サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 6

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 エピクロス=ルクレーティウスの提唱する倫理学的な知見にとって、最も深刻な堕落と悪徳の種子となる危険を秘めているものは「欲望」と「恐怖」の二つである。「欲望」は、その対象が実現の困難な事物と結合した場合には、病的な執着を人心の裡に蔓延させ、満たされない現実に対する認識の峻拒を惹起する弊害を有している。つまり、非現実的で不可能な欲望の虜囚と化した人間は、現実の適切な認識を喪失する危険を孕んでいるのである。

 同時に「恐怖」もまた、現実の不可解な性質に対する無智と混乱に由来する悪性の感情である。人間は己に備わった持ち前の知力では理解することの困難な対象に逢着したとき、恐怖の感情に囚われる。その不可解な事物に向かって如何なる対処を試みればいいのか、如何なる行動に踏み切ればいいのか、その判断を確定することが出来ないからである。

 言い換えれば、欲望と恐怖は共に人間の精神を混乱させ、客観的な現実に対する正常な認識を歪曲し、閉鎖的な幻想の裡に隔離する危険な効用を備えているのである。不可能な欲望に囚われたとき、我々はその欲望に対する執着を無限に増殖させ、最終的には、不可能な欲望が充足されない現実の諸条件を拒否するという退嬰的な叛逆に陥る。不可能な欲望を断念したり、適切な形態に縮約したり、そうした欲望の理性的な調整を施す為には、現実的構造への客観的で冷静な注視と把握が必要である。

 一般に欲望への執着は、その欲望が充足の状態へ到達した時点で解消される。欲望は原理的に「欠如の補填」という運動の構造を備えているので、その欠如が解消された時点で運動は一旦、休止されるのである。けれども、不可能な欲望に囚われた場合、そうした「欠如の補填」が適切に実施される見通しは立たないので、欲望への執着は無限に長期化する。実現が不可能であることを悟り、欲望の対象を切り替えたり範囲を縮減したりする理性的な調整が行なえれば良いが、そうした柔軟な対応に移行し得ずに、報われない執着を延々と引き摺って宿痾にまで悪化させてしまう人間も決して稀な存在ではない。

 こうした過度な執着の状態に陥ってしまうと、人間はその報われない欲望に意識的な関心の過半を奪われて、他の対象へ結び付けられた欲望を励起することに困難を覚えるようになる。結果として、様々な欲望が充足へ向けた行動に結び付かないまま放置されることとなり、その個人の実存における不満足の総量は飛躍的に増大してしまう。これは健全な状態ではない。人間の欲望は現実的に処理される必要があり、不可能な欲望に無際限に執着し続ける状態と同様に、あらゆる欲望を実質的に抑圧し続ける状態も、倫理学的には不幸な頽廃の要因に計えられる。

 こうした執着の齎す苦しみから逃避する為に、人間は「忘却」を目的とした行動への依存を示し始める場合がある。こうした欲望は、本来の欲望を代理する営為として顕現し、その目的は欲望の現実的な解消ではなく、不可能な欲望の持続という不都合な現実の抑圧に存する。従って、こうした代理的な欲望は原理的に「欠如の補填」という目標へ到達する可能性を持たず、一時的な「忘却」の効果を頻繁に要求し、頻繁に「覚醒」によって当初の期待を裏切られるという無際限な構造の内部を循環することとなる。

 こうした「忘却」への欲望は、不可能な欲望そのものの忘却ではなく、その欲望が不可能であるという事実からの逃避を目指す衝迫である。その衝迫の解消に向けて重要なのは、その欲望が不可能であるという事実を心理的に受容する作業を試みることだ。そうしなければ、忘却を目的とした諸々の「陶酔」への不可避的な要求が、無限の回帰を反復することになってしまう。

 不可能な欲望への衝迫を棄却し、可能な欲望への衝迫を重んじること、これが「欲望」に関する基本的な倫理学の枠組みである。端的に言えば、それは広い意味で「欲望を現実化する」ということだ。欲望の現実化、つまり充足を安定的に確保していく為には、欲望そのものの実際的で可能的な構造に着目しなければならないのである。

 そして「恐怖」は、不可能な欲望への執着が現実的な認識の棄却に由来するように、不可解な現実の理解に向けた適切な努力の不足に基づいて発生する感情の形態である。本来、不可解な現実との対面は、知性的な好奇心を涵養し、理智的な探究への意欲を刺激するものである。だが、未熟な理性にとっては、不可解な現実とは純然たる恐怖の対象であり、それは既成の世界観の枠組みを震撼する野蛮な威力を備えているように感じられる。

