である)、性慾であれ愛情であれ、性的な合意形成を構築する為には、相手の思考や感情に対する綿密な観察と本質的な理解を積み重ねることが必須である。一般的に言われる「恋愛」のプロセスとは専ら、こうした合意形成の過程を指すのであり、性交そのものは最終的に辿り着く「関係性の踊り場」のようなものに過ぎない。もっと俗っぽい言い方を使えば、どうやって相手の自由を損ねずに「口説く」ことが出来るか、相手の承認を得る為に如何なる言行を選択すべきか、どうすれば相手の存在の「本質的なコア」に適切な理解力を届かせ、相手の存在を愛によって包摂することが出来るか、相手の欲望は何に向かって捧げられているのかを如何にして把握するか、という諸々の煩雑な手続きの総体が「人を愛する」という不可解で難解な営為の内訳なのである。諸々の性犯罪において、こうした煩雑なプロセスは概ね完全に省略され、黙殺されている。そうした煩雑なプロセスを省略して、性的な欲望の充足のみを達成しようと焦躁に駆られる余り、性犯罪の主体たちは権力や暴力などの一方的な手段を駆使し、結果として被害者の存在を単なる「物体」に還元してしまう。非対称的な関係性を構築することで、合意形成の過程を破壊し、抹消すること、これこそが「性暴力」という犯罪を構成する最も邪悪で本質的な要件なのである。

②「非婚化」の排他的原理

 日本では「少子高齢化」と「未婚率の上昇」が社会的問題として声高に指摘されるようになって久しい(内閣府の統計は、2016年の婚姻件数、婚姻率が共に「過去最低」の数値を記録したことを告げている)。結婚して子供を持つことが、成人の基本的なライフコース(或いは「絶対的な」?)として認知されていた時代は既に過ぎ去り、結婚も出産も個人の自由な裁量に委ねられるべき問題として再定義されている。

 「未婚」という言葉には「未だ結婚していない=いずれ結婚すべきだがしていない」という「不本意」の含意が知らぬ間に滲んでくるように思われるので、本稿では敢えて「非婚」という言葉を使いたい(同時に、この用語は「未婚」のみならず「離婚」も含意している)。

 個人主義の抬頭は、時々共同体主義への不可避的な揺り戻しを伴いながらも、着実に我々の暮らす社会の基本的な潮流として、その存在感と威信を高め続けてきた。女性の社会進出、生産年齢人口の減少といった社会的な趨勢もまた、現時点では押し戻すことの不可能な「宿命」として我々の身辺に圧し掛かり、降り注いでいる。

 女性の社会進出が堅調な伸張を示し、男性に対する経済的依存の構図が薄まってきたことで、結婚の有している社会保障的な性質への需要が衰微しつつあることは事実である(その背景に、男性の経済力そのものの低下という潮流が関与している事実も看過してはならないが)。結婚している世帯に就いても共稼ぎは最早巷間の常識であり、特に子供を持たない家庭では、結婚の社会保障的な性質は限りなく弱体化しているように思われる。

 このように、結婚という制度自体が社会の変化によって従来の意義や価値を動揺させられていることは事実である。しかし、赤の他人同士が極めて親密な相互扶助や協同の関係性を築くということ自体は、婚姻という制度の本質である「生殖=類的再生産」の機能を除外して考えたとしても、決して無益な事柄ではない。門地、性別、子供の有無などの様々な要件に左右されず、他人同士が或る強固な紐帯に基づいて支え合いながら生きるという意味では、結婚という制度の持っている効能は未だ死滅していない。同性婚が認められていなかったり、選択的夫婦別姓の制度が導入されていなかったり、歴史的環境の変容に応じた改訂が不充分であることは事実であるとしても、それが直ちに婚姻という社会的枠組みの絶望的な機能不全を意味することはない。「異性愛=生殖」という基礎的な構図に拘束されない新たな「婚姻」の制度を設計することが急務だとしても、それが旧来の古びた枠組みを問答無用で廃棄すべきであるという極論に帰結する必然性は存在しない。

