サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(信仰/理性)

*人間が何かに固執するとき、そこに働いている情念の形態や、それが形成された歴史的経緯は様々であるだろう。人間は頻繁に不合理な情熱に囚われるし、冷静に考えるならば不毛であると結論せざるを得ない明確な謬見に対して、服従の姿勢を解くことが出来ないことも珍しくない。

 そうした盲従の姿勢は不合理であるが故に、浅薄で賢しらな批難の標的に選ばれることが多いけれども、人間が何らかの偉業を成し遂げる為には、不合理な情熱や常軌を逸した執着が重要な役割を担うことも少なくない。要するに私は「創造/批評」の二項対立に象徴されるような、人間の実存的様態の孕む問題に就いて漫然と考えようとしているのだ。或いは「行為/認識」と呼び換えてもいいし、表題に掲げたように「信仰/理性」と書き直しても構わない。この素朴な二元論的思惟の構図から、何らかの有益な知見を蒸留したいのだ。

*私は理窟っぽい人間である。言葉を愛し、読書を愛し、こうして誰の関心も惹かない駄文を冴えない街娼のように倦まず弛まず書き殴り続ける。以前は小説を書くことに情熱を燃やしていたが、どうしても一つの物語を営々と紡ぎ続けることに心が堪えられない。それより、色々な事柄に就いて論評したり、自分の思考の航跡を見凝めて尾行する方が好みである。言い換えれば、私は一つの想像的な世界を構築するという地道で情熱的な営為に身を捧げられないのだ。つまり「没頭」が苦手なのである。直ぐに意識が逸脱と遁走を開始する。他の可能性を排除するという視野の狭窄を戦略的に堅持する才能を欠いている。

*何かに没頭するとき、人は言葉を忘れ、無心の沈黙の裡に懐かれる。氾濫する感情や省察は、言葉という粗い網目を擦り抜けて逃れ、僅かな指の隙間から清らかな水が漏れるように、肉体の隅々にまで浸透する。没頭しているときも思考は続いているが、それは言語によって統制されず、もっと直観的で、感覚的で、綜合的なものだ。言葉は分析し、巨大な同一性を分別し、違いを際立たせ、同時にあらゆる細部を捨象し、要約する。こうした情報の調理は、言葉によって具体的な形を与えられ、他者の眼に映じ、他者の耳に届くようになる。言葉は何よりも先ず、コミュニケーションの象徴であり、不完全な信号であり、汲み尽くし得ない真実の断片を運ぶ器である。語る相手が自分自身であるとしても、他者であるとしても、それは感じられるだけで明示されない対象に、可視的な形状を授ける。言葉は渾沌に形状を授ける秘蹟を通じて、自己自身との対話を切り拓き、無限の他者との対話を可能にする。

*没頭するとき、人間は他者を意識しない。他人の意見を意に介さないほどに、彼は逼迫した情熱の焔の裡に棲んでいる。彼は他人との関係を絶ち切り、或る稠密な空間の内部に自分自身を幽閉し、言葉にならない対話を繰り返し、曖昧なものに形を与える。けれども、その錬金術師のような作業を通じて導き出される言葉は、恐らく特殊な含意と文脈に繋がれた、平易な言葉だろう。

*言葉の間を泳ぎ回る人々。言葉にならないものに名前を与えるのではなく、既に与えられた言葉の森の中で、愉悦と昂揚を味わう人々。理智は、言葉の世界を駆け回る。様々な語彙に通暁し、その歴史的な遺産を継承し、言葉同士の異種交配を通じて新たな造語を繁殖させ、言語化された風景の中で生きる。彼らは言語化し難いものに疎くなり、言語化されたものだけが存在するという錯覚に傾く。それは言い換えれば「意味」だけに聡くなるということだ。純然たる風景、音楽、感触に耽溺することはない。あらゆる事物は常に「意味」を担っていなければならない。無意味なものを排斥し、意味と意味との関係が調和的であることを尊ぶ。つまり、論理的な構成の美しさを愛する。

*没頭は、無意味を無意味と感じない精神的姿勢を欠いては成り立たない。無意味なものを価値に置き換える超越的な信仰に支えられていなければ、没頭は持続しない。けれども批評家は、事物を単一の意味によって推し量ることを嫌う。単一の論理に総てを捧げることに苦痛を覚える。いや、これは必ずしも批評家の性ではないかも知れない。単一の論理を終生維持し続ける頑迷な批評家も有り得るだろうからだ。だが、没頭という言葉は、理性を没することを暗示する。それは愚昧ということだろうか? 少なくとも、愚直な人間でなければ、何か単一の目標に向かって総てを注ぎ続けることは出来ない。他の選択肢を考慮するという客観的な姿勢は、愚直な盲従を妨げるだろう。

*信仰は、或る単一の価値に身を捧げることを意味する。それは他の選択肢を意図的に棄却するという過程を必然的に伴う。複数の相反するものを同時に信仰することが出来るだろうか。それは信仰の名に値するだろうか。何かを得れば、何かを失う。それが生成の原理であり、要諦である。それならば、何かを信じることは、何かを信じないことと不可分であるだろう。何も信じないのならば、逆説的に、彼は何もかも恕すことが出来るだろう。単一の規範に縛られないのならば、それは要するに、複数の規範の並立を容認することと同じである。何も信じられないという苦痛な懐疑は、何を信じても同じことだという諦念を含んでいる。どんな事物も、揺るぎない価値を保ち続けることはない。こうした相対性、流動性は、自ずと真理の複数性を認めることに帰着する。