 不可解なものに対する否定的な意識、これは人間の類的な特徴の一つであると言えるだろう。不可解なものを解消したいという性急な欲望への屈従は、現実に関する適切な理解への欲望よりも強烈で、普遍的な性質を備えている。「不可解なものを解消したい」という欲望と「現実を精確に理解したい」という欲望との間には、表層的な類似の関係しか介在していない。「不可解なものを解消したい」という欲望は、知性的な野心の表現ではなく、現実に関する保守的な方針の表明である。彼らは「分かり切ったもの」だけに囲まれて生きることに巨大な安息を見出す。未知の異郷への憧憬は、軽率で浮薄な欲望として排除される。旧習を墨守し、進取的な改革に反発し、制度の刷新よりも屈従を愛する閉鎖的な心性が、不可解なものへの敵意を醸成するのである。保守的な人間の抱え込む主要な欲望の命題は「不可解なものの隠蔽」である。だが、知性的な好奇心に駆られた人間の主要な欲望の命題は「不可解なものの解明」である。

 不可解なものへの否定的な意識が、超越的な絶対者としての「神」の関与を要求し、総ての事物の不可解な側面を「神意」という不可知の理念に還元することで、不可解なものへの恐怖を鎮静しようと試みる態度を培う。こうした保守的な実存の形式を批判する為に、エピクロスの自然学的探究は、積極的に「神意」に基づく宇宙論の解体を目指す。例えば「神の怒り」の象徴と看做されがちな「雷」の発生原因に就いて、物理的な構造の探究に情熱を燃やすのも、気象学的な知見を不可知の「神意」から解放する為であろうと考えられる。不可解なものを抹殺する為に超越的な絶対者を召喚するという守旧的な怠慢は、人間的な知性の減衰そのものである。エピクロスの思想は、人間的な知性の勇敢なる「自主独立」を実現するという崇高な目的に向けて捧げられている。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 5

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 エピクロス=ルクレーティウスの信奉する宇宙論は、この世界の生成の合目的性を否定する。絶対的な存在としての造物主(神)が、何らかの青写真に基づいて、この宇宙を構築したのだという合理的で人為的な発想は、彼らの自然学的な見解に照らす限り、不合理な謬見の謗りを免かれないのである。

 エピクロスにとっては、この宇宙の生成における現況は純然たる偶然の産物である。若しも宇宙の合目的性を肯定するならば、我々は事物の生成における偶然の関与を否認しなければならない。少なくとも超越的な絶対者を想定し、宇宙の根源的な造物主としての役割を認めるのならば、その絶対者が構築した宇宙に偶然の介入する余地を見出すことは矛盾している。そのような偶然の発生する余地も含めて、この宇宙の一切が超越的な絶対者の御心に起因する被造物であるのならば、不可解な偶然の生じる間隙は存在しない筈である。

 言い換えれば、あらゆる出来事に必然性や合理性を読み込もうとする態度は、絶えず神学的な発想に依拠していると看做すことが出来る。偶然を「解明されない必然」に置換する読解の方法も、こうした神学的理念から派生する思考の様式である。神学的思考の下では、あらゆる事物や事件が「神意」の反映として定義されるのであるから、一見すると偶発的であるように感じられる事柄に就いても、必ず何らかの秘匿された「意味」が関与している筈なのである。このような思考及び精神の形式は、純然たる偶然という観念自体を臆見として不可避的に排斥する。アインシュタインの有名な「神は骰子を振らない」(God does not play dice)という言葉は、こうした神学的発想との間に重要な関連を有しているように思われる。

 けれどもエピクロスは、そのような純然たる決定論的発想に異を唱え、事物の生成の最も根源的な濫觴に、原子の純然たる偶発的な偏倚を措定した。重要なのは、この偶然が単なる「解明されない必然」ではなく、如何なる合理的な因果関係にも従属しない、専ら不定期に生じる「純粋なる偶然」として定義されている点である。それは決定論的な因果律の形成する理智的な秩序を根底から転覆させる。「純粋なる偶然」の介入を認める限り、我々は超越的な絶対者によって構築され、形成された宇宙という理念を棄却せずにはいられない。若しも全知全能の神が宇宙の総体を意図的に生み出したのであれば、偶然という不可解な誤差を残存させる理由は考えられないからである。

 偶然の存在しない世界では、宇宙は予め決定された完全なる設計図に基づいて運営されることとなり、総ての出来事は超越的な絶対者の意図へ還元される。人間の自由は単なる因果律の連鎖の一部に過ぎなくなり、所謂「実存主義」(existentialism)の奉じる「実存は本質に先行する」というテーゼは紙屑と化すだろう。一切が堅牢で不可避的な因果律に支配され、如何なる偶発的な逸脱も容認されないのであれば、我々の主体的な発想や意欲は一円の値打ちも持たなくなる。我々は超越的絶対者としての「神」の御心に否が応でも隷属せざるを得ない。