 それでも、世の中の主要な潮流が「未婚及び離婚」の総計としての「非婚化」を志向していることは、疑いを容れぬ確かな事実であるように思われる。赤の他人と親密な関係を構築する為の煩瑣な努力に対する嫌悪が、現代の日本における普遍的な「トーン」(tone)として浸潤しつつあるからである。

 結婚を「人生の墓場」に譬える言種は、昔から言い古されてきたものである。「結婚をしたら片目を閉じよ」という言葉を遺したイギリスの神学者もいると聞く。大金を投じて華燭の典を盛大に挙行した刹那には、薔薇色の理想郷と思われた結婚生活も、時が経つに連れて夥しい不協和音を伴うようになる。初心を忘れ、相手の魅力に飽き、思い遣りや気遣いを忘れ、寧ろ相手の欠点ばかりが目立つようになる。喧嘩が増え、憎しみが募り、愛情は掠れていく。こうした凡庸な情景を指して「人生の墓場」と称する心情は、理解し難いものではない。

 だが、結婚しなければ「墓場」から逃げられるのか、という重要な問題に、明敏な回答を示せる者は数多くないだろう。確かに結婚しなければ、我々は赤の他人と四六時中一つ屋根の下で起居する苦しみを免かれることが出来る。同居する者の都合に応じて自分の生活の秩序を規制する義務からも解き放たれる。絶えず自己の欲望を優先し、他者の欲望を顧慮せず、手許の経済的な資源を好き放題に独占することが出来る。それは結婚して妻子と暮らす草臥れた男の眼から眺めれば、天国のような話だ。或いは、家事と育児に忙殺されて、録画したドラマや特番を見る僅かな時間さえ捻出出来ずにストレスを溜めている私の妻の眼にも、華やかな極楽浄土として映じるかも知れない。少なくともそこには、純粋無垢なエゴイズムの塊である二歳の娘がいない。どう前向きに考えても、育児とは自己犠牲の営為である。結婚して子供を儲けなければ、最低でも二十年以上に亘って持続すると想定される苛烈な自己犠牲の境涯を回避することが出来る。

 そのような負担も、それが自分の人生を人並みの水準に成り立たせる為の不可欠な選択肢であるならば、黙って忍ぶことも多いだろう。例えば昔は(今でも多少はそうかも知れないが)未婚の人間は半人前と看做されたり、離婚して戸籍が穢れた人間は出世の可能性を閉ざされたりという暗黙裡の不文律が罷り通っていたと聞く。無論、実際に人事部の人間や会社の幹部が配置表を眺めながら「独身の奴は半人前だから重要な職務は与えられないな」などと密談している光景を目の当たりにした経験はないので、或いは単なる都市伝説である可能性も否定出来ない。ただ実際の経験として、私が離婚したとき、当時の上司に一晩居酒屋で話を聞いてもらったのだが、彼は離婚歴がキャリアに響く会社じゃなくて良かったな、これが銀行とかだったら離婚した途端に昇進の途はなくなるからなと言った。そういうものなのかと、新鮮というか、意外な気持で受け止めたことを記憶している。

 結婚しないことが、社会的な不利益に直結するのならば、生き延びる為に不本意な縁談でも受け容れようという発想が支配的になるかも知れないが、未婚者が増え、離婚件数が増大し続ければ、そういう社会的な通念の側に徐々に地殻変動が生じることは避け難い。そうして社会からの同調圧力が弱まれば一層、未婚率は上がり、離婚件数は爆発的に膨張するだろう。

 結婚することの是非を論じても仕方ない。あらゆる世の中の出来事がそうであるように、物事には必ず光と影があり、器用に明るい側面だけを掬い取ることは出来ない。結婚という選択肢が様々な負担を、つまり他者との密接な共同性を構築することの負担を強いることは厳然たる事実である。そうした負担を嫌がって、或いはそうした共同性の構築の努力に失敗して、結婚という選択肢を拒絶したり、迅速な離婚へ踏み切ったりする傾向が強まっており、尚且つそれらの傾向を容認する社会的風土が醸成されつつあることもまた事実ではないかと私は感じる。共同性に対する奉仕、これは夫婦に限らず様々な社会的次元で重要視されている倫理的な規矩であるが、無論、歴史的な潮流は「個人の主体的選択」の尊重という方向へ流れ続けており、従って共同性に対する奉仕の美徳は、徐々に衰弱し没落しつつあると言えるだろう。

