サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

My Record of Reading about “HARRY POTTER and the Order of the Phoenix” 1

 英語学習の一環として取り組んでいる J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Order of the Phoenix について、未だ読了には至らないが感想の断片を書き遺しておきたいと思う。
 英文のペーパーバックで概ね800頁に及ぶ本書は、シリーズ全篇を通じて最大の分量を誇っている。今年の一月下旬に注文したiPadが四月下旬に漸く入荷し、念願の購入に至ったので、最近はKindleの簡便な辞書機能に頼りながら、果てしない繙読の旅路を辿っている。私の錯覚に過ぎないかも知れないが、巻数を追う毎に英文の難易度が徐々に上昇しているような印象を受ける。それは物語そのものの内容が、着実にシリアスで酷薄な、もっと言えば陰鬱な様相を強めていることと無縁ではないように思われる。主人公であるハリー・ポッター自身の学齢の上昇に比例して、彼が直面する課題の苛烈さは深刻の度合いを増しており、闇の勢力の首班であるロード・ヴォルデモートの肉体を伴った復権が、物語の全篇に亘って陰惨で不穏な雰囲気を浸潤させている。
 私の繙読の現在地は、ホグワーツの生徒有志によって秘密裡にDumbledore's Armyが結成された辺りである。この私的な盟約の成立に至った背景には、闇の勢力を率いるヴォルデモートの復活と暗躍という事実を承認しない魔法省の弾圧的政策が関与している。魔法省のトップであるコーネリウス・ファッジは、ダンブルドアを政敵と見做し、自らの地位と権威が脅かされることを怖れて、ホグワーツへの干渉を強める。ヴォルデモートの復活という事実の隠蔽に奔走するファッジの保身的で非合理的な政策が、ハリーを首魁に仰ぐ私兵の軍団を生み出す引鉄の役目を担ったのである。本来ならば互いに手を携えて、年来の宿敵であるヴォルデモートの復権を阻止する為に共闘すべき間柄であるファッジとダンブルドアとの間に生じた思わぬ分断が、前作の HARRY POTTER and the Goblet of Fire で実際にヴォルデモートの肉体的復活の瞬間の目撃者となったハリーの立場を極めて苛酷なものに仕立て上げている。魔法省は有力な新聞社である Daily Prophet を通じて、ヴォルデモートの復活を公言するダンブルドアとハリーの信用を失墜させる為の卑劣な言論攻撃を展開すると共に、アンブリッジをホグワーツへ送り込んで魔法省の方針に反する活動の弾圧を画策する。
 少なくとも私の繙読が済んだ限りの範囲においては、作者が主に力を篭めて克明に描き出しているのは「権力」というものの頽廃的な性質と、その醜悪な病弊である。例えば魔法省によるハリーの尋問の場面などは、現実の社会における検察組織の国策捜査別件逮捕を連想させる。緊迫した法廷闘争の描写を通じて作者は、強大な権力を掌握した人間が、社会的正義の名の下に極めて恣意的な判断を下し、真実を歪曲し、客観的公益よりも寧ろ私的な利益を優先して振る舞うことの醜さを、読者の鼻先に突きつけている。仮に作者がダンブルドアとファッジとの揺るぎない結束を前提として物語を書き進めていたとしたら、本書が800頁に及ぶ分量を要求することはなかっただろう。けれども、その場合にこの物語が失うであろう奥行きと密度は膨大な水準に達すると想像される。万人が巨悪と認める存在との闘争は、もっと単純な形で描くことが出来る主題であるが、作者の現実的精神は、そのような空疎な神話を、簡明な英雄譚を愛さなかったのだろう。ハリー・ポッターの物語は主として十歳前後の少年少女を読者として想定しているらしいが、作者自身は、この物語を無垢な子供たちに奉仕する御伽噺の範疇に閉じ込めておく意志を持たなかったに違いない。物語の外観が「魔法」という幻想的な扮装を纏っていることは事実だが、それは作者が、年少の読者も含めて、我々が現に暮らしている社会の真実に無関心であることを聊かも意味しない。疑いようのない現実を軽視し、矛盾に満ちた政策を濫発する権力者への不信や、社会的分断の深刻化、格差の拡大、謂れなき誹謗中傷と差別は、特に昨今の新型コロナウイルスの流行によって一層克明な仕方で、我々の日常生活の随所に浮かび上がり、既定の事実として認識されている。無論、芸術的作品が時事的な問題との間に明確な相関性を備える義務は存在せず、そもそも本書が刊行されたのは今から二十年近くも前のことである。ただ、優れた芸術家は現実の渦中で生起する色々な出来事から、夥しい材料を吸収し、その重要な本質に明快な形象を賦与する。それゆえに我々は、虚構の物語を通じて、身も蓋もない現実の生々しい感触に共振することが出来る。魔法の扮装は、苦々しい真理を幼い患者に服用させる為の糖衣のようなものである。そして、成熟した大人には子供騙しの糖衣など不要であると、心から断言することは必ずしも容易な仕業ではない。ハリーが直面する種々の困難は何れも、成熟した人間でさえ深刻な苦闘と挫折を強いられかねない、人類の普遍的懊悩の一種なのである。

Harry Potter and the Order of the Phoenix (Harry Potter 5)

Harry Potter and the Order of the Phoenix (Harry Potter 5)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

Cahier(A Significant Difference between Ruin and Decay of Yukio Mishima)