*流動的な実存は、単一の価値を認めず、価値の恒常性も認めない。価値は絶えずくるくると変わり続ける。それゆえに流動的な主体は、瞬間的な価値の形成を重んじる。有限の価値、それが偶発的に析出されたという事実の確かさを愛する。それは価値の恒常性を聊かも約束しないが故に、何ら信仰の礎石とはなり得ないが、だからこそ愛惜に値するのである。揺るぎない価値を、その不滅の性質ゆえに愛するのとは異なり、流動的な主体は、事物の有限性を愛する。事物の有限性そのものが、特別な価値を析出するのである。

*この点に関して、人々の意見は分かれる。事物の価値を、その不滅性に求めるか、有限性に求めるか。これは一つの実存的な分水嶺である。価値の恒久的な重さに絶望する人もいれば、その気の遠くなるような重さを愛する人もいる。一般に移り気であるとか飽き性であるとか、そのように評価される人々は恐らく、事物の有限性を価値として認めているのである。何れ失われるものであるからこそ、当該の事物は価値を帯びる。彼らの信仰が頼りないものであるように見えるのは、彼らの信仰の対象が様々に移り変わる為だが、価値の有限性自体を愛するという基本的な方針は変わらない。彼らは普遍的な価値を信奉せず、自己の同一性に対しても熱心な関心を持たない。明日の自分と今日の自分とが、相互に統合し難い分裂を抱えていることに驚かない。複数の価値が共存する事態に苦しみを覚えない。この瞬間の愛しさを軽視しないのは、彼らが普遍的な価値を信じておらず、長期的な枠組みに基づいて、単一の規矩に則って人生の全般を統御するという考え方を重んじていないからである。

ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 2

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 ピュタゴラスを開祖とする一群の学統は、世界に内在する数理的な秩序への情熱的な信仰によって特徴付けられている。とはいえ、彼らは必ずしも世界の総てを均一な数値的基準によって測定しようと試みた訳ではない。様々な現象を、抽象的で普遍的な度量衡の単位へ還元する為に、数理的な秩序の神秘的な権威を強調した訳でもない。彼らは数学という観念的な体系を便利で合理的な道具として自在に使役したのではなく、専らその秘教的な価値を崇拝し、特権化したのである。

 けれども、ピュタゴラスを、近代を特徴づけているこうした数量支配のいまだに逡巡している先祖にしたてようとするのは、おそらく誤りであって、ピュタゴラス学説は、じじつ、数のある概念を含む一世界観によって支えられてはいるものの、それは、今日われわれのものである数の概念とは、ぜんぜん異質なものなのである。今日わたしどもは、数を単位数ユニテ〔数1〕の寄せ集めと考えるであろうし、かくて、3はわれわれにとっては1に1を、またさらに1を加えることの結果としてでてくるため、したがって、数は単位数の反覆から生じるのである。演繹とか冪の技術にいたる展開デブロプマンとかの諸哲理が生じたのは、このような概念からである。

 これに反して、ピュタゴラス教徒にとっては、数は単位数の分割から生じたのである。アリストテレス(『形而上学』一四巻、三章〔?〕)が述べているように、《一者は二分されて二倍になる。一は二を生じたのである》。したがって、適切に語るなら、単位数の複数はない。あるいはむしろ、一者アン(τὸ ἓν)、つまりもろもろの数と、1の数モナド、つまりもろもろの数えられるものの数とを、区別しなければならない。このような世界概念は、単位数が数の一部をなすどころか数が単位数の一部をなすアンヴロプマンの哲理に、達するのである。

 かくて、今日わたしたちは、好んであらゆる数を一連の線分によって図式化するであろう反面、ピュタゴラス教徒は、いっそう好んで、数を円の分割によって表現するであろう。(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』文庫クセジュ p.44)

 ピュタゴラスにおける数理的な概念は、世界を均質な数値へ還元し、測定する為に重用されているのではない。若しも測定が最大の目的であるならば、測定される現象は無限に増大する単位数の累積によって覆われ、包摂されるだろう。そのとき、世界を統括するものは単位数という同一性の果てしない反復と蓄積である。しかし、ピュタゴラスにおける数理的概念の体系は、そのような同一性の反復としては定義されない。「ト・ヘン」(to hen)と「モナド」(monad)とを混同する謬見は排除されねばならない。ここには「一者から万物が生成する」というプロティノスの「流出説」(emanationism)を連想させる考え方が埋め込まれている。尤も、こうした構想はプロティノスの独創であるというよりも、古代ギリシアに瀰漫する伝統的な思惟の様式であると看做す方が適切な解釈であるように思われる。ピュタゴラス的な数理は、限定された同一性としての単位数を素材として構築される体系ではない。それは総ての事象を包摂する巨大な同一性の内部に生じる独特の秩序を意味している。単位数は無限に増殖し得るが、ピュタゴラス的な数理は、事前に定められた境界の内部を循環するだけで、その総量は増殖しない。同様に「一者から万物が生成する」という理路は不可避的に、生成する事物の総量の限界を事前に規定しているのである。無限の膨張という観念は、単位数の無際限な反復と同期している。しかし、ピュタゴラスの学説に従うならば、万物の「始原」(arkhe)である「一者」(to hen)は、そのような増殖の余地としての「空虚」(kenon)を聊かも含有せず、事前に定められた境界に制約されているので、果てしない測量の営為は原理的に不要なのである。彼が重んじるのは無限の冒険的な測量ではなく、個性的で単一的な「数」同士の関係の性質である。「一者」の分割によって生み出された諸々の「数」は、それぞれに固有の特徴を持ち、均質な単位数としての役割を喪失している。言い換えれば、ピュタゴラスの唱える特異な数論は、均質な単位数の配列や結合によって森羅万象を解釈し説明しようとする「原子論」(atomism)の構想とは全く相容れない階層的な秩序を内包しているのである。