 「個人の主体的選択」の尊重という方向性を、その弊害を理由に禁圧すれば、我々は二十世紀に吹き荒れたファシズムの猛威を再び呼び戻し、地獄の扉を開いて復活させることになるだろう。如何なる弊害が生じようとも、個人の自己決定に関する権利を縮減する方針は抑制されねばならない。だが、そうした自己決定の原理が、共同性に対する疎隔を否が応でも招き寄せ、結果として他者との合意形成という最も核心的な社会的能力の劣化を惹起するのだとすれば、我々は自己決定の原理の重要性を御題目のように信じ切って唱えるばかりではいられなくなるだろう。

 非婚化が、結婚に関する私たちの自己決定の権利の所産であるのならば、それ自体は類的な退嬰であるとは言えない。人間は誰でも、自己の意志に反してでも結婚して家庭生活を営まなければならないという厳格な共同体的要請への隷属から、個人が解放されるのは望ましい変革である。だが、自己決定の権利が、他者との社会的関係の構築を劣化させるという現実に留意しない訳にはいかない。我々は日々、刻々と強烈なエゴイストに変貌しつつある。寛容という美徳は打ち捨てられ、譲歩や妥協は軽蔑され、他者への配慮は自己への配慮によって駆逐される。それは自己決定の原理が本来内包していた豊饒で積極的な可能性を扼殺する帰結でしかない。

 性暴力と非婚化との間に直接的な関連を見出し得る根拠は存在しない。だが、これら二つの事象を培養する土壌として「自己決定の原理」に淵源を有する「他者との社会的関係の構築能力の劣化」が関与しているのではないかという仮説を立案することは可能である。性暴力に踏み切る人々は、他者との合意形成の過程を蹂躙した上で、一足飛びに自己の要求だけを貫き通そうと試みる。非婚化の傾向は、そのような犯罪的性向とは全く無関係であるが、他者との合意形成の煩瑣な過程に対する絶望を含んでいる。何れの場合にも、他者との合意形成という重要な社会的過程の弱体化という徴候が隠見している。

 頗る雑駁な言い方を用いるならば、我々は「他人との付き合い方」が日に日に下手糞になっているのである。自分と異質な考え方の人間に対する凄まじい不寛容と誹謗が、インターネットの世界に氾濫していることは既に周知の事実であろう。こうした傾向の極限に、他者という存在そのものを理解出来ず、他者と物体との区別が不可能であるような精神的構造が誕生することは恐らく確実である。薬品を用いて意識を奪った女性を集団で強姦し、剰え面白がってスマートフォンで撮影するなどという鬼畜の所業は、単なるエゴイズムの発露という解釈を超過している。自分と異質な存在を受け容れられないという偏狭なセクショナリズム(sectionalism)の蔓延は、例えば世界的な保守派の抬頭(その筆頭はドナルド・トランプであろう)によっても象徴的に示されている。自分と自分の同胞以外は総て意志も主体性も持たない「物体」に過ぎないと看做すサディスティックな精神の脅威、これが現代の世界を包囲する最も危険な疾病であることを閑却してはならないだろう。

Cahier(「平成」の終焉・新年のささやかな抱負・寛容と排斥)

*平成最後の正月が来た。四月一日に新しい元号が公表され、五月一日に新しい天皇陛下即位の礼が行われる。世の中には「平成最後の」という枕詞が濫れ返り、私自身も小売業の現場に身を置いているから、尻馬に便乗して「平成最後のクリスマス」などと叫んで呼び込みに活かした。テレビやネットでは「平成の三十年間」を回顧する番組や記事が囂しい。誰しも時代の大きな転換点が間近に迫ったような顔つきで、寒さの厳しい街路を行き交っている。

 元号など単なる社会的な約束事に過ぎないじゃないか、「平成」の取り外された後の空欄に如何なる文字が代入されようと、我々の日々の生活は何も変化しない、と言い張るのは容易である。節目など、そこにあると思えばあるし、ないと思えばない。全く以て人工的な符号に過ぎないと言えば、確かにその通りである。けれども、そんなものはフィクションに過ぎないと尤もらしい正論を大上段に振り翳したところで、少しも救済されないのが人間の心根というものではないだろうか。正論は切れ味が鋭く、それが乱れた麻を斬り裂いて秩序を呼び戻す光景には爽快な歓びがある。だが、正論ほど退屈なものは他に考えられない。人間はいつか死ぬ、という命題は頗る正論であろう。歴史と科学が、死の不可避性を立証している。だが、そんな当たり前の真実を声高に訴えたところで、我々の人生が致命的な変貌を遂げる見込みは乏しいし、そこから絢爛たる未来が切り拓かれる訳でもない。寧ろ「どうにかして死なずにいられないか」という滑稽な野心の方に人間は魅惑されるものではないか。無論、滑稽な野心だけを珍重するのも片手落ちで、世の中の他方には秋霜烈日の正義の光が降り注いでいなければならないと思う。その両義的な性質が大事なのだと、手垢に塗れた言葉を口ずさんでみる。

*私は最近専ら三島由紀夫に関する読書ノートばかりをブログに書いている。それはそれとして様々な発見があって面白い。何らかの個人的な計画を、誰の為にもならずに黙々と推進していることの手応えは、自分の生活の枢軸を定めるような効果を備えている。だが、今年はもう少し、訳の分からないテーマで、訳の分からない文章をもっと沢山書いていきたいとも思っている。もっと個人的で、曖昧で、結論の不明確な、思索の断片のような、つまり製品ではなく下拵えした原材料のような水準の文章を殖やしたいと思うのだ。

 例えば先ほど口走った「両義性」という言葉は、堅苦しい表現を用いれば「正義の複数性」という具合に置き換えられるだろう。こんな曖昧なテーマを暇に飽かして延々と考えてみるのも一興だろうと思う。そういう個人的な遊戯のような書き物に、ブログという形態は極めて馴染み易いのではないか。

 正義が複数であることを手放しに称讃するのは、普通に考えられているほど困難ではない。正義が複数的であること、こうした認識に基づいた相対主義の御旗を奉じることは、現代の世界では寧ろ凡庸な所作なのだ。一般論としての「正義の複数性」を論じることは、半ば社会的なオートメーションの対象である。誰でも自動的に「わたしとあなたの正義は互いに異なる」という言明を明示することが出来る。

 「わたしとあなたの正義は互いに異なる」という言明は、或る集団や組織を統括する立場の人間からすれば、鬱陶しく不真面目な教条に感じられるかも知れない。足並みを揃えて同じ方向へ歩くこと、或る信念を共有すること、それが重んじられる場所では、正義の複数性という考え方は目障りである。それは「足並みを揃える」という目的或いは手法に対する抵抗を含むからである。

 こうした「寛容と排斥」の実際的な問題は、滑らかな発音で表明される「両義性」という観念とは遠く隔たった場所で難解な蜷局を巻いている。あらゆる場所で、学校で、職場で、駅で、店舗で、路傍で、私たちは生温かい寛容と手厳しい排斥との間で揺れ動いている。身内、親密な人間に対して寛容に振舞うとき、私たちは或る微温的な自己満足の裡に佇んで快適に感じているだろう。自分が公明正大な人間であるかのように感じるかも知れない。けれど、それは当人の不寛容で排他的な性質の欠如を証明する根拠にはならない。私たちは総ての人類に対して宥和的で寛容であるべきだろうか? 正義が常に複数形であることを根拠として、私たちは絶えず他者に対して寛容な自分を堅持すべきだろうか? 厳密に考えれば、単一の正義を認めないという寛容の論理は、それ自体が、単一の正義を信奉する人々にとっては容認し難い暴力的な理念として映じるだろう。正義の複数性という崇高で美しい理念が、ただ存在するだけで、正義の単一性を奉じる人々の信念を包摂し得ないという問題は、そう簡単に解けはしない。

 矛盾を肯定しろという言明は、矛盾を忌み嫌う人々にとっては暴力的で野蛮な命令である。我々は矛盾を肯定することなど出来ず、ただそれを見凝めるだけである。その意味では、我々の存在は数多の矛盾を抱え込んでいるという退屈な正論だけが、生きることの支えになるのだろうか。或いは、矛盾こそ「魅惑」の源泉ではないだろうか。我々は矛盾に滑稽な魅惑を感じて手を叩いて満ち足りた猿のように笑う。誰かに恋するときも、我々は相手の表向きの性格と垣間見える秘められた側面との矛盾に眼を奪われる。人間的な魅力とは「矛盾」の異称ではないか? 最初から最後まで筋の通った究極のフェアネスは、最高に美しく、そして最高に退屈なのではないか? 私は正義を愛しながら悪事を働く。その矛盾に身動きが取れなくなるのも、人生の醍醐味であろうか?