*自分自身が徐々に年齢を重ねて、まだ致命傷には至らずとも、肉体の随所に色々な不具合、或いはその予兆のようなものを感じる機会が増えてくると、否が応でも「若さ」というものの価値を考えずにはいられない。これは誰もが経験する不可避の通り道であり、重要な岐路であって、生まれてから当面の間は、右肩上がりの眩い成長を何の疑問も持たずに受け入れ、その奔流に呑まれながら漂うのだが、或る時点から、そういう無条件の発展や、無尽蔵の活力の蕩尽、無思慮と情熱だけを糧に行動し、多少の負荷ならば平然と踏み躙ってしまえる、あの比類のない異様な生命力のようなものが、確実に目減りしつつあることに早晩気付かされる。少なくとも一定の良識的な知性と自己認識があるならば、その変化は確実に感知されることになる。成長と回復の輝かしい軌跡が重大な分水嶺を知らぬ間に幾つも踏み越え、不可逆的な衰弱の兆候が様々な局面で露わになる。それは普遍の生物学的宿命であり、人類に属する全ての個体が今まで一度たりとも免れることの出来なかった絶対的な、悲劇的な末路である。従って、それ自体を不幸だと言い募るのは傲慢な嘆きに過ぎないかも知れない。けれど、例えば仏陀は人間の根源的不幸と痛苦を表す「四苦」という概念を「生老病死」の四つで構成した。つまり、老いることは紛れもない人類的不幸なのである(尤も、生まれること、生きること自体が既に「苦」の源泉であると仏陀は喝破しているのだから、老醜のみを殊更に強調する必要も必然性も存在しない)。

三島由紀夫の遺した作品には、老醜に対する忌避と、美しい夭折への憧憬が繰り返し刻まれ、入念に彫り込まれている。この異様なオブセッションは、何を意味するだろうか。一般に老いることへの恐怖は、来るべき滅びの予感に対する絶望的不安と密接に結び付いている。避け難い滅亡への恐怖心が、老齢の境遇に対する否み難い嫌悪と怨嗟を醸成する。けれども、三島の場合、老醜への恐怖は、直接的に死や滅亡の恐怖と短絡する情念の働きではない。例えば代表作「金閣寺」における溝口の暗い妄執、戦時下の金閣と共に空襲の劫火に焼かれて心中することへの期待は、明らかに死を怖れる者の心理ではない。寧ろ彼は、生きることへの堪え難い嫌悪を常に病んでいるのである。未来が塞がれ、死が必定の運命であるような世界(一般にそれは「戦場」である)、そのような未来の断絶と消滅が、却って虚無的な慰安を齎す。つまり、彼は死や滅亡よりも「衰弱」を恐れるような、特異な審美的感受性を備えているのである。三島の思想信条は絶えず、こうした審美的規範によって支えられ、養われていた。見苦しい長寿への根深い嫌悪、若く健康的な、美しい肉体への欲望、つまり「衰退」を否定する感受性は、劇的な「滅亡」に対するパセティックな衝動と矛盾しない。醜く衰えることは断じて拒否するが、華々しく滅び去ることには躊躇しない。要するに三島にとって重要な問題は「善き生を営むこと」ではなく、専ら「美しい死を遂げること」の裡に存したのである。その観点から眺めるならば、生前の過程は全て「美しい死」という瞬間的な頂点の効果を高める為の精緻で迂遠な伏線に過ぎない。言い換えれば、生きることは仮面舞踏会に過ぎない。重要なのは劇的で鮮烈な幕切れであり、その瞬間に爆発する芸術的成果である。三島は作品の執筆に際して事前に詳細な設計を行い、最後の一行を決めてから起筆する習慣であったと何かで読んだ覚えがあるが、そうした芸術的創造における手法は、単なる技術的問題に留まらず、彼自身の生涯、人格、根源的信条と緊密に相関したものだったと思われる。彼にとっては「結論」が全てなのだ。生きることそのものの歓喜は余慶に過ぎず、万事、或る劇的な終幕へ向かって巧妙に配置され、選択された出来事の連鎖に過ぎない。彼は不確定な要素を忌み嫌っている。周到な準備によって、自分の人生を壮麗な悲劇に昇華させることが宿願である以上、計画は能う限り、完璧な手順で遂行されねばならない。こうした考え方が、戦没した若者への共感や「葉隠」への傾倒、自衛隊に対する蹶起の煽動、要するに経済的繁栄と肉体的健康を露骨に奨励する「戦後民主主義」というレジームに対する保守的な反発、敵愾心と同期している事実は否定し難い。三島の表現した異様な「死の倫理学」は、諸々の艱難辛苦を乗り越えて生き延びようとする健気な人々の心を励ましたり慰撫したりするものではない。近年、無闇に三島由紀夫を再評価する声が聞かれるが、彼の作品は本来、社会の健全な主流派の歓心を贖ったり、幅広い層の共感を喚起したりするものではない筈である。言い換えれば、社会的秩序の荒廃や劣化が、三島由紀夫のような反動的思想に対する需要を促進しているように思われる。そのことの善し悪しは一概に言えないが、三島由紀夫の文学が持て囃され、寵愛される社会というのは、余り居心地の良い世界だとは思えない。

Cahier(Praying for the miraculous rain, We must have been home alone)