 だが、善行を積むことで神の恩寵としての救済を希求するという宗教的営為が成立するには、少なくとも「信仰」の裡に一定の主体的な意志の介在が認められる必要がある。それさえも決定論的な因果律の制約を受けているのだとすれば、つまり「信仰」を通じて救済を希求するか否かという分水嶺さえも予め決定されているのだとすれば、最早我々は永遠に量り難い「解明されない必然」の内実に就いて、無限の煩悶を重ねるしかなくなる。何れにせよ、神学的な発想の下では、我々は超越的な絶対者の意向に対する「忖度」を回避することが出来ない。信仰と善行によって、堕落した存在としての決定論的定義が解除され、神意に基づいて恩寵としての救済が下賜されるという理路は、何れにせよ造物主の絶対的な権限に屈服している。そのような信仰の形式を功利的なものとして批判し、神と恩寵を巡って取引しようと試みる態度の不健全な性質を排撃する為に、カルヴァン的な「予定説」の発想を導入したとしても、堅牢な因果律を恣意的に書き換える権利を絶対者の専管に委ねる限り、神学的な宇宙論の構造は、その本質において如何なる改訂とも無縁である。

 エピクロスは「神」という超越的な絶対者の存在そのものを否定している訳ではないが、少なくとも「神」という理念を不可知論的な「彼岸」へ放逐する方針は貫徹している。彼にとって「神」は人間の世界に如何なる関心も持たず、完璧な自足の裡に逼塞している存在であり、キリスト教の奉ずる「神」のように、人類へ救済を下賜するといった積極的な役割を担っていない。それは実質的に「神」という理念を無効化することに等しい発想である。彼は世界の生成に超越的な絶対者が関与していないことを熱心に強調し、代わりに原子の「純然たる偶発的な偏倚」を自らの宇宙論の基礎に据えた。彼は神による救済を期待しておらず、その必要性も認めていない。こうした発想は明らかに神学的な宇宙論の対極に位置するものである。尚且つ彼は、純然たる偶発性の観念を導入することで、人間の生涯を予め規定する因果律の制約を減殺した。エピクロス=ルクレーティウスの思想は、人間をあらゆる種類の他律的な拘束から解放しようと試みる主体的な意志を庇護しているのである。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 4

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 古代ギリシアの賢人エピクロスの思想を後世に伝えるルクレーティウスの貴重な詩文は、エピクロスの遺した厖大な著述(現代では、その過半は既に散逸して、我々の眼に触れる見込みは立っていない)の裡から、主として自然学に関する部分を抽出して、荘重な韻文の調べに乗せている。けれども、過去の記事において既述したように、エピクロスにおける自然学は、倫理学との間に密接な相関性を有し、彼の無神論的な信条の基礎的条件としての役割を担っている。原子論に基づく彼の世界観は、霊魂の不滅性や、宇宙の創造者といった神話的な観念の体系を根底から突き崩す危険な性質を備えている。ルクレーティウスも、自身の作品における、そうした無神論的な意図の存在を明瞭に主張している。

 その理由は、先ず第一に、私は宏大な問題を説き、ひいては人の心を宗教という固い結びから解き放とうと努めんとするからであり、第二にはかくも難解なこの問題を、すべて詩という魅力を用いて、私はいとも明快な詩に歌わんとするからである。(『物の本質について』岩波文庫 P159)

 ルクレーティウスの著述の意図が、エピクロスの思想的遺産の継承を通じた無神論的な「啓蒙主義」に存すると共に、自然学と倫理学との有機的な連携の実現に向けられていることは確かな事実であると私は考える。「クリナメン」(clinamen)という固有の創見を附加されたエピクロスの原子論は、単なる事実の考究や学術的な思弁に留まらず、我々人間の倫理的な規矩の根源的な更新を促す効用を明確に含んでいる。従って、自然学的な知見が直ちに倫理学的な知見へ移行したり、双方に関する記述が混在したりする事態は、決して不合理な現象ではないのである。

 倫理学的な観点から見れば、穢れた「享楽主義」(hedonism)の汚名を纏い、世人の誹謗に晒されることの多かったエピクロスの道徳的規範は、禁欲の代名詞として知られるストア学派のそれと、大きく異なるものではない。享楽主義者を意味する「エピキュリアン」(epicurean)という慣用的な単語は、明らかにエピクロスの思想に対する攻撃的な誤解と悪意に基づいている。彼は決して積極的な快楽の追求を推奨した訳ではない。彼の主要な倫理的目標は「苦しみの欠如」であり、無限に湧出する欲望の野蛮な命令への隷属は、寧ろ理念の実現を妨害する悪徳として斥けられているのである。