 原子論の基本的な構想は「アトム」(atom)或いは「モナド」(monad)と呼ばれる分割不能の最小単位を想定し、万物の組成や現象をそれらの離合集散の過程として説明するというものである。言い換えれば、原子論の見地に立つ者は、世界の総てを単位数の増減や集散として解釈し、尚且つ、原子たちの自由な運動を保証する根源的な舞台としての「空虚=ケノン」(kenon)の存在を前提的な条件に定める。原子論的世界観の特徴は、森羅万象の限度を定めないという点に存する。これは世界の総体を単一の巨大な同一性として、つまり「一者」として把握する考え方と対蹠的である。あらゆる生成的事物の始原としての「一者」は、総ての可能性を内蔵しているが故に、如何なる外部も持たず、如何なる空虚も持たない。総ての事象は「一者」の内部で完結的に営まれ、推移するのである。従って「一者」としての世界は必ず何らかの限界を備えている。外部を持たないということは、言い換えれば「無限」という性質を持ち得ないということである。若しも世界が無限であるならば、我々は「世界の外部」の存在を否認することが出来ないだろう。万物が事前に包摂されている根源的な「一者」の存在を信奉する限り、人間は「世界の外部」を想定することが出来ない。ピュタゴラスは万物を「一者」という包括的で絶対的な同一性に還元する。原子論者たちは、万物を均質な単位の離合集散として解釈し、それゆえに「無限の空虚」という観念を理論的に要請する。

 ピュタゴラスの数理的な世界観は、根源的な「一者」から流出し、生成する万物の間に「諧調」を見出そうとする。こうした特徴は如何なる含意を暗示しているのか。それは万物の生成の背後に、厳密な設計図と整理された法則の先在を想定する思惟の方式を表現している。万物は無作為に、専ら偶然の集積に衝き動かされて、多様な生成を遂げるのではなく、事前に定められた規範に従って、崇高な諧調を形作るように促されているのである。森羅万象は、数理的な秩序に則って生滅を繰り返す。言い換えれば数理的な秩序は、具体的な個物の生成に先立って存在している。こうした考え方が、プラトンの「イデア」(idea)という概念の形成へ繋がっていることは明白である。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

 

ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 1

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)と同じく、古代ギリシアの思想史を扱った本書は、翻訳であることも手伝って、聊か難解な歯応えを強いられる。しかし、独特の伝統に根差した専門的な事案を語るに当たって、必ずしも平易な日常語で綴られた文章が常に有益であるとは言い切れない、というのが私の個人的な意見である。特殊な用語を殊更に日常語へ置き換えてしまうと、却って本来の独自な含意が見え辛くなり、普段着の言葉としての語義に引き摺られて誤った思い込みや錯覚を喚起してしまう虞がある。逆に生硬で引っ掛かりの強い文章の方が、屈折し錯綜した論理の骨格をありのままに映し出している場合も少なくないのだ。

 ミレトスの賢人タレスに発祥すると伝えられる古代ギリシアの自然学の系譜は、それまで当然の風潮として往古の社会に流通していた神話的思考からの離陸を担う思想的革命の軌跡として遇されている。森羅万象を擬人化した神々の思惑や振舞いに還元する物語的な思考の形態は、人間的知性の最も素朴な形態の産物である。自然学者たちは、古来受け継がれてきた神話的な物語に対して尊重の意向を示しつつも、その伝統的な認識を安直に鵜呑みにすることを差し控え、眼前で生起する様々な生成的現象の稠密な観察と分析に赴いた。彼らは現象に内在する摂理と法則を明瞭に確定することに関心を懐き、伝統的な擬人化のナラティブを排除することを選んだのである。

 この転回は、具体的には如何なる意味を持つだろうか。イオニア学派の思想家たちが、神話的な伝承を無批判に受け容れる盲目的な思考の形態を棄却したことは事実である。しかし、その決断は必ずしも彼らが合理的な無神論の信徒であったことを意味するものではない。彼らは神話的な伝承を排除して、現象界の実相を詳しく検分することに知的な努力を捧げたが、それは神を否定する為ではなく、神と現象界との過剰な癒着を是正する為である。自然学者たちは、現象そのものの内在的な法則を見究めることを重視し、総てを超越的な存在の意向に由来すると看做す神話的な思惟の作法を棄却した。言い換えれば、彼らは天界と地上との強固な紐帯を可能な限り緩めたのである。不可視の超越的な原理が森羅万象を制御しているという観念への懐疑、或いは、その超越的な原理を白日の下に連れ出そうとする知的な野心、それがイオニア学派の系譜を形作る重要な衝迫であると思われる。彼らは地上の様々な現象が、神々の為せる業であることを否定していない。ただ、彼らはその現象を操る神技の内実に就いて、詳細な解明を望んだのである。