*三度目の緊急事態宣言が東京都、大阪府兵庫県京都府に対して発令され、「人流の抑制」という御題目の下に、政府及び自治体は広範囲の業種に対する休業要請に踏み切った。大阪と兵庫で猛威を揮う英国型の変異株が全国的に拡大し、深刻な医療危機を惹起することを懸念すると共に、巨費を投じて準備を進めてきた国威発揚プロジェクトたる東京オリンピックパラリンピックの強行に、感染爆発が支障を来すことを怖れたのだろう。感染制御に失敗し、国際的なイベントの開催を断念した極東の二流国という不名誉な称号を冠せられることを、政府首脳は危惧しているのではないか。
 新型コロナウイルスの鎮圧が容易ならざる難業であることは、世界的な蔓延の現実を見れば明らかであり、政府の無為無策を声高に批難することは、少なくとも私にとっては虚しい。輿論は、オリンピックの為に国民の生活が蔑ろにされているという怨嗟の声で破裂寸前である。事実、そうなのかも知れない。一年経っても日々の新規陽性者数は高止まりを続け、島国であるのに異国の変異株の流入を抑えられず、医療体制の整備は遅々として進まず、繰り返される緊急事態宣言は毎度延長され、結局は深刻なリバウンドに帰結してしまう。少なくとも、日本の感染対策が成功しているとは言えない。ワクチンの確保も接種も先進国最低の水準で、最早「先進国」という肩書に相応しいのかどうかも疑わしい。
 経済的困窮を強いられている人々にとって、度重なる時短・休業要請は、不当な極刑判決にも等しい響きを伴って迎えられているだろう。誰も積極的に協力したいとは思わず、不承不承従っているだけだ。だからこそ余計に、誰が見ても明らかに「人流拡大」の最善策と思しきオリンピックが、夥しい税金に支えられて敢行されるという事態に、多くの人々が強い違和感を覚えるのは当然の成り行きである。「人流抑制」を目的とした事業活動の制限によって生活の困窮に追い込まれているというのに、支払った税金で「人流拡大」のビッグイベントが挙行される。これは明らかに矛盾であり、しかもオリンピックの開催の可否は、人間の一存で定まるもので、ウイルスのように人間の意向と無関係に襲い掛かる天災とは性質が異なる。オリンピックの開催によって感染爆発が惹起され、死人が出たら、それは天災ではなく人災である。
 最早、何の為にオリンピックが開催されるのか、多くの人々は理解出来なくなっているのではないか。中止したら、オリンピックに命を懸けているアスリートが憐れだという意見もあるだろう。しかし、挫折を強いられているのはアスリートだけではない。色々な立場の人が、感染対策の名の下に、本来の自由で理想的な生活を抑圧するように命じられているのである。アスリートだけを優遇する必要性は、多くの人々にとっては存在しない。尚且つ、コロナ対応に忙殺され疲弊している医療関係者が、オリンピック開催によって附随的に惹起される莫大な医療的ニーズを祝福するとは思えない。
 一体、誰が幸せになるのだろうかと思う。せめてオリンピックの開催を断行するならば、ワクチンの確保や接種に関してもっと迅速な実行力を発揮しておくべきだったのではないか。ワクチンの接種も儘ならないのに「Go To キャンペーン」を実施して人流を促したり、二度目の緊急事態宣言を「飲食店時短営業」だけの実質的な骨抜き状態に稀釈して発令したりしておきながら、この期に及んで休業要請、ステイホームと言われても、誰も納得しないだろう。「短期集中型で感染を抑え込む」と菅総理は威勢の良い号令を掛けているが、本人だって信じてはいないだろう。過去二度の緊急事態宣言は何れも延長されている。それなのに、従来よりも感染力が強いと言われている英国型変異株の抑制に、たった17日間の社会的活動自粛(しかも、業種・地域共に全面的なものではない)で立ち向かえる、克服出来ると信じ込むのは殆ど妄想に等しい。雨乞いのようなものである。
 仮に効果が出て、感染者数が減少に転じたとしても、オリンピックによって人流が促進され、再び感染爆発が惹起されることも眼に見えている。ワクチンの接種が、どれくらいの速度で進捗するのか分からないが、JX通信社の調査によれば、回答した570の自治体のうち、約半数が年内の接種完了は困難であるという見通しを持っているそうだ。そうだとすれば、所謂「集団免疫」の形成にも当分、日月を要するだろうし、インド由来の二重変異株が仮に蔓延すれば、ワクチンの効果自体が限定的且つ懐疑的なものとなり、社会的活動の制限は長期化するだろう。それによって齎される日本の経済的疲弊、政治的不安定化は、我々の未来を暗澹たる色彩で塗り潰すだろう。それに新型コロナウイルスは、人類の経験し得る最後の感染症という訳ではない。

Cahier(A Man who has been dry, without compassion for others)