 例えば「物の本質について」の第四巻の終盤には、恋愛の欲望に対する峻厳な批判的言及が織り込まれている。

 然しながら、人間の容貌や美貌からは、薄い映像以外には何も楽しむべきものは得られない。その映像とても、往々風に奪い去られる悲惨な希望に過ぎない。ちょうど夢の中で、咽の渇いた者が水を飲みたいと思い、しかも体内の焦げつく思いを消し得る水が得られず、水の映像を求め、努力しても空しく、奔流の真中に這入って飲みながら渇いている時のように、恋愛においてもこれと同様で、愛の神は恋する者に映像を見せて欺き、肉体も眼前に見ることでは満足を与えることはできず、体中を不安に撫で廻しても、柔い四肢からは何物をも手で撫で取ることはできないのだ。最後に、四肢を絡み合わせて青春の花盛りを味っている時、又肉体がその喜悦を予知し、愛の神ウェヌスが女性の畑に種子を植えつけようとする時、彼らは懸命に抱き合い、口の唾液を交え合い、歯を唇に押しつけながら、深い呼吸をする、がすべて空しいことである。というのは、何もその為に得ることはない以上、彼らは全身を以て他の肉体内に滲透することも、解け込むこともできないからである。というのは、彼らが往々達せんと欲し、争うように見受ける目的はこれなのである。かくも熱烈に彼らは愛の抱擁に執着し、やがて四肢は快楽の力に溶かされて、だらりとなる。ついに、器関に集中された欲望が突出してしまうと、しばし烈しい情熱には短い休止が起る。彼ら自身が達せんと渇望する目的は果して何であるかに当惑し、如何なる策を以てその禍を克服していいかを知り得ない時には、又同じ狂気がよみがえり、かの熱狂が戻って来る。彼らは秘密の傷を抱いて、かくも不安の内に喘いでいる。(『物の本質について』岩波文庫 P202-P203)

 達成される見込みのない欲望に溺れることは、ヘレニズムの主要な倫理学においては明瞭なる悪徳である。非現実的な欲望への執着は、宇宙の実相を究明し、正しい知見を得ることで安心立命の境地へ至ろうとする古代ギリシアの哲学的風土に、真っ向から対立する振舞いであるからだ。恋愛の情熱の究極的な目標が「自他の融合」に存することを鑑みれば、それは明らかに非現実的な欲望、不可能な欲望の典型である。不可能な欲望に執着し、その実現を希求する余り、他の事柄に対する関心を稀薄化させるのは、ヘレニックな倫理学の規範に照らす限り、不幸の増殖を幇助する行為に他ならない。

 それに、愛を生ぜしめるものは習慣だからである。例えば、如何に軽くとも頻繁な打撃を反復して受けるものは、永い間には負けて、倒れ易くなるものである。石の上に落ちる水滴でさえ、永い間には石に穴をうがつのを見るではないか。(『物の本質について』岩波文庫 P210)

 恋愛に関する、このようなルクレーティウスの冷笑的な言種には、漠然たるユーモアが滲んでいるように感じられる。色恋沙汰で相当な痛手を蒙った経験のある男の、自戒を籠めた苦々しい述懐のように聞こえるからだ。だが、恋愛に関する彼の省察を、過剰な禁欲主義の反映に過ぎないと侮るのは軽率である。不可能な欲望を断念する能力の鍛錬は、人間の成熟と幸福を形成する上で、決して忌避することの出来ない重要な「修行」の一つである。仮に適切な断念が行なわれなければ、人間は不可能な欲望の挫折という苛烈な現実に堪えかねて、苦痛の忘却を主要な目的に据えた様々な破滅的行為に向かって邁進してしまう。

 これが我々のウェヌスである。これからアモルの名称〔即ちクピードー、欲望の意〕が生じている。これを基として、愛の甘いあの滴が心の中に注ぎ込まれ、それに続いて冷い心痛が起って来る。例えば、愛する相手がいなくても、その映像が眼前にあり、その人の嬉しい名前が耳に聞えたりする。然しながら、この映像は避くべきであり、愛を育むものは遠ざけ、心を他に転じ、集った液体はどんな肉体にでも注入し、とどめ置くことをせず、ひとたび一人の愛にまき込まれても、憂いやかたくなな苦痛を保持しないようにすべきである。何故ならば、初めの傷を新しい刺戟を加えてまぎらし、傷の新しい内に、移り気な愛で気まぐれな振舞いをして治療し、心の動きを他に転じ得ないならば、傷は活発となり、育むことによって痼疾化し、日毎に狂気はつのり、苦悩は悪化するばかりだからである。(『物の本質について』岩波文庫 P200-P201)

 こうした記述は決して将来の漁色家に向けて綴られた懇切な覚書ではない。ルクレーティウスが危惧しているのは飽く迄も不可能な欲望への固執であり、その挫折から自動的に析出される自堕落な享楽への埋没である。叶えられない愛への執着は明らかに、現実を直視する理智的な勇気の欠如から分泌されている。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

Cahier(成育・自我・素直)

*三月十五日を以て、娘が三歳になった。永いような、短いような、不思議な感覚に囚われている、と月並な科白を書きつけてみる。

 新生児室のベッドに横たえられてすやすやと眠っている生まれたての娘の顔を、大きな硝子越しに眺めた記憶が、今でも鮮明に眼裏へ残っているのに、現に今、寝間に充てている和室の中の娘は別人のように大きい。毎日同じ屋根の下で暮らしていると、その微細な変化の蓄積に気付かないのは、人間の認識に刻まれた宿痾だろうか。何となく、娘はずっと前から今の娘の顔をしているように思ってしまうが、古い写真を見返すと、比較にならないほど幼い面差しで此方を見ている。時々唖然とさせられるほど生意気で饒舌な現在の娘との会話に慣れ親しむと、この子がほんの数年前は単語一つ発声出来なかったという事実が信じ難くなる。