箴言の螺鈿 三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」

 引き続き、三島由紀夫の自選短篇集である『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)を繙読している。

 「花ざかりの森」に加えて、三島の遺した作品の中では最初期の部類に属する、この「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」という奇怪な表題の小品もまた、或る文章の纏まった列なりが具体的で堅牢な骨格を携えるには未だ至らない段階の、つまり「小説」と称するには聊か断片的であり過ぎるように思われる段階の習作である。芸術的な風貌を身に纏った文章の列なりが、或る独立した作品としての輪郭と結構を伴って離陸する為には、恐らく何らかの論理的な体系による補助が欠かせない。その意味では、これらの短い作品は後年の文豪の肖像を薄らと想起させる文学的な「原質」であると看做して差し支えないのではないかと思われる。或る雑多な原材料を完成された商品或いは製品として自立させる為には、明瞭な設計図や考え抜かれた綿密な工程表、それらを実現する為の具体的な技術力を獲得せねばならない。だが、十八歳の少年が誰でも天稟の芸術的才覚に恵まれ、豊饒な感受性と堅固な技倆との幸福な婚姻を保持しているとは限らない。

 この短篇集の巻末に附せられた作者自身による行き届いた解説は、凡百の批評家を雇うよりも遥かに効率的且つ合理的に、収められた作品の文学的系譜の背景を明瞭に開示してみせている。

 このことは、私のものの考え方が、アフォリズム型から、体系的思考型へ、徐々に移行したことと関係があると思われる。一つの考えを作中で述べるのに、私はゆっくりゆっくり、手間をかけて納得させることが好きになって来て、寸鉄的物言いを避けるようになった。思想の円熟というときこえがよいが、せっかちだが迅速軽捷じんそくけいしょう聯想れんそう作用が、年齢と共に衰えるにいたったことと照応している。私はいわば軽騎兵から重騎兵へ装備を改めたのである。(『花ざかりの森・憂国新潮文庫 P281)

 本人の証言する通り、十代の三島が戦時下の青春時代の過程で書き遺した「花ざかりの森」や「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」には、綿密に練り上げられ敷衍された論理の壮大な伽藍の代わりに、次々と目紛しく主観的に移り変わっていく映像の敏速な聯関が隅々まで華美な絨毯のように敷き詰められている。その背景に作者の文学的技倆の未成熟が一因として関与していることは恐らく事実の一端であるが、同時に少年期の三島が「戦時下」という「滅亡」を予告された時代の渦中に生きていた事実を看過してはならない。論理というものは常に時間的な発展と消長の過程の中で編み出され、生滅変化していくものだが、戦時下という歴史的条件はそもそも「未来の消失」という奇態なニヒリズムを醸成する要因として機能する。未来を奪われ、時間の推移を予め堰き止められた状態で暮らす人間に、時間的な枠組みの中で発達する「論理」への欲望を見出すことは困難であろう。彼の豊饒な「聯想作用」の氾濫は、そうした歴史的与件の齎した閉塞的情況のいわば「陽画」なのである。彼は自己の内面の裡に幽閉され、未来を夢見るとしても、そこに具体的な現実の裏付けを求める必要がない。

 螺鈿の如く豊富に隙間なく鏤められた数多の箴言は、動かし難い現実の深層へ錐を揉み込むように食い入っていく論理的な探究の意志とは無関係である。彼は動かし難い現実の表面で、優雅な舞踏に明け暮れるしかない。何故なら、彼は未来を奪われているのだから。従って、彼の文学的な悪戦苦闘が正念場を迎えるには、敗戦という衝撃的で決定的な「断絶」の到来を待つ他ないのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)