*自分はどういう人間なのか、それを客観的に査定し、評価し、把握することは容易ではない。自分で自分の感情や信条や、抑圧された無意識の想念を適切に解剖し、その構造を闡明するのは一朝一夕に為し遂げられる些事ではない。何処まで突き進んでも、人間の認識は畢竟、主観性の監獄を突破出来ないし、自分自身の言動を綜合的な視野の下に一望することは極めて困難である。
 だからこそ、自分の内なる漠然とした、曖昧模糊たる情動や思念を明確で理性的な言葉の列なりに置換する営為は地道に繰り返されなければならない。人間が文章を書くのは、単に他者との回路の開拓を求めているからに留まらない。自分自身の思考を整理し、首尾一貫した理路を与え、自分が本当は何を考えているのか、客観的な形象として構築しなければならない。自分のことは自分が一番よく分かっていると断言するには、相応の努力の蓄積と、沈着な勇気が必要である。
 最近、自分はどういう人間なのかという主題を巡って彼是と考える時間を持った。そして、自分自身で自覚している以上に、私という人間は、他者の感情や思考に「共感」 compassion する能力が薄弱なのではないか、他者に対する関心が極めて稀薄なのではないかと感じるようになった。無論、それは直ちに他者との関係性に致命的な障碍を抱えているという意味ではない。人並みに妻子を持ち、勤め先は小売業であるから、日々不特定多数の顧客と接するし、アルバイトの従業員を数多く雇用しているがゆえに、年齢や性別、社会的立場の多様な人々と日常的に意思の疎通を図りながら働いている。だから、他者とのコミュニケーションに特筆すべき困難を感じているという訳ではない。しかし、周りから言われること、特に最も身近な存在である妻から指摘されること、そして自分自身の過去の行跡を顧みて得られた認識などを考え合わせると、根本的な部分において、私は他者の存在に主要な関心を置いていないのではないかという有力な仮説に行き着いた。
 妻に言われて腑に落ちたのは、私という人間の日頃の振舞いを観察する限りでは、他人に自分を理解してもらいたい、承認してもらいたい、称讃してもらいたいという欲望が稀薄なのではないかという指摘である。無論、私だって他人から褒められたり讃えられたりすれば気分は良い。けれども、他人の称讃を得る為に行動するのは恥ずべきことだという考えが根本的に存在しているように思う。理解されたくないという訳ではないが、理解されないならされないで別に構わないという冷淡な断念のような感情が、胸底に息衝いているのである。そして、他人に理解されないとしても、自分が望む道筋であるならば、そのまま突き進めばいいと考えている。他人の意見にも耳を傾けることはあるが、他人の意見に著しく影響されることは滅多にない。具体的な誰かに憧憬や尊崇の念を懐くことも殆どない。自分は自分、他人は他人で、そう簡単に相互的な理解へ辿り着ける筈がないと思い込んでいる。つまり、自他の領域の線引きが明確なのである。
 自他の領域の線引きが明確であるということは、言い換えれば、他者への共感が稀薄だということだ。それゆえ、他人の懐いているであろう様々な感情に、想像的な仕方で共鳴するという経験に乏しい。そもそも、感情が波立つことを余り好まない性格である。情緒的な不安定さによって、冷静な判断力が狂うことを嫌っているのだ。他人の感情に引き摺られて、自分も同じ心理的状態へ移行することを、原則として望んでいない。寧ろ成る可く冷静に、適切な距離を確保して、相手の状態を観察し、対処の手順を考えることに重きを置く。他者の感情に、想像的な仕方で没入せず、根本において、自他の明確な境界線を維持しようと企てている。とはいえ、他人に極端な関心を寄せないということは、別に他者という存在全般を嫌悪しているという意味ではない。コミュニケーションに苦痛を覚える訳でもない。単に、共感という作法が不得手なだけだ。そして共感の機能に関して基礎的な欠落が存在する分、他者の言動を冷静に観察し、分析することには長けている。感情を交えずに、客観的な観察の対象として他者を遇することが出来るのである。
*何故、他人への関心が稀薄なのか。相対的に考えれば、その分だけ自分自身への関心が強いということだろう。内向的、或いは内省的な性格で、他人との共同的な一体感よりも、自分自身の独立性や主体性を重んじているのである。自分自身の課題に集中したいので、他者の問題に深入りしようとは考えないし、仮に深入りしたとしても、飽く迄も問題の当事者は本人であり、本人の力で解決すべきだという方針は揺るがない。忠告や支援はしても、最終的な決定は自分の関知すべき事柄ではないと考えている。相手の感情に同調する姿勢が稀薄で、飽く迄も自分の意見に固執するので、冷淡な人間だと思われ易い。共感によって繋がるのではなく、専ら会話や議論を通じて相互理解を深めることを好む。名状し難い感情というものは、共有し得ないものだと認識している。相手がどうして、そういう感情を懐いているのか、理智的な分析を実行することは出来る。しかし、相手の感情を自分自身の感情として感受することは稀である。何故なら、他人は他人であり、自分は自分であるからだ。それゆえ、他人の意見に影響され難いし、相手に自分の意見を認めてもらいたいと切実に熱望することもない。理解してもらえれば嬉しいが、理解されることが最終的な目標であるとは言えない。そうした特徴は、このブログに収められている数々の文章の性質を徴する限りでも明瞭であるように思われる。明らかに私は、何よりも先ず自分自身の為に文章を書いていて、読む人の都合や立場を余り考慮に入れていない。より多くの人々に読んでもらう為の工夫を凝らしていないし、読者を愉しませる為の仕掛けや調整も徹底的に怠っている。読んで理解してくれる人が顕れたら勿論光栄に思うし感謝もするが、だからと言って、その人との間に強固な紐帯を築こうとは思わないし、そもそも、本当に理解してもらえているかどうか、疑わしいと考えている。
*他者に共感しないということは、他者の感情に影響されず、支配されず、振り回されないということである。同じ感情を懐くことより、銘々の感情が相互に調和して、相手の感情を毀損しないことを望む。それぞれが自由に、自分らしく過ごしていればそれで構わない。無論、全体の利益の為に、それぞれが共通の規範に対して一定の隷属を受け容れることは大事である。少なくとも、その規範が理論的な合理性を有するのならば、個人の感情に関わらず、従属すべきである。しかし、感情的な一体感を強要される筋合いはない。全員が同一の感情を共有する必要も必然性も存在しない。感情がどうであれ、それぞれの行動が、全体の理念や指標との間に合理的な相関を保っているのならば、それで充分である。感情は他者によって強いられるものではなく、常に内発的なものであり、従って万人が同一の感情を保ち、同一の感情に拘束され続けるというのは、明らかに醜悪な状況である。共感は同質性を前提としており、従って共感の原理は、異質な他者を包摂する力を持たない。大体、人間の感情というのは非常に頼りない、浮薄な幻影である。永続する保証もないし、寧ろ頻繁な変容こそ感情の明瞭な特性である。それほど頼りないものを唯一の紐帯として、他者との間に継続的な関係を構築し、維持することは困難である。大半の恋愛が訣別に帰着するのは論理的必然で、息絶えることを知らない恋心は存在しない。それは理性的な愛情に発展しない限り、必ず冷却の涯に絶息し、消滅する。そして円満な結婚生活の堅持に必要なのは、共感の強要ではなく、銘々の論理、銘々の主義、銘々の嗜好の尊重である。共感は出来ないが理解は出来る、理解に基づいて必要な配慮を行なう。こうした理性的な振舞いが、継続的な愛情の涵養を可能にする。共感に固執する人ほど、相手の変節を厳しく責め立てる。嫉妬や不安に苛まれる。極端に親しくなるか、極端に忌み嫌うか、その何れかになり易い。だが、自分自身の感情を絶対視するのは奇妙である。何故なら、人間の感情は極めて移ろい易く、不安定で脆弱なもので、長い人生の唯一の指針には値しないからである。従って、共感を好まない人間が、直ちに無関心な厭世家だという訳ではない。人は共感出来ないものを愛することが出来る。つまり、他人を。何故なら厳密には、他者に共感するということは、主観的な錯覚、不可能な錯覚に過ぎないからである。他者という異質な存在を愛する為には原理的に言って、共感だけでは足りない筈なのだ。

Cahier(After all, Nobody knows the Rightest Answer, Anyone has never been a Reliable Prophet)