 但し、万物の根源を「水」に求めたタレスや、それは「空気」であると論じたアナクシメネスと比較したとき、アナクシマンドロスの思想は聊か毛色が異なるように感じられる。万物の「始原=アルケー」(arkhe)を「限定されないもの=アペイロン」(apeiron)であると表明した彼の思惟は、地上的な生成の諸相を観察することに重きを置いた他の思想家たちから離れて、イタリア学派の「一者」の思想に通じる理路に結び付いていたように見受けられる。「アペイロン」という概念は定義上、特定の物理的な性質を示すことがない。それは万物の始原であるが故に、完璧な可塑性を備えていなければならず、従って具体的な形状に偏倚することが原理的に許されないのである。言い換えれば、この「アペイロン」という概念は、我々の肉体的な感官による認識と記述の対象から逸脱しているのだ。こうした発想は、生成の具体的な規則を見出そうとする経験論的な伝統とは必ずしも合致しない。実証的な観察を通じて得られる様々な知見の綜合として「アペイロン」の概念が導出されるのではなく、専ら理論的な考究の結果として、一つの不可避的なコロラリーとして「アペイロン」の存在が要請され、想定されるのである。

 「アペイロン」という特定の個性を持たない包括的な「一者」から、万物が流出し、無限の生滅という不可避の宿命を烙印された。こうした考え方は暗黙裡に「生成」を「堕落」或いは「悪徳」と看做す宗教的な観念を内包している。生成は不正であり、消滅はその贖罪である。こうした命題から「肉体」を「霊魂の墓所」として倫理的に貶下する習慣を導き出すことは極めて容易い。地上的な現象を超越した不可知の「始原」へ回帰することが悦ばしい浄化であると考えられ、理性の力を駆使して「アペイロン」の仕組みを理解することが、宗教的な熟達の過程であると結論される。「死」は「解脱」であり「大いなる歓喜」を暗示する。地上的な生成を蔑視する思想は、必然的に「死後」の世界を荘厳する論理的な要請に制約される。地上の現象に眼を輝かせて見蕩れる種族の人々は、殊更に「彼岸」の幸福を欲したりしない。両者の対比は哲学に限らず、人間的文明のあらゆる領域、あらゆる範疇において普遍的に顕現する根源的な図式であると言える。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

 

Cahier(transcendence,appearance,correspondence)

*未だ前途は遼遠で、理解の浅い事柄ばかりだが、哲学や思想に関する書物を渉猟する日々を過ごし、少しずつ、オリーブの搾油のように緩慢な速度で、知識の断片が累積し、それらが徐々に化学反応を示して有意な塊を析出しつつある。勿論、分かることよりも分からないことの方が圧倒的に多い。

 一般に哲学史においては「合理論」と「経験論」の二大潮流が存在すると言われる。尤も、この区別は極めて根源的なもので、様々な衣裳に袖を通しながら入れ替わり立ち代わり幾度も舞台の上へ登場する古参の役者のようだ。「霊肉二元論」も「普遍論争」も、煎じ詰めれば同一の伝統的な図式へ帰着する。

 経験論は、地上における感覚的な現象を愛し、五感を通じて捉えられる事象(それは必ずしも生身の肉体に附属する感官でなくとも良い。様々な機器の助けを借りてもいい。重要なのは、対象が何らかの形で実証的な観察に値するということだ)に専ら主要な関心を寄せる。合理論は、感覚による認識を排除して、抽象的な観念を操作することに長けている。彼らは観察することの出来ない不可知の対象に就いて、精緻な整合的論証を組み立てることを好む。古代ギリシアにおける「イオニア学派」と「イタリア学派」の二大潮流もまた、こうした雑駁な図式に依拠して整理することが可能だろう。数学を重視し、普遍的な「真理」の先行を語ったプラトンと、感覚による確証を尊び、独断を排して複数の仮説を維持することの意義を説いたエピクロスの対立も同様である。無論、何れかに偏するのが不合理であるのは明らかだが、偏しない限り、極端な帰結へ達することが出来ず、その構想の裡に埋蔵された可能性が限界まで掘削されずに終わってしまうので、つまらないと言えば確かにつまらない。そもそも、論理というのは極限まで達することを不可避的に強いられる機構でなければ役に立たない。

*巷間に流布する「西洋占星術」の算定によれば、私の太陽は蠍座に、月は獅子座に属する。しかし「インド占星術」において重視される「ラグナ」(西洋占星術における「アセンダント」に該当する)は、ネットで調べた限りでは「双子座」であるらしい。

 興味本位とはいえ、今まで色々な占星術の記述に眼を通してきた経験から言えば、大抵の場合、蠍座は寡黙で秘密主義であり、嫉妬深く、支配欲と探究心が強い、という概略が示される。また、職人や探偵や研究者に向いており、他者と頻繁に接する職業には適さないと言われる。強靭な体力を有し、変態的な性欲を持ち、水の星座に分類されるので感情的(但し、マグマのように抑圧された深刻な情念)で、野性的な洞察力を備えている。