 余所の家の子供と比べてみなければ、精確な判断であるか結論を導きかねるが、少なくとも私の眼には、娘は非常に自我が強く、理窟っぽく、その割に人懐っこい女の子として映じている。日を追う毎に、簡単には親の言い分に耳を貸さなくなっている。何処で覚えたのか、大人顔負けの生意気な言い回しを駆使して、親の指示や言種に反論を試みてくる。自分の欲望を是が非でも貫き通そうとする上に、自分の決めた規則や習慣には異様な執着を示す。

 何でも従順に親の言いなりになってくれれば、子育ては頗る楽だろう。権力で無理矢理に押さえ付けられるのならば、種々の悩みは半減するだろう。だが、子供は親の奴隷でも所有物でもない。親の言うことを何も信用しないのでは困るが、反対に何もかも鵜呑みにされても困る。この兼ね合いの、絶妙な匙加減に何時も苦労を強いられる。

 自我の発達は、親にとっては苦労の種が増える要因となるが、同時に、歓びの源泉でもある。小生意気な言種で自分の要求を押し通そうとする娘の腹立たしい態度は、同時に貴重な成長の果実である。時には母親の口真似で、私を子供のように扱い、諭してくることもある。「だってさあ」という前置きを口癖に、反駁を試みてくる。そういう一つ一つの変化が、着実に刻まれた年輪の紛れもない証明なのだ。

 何時からか、娘は同じ保育園に通っている0歳の子供たちを「赤ちゃん」と呼んで、自分自身に就いては「赤ちゃん」ではなく「お姉ちゃん」の範疇に属するものと信じるようになった。或る日、私が保育園に迎えに行ったときなど、娘は「赤ちゃんがいるから、しーしてね」と声を潜めて囁き、無神経な父親を訓育する素振りを示したほどだ。

 これから、どんな大人に成長していくのか、全く見当もつかない。何に興味を覚え、何を愛し、何を自らの信条として選び取るのか、幾ら想像しても、夥しい可能性の放物線が視野を遮って、答えを攪拌してしまう。兎に角、自分を素直に表現出来る人間に育って欲しいと思う。私の乏しい経験を繙いて確かに言えることは、人間の苦悩や煩悶の過半は、自分の想いを素直に表現出来ない為に生じるものだということだけである。

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 3

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 古代から近現代に及ぶ人類の社会的な発展の過程は、専門的分業の発達の過程を同時に含んでいる。無論、小さな集団であっても、複数の人間の協調が存在する領域に、何らかの分業的制度が樹立されることは当然である。社会的規模の膨張は、そうした分業の網目を更に複雑な構造へ変容させていく圧力を孕んでいる。

 誕生の当初は、如何なる事物も、曖昧な領域と不鮮明な輪郭の裡に留まっている。胎児の発達を考えてみれば、こうした経緯は明瞭に観察され得る。受精卵の状態から、分娩に備えるばかりの状態に至るまで、胎児の身体が発達していく過程は、未分化な事物の組織が徐々に具体的で内的な秩序を獲得し、その領域と境界が鮮明な形態を賦与される漸進的な変貌の過程である。曖昧に絡まり合い、渾然たる集合として存在していたものが、銘々独立した「部分」の相互的協調という形態へ転換していくこと、これが「発達」という現象に附随する原理的特徴である。

 換言すれば、それは或る渾然たる「全体」が、各自の専門性を備えた「部分」へ徐々に分化していくということである。人間の肉体のみならず、社会の構造もまた、同様の「分化」の過程を不可避的に伴っている。学術に関しても同様で、古代ギリシアの時代に「自然学」という呼称で指し示されていた領域は今日、無数の専門性の砕片に分割されている。自然科学は専ら事物の普遍的で客観的な構造の究明に情熱を燃やし、仮説と検証の絶え間ない往還を通じて、如何なる社会的意味からも切り離された純然たる「実相」の検出に邁進している。

 だが、エピクロスの時代にあっては、こうした自然科学の発想は、単に実相の検出を追求するだけの営為ではなかった。それは古代の学問が、現代の学問に比べて遥かに未分化な性質を有し、それゆえに綜合的な全体性を保持していたことの反映である。彼の綜合的な思索の裡にあって、自然学と倫理学とは相互に不可分な関係を有している。彼にとって自然学の探究は直ちに倫理学の探究を意味していた。それは彼の思索が「神話的なもの」の排斥という重要な主題に向かって捧げられていたことの、必然的な帰結であると言える。

 例えばルクレーティウスは「物の本質について」の第三巻において、「精神」(animus)或いは「霊魂」(anima)の性質に就いて論じながら、霊魂が肉体から独立して存在するという見解を綿密な筆致で批判している。彼は霊魂が肉体との有機的な合一の裡に存在しており、肉体と同様に可死的な事物であることを繰り返し強調している。こうした力説に籠められた意図が「死後の世界」という観念の否定に存することは概ね確実であると思われる。「死後の世界」という幻想的且つ神話的な想定が成り立つ為には、霊魂の独立的な性質が明証されねばならない。肉体を単なる現世的な「容器」の地位に貶め、霊魂を肉体と無関係に活動する存在として、肉体の制約から弁別するという「霊肉二元論」の発想は、不可避的に「冥府アケロンの恐怖」を招来することとなる。恐らく、直接的にはプラトンの掲げた言説に対する批判的言及として考想されたと思われるエピクロスの見解は、霊魂の不滅性を否定することを通じて、「死後の世界」に関する神話の有する道徳的な権威を解除しようという企図を含んでいる。同時に彼は「死」という現象が我々の身心に及ぼす絶望や恐怖といった負性の心理的影響を無効化することを狙っている。こうした発想は、単なる自然学の探究に留まらず、銘々の人生を如何にして構成するかという倫理学的な実践の意識と強固に結び付いていると言えるだろう。換言すれば、エピクロスにとって哲学的な考究の営為は、常に自分自身の人生或いは実存と不可分の関係を有しており、従って彼の厳密な省察への情熱は、より善く生きることへの情熱と完全に同義なのである。霊魂の不滅を否定することは、彼の提唱する倫理学の規範にとって重要な手続きであった。端的に言えば、エピクロスの哲学は総じて「彼岸」という観念の破壊を目指しているのである。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

Cahier(運命・逆境・clinamen)

エピクロスの原子論によれば、我々の住まう宇宙は、厖大な数の「原子」と無限に広がる「空虚」によって構成されている。そして「原子」の直線的な運動が、純然たる偶然に基づいて唐突に微妙な「偏差」を示すことによって、原子間の偶発的且つ相互的な結合が生じ、それを端緒として森羅万象が形成されたのだと彼は論じる。

 こうした論理は、決定論的な思想に対する叛意を明確に含んでいる。何の脈絡もなく、如何なる因果律によっても規定され得ない純然たる偶発的な偏差としての「クリナメン」(clinamen)は、世界の原初から未来に向かって営々と紡がれていく必然性の秩序を動揺させ、その完璧な均斉を破綻させる威力を秘めている。

*そういう発想は、案外日常の生活にも役立つのではないかと、不意に思い立った。私が責任者として管理している店舗に就いて、昨夏以来の業績悪化が一向に恢復の兆しを示さず、寧ろ更なる凋落の気配さえ窺わせていることに、入居している取引先が愈々業を煮やし、本部の重役を売り場に派遣して権高な態度で改善を要求してきたのが先月のことである。売り場の写真を撮られ、事細かな指摘と執拗な叱責を浴びて、改善の計画書を提出しろと命じられる日々である。私の直属の上司も対応に苦慮して東奔西走している。そもそも直近の数箇月は会社全体の業績も芳しくない上に、私の店舗は競合する近隣の商業施設の新装開店の影響を蒙って、余計に売上の低迷が著しい。それまでの一年間は逆に、その競合が改装工事に伴って閉店していたので、私の店舗は空前の好況を謳歌していた。一年限りの極楽は昨夏の新装開店で忽ち堪え難い地獄へ変貌し、彼是と対策を打つものの、目覚ましい成果には一向に結び付かぬまま、年を越してしまった。

 前年の実績との乖離が余りに大きく、日々絶望が募る。僅かな希望を踏み躙るように来る日も来る日も予算に対する深刻な惨敗が続き、積極的な販売行為よりも乏しい収益を確保する為の防衛的な運営が、方針の根幹を占め始める。そういう臆病で怯懦な姿勢を取引先は憎々しげに見凝めてくる。そして今日、私は本社における会議の後で、販売部長から呼び出しを受けた。

 過去の経験の蓄積で、大抵の叱責には免疫の出来ている私であっても、部長から直接召喚されれば流石に身構えてしまう。だが、こういう場面では、逃げ出したり怯えたりするのが最も低劣な下策である。数字が思わしくないときほど、頑張って前を向いて姿勢を正していた方が好ましい。相手の眼を見据えて、私は静かに部長の叱声を待ち受けた。

 ところが、部長の説諭は聊かも高圧的なものではなかった。指摘の内容自体は、現実を容赦なく見据えたもので、決して甘やかすような響きはない。此処で自分の行動を革め、窮状を打開する為の情熱を持たないと駄目になるぞという含意が、言葉の隅々に行き渡っている。それでも、私は温情を感じた。私の能力に不満があれば、自身の一存で首を挿げ替えることの出来る権限を、部長は持っている。それを行使せずに、寧ろ激励の意図を籠めて貴重な時間を割いてくれたのだ。感涙はしないが、その有難い心意気に絆されない私ではない。

*競合の新装開店が、売上の低下に決定的な影響を及ぼしていることは、概ね間違いのない事実である。昨年の好況が、同じく競合の一時的な閉鎖によって齎されたものであることも事実である。従って、眼前の深刻な不況には合理的な必然性が存在する。けれども、そうした必然性に一から十まで隷属するかどうかは、合理性の有無とは別個に切り分けて論じられるべき問題である。私に課せられた本来の役目は、現実の純然たる分析ではなく、その建設的な改善である。そうであるならば、運命への隷属は明らかに消極的な悪徳に類する態度であろう。

 好況のときは、眼前の現実に追従するだけで素晴らしい成果が手に入る。殊更に頭を悩ませる必要はない。人手を確保して精一杯働けば、自ずと輝かしい業績が手許に転がり込むのだ。そうした状況においては、現実の精確な把握と相応の機械的な準備だけで仕事が済んでしまう。現状を打開せずとも、便乗していれば万事快調に運ぶのである。

 けれども、一旦不況の局面に転じれば、現状の追認は直ちに破滅と衰亡を意味することになる。従来の正義は、最も頽廃的な悪徳に様変わりする。そのとき、運命への隷属は、破滅の幇助に過ぎない。本当に大切なのは、運命を嘲笑することだ。換言すれば、不況という数値的な現実の裡にあって、何らかの「異常値」を生み出すことが肝腎なのである。

 それはいわば「クリナメン」を生み出すことに等しい。現状に安住する限りは避け難い或る必然的な因果律を強引に捻じ曲げること、それだけが不幸な必然性による圧政を斃す為の唯一の方途なのである。部長と話した後、私は次回の出勤日に関して、前年の単品売上実績を調べた。一番売れている商品と、その売上金額を確かめた。せめて、その単品の売上だけでも、去年の自分を越えられないだろうか。そうやって、少しでも「異常値」を作り出すことは出来ないだろうか。その些細な「クリナメン」を足懸りに、この閉鎖的で絶望的な窮境に風穴を穿つことは出来ないだろうか。

 部長が、単に数字の表面だけを眺めて批判しているのではないことは、差し向かいの会話の過程で直ぐに感じ取れた。彼が不満に思っているのは、現実に屈服している私の冷え切った臆病な「懶惰」なのだ。こんなところで躓いてる場合じゃないと、部長は言った。もう一度確り自分の足で立ち上がれと言われているのだと、私は思った。異常値、という言葉が脳裡を過った。風穴を穿つ為には、異常値が必要だ。それは局所的なもので構わない。僅かな「クリナメン」が森羅万象を生成するのと同じように、小さな挑戦が現状を変革する糸口になるのだ。

 過去を顧みれば、私もそうやって働いていた。今よりも若く愚かだった頃、売上の低迷している店舗に配属される度に、私は無我夢中で、手当たり次第に、色んな策を講じて無謀な情熱を燃やした。その情熱に理性と知識が足りないことをやがて私は恥じるようになったが、理窟を弄んでも現状が動かないことは事実なのだ。小利口な人間であってはならない。家路に就きながら、私は自分が考えたこと、決めたことを部長に宣言したいという想いに駆られた。自宅の最寄り駅を通過して、そのまま閉店作業を終えた売場へ赴き、パソコンを起動した。片付けを終えて談笑するアルバイトのスタッフたちの傍らで、私は熱心にキーボードを叩いた。読み辛く気色の悪い長文と化したメールを送信して、溜まっていた息苦しさが不意に和らいだような感覚に包まれた。

 学生の女の子がアメリカ旅行の土産に買ってきた濃厚なチョコレートを一粒貰って、一頻り他愛のない雑談を交わしてから、私は灯りの落ちた売り場の広大な通路を、出口に向かって歩いた。無論、未だ現実は何も変革されていない。だが、変革を志す想いに比べれば、惨めな現実など何の意味があるだろうか? 最早、これは業務上の成果の問題ではない。私という人間の、内在的な格闘の問題なのだ。

ルクレーティウス「物の本質について」に関する覚書 2

 引き続き、ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)に就いて書く。

 エピクロスの原子論は、従来の原子論に対して付け加えられた独自の創見である「クリナメン」(clinamen)即ち「原子の斜傾運動」によって画期的な意義を帯びたと一般に評価されている。

 この問題に関して、こういう点もまた君に理解して貰いたい。即ち、原子は自身の有する重量により、空間を下方に向って一直線に進むが、その進んでいる時に、全く不定な時に、又不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らすと云える位なそれ方をする、ということである。ところで、若し原子がよくはすに進路をそれがちだということがないとしたならば、すべての原子は雨の水滴のように、〔一直線に〕深い空間の中を下方へ落下して行くばかりで、原子相互間に衝突は全然起ることなく、何らの打撃も〔原子相互間に〕生ずることがないであろう。かくては、自然は決して、何物をも生み出すことはなかったであろう。(『物の本質について』岩波文庫 P71-P72)

 この微妙な偏差が、あらゆる事物の生成を促す根源的な素因として作用する。こうした観点は、換言すれば「偶然」という要素の理論的な導入である。重要なのは、クリナメンと呼ばれる偏倚が「全く不定な時に、又不定な位置で」生じる現象であると明記されている点である。つまり、クリナメンは「偶然」に関する決定論的な解釈、即ち「偶然とは、未だ解明されない必然に過ぎない」という認識を根底から拒絶する着想なのである。偶然とは不充分な認識の視野に映じる幻覚に過ぎず、我々の認識が神性の次元に位置していれば、如何なる偶然も必然の過程として露わに可視化されるという決定論的信憑は、全知全能の神を奉じる宗教的信憑との間に緊密な紐帯を締結していると言える。つまり、クリナメンの理論的導入は、それ自体が「全知全能の神」という超越的表象への批判と抵抗を含んでいるのである。それは万能の神による被造物の全面的な支配を破綻させる重要な威力を秘めている。