*既に言い尽くされたことばかりだが、個人的備忘の為に書いておきたい。

新型コロナウイルスの英国型変異株の蔓延が急拡大し、大阪府は完全なる医療崩壊の危殆に瀕している。感染者の抑制に成功し、関東圏よりも一足先に緊急事態宣言を解除したのは二月末、それから未だ二箇月も経過していないのに状況は悪しき方向へ急変している。東京やその近県においても、変異株の検出が増加傾向にあるとのこと、何れ大阪の二の舞になることは確実であるように思われる。二度目の緊急事態宣言を解除して未だ一箇月も経たぬうちに三度目の緊急事態宣言発令の気配が漂うというのは、不穏な雲行きである。
 副作用の懸念は全く消滅していないとはいえ、ワクチンの接種を強力に推進している国々で、感染者数の劇的な改善が見られているという事実は、確かな希望の燈火である。しかし、日本国内の接種率は極めて低調で、供給量が限られているにも関わらず、注射器の準備の都合で接種の度に廃棄が出てしまうという実務的な課題も生じていると伝え聞く。少なくとも感染拡大抑制に関して言えば、ワクチンの接種が進捗するほどに状況は改善に向かうということは既に自明の事実である(差し当たって、副作用による健康被害の拡大の懸念は、感染拡大抑制という課題とは別種の領域に属する問題である)。しかし、供給の確保も、接種の現場における実務的な課題も、今のところ解決していない。従って安定的な感染抑制が、日本国内で長期的に実現する可能性は、他国と比べても低い。緊急事態宣言と銘打たれた強力な感染抑制対策の内実は、飲食店を20時に閉めることと、企業にリモートワークの推進を要請するということだけである。海外のロックダウンと比較すれば、その空洞化した権威と効力は疑いを容れないだろう。そして、飲食店に時短営業を強いるだけでは、充分な感染抑制の効果は得られないということは、東京都の感染者数の高止まりを踏まえれば明白である。そして、充分な感染者数の低減が為されないまま、宣言は解除された。そして一箇月も経たずに首都圏の感染者数は増加に転じている。蔓延防止措置という、緊急事態宣言より一段階緩い位置付けの感染防止対策が発令されたが、その内実は飲食店の時短営業とリモートワークの推奨のみ、従って今年一月に発令された緊急事態宣言と対策の内容において異なる点は存在しない。大阪府の吉村知事は、次回の緊急事態宣言においては、飲食店の時短営業のみでは不充分で、休業要請や対象とする業種の拡大、公教育の現場における活動の制約など、より踏み込んだ措置を取りたい旨の発言をしていると報道を通じて知った。賛否両論はあるだろうが、府知事の発言は正当なものである。少なくとも合理的な判断である。緊急事態宣言の中身をもっと強力なものに書き換えなければ、蔓延防止措置というカテゴリーを新設した意味がないし、本来ならば最強の切り札であるべき緊急事態宣言の効力を弱体化させたまま放置するのは、明らかに悪手である。
東京オリンピックパラリンピックについては、自民党の親玉である二階幹事長が遂に中止の選択肢に言及したことで、従来の強行一辺倒の風潮が一挙に流れを変えそうな気配である。開催の期日まで残り100日を切り、海外のメディアも、まさか日本は本気でオリンピックを強行する積りなのかという深刻な不安に駆られたかのように、計画の再考を促す論説や記事を発表し始めている。人流の抑制を訴えながら聖火リレーを断行し、大阪府が部活動の制限に踏み切る一方でオリンピック開催の決定は絶対に覆さないという政府や自治体の矛盾した方針に対する大衆の批判的意見は、日増しに募っている。オリンピックが、世界的規模の人流を惹起する危険を孕んだ行事であることは明白である。海外からの一般客の受け容れは断念したとはいえ、関係者や選手の入国を停止することは原理的に不可能であるし、日本国内の人流の増大も確実である。人流抑制が喫緊の課題であるならば、オリンピックの開催は中止以外の選択肢を持ち得ない。仮に開催直前の時期になって感染者数が減少していたとしても、ワクチンの接種すら儘ならず、特効薬も開発されていない状況の中で実施を強行すれば、オリンピックそのものが感染拡大の致命的な引鉄となることは殆ど確実であるように思われる。そこまでしてオリンピックを開催することに何の意味があるのか、仮にオリンピックの所為で爆発的な感染拡大が惹起された場合に、如何なる対処の方策が計画されているのか、という疑問は、多くの人々によって既に共有されているように見える。コロナの影響で生活の困窮を強いられている人々にとって、オリンピックに投じられる巨額の税金は、無慈悲な侮辱のように感じられるのではないだろうか。特に狙い撃ちにされている飲食業に携る人々の不満と絶望は計り知れないものがあるのではないか。
*とはいえ、人流を半永久的に抑制し続けることは困難であり、仮にそれが可能であったとしても、人流の抑制が社会に及ぼす深甚な悪影響を過小に評価することは出来ない。従って今後の状況改善の見通しは偏に、ワクチン接種の進捗の度合に左右されることになるだろう。問題は変異株に対する有効性の維持と、副作用の齎す未知の弊害への対処である。この二つの課題が適切に制御される限り、コロナウイルスが終息へ向かうことは確実であるように思われる。それと共に今後は、次なる感染症の襲来に備え、医療体制の整備(人材・検査・臨床及び入院・ワクチン及び治療薬開発)を進めることが重要な課題として議論されるだろう。新型コロナウイルスの蔓延は、医学的水準の高低が、その国家の政治的・経済的競争力や威信を左右する極めて重要なファクターであることを如実に証明した。同時に各国の危機管理能力の実質的な水準を鮮明に示す結果にも繋がった。危機管理というものが、適切で現実的な未来予測と、迅速で合理的な事前の対策によって構成されるものであるとするならば、少なくとも日本という国家(政府や自治体に限らず、医療機関や企業、民間の個人も含めて)の綜合的な危機管理能力は今のところ、有用な成果を示していないように思われる。