 占星術の熱心な信奉者ではないので、こうした要約が適切かどうかも分からないが、こういう図式に自分が合致しているかどうかに就いては、正直心許ないというのが本音であった。改めて自分を顧みても、寡黙ではなく寧ろ口が軽く、秘密を守れないタイプであるし、嫉妬心に関しても、矯正の努力の結果かも知れないが、人と比べて特に強いとは思わない。昔から、他人に憧れたり羨んだりすることが少ないのである。支配欲に就いては、確かに自分の思い通りに物事を動かしたいという考えは持っているが、他人の行動を一から十まで管理するような煩雑な欲望は有していない。探究心はあるが、比較的飽き性である。見た目が華奢な割に体力は意外にあるが、腕力はなく、猫背で肋骨が透いて見える。性欲に関しても、一回で精々一時間、終わると直ぐに眠気に襲われる。嗜好の面でも頗る平凡で、変態的な探究心は乏しい。感情は劇しいと言えば劇しいが豊かではなく、どちらかと言うと妻も含めて、周囲からは理詰めの冷酷な人間であると評される。

 ところが、今まで殆ど触れたことのない双子座に関する概説を読むと、色々と符節を合する点が視野に展開されてくるのである。

 ウェットで情熱的な蠍座の肖像とは全く異質な要素が、双子座の象意に充てられている。理智を重んじ、言語全般を愛し、コミュニケーションに長け、読書や議論やユーモアを好む。一般に双子座の特徴と言われる、二重人格で本音と建前の乖離が著しい辺りも腑に落ちる。移り気で飽きっぽいのも当たっているかも知れない。私は同一の作業を無限に反復するような仕事が苦手である。長年、不特定多数の他人と接する接客業の世界で食い扶持を稼いできたのも或いは、双子座の特質の恩恵なのかも知れない。重要な伴侶とは職場で知り合う傾向が強いという指摘も正鵠を得ている。

 因みに、天体の運行と地上の事象との間に何らかの「照応」(correspondence)を読み取る占星術の考え方も、人類の思想史の一部として組み入れることが出来るだろう。その予言の当否は別として、占星術という神話的思考の形態が、古代ギリシアの自然学的探究に類するものであることは明瞭である。兎に角、人間はあらゆる種類の論理を創案する奇態な天才なのだ。思想の歴史を学ぶことは、人間の想像力の宏大な沃野を散策することに等しい。

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 4

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)に就いて書く。

 古代ギリシャの思想史において、パルメニデスを開祖とするエレア派の理論が齎した衝撃は極めて甚大なものであっただろうと推測される。タレス以来の累代の賢者たちが専ら「自然=ピュシス」(physis)の観察と分析に没頭し、無限に繰り返される生滅の原理的な規則を探究することに情熱を注いできたのとは対蹠的に、パルメニデスは諸々の経験論的な現象を、感官の織り成す「虚妄」として排斥した。彼は事物の「生成」が有り得ないこと、事物の「存在」は如何なる生滅の原理とも無縁であることを声高に訴え、堂々と宣告した。

 パルメニデスは「存在しないもの」を思惟の対象から除外し、所謂「無記」の範疇に監禁した。人間が「存在しないもの」に就いて考え、論じることは不可能であり、あらゆる思惟の対象は必然的に「存在」でなければならない。こうした考え方は、如何なる具体的な帰結を導き出すのだろうか。

 パルメニデスが「生成」の事実性に対する深刻な懐疑から出発したことは概ね確かな事実であろうと考えられる。彼は「無からの創造」(creatio ex nihilo)という概念を否定し、何もない場所から何かが生み出されるという奇態な「相転移」の起こる可能性を峻拒した。従って「生成」という概念を、何かが生まれたり滅んだりする過程として解釈する限り、それは単なる「謬見」(doxa)に他ならない。「無からの創造」が否定されるのならば、事物の生滅という経験論的な現象は総て「錯覚」に過ぎない。それは「存在」の表層的な変化であるが、存在そのものが拡縮する訳ではなく、存在と虚無との配合の比率が変動する訳でもない。その意味で、この世界には不生不滅の単一的な「存在」以外に、真摯な思惟の対象に値するものは有り得ないのである。

 こうしたパルメニデスの考え方は極めて無時間的で、個別的な事物の感性的差異を悉く単一の「実在」へ還元する極端な「抽象化」(abstraction)の意志を鮮明に発露している。パルメニデス的な「実在」は、この世界の総体そのものであり、あらゆる「空虚」(kenon)を排除しているが故に、複数の部分に区別されることがない。また、時間の経過に関わらず、絶えず恒常的な同一性を保ち、如何なる変化も経験しない。言い換えれば、パルメニデスの世界は「時間」という概念を必要としないのである。我々の感官が日常的に把握する多様な現象は残らず「仮象」(schein)として、つまり明確な根拠を持たない無意味な「錯覚」として貶下され、総ての事物は単一の巨大で無時間的な「同一性」(identity)の裡に吸収される。あらゆる個物を始原的な「一者」(to hen)へ還元する考え方自体は、古代ギリシャの思想史においては、特段に奇態な発想ではない。イオニア学派の自然学者たち、タレスアナクシマンドロスたちも、万物に通底する根源的な「始原」(arkhe)を探究したという意味では、その思惟の主たる関心は絶対的な「一者」に向けられていたと言える。

 けれども、時間的な生成を否定するパルメニデスの思想においては、そもそも「始原」という概念自体が、真摯な探究に値しない「虚妄」に過ぎない。従って「始原」としての「一者」を探究するという知性的な作業は要請されない。「一者」は絶えず感覚的な表象の彼方に、不動の姿勢で屹立している。それは如何なる時間的変成も蒙らず、空間的な分割や移動とも無縁であり、世界の隅々にまで充満して、あらゆる空虚を否認している。こうした絶対的で普遍的な「一者」は、決して感官の機能を通じては把握されない。それゆえにパルメニデスは専ら「知性」(nous)の働きを重んじる。こうした考え方が、ピュタゴラスの数理的な世界観と融合して、後代のプラトンに極めて決定的な影響を及ぼしたことは鮮明な史実である。

 だが、プラトンパルメニデスの思惟に完全な満足を覚えたのだろうか。パルメニデスの論理を敷衍する限り、感覚的な現象に内在する摂理を探究する自然学的な思索は、単なる錯覚の観察に他ならず、寧ろそれは世界の「真理」からの退嬰を意味する。パルメニデスの思惟は、経験論的な実在の構造を解明する拡張的な探査とは無縁であり、万物を「一者」に還元する抽象的な縮約を我が物にすることが理想的な境涯であると看做される。それは科学的な実証主義とは対極的な方針であり、感覚的な現象に惑わされない堅牢な知性を保持することが何よりも優先される。これは世界の探究であるというよりも、宗教的な修養の作法に近似しているように思われる。如何なる自然学的探究も無益な遊戯に等しいのであれば、つまり地上的な「現象」の世界に属すること自体が「過誤」の一種であるならば、パルメニデス的な思惟の到達すべき理想的境涯は「彼岸」に他ならない。肉体を「霊魂の墓」と看做し、地上的な実存を一種の「劫罰」として定義する古来の宗教的伝統と、パルメニデスの「一者」の思想とは、相互に共通する要素を含んでいるのである。

 霊魂が地上において経験する感覚的な事実が悉く「仮象」に過ぎないのならば、何故、我々の実存は「肉体」という牢獄に括り付けられているのか。それを神話的な「懲罰」と看做す思考の様式の淵源が何処に存在するのかは知らないが、古代ギリシャにおいては「オルペウス教」(orphism)と呼ばれる宗教の裡に、その典型的な集約が見出される。地上的な実存を、人間の非本来的な生存の様態として定義し、繰り返される輪廻転生を「劫罰」と捉える考え方は、古代インドの思想的領域の裡にも存在する。地上的な実存を「堕落」の範疇に組み入れ、感覚的な「仮象」に惑溺する生活からの解放を「浄化」或いは「贖罪」として尊重する思想的系譜は、自身が秘教的な集団の頭目であったピュタゴラスは固より、恐らくパルメニデスの哲学にも継承されている。

 存在の実相を理解することは、仏教における「開悟」の思想にも通底しているように思われる。それは感覚的な認識を成立させる種々の「分類」を否定し、一切合切を絶対的な「一者」に還流させ、万物の個性を単一の同一性の原理によって包摂し、消去する。このような思惟が、イオニア的な自然学の系譜と対立することは不可避の帰結である。経験論的な実証主義は、万物を「一者」に還元し、感覚的認識を「虚妄」として斥ける神秘主義的な性向とは相容れない。自然学者たちが主要な探究の対象とするのは「生成の規則」であり、生成的な現象の一切を否定するパルメニデスの極端な神秘主義は、自然学的な原理を根本から排撃しているのである。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

 

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 3

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)に就いて書く。

 古代ギリシャを代表する思想家であり、所謂「哲学」(philosophy)の歴史の実質的な創始者と目されるプラトンは、自らの著述(対話篇「テアイテトス」)において、ヘラクレイトスの「万物流転」(panta rhei)の学説に触れ、プロタゴラスと共に、彼の思想が専ら「生成」に関する思惟の体系であることを強調し、批判的言及の対象としている。森羅万象が絶えざる流動の裡に置かれていることを告示するヘラクレイトスの思想は、イタリア学派の実在論の系譜を継承するプラトンの思想と、表面的な次元においては対立しているように見える。しかし、この対立は本当に宥和も超克も困難な問題であろうか? 寧ろプラトン相対主義に対する批判は、聊か戦略的な意図に基づいているように感じられる。彼はソフィスト的な「論争」を厳しく糾弾したが、それは必ずしも彼が「論争」の政治的効用を理解しなかったからではなく、寧ろ「問答」(dialektike)を通じて超越的な正しさに到達し、下界で営まれる煩瑣な論争の総てを一蹴し得る堅固な権威を獲得することを望んだからではないだろうか。不動の真理に依拠して正義を語る者には、銘々の個人的な信条を振り翳して方々を駆け回り、絶えざる口論に汲々とする衆生は度し難い愚者に過ぎない。

 だが、問題はプラトンの政治的威光の軽重ではない。私が知りたいのは、プラトン実在論ヘラクレイトスの経験論との対立という簡潔な図式の欺瞞的な性質だ。ヘラクレイトスが万物の相対的な生成に就いて語ったことは事実である。しかし、ヘラクレイトスが生成的な相対主義に就いて論じたからと言って、直ちに彼が超越的な規範に対する無関心の所有者であったと看做すのは、不当な言い掛かりに等しい。感覚に映じる地上的な事物が絶えざる流動と生滅の反復の裡に拘束されていることは、経験的な観察を通じて容易に得られる事実である。ヘラクレイトスは、それらの現象を支配する秘められた「ロゴス」(logos)の探究を重視した。それは確かに、プラトン的な意味で「生成」を「仮象」或いは「虚妄」として遇する過激な実在論の方針には必ずしも合致しない。プラトンは生成的な現象そのものを支配する原理に就いては、知性的な探究の欲望を示さない。虚妄に就いて論じることは貴重な時間の空費であるからだ。けれども、両者の対立は「実在/生成」の図式に即して語られ得るほど単純なものではない。何れの場合にも、経験される現象の「超越」を図ったという点に就いては、両者の探究の方針は一致しているからだ。

 この感覚に映じる肉体的な現象の一切を、そのまま「真理」であると看做すことが、幼稚な謬見であることは疑いを容れない。対話篇「テアイテトス」の過半を費やして、プラトンが徹底的な批判を試みたのは正に、そのような「知覚=知識」の等式に対する素朴な信憑であった。けれども、例えばヘラクレイトスの思想を包括的な仕方で「知覚=知識」の等式に還元することが適切な解釈であると言えるだろうか。刻々と生起する感覚的な認識だけが、その当人の思惟の総てを占めるような存在の形態は、成熟した人間に相応しいものではない。

 それゆえ、共通なるものに従わなければならない。しかるに、かのロゴスは共通なるものであるにもかかわらず、大多数の人間は自分だけの(私的な)智をもつかのように暮らす。(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 p.230)

 ヘラクレイトスの断簡に示された思想は、明らかに超越的な規範としての「ロゴス」の重要性を認めている。プラトンは「知覚=知識」の素朴な等式に附随する相対主義的な性質を批判したけれども、少なくともヘラクレイトスに関しては、彼がそのような幼稚な相対主義の信奉者であったと断定し得る根拠は存在しない。ただ、ヘラクレイトスプラトンのように「実在界」と「生成界」を並行させることには同意していない。彼の探究する「ロゴス」は、飽く迄も生成する森羅万象を統御する普遍的な規則であり、感覚的な事物から切り離されて自存する訳ではない。その意味で、ヘラクレイトスの思想が「生成」の哲学であることは明確な事実である。彼は万物の生成を統御する普遍的な規則の発見を、哲学的思惟の目的に据えた。ヘラクレイトスにおける「真理」の探究は、感覚的な現象そのものの「超越」(transcendence)を意味するものではなく、感覚的な現象の地平に立脚しながら、それらを支配する共通の法則を抽出することを意味するのである。彼は万物の「生成」を一つの端的な事実として承認した。それはパルメニデスによる「生成の否認」を継承するプラトンの眼には、不完全で老朽化した思想的遺産として映じたのかも知れない。

 ヘラクレイトスにとって「真理」とは「生成の規則」を意味する。彼は事物の永久的な同一性を認めず、それらの絶えざる流動を信じ、繰り返される生成の根本的な規約だけに同一性を賦与した。とはいえ、その規則が時間的遷移を通じて改訂される見込みは必ずしも排除されない。つまり、プラトンが「真理」を「普遍的実在」或いは「恒久的同一性」と看做したのとは対蹠的に、ヘラクレイトスにおける「真理」は、一定の有効期限を備えた規約に過ぎないのである。

 万人にとって同一のものたるこの宇宙秩序コスモスは、いかなる神も、人も造ったものではけっしてない。それはつねにあったし、今もあり、これからもあるだろう。それは常久とこわに生きる火であり、一定の分だけ燃え、一定の分だけ消える。(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 p.235)

 こうした見解もまた、プラトンの設計主義的な思惟とは対立するだろう。対話篇「ティマイオス」においてプラトンは、この宇宙を「デミウルゴス」(demiurge)による「イデア」(idea)の模倣の所産として説明した。完璧で無時間的な「コスモス」(cosmos)が、現に存在する流動的で生成的な「コスモス」に先行するという考え方は、ヘラクレイトスの現世的な思惟とは照合しない。「真理」を「生成」の過程から峻別しなければならないというエレア派の論理的要請に、ヘラクレイトスの思惟は拘束されていないからである。生成する現象の背後には、それらを差配する何らかの規約が存在するという考え方と、生成は感覚の生み出す虚妄に過ぎず、事物は恒久的な「実在」の相の下に配置されているという考え方との間には、決定的な背反が関与している。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

 

廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 2

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)に就いて書く。

 一般に「哲学」(philosophy)の誕生はソクラテスプラトンの師弟に帰せられるが、当然のことながら、彼らの思想的な独創性が、如何なる伝統的基盤とも無縁に創発されたと信じるのは素朴に過ぎる。プラトンが夥しい対話篇を通じて提示した諸々の哲学的概念が、如何なる思想的助走も踏まえずに忽然と登場したと考えるのは軽率である。

 本書において、その学説の概略が紹介されている古代ギリシャの数多の賢者の中で、後世への影響が極めて顕著であると思われる人物の筆頭は、一般に「イタリア学派」の巨頭として分類されるピュタゴラスである。彼自身の著述は残存していないが、その弟子や他の哲学者たちによる記録や引用を徴する限り、古代ギリシャにおけるピュタゴラスの声価は極めて高かったことが窺われる。

 ピュタゴラスの思想がプラトンに及ぼした決定的な影響は、恐らく次の二点に集約される。「霊魂の不滅及び転生の思想」と「抽象的秩序への信仰」である。プラトンは「パイドン」において「霊魂の不滅」に関する論証を行なうと共に、死後の世界に関する神話的な素描を示した。その思惟の様態は明らかに古典的な「霊肉二元論」に基づいており、霊魂の優越と肉体の劣等という一対の図式は、プラトン倫理学における重要な骨格を成している。感性的認識を通じて無限に生成される「謬見」(doxa)を去って、純粋な「知性」(nous)を唯一の媒介として得られる「正しい知識」(episteme)へ至ることが、哲学的思惟の有する倫理的な効果であるという理路は、経験論的な「生成」の象徴である「肉体」への蔑視と結び付いている。ピュタゴラスの築いた結社が、宗教的な性質を備えた閉鎖的共同体であったことにも示されているように、古代ギリシャの思想において、学術と宗教は未分化であり、考えることと生きることは相互に不可分であった。

 所謂「イオニア学派」に分類される古代の「自然学者」たちが、感性的=経験的な現象の分析を通じて、様々な法則を見出し、事物の相互的な関係の実態を見極めていこうと試みたのに対し、ピュタゴラスパルメニデスといった「イタリア学派」の系譜を構成する人々は、そのような「生成」の観察を排除し、専ら抽象的な「実在」の考究へ情熱を注いだ。イオニア学派の自然学と、イタリア学派の形而上学との根源的な対立は、プラトンが創始した「哲学」の歴史において、絶えず普遍的に争われ議論されてきた重要な主題である。

 人間の思想が、その起源において神話的な形態を伴って顕現することは、あらゆる民族、あらゆる地域に共通して確認される現象である。それは感官が捉える諸々の事象に就いて、何らかの包括的な説明を与えようとする衝動の産物である。神話的思考は、単なる荒唐無稽の妄想ではなく、この世界に一定の合理性を賦与すべく編み出された人間的な叡智の顕れなのである。

 あらゆる学問は、こうした神話的思考から、不透明な超越性を排除しようとする衝動と意志に基づいて形成される。無論、そうした意志が直ちに無神論的な性質を帯びるとは限らない。少なくとも、古代ギリシャの思想家たちは「神」の存在を排斥し、その実在を否認する為に、厖大な思索を蓄積した訳ではない。けれども、彼らが伝統的な神話への盲目的な屈従を避けようとしたことは恐らく事実だろう。古来の神話を隅々まで信じ切って疑わずにいられるのならば、殊更に「真理」を探し求める必要はない。既に「真理」は「神話」を通じて明確に告示されているからである。それでは何故、彼らは伝統的な神話への疑念を培ったのだろうか。私見では、その疑念は「異教との遭遇」によって齎されたのではないかと考えられる。

 或る局地的な集団によって共有される神話的思考は、異なる集団の有する神話的思考と遭遇したときに、相互に通約し難い矛盾や齟齬を発見し、その普遍的な真理性を毀損される。単一の神話的秩序(一神教的な世界観は固より、多神教的であっても、神々が階層的な序列の裡に配置されているならば、それは単一の神話的秩序と看做される)の自明性が動揺を強いられ、何れの「神話」が「真理」の玉座に相応しいのか、黒白を決する必要に迫られるからである。神話的思考の再編は、こうした異文化との遭遇を契機として促されるのではないだろうか。言い換えれば、哲学的思惟は常に「異種交配」の所産として形成されるのである。

 自明性に対する懐疑、それまで絶対的な正統性に庇護されていると信じられてきた強力な物語への不信、看過し難い矛盾の噴出と顕在化、こうした過程を経由して、哲学的思惟の衝迫は起動される。あらゆる哲学的思惟は、先行する世界観や思想的構図への批判的な言及と解析の営為として構成される。哲学者たちは従来の思考の図式を書き換える為に、精緻な思索と入念な観察を積み上げ、新たな理論を設計する。結果的に、哲学者たちの思想的系譜は、その煩雑な家系図の下端に独創的な「革新」を書き加える作業を繰り返すのである。

 ピュタゴラスが、古代ギリシャに持ち込んだ思想的独創性とは何だったのか。一般的には、その学説の核心を成すものと看做されているのは「数学的秩序の導入」である。彼は人間の感覚的な経験が齎す多様な知識を重んじる代わりに、数学的真理の内在を信じた。感覚を経由せずとも、数学的な論理の階梯を辿っていけば、世界を構成し支配する普遍的な「真理」は必然的に開示される。それは感覚的な「現象」(phenomenon)の背後に潜在する揺るぎない秩序の実在を想定することと同義である。無論、あらゆる人間的思惟は、事象の背後に存在する不可視の規律を解読しようとする旺盛な野心と不可分であり、ピュタゴラスだけが「現象の超越」を志した訳ではない。彼の独創性は、生成的な現象を支配する「ロゴス」(logos)の解読に際して、イオニア学派の人々のように何らかの感覚的な物質を持ち出す代わりに、専ら「数」という抽象的な観念を駆使した点に存する。言い換えれば、彼の独創性は、その思惟に用いられる手法の斬新な性質に依拠しているのである。経験論的な観察という手段を用いる代わりに、彼は数学的な論証の技法を重用した。感覚的認識に拘束されず、純然たる知性的操作を通じて、世界の「真理」に到達し得ると信じることが、ピュタゴラスの思想的特質であり、それは一般にイタリア学派の基礎的な傾向であると看做されている。生成する世界の構造を、数学的な構造に還元して把握すること、こうした思惟の技法がプラトンに及ぼした影響は極めて甚大であると思われる。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)