 総てが絶対的な始原の「一者」から流出し、堅牢な必然性の階梯と連鎖を辿って、この瞬間の「現実」を形成しているのだという決定論的な思想は、人間を不動の宿命の下に拝跪させる。だが、エピクロスのみならず、ストア学派セネカも含めて、ヘレニズムの思想家たちは一様に「運命を嘲笑すること」に人間の本質的な美徳を配置している。運命への屈従は、そもそも人間的な美徳へ到達する為の努力を根底から否定する邪悪な性質を帯びている。決定論による恐喝に屈することは、人間を単なる物質へ還元することと殆ど同義である。

 なお又、すべての運動は常に関連し合っていて、新しい運動は不変の順序に従って、必ず古い運動から発生するのだとしたならば、又、原子が進路をそれることによって〔新たなる〕運動の発生――これこそ運命の掟なるものを破棄するものであり、因が因に続いて無限にわたることをなからしめるものであるが――を起すことがないとしたならば、地上に在る生物の、此の自由意志なるものは一体何処に起因しているであろうか? 我々が好む方向に進み、我々もまた時を定めず、処を定めず、我々の心の導く方向へ運動を起す此の意志は、運命とは関係のない此の意志は、一体何処に起因しているであろうか? 何故ならば、この運動を始めさせるものは各自の意志であり、運動はこの意志から発して四肢に波及するものであることは、疑いの余地がないからである。(『物の本質について』岩波文庫 P73)

 クリナメンが「運命の掟」を断ち切る特異な現象であることをエピクロス=ルクレーティウスは明瞭に意識している。始原の瞬間から未来永劫に亘って持続する「必然性」の鎖を、原子の偶発的な偏差が歪ませ、乱れさせるという現象の裡に、彼らは人間性の根拠を見出しているのである。

 超越的で絶対的な存在(神)が宇宙の頂点に鎮座し、森羅万象に関わる因果律を独占的に支配しているのならば、人間の自由意志はその実在と機能を否定され、人間の歴史は、唯物論的な構造の連鎖に還元されてしまう。総てが予め定められた完全な調和の裡に封じられているのならば、人類の歴史的な発展も社会の進歩も単なる不可避的な現象に過ぎず、そこに人間に固有の尊厳や矜持を認めることは不可能になる。

 超越的で絶対的な存在への熱心な帰依だけが幸福へ通じる扉を開くのだと説く宗教的な信仰は、超越的な因果律への盲従を選ぶことによって、自らの理性を度し難い蒙昧の深淵へ遺棄する暗愚な人間たちの数を無際限に増大させる。彼らは自らの判断よりも超越的な絶対者の有難い教説を優先し、神の定めた規範を遵守することに身命を惜しまず、その報酬として下賜される理想的な救済を夢見ながら死んでいく。死後の世界を想定し、彼岸の幸福を褒賞として、過度に道徳的な地上の生活を信徒に強いる宗教的支配の構造は、詐欺的な性質を孕んでいるのである。

 エピクロスが自らの倫理学に関する教説において、死を恐懼することの無益を強調し、死に対する不安や絶望に苦しむことの不毛を繰り返し説いたのも、煎じ詰めれば彼の無神論的な意志の明瞭な反映であろうと思われる。死後の世界を、我々は内在的に認識することが出来ない。我々の周囲で展開される外在的な事象としての「死」は、例えば霊魂や輪廻といった宗教的な幻想を否定する厳密な証拠としては機能し得ない。言い換えれば、内在的な経験としての「死」は、我々の感覚的な明証性の圏外に定位されるべき事柄であり、従ってそれは原理的に確証の不能な対象として存在しているのである。確証し難い事物に就いては、如何なる仮説も成立し得ることを我々は承認せねばならない。それを単一の幻想的な物語に向かって強制的に接続する総ての宗教的権威は、エピクロスによる厳格な批判の対象に指名されるのである。確証し難い事柄に関して、特定の単一的な説明に絶対的な優越を認めるのは、論証ではなく信憑であり、客観ではなく恣意である。

 原子論は造物主という幻想的観念を破壊し、クリナメンは絶対的な因果律を破綻へ追い遣り、死に対する恐怖の無効化、或いは死後の世界という幻想の否定は、宗教的道徳の抗い難い威力を減殺する。これらの哲学的探究の成果が悉く、宗教的な支配への叛意を含んでいることに我々は充分な注目を払うべきである。それは我々の精神的な自由を恢復し、他者への蒙昧な依存を癒やして「自律」の境地へ導き入れる崇高な教育的効能を発揮するのだから。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)