コロナウイルスの襲来から一年余りが経っても、日毎の感染者数は減らず、病床は未だ逼迫を続け、ワクチンの接種は遅々として進捗していない。諸外国と比較して感染者数の絶対値は遥かに少ないにも拘らず、医療体制の慢性的な逼迫が是正されないという事実は、日本の医療における危機管理能力の脆弱性を示唆している(無論、この認識は医療従事者への感謝や尊敬の念と矛盾するものではない)。人流の抑制が最も重要な対策であることが、感染拡大の最初期から声高に喧伝されていたにも拘らず、数兆円規模の税金を投じて「Go To キャンペーン」と銘打たれた人流促進対策を敢行した政府の驚嘆すべき英断も、危機管理能力の顕著な劣化を鮮明に証するものであると言える(単に矛盾しているし、発言と行動、方針と施策が相互に咬み合っていない)。そして私自身も含めて、多くの人々は公私を問わず、他人との社会的交流を充分に遮断することが出来ていない。社会情勢を鑑みて、必要な範囲で強力なロックダウンに踏み切り、窮迫する者には公費を投じてその生活を保障し、オリンピックに就いては開催を断念するという風に進めていれば、無念の中止に関して国際的な同情の声も集まるだろうが、ワクチンの確保すら儘ならないのにオリンピックの実施は再考しないという狂気の沙汰を政府の音頭で演じていては、批判と嘲笑を自ら好んで購うようなものである。オリンピックをコロナに打ち克った証にしたいという菅総理の施政方針演説における謎めいた精神主義的宣言(或いは単なる幼稚な虚栄心だろうか)も、ただ寒々しく響く。何故なら、我々はコロナを聊かも克服しておらず、その見通しすら不透明であるからだ。まさに、捕らぬ狸の皮算用である。
*長い眼で見れば、ワクチンの接種が拡大し、感染者数が減少に向かうことは確実であるように思われる。治療薬の開発や医療体制の強化も、段階的には進められていくだろう。その意味では、現下の狂騒は永遠に続く地獄であるとは言えない。けれども、危機管理能力の深刻な劣化という問題が、自然に改善されていく見通しは存在しない。確かに我々人類は誰一人として、未来の確実な予知に成功する才覚には恵まれていない。誰もが混乱や憶測に呑み込まれ、適切な判断力を堅持することは常に至難の課題である。要するに人類はもっと賢くならなければならない。過去に学び、合理的な推論を積み重ね、未来を予測し、そして現在の行動を決定する。こうした叡智を一人一人が獲得する為には、公教育の改善のみならず「生涯学習」という理念の更なる普及が不可欠である。徐々に社会の風向きは変わりつつあるとはいえ、長い間、この国では「労働」と「教育」との間に決定的な断絶が横たわってきた。無論、所謂エリートに分類される人々にとって、両者の価値は今も昔も連続的なものとして存在しているだろう。しかし、多くの大衆的労働者にとって「教育」或いは「学習」は、高校や大学の卒業と共に終焉を迎えるものであり、その後の「学習」は専ら、自らの従事する職業の実務に関するものに限られてきた。自分の実務に関する知識さえあればいい、そして一昔前「男子厨房に入らず」の時代であれば、彼らは教養どころか、身近な家事に関する知識すら持ち合わせずに泰然としていたのである。
 日本が発展途上の段階にあり、巨大な伸びしろ、成長の余白を有していた時代ならば、そうした生活の形態は成立し、機能していたのだろうと思う。しかし、世の中の仕組みは刻々と複雑化し、通信技術の発達に伴って社会の変容は高速化している。知識や思考の価値自体も次々に更新されて、常識の劣化する速度は日毎に増している。学生時代の知識だけを携えて、長い人生を適切に泳ぎ切ることは難しくなっている。それゆえ、知識や思考を定期的に更新していく習慣を持たなければ、社会に適応することは年々不可能に近付いていく時代なのである。日々新たな知見が生まれ、無数の情報が氾濫する環境に身を置きながら、古色蒼然たる知識に縋って自らの言行を律するのは危険な選択である。十年前の常識が失効するまでのスパンが刻々と縮み続ける世の中で、何も学ぶ習慣がない、一冊の本も読まなければ特段の趣味もない、毎日定型的な業務に埋没し、残った時間は食事や排泄や睡眠や性交や、そうした生理的現象に終始しているという生き方を貫くのは余りに勇敢過ぎる。自分の頭で考え、行動出来る人材の育成が不可欠だと世上の企業は挙って言い立てている。実際、自分の頭で考える習慣がない人間は、社会に対する厄介な重荷になる。自分の意見も意志もなく、理想もなく、従って他人の意見を理解する能力にも欠けている。意見も理想もないから、行動を律する理由がなく、欲望や衝動に容易く流され、他人の意見や言動に直ぐ影響され、自分自身の人生と呼び得る時間を持つことすら出来ない。他人に指示されなければ行動出来ず、自力で結論を決定することも出来ない。生涯、他人の意向を推し量ることに明け暮れ、果たして自分が現在の生活に満足しているのかどうかも分からない。他人を説得したり、地道な努力を積み重ねたりして、何らかのゴールに辿り着こうとする意欲もない。要するに自立しておらず、主体性も備えておらず、何時までも赤ん坊のままである。洗練されない欲望だけが存在する。だから、社会の側に受け容れてもらえない。
 究極のところ、人間は自分自身との良好な関係を、つまり自己との対話の習慣を維持しなければならない。別の言葉で言えば、内省の習慣を持つということである。自分が何を考え、何を感じているのか、明確な言葉に置き換える習慣がなければ、自分自身にとって最善の選択を決定することも出来ないし、それを他人に向かって表現したり、他人と共有したりすることも出来ない。自分が何を知っていて、何を知らないのか、それが分からなければ、何を学ぶべきなのかも分からない。言葉は、曖昧な事象に明確な輪郭と形状を賦与する。それによって我々の思考の明瞭な対象が出現する。そうやって我々全員が少しずつ賢くなっていかなければ、危機管理能力の改善は期待出来ない。頼もしい預言者の降臨を待ち侘びても無益である。それより自分自身の頭脳を鍛える方が遥かに合理的で迅速な方法だ。

Cahier(Everyone can be young and beautiful, at least once a lifetime, but aging properly is too difficult to most of us)

*「時分の花」という言葉がある。能楽の大成者である世阿弥の遺した古典『風姿花伝』に登場する用語で、その年齢に固有の魅力、一過性の魅力を指す。
 私は今三十五歳で、人生百年時代と言われる昨今の風潮を鑑みれば充分に青臭い若造の部類に属する年代であろうと思われるが、自らの加齢に加え、職場で十代や二十代の社員、従業員と接する機会が多い所為か、若さというものの絶対的な価値、或いはその稀少な価値に就いて想いを巡らすことが増えている。或いは五歳の娘を見ていても、その漲る活力、疲れを知らぬ幅広い好奇心、片時も大人しくしていない筋金入りの能動性に眩暈のような感覚を懐くこともある。若く、無限の未来を備え、心身共に無尽蔵の活力と精気に満ち濫れている彼らの姿には、年齢を重ねた人間が永遠に喪失した固有の価値、有無を言わさぬ絶対的な魅力、つまり「時分の花」が明瞭に備わっている。そして多くの若者は、自らの若さの貴重な、不可逆的な魅力の真価を自覚的に取り扱っていない。我が身を顧みても、若い間は、自分の若さに気付いていない。だから、若さという特権を徒らに空費し、刻々と流れ去る時間の非情な圧力に拉がれて、気付けば空虚な馬齢を重ねるという仕儀に相成る訳だ。
 若い間は、若さは無限に存在するかのように茫漠と広がり、四囲に瀰漫し、殊更に珍重する気持ちにもならない。心身の若さゆえに、多少の蹉跌も疲弊も早晩恢復してしまうので、無軌道な行為、無思慮な選択が相対的に増加する。それが若さというものだと、結論付けるのは容易いが、世の中には賢明な若者というのがいて、「時分の花」の得難い価値を弁えるがゆえに、それを存分に活用して堅実な計画を構築し、着々と人生の段階を前に進めていく人もいる。彼らは時間が有限であり、若さが有限であり、無限の成長が不可能であり、何れは衰退の局面が必ず到来するという千篇一律の真理(無味乾燥で馬鹿馬鹿しいほど退屈な普遍的真理だ)を熟知し、早い段階から備えを怠らず、適切な努力を惜しまない。そういう人間にとって、若さの喪失は悲嘆の対象とはならず、予期された事態の出現に過ぎないだろう。
 年長者は若者に向かって、その心身の若さが一過性のものであることを好んで助言したがるが、その忠告の動機の半分が嫉妬や僻みであることは事実だとしても、もう半分は切実な共感或いは同情に発するものであると言うべきである。有限の価値を贅沢に浪費する人間、若さを活かして若さを越える何らかの価値を構築しようと心掛けない怠惰で驕慢な若者に、彼らは他人事とは思えぬ危機感を覚える。恐らくは愚かな自画像を眺めているような心持に陥るのだろう。期間限定の途方もない価値を無益に空費しつつある人々の鈍感な神経を目の当たりにして、居た堪れない心境に陥るのだろう。無論、若者の側からすれば、訳知り顔の年長者が嬉々として垂れ流す崇高な御説教は常に鬱陶しいものである。ただ、若さが有限の価値であるという真理そのものは、肝に銘じておいて損はないように思われる。
 古代ローマの政治家であり優れた文人でもあったセネカは「生の短さについて」と題された書簡体の文章の中で、人生の有限性を執拗に強調しながら、時間を空費することが如何に容易い過ちであるかという主題を巡って熱弁を揮っている。諸々の雑務に追われて、絶えざる「忙殺」の渦中で限りある生の貴重な時間を食い潰していくことの愚昧を、彼は切実な論調で読者の眼前に描き出してみせる。実際、若さという貴重な財貨は、自然と生命の摂理に従って、万人に対して平等に下賜されている。けれども、それを有益な目的の為に善用している人間は限られる。大抵の場合、人々は馬齢を重ねた後に若き日々の自堕落と無為を後悔し、時間の不可逆的性質を慨嘆する羽目に陥る。若いというだけで様々な機会に恵まれることは多いし、若さはそれ自体で持て囃される。けれども、若さに凭れ掛かり、その粗雑な濫用に終始した人間は、若さの衰退と共に著しい社会的無価値の状態へ没落することを強いられる。そうした逃れ難い宿命を極度に恐懼し、若さの絶頂において時間を停止させ、未来永劫の「美」を維持することに恋焦がれたのが、本邦の特異な芸術家・三島由紀夫であった。彼は若さの価値を殊更に称揚し、他方、老醜の無価値を心底忌み嫌っていた。
 適切に年齢を重ねること、年齢に相応しい成長や変化、適切な「出口戦略」の策定、これは生涯に亘る幸福な生活の維持にとって最も重要な課題である。若さという自然の価値が失われた後も猶、生きることに意義を見出し、社会的な諸価値を体現する為には、若いうちから相応の鍛錬が必要である。長期的な視野に立脚し、避け難い宿命を直視し、適切な対策を講じて迅速に実行へ移すこと、若いうちから、若さに固有の価値への依存を危険視すること、同時に若さの価値や魅力を存分に活用し、有益な成果に結び付けること、こうした綜合的な戦略の立案と実行は、我々の幸福な生涯の礎であり要である。若さは或る程度、自動的な成長を万人に齎す。けれども加齢は、そのような時間の恩恵の方向を反転させ、成長の代わりに慢性的な衰弱を人々に強制する。生得的な上昇気流に甘んじて努力や工夫を怠った人間は、気流が途絶えた後に為す術を持たず、慌てふためいて急速な顚落に呑み込まれる。老害と罵られ、退場を命じられる。無論、心身の衰弱は宿命であるから避け難い。問題は、衰弱の進行を緩和する方法の案出である。年齢を重ねても猶、知識も教養も能力も財産もなく、人格も磨かれていないという無惨な有様では、人生百年時代の果てしない晩節を適切な仕方で生き延びることは難しい。本当にただ時間が経過したに過ぎないのであれば、それは生きたというよりも、単に存在したというだけに過ぎない。何も生み出さず、何も貢献せず、ただ一個の動物として食事と排泄と睡眠と繁殖に明け暮れただけ、という結論に到達しかねない。無論、それ以上の価値の実現を望むのは烏滸がましい、人間も所詮は単なる動物に過ぎないという見解も有り得るだろう。だが、そのニヒリスティックなペシミズムに生産的な意義が備わっていると言えるだろうか。少なくとも、そうした諦観が人間の強力な幸福を樹立する貴重な支援の名に値するだろうか。多くの賢者は、人間に固有の価値を探し求めるところから、倫理学の研究を開始した。人間に固有の幸福を得ることが目的であるならば、人間と動物との質的差異を前提とするのは当然の手続きである。そして我々は、目的に応じて自己を統御する理智の権能を多かれ少なかれ宿している。理智は、来るべき世界の姿を事前に想像し、過ぎ去った経験から無数の教訓を抽出するという長期的な視野に基づいた活動を展開する。動物は己の年齢を自覚しない。しかし我々人間は、年齢という記号的な指標を参照して、己の旅程を、己の現在地を推定することが出来る。それならば、やはり自己の人生に固有の地図を描いて、今後の道程を計画するくらいの準備は、怠るべきではないのではないか。現在は常に未来と連動している。今日の私が、十年後の私を形作る。十年後に焦る必要の生じない今日を、私は出来る限り自分の手で着実に形作っていきたい。結果として望ましい未来が到来しなかったとしても、それは努力の無価値や放縦の優越を意味するものではないと信じて。

My Record of Reading about “HARRY POTTER and the Goblet of Fire”

 英語学習の一環として取り組んできた J.K.Rowling, HARRY POTTER and the Goblet of Fire, London, 2014 を漸く読了したので、感想文を認めておきたい。
 英文で617頁に達する分厚い書物であるから、全篇の通読には骨が折れた。しかし、明らかに自分の英語読解力が向上しているという喜ばしい手応えを実感している。無論、細部に亘って悉く英単語やセンテンスの精確な意味を審らかに把握し、理解しているとは言えない。けれども、少なくとも全く意味の分からない箇所というのは確実に減りつつあるし、記憶している語彙や定型的表現の数は徐々に増え、私の海馬に蓄積されつつある。この調子で訓練を継続していけば、年末には相応の水準まで私の読解力は進歩しているのではないかと楽観的な展望を懐いている。
 「ハリー・ポッター」シリーズの第四作に当たる本書では、ロード・ヴォルデモート Lord Voldemort に追従するデス・イーター Death Eaters たちの暗躍と彼らを粛正する特殊部隊 Auror の登場、過去の様々な犯罪と裁判、不幸な事件の数々が徐々に明らかにされていき、物語の全体に暗鬱で抑圧的なトーンを投げ掛けている。物語の言及する範囲はホグワーツ校内に留まらず、魔法省 Ministry of Magic の存在感が一挙に強まり、例えば第一巻の HARRY POTTER and the Philosopher's Stone に比べて、政治的=社会的な色彩が濃くなっている。学齢を重ねる毎にハリーの直面する課題や困難、冒険の性質は苛酷さを増している。それは或る数奇な運命に見舞われた少年の成長を物語るというシリーズの基本的なコンセプトに由来する自然な段階的変容であると言えるだろう。直面する課題の難易度や苛酷さの上昇はそのまま、ハリー自身の内面的成長と照応している。
 事実、ハリー・ポッターという潜在的才能と生得的栄光に庇護された少年の眼を通じて、読者は我々の所属する社会において日夜生起している諸々の艱難、課題、現象に直面し、対処に必要な振舞いを仮想的に経験しているのであり、それこそが文学、或いはフィクションの有する根本的な機能であると言える。我々の頭脳は他者の経験に共感したり、記憶力と想像力を用いて憑依的な追体験を行なったりする力を宿している。その崇高な機能を活用して、他者の経験や智慧を共有することは、人類の爆発的な発展を推進してきた基礎的な営為である。自分自身が実際に肌身で経験し得る事実の数は限定されている。物理的な制約、時間的有限性、実存に関する先天的条件などが、我々がそれぞれに選択し得る人生の範囲を必ず狭めてしまう。それゆえに我々は、他者の経験を拝借することで、人生の新たな局面や分野を開拓したり、或いは眼前の難事に対処するのに有益な智慧や効果的で実践的な手法を学んだりすることを慣習としてきたのである。
 ハリー・ポッターの経験する多様な事象は、魔法という非現実的な衣裳を纏っているとはいえ、その基本的な素材自体は紛れもない我々の社会的現実の内部から汲み上げられている。リタ・スキーターという性悪のジャーナリストが書き散らす様々な新聞記事によって標的とされた人々の威信が左右されたり、集合的な偏見が形成されて人々の言動に影響を及ぼしたりするのも、通信技術の発達した現代の社会に暮らす我々にとっては見慣れた風景である。言論に基づいた暴力によって、人々の社会的生命は過分な称讃を浴びたり、逆に致命的な危機に瀕したりする。偏見と差別が、人類の逃れ難い宿痾であることは、21世紀を迎えた今でも一向に革まる気配の見えない強固な事実である。或いは、ロード・ヴォルデモートとその信奉者たちの行使する過激で無慈悲な暴力によって、社会全体の紐帯が分断され、不信と反目が随所に繁茂し蔓延するのも、日々の社会的・政治的報道を徴する限りでは、現に我々の直面している掛け値なしの真実に他ならない。禁じられた呪文 unforgivable curses を濫用する彼らの非人道的な振舞いは、実際に我々の社会が経験しつつある陰鬱な真実なのである。拡大する格差、深刻な分断、残忍な排外主義は、21世紀の地球を覆い尽くし、猖獗を極めている深刻な病弊であり、それに立ち向かうべき人物はハリーだけではなく、そうした世界を生き延びて破局を免かれ、幸福で穏やかな生活を建設する為に智慧を絞り、具体的な行動を着実に積み重ねていくべきなのは他ならぬ我々である。
 とはいえ、作中で語られるクラウチ父子の演じた悲劇などを読むと、この困難な世界の有する絶望的な構造に名状し難い鬱屈を覚えさせられる。デス・イーターに対する苛烈で強硬な弾圧を指揮し、輿論の支持を一身に集めて次期魔法省大臣たることを嘱望されながら、実の息子がヴォルデモートの悪行に荷担していたことが露見し、肉親への愛情よりも自らの社会的名声と職務への忠誠を優先し、息子をアズカバンへ収監する決定を下したバーティ・クラウチの栄光と没落の顚末は、痛ましい不条理に縁取られている。同じ「父親殺し」の罪悪を強靭な紐帯に変えて結び付いたヴォルデモートとクラウチ・ジュニアの連帯は、解決されるべき悲劇の堅牢な性質を如実に物語っている。

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック