サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の幸福論 15 セネカ先生のストイシズム(七)

 引き続き、古代ローマの賢者セネカ先生のストイックな幸福論に就いて私的な評釈を進める。

 ある種の自由さをもって論じ始めたのだから、こうも言えよう、幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である、と。なぜなら、木石にも恐れや悲しみの感情はなく、家畜もまた同様だからである。だからといって、幸福が何であるかの理解が欠如しているものを幸福なものとは誰も呼ばないであろう。愚鈍になった本性と、己に対する無知のせいで家畜や獣の部類に身を落とした者たちは、そうした木石禽獣と同類とみなすべきなのである。そのような人間と木石禽獣のあいだには何の相違もない。なぜなら、木石禽獣には理性というものがいっさいなく、そのような人間にあるのは、己の災いを招く、邪悪さに長けた歪んだ理性だからである。実際、真理の埒外に放り出された人間は誰一人幸福な人とは呼べない。したがって、幸福な生とは、正しく確かな判断の上に築かれた、安定的で不変の生のことなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.143)

 セネカ先生は、人間の尊厳、或いはその本質的な特徴を「理性」の裡に見出しておられる。この鮮明に主知主義的な公理は、セネカ先生のみならず、古代ギリシアの時代から連綿と続く幸福論の伝統に絶えず伏流している基礎的な考え方であると言える。正しい理性を欠いた者は「人間」の眷属に値しないという苛烈な断定は、人間としての幸福が、人間の根源的な特質である「理性」の発達の過程を通じて達成されるという方針から析出された宣言である。理性の未熟な人間は、欲望や情動に操られて、偶発的な要因に服従し、瞬く間に貴重な生の時間を空費してしまう。理性の発達を通じて、あらゆる欲望や情動を支配する主体的な権威を完成させた人間だけが、本物の人間的な幸福という美しい果実を賞味することが出来るのである。一時的な感情に流されたり、旺盛な欲望の指図に唯々諾々と従ったりすることは、愚昧な不幸の呼び水に他ならない。だから、自らの欲望が悉く満たされないとか、不快な感情の捌け口が見出せないとか、そういった理由で眼前の生活に不満を溜め込み、懊悩の内圧を無際限に高めている人々は、そもそも幸福に関する認識の前提が誤っているのである。彼らは欲望や情動から発せられた強迫的な指令を実現することの出来ない境遇に対して、不幸という観念を読み取り、自分の望む幸福が眼前の不本意な現実によって阻害されているという論理に基づいて行動している。けれども、本当は欲望や情動の指令を疑わずに鵜呑みにしているという事実から、根源的な不幸の種子が胚胎しているのである。欲望の指示を実現出来ないことが不幸であるという考え方は必然的に、欲望を充足する為ならば手段を択ばない、多少の悪事も止むを得ない、他人の資産や感情を損なっても差し支えない、というエゴイズムを増殖させる。しかも、欲望の指示には終焉というものが存在せず、一つの欲望が実現されたとしても、直ぐに新たな指示が下され、エゴイズムの暴騰には歯止めが利かなくなる。彼らは常に不満を懐き、その解消の方途に就いて考え、場合によっては他人を傷つけたり法令に抵触したりすることも辞さずに、自らの欲望の充足を優先するのだ。

 けれども我々が本来、最も真摯に究明しなければならない問題は、欲望を達成する手段を開発することではなく、欲望による支配や制約から自己を釈放する方法を実践することである。矢継ぎ早に繰り出される衝動的な指示に忠誠を誓えないことが不幸の原因であると言うよりも、忠誠を誓うべきだと信じ込んでいることが総ての禍いの元凶なのである。我々は欲望や情動の奴隷として振舞うことによって「木石禽獣」の同類と化すべきではなく、また欲望や情動の充足によって無限の安定的な幸福へ到達し得る生き物でもない。我々自身が理性の助けを借りて、欲望や情動を折伏し、統制し、隷属させねばならない。無論、欲望や情動そのものが罪障であると大袈裟な口調で言い立て、過剰な廉潔を信奉しようと企てることを勧めているのではない。欲望や情動は、我々の肉体に内在する生得的な機能であるから、それ自体の善悪に就いては「無記」の原則を堅持すべきである。懸念すべき問題は、それらに自己の主権を掌握されることであり、理性よりも欲望や情動が強大な権威を発揮するような生き方に囚われることである。

 そのとき、精神は清澄であり、(外部からの)手ひどい打撃はもとより、些細な一撃さえも寄せつけない境地にあるために、あらゆる害悪から解放されており、たとえ運命が怒り狂い、攻撃を仕掛けてこようとも、一度立ったその境地に常に立ち続け、その境地を守り抜く決意を固めている。実際、快楽に関して言えば、たとえそれが四方至る所を包囲し、あらゆる通路を通って侵入し、その甘い囁きで精神を懐柔して、われわれ人間存在の全体を、あるいは、その一部を攪乱する手段を次から次へと繰り出してこようとも、いやしくも人間の痕跡をとどめている者なら、誰が昼も夜も快楽にくすぐられ続けていたいなどと思い、精神を放擲して四六時中肉体だけに精力を注ぎ続けていたいなどと思うであろう。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.143-144)

 先生の考えでは、欲望や情動よりも理性を択ぶ態度こそ、人間が人間であることの揺るぎない証明である。そのような立場を一層堅牢なものに鍛え上げていく過程こそ、人間的成長の理想的な姿であり、その道を逸脱しながら猶も安定的な幸福を手に入れることは不可能であると言わざるを得ない。快楽に心を奪われ、肉体の要求に盲従する生き方を脱すること、その為に理性の導きを何よりも重んじ、精確で適切な判断を積み重ねることに意を注ぐ方針こそ、人間的幸福の唯一の土台なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

サラダ坊主の幸福論 14 セネカ先生のストイシズム(六)

 引き続き、古代ローマの政治家であり偉大な哲人であったセネカ先生の幸福論を繙読し、私的な評釈を試みる。

 敷衍した定義が望みなら、原義を何ら損なうことなく種々の様相をもたせて、また別様に言い換えることもできる。なぜなら、幸福な生とはこうだと言って何の支障があろう、すなわち、精神が自由にして実直、何ものにも怯まず、何事にも揺るぎなく、恐れや欲望の埒外にあり、名誉あるものを唯一の善、恥ずべきものを唯一の悪とみなす精神であり、その他の有象無象は、幸福な生から何ものをも減ぜず、幸福な生に何ものをも加えず、来るときも去るときも最高善には何の増減もない、無価値に等しいものである生である、と。精神がそのような礎の上に立っていれば、望むと望まざるとにかかわらず、みずからの内にあるものに喜びを見出し、みずからの内にあるもの以外のものは望まないものとして、当然のことながら、不断の快活さと深奥から湧き上がる深い喜悦が必然的にその精神に付き従う。その精神が、そうした快活さや喜悦と、矮小な肉体の些細で束の間のものにすぎないつまらない感覚(的反応)とを比較考量し、どちらが価値の高いものか判断するのは理の当然ではないか。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.141-142)

 要するにセネカ先生は「自足」を至上の美徳として崇め、その不動で堅牢な喜悦の経験に最高の価値を認めておられるのである。官能的な快楽は、常に有限で刹那的な経験であり、その無際限な持続を希求するのは不可能な夢想である。そもそも快楽は、欠乏が解消される過程の裡に存するのであり、一旦充足へ達してしまえば、不可避的に消滅し、我々に倦怠の感覚を齎す。どんな強烈な快楽も、慣れてしまえば凡庸な不感症に移行する。快楽は本質において相対的な現象であり、欠乏と充足との断層によって喚起されるのだから、絶えず新たな断層を作り出して何らかの飢渇へ回帰しない限り、快楽を味わい続けることは出来ない。快楽は決して持続せず、必然的に欠乏ゆえの苦痛を内包している。言い換えれば、快楽は定言的に苦痛を伴い、苦痛と融合しているのである。従って、快楽を蒐集することによって絶対的な幸福の境地へ達することは出来ない。快楽を賞味する為には必ず事前に苦痛の関与が不可欠であり、謂わば快楽と苦痛は交互に出現する無限の循環を形作っているのである。快楽は時間の経過と共に不可避的に失われ、どんなに悔やんでも嘆いても、その宿命的な衰滅を取り消す術は存在しない。若しも快楽の再帰を望むのならば、手持ちの充足を叩き壊して新たな欠乏と飢渇を自らの裡に呼び込まねばならない。つまり享楽主義者は、快楽を得る為に敢て苦痛の到来を要求するという奇態な自滅的営為と縁を切ることが出来ないのだ。彼らは充足を愛さず、自らの手でそれを積極的に毀損し、解消された筈の苦痛を復活させ、新たな快楽への期待に身を焦がす。彼らの精神は安息や平静を決して好まない。

 快楽に支配されたその日が、苦痛に支配される日々の始まりとなるのである。この快楽と苦痛という、何よりも不定で、何よりも自制の利かない主人がこもごも支配する精神が、どれほど惨めで、有害な隷属に耐えねばならないことになるかは分かるであろう。したがって、われわれは自由を目指して脱出しなければならないのである。その自由を与えてくれるものは、運命の無視を措いて他にない。運命を無視したそのとき、計り知れない価値をもつ、あの善きもの、すなわち、安心立命あんじんりゅうみょうの境地に立つ精神の平穏と崇高さが、さらに、真なるものの認識によって過誤が払拭された揺るぎない大きな喜悦が、また親愛の情と精神の寛闊さが沸々として生じ、精神はそうしたものに、それ(自体)が善きものという理由からではなく、みずからの善きものから生じた(善き)ものという理由から、喜びを覚えることになるのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.142)

 享楽主義者は、快楽と苦痛の目紛しい交替の過程に対して絶えざる屈服と隷属を強いられ、その放縦で奔放な生活の態度とは裏腹に、主体的で意志的な自由を完全に剥奪されている。肉体の内部に予め生得的に埋め込まれた感性的な機能の効果に魅せられ、享楽の命令に一から十まで頷いてみせる彼らの生は、外界からの独立の代わりに、外界への救い難い依存に基づいて組み立てられている。彼らは自らの意志で享楽を味わっていると言うよりも寧ろ、享楽によって精神的領野を全面的に占有され、使役され、奉仕させられているのである。理智の代わりに享楽の感覚的機能を主権者として推戴する彼らの生存は、外界との間に極めて受動的で浅ましい関係を取り結んでいる。セネカ先生は、そのような地獄の境涯からの脱出を勧めておられる。絶えず快楽と苦痛への無惨な服従を強いられる生よりも、快楽と苦痛を共に統制し、理智的な計画を優先し、平穏で充実した境涯の裡に安らう生の方が、遥かに「幸福」の名に相応しいと先生は論じておられるのだ。一過性の高揚と、永続的な充足とを比較して、何れがより優れているかを判定するのは決して困難な作業ではない。一過性の高揚、即ち享楽を貪欲に追い求めることは誰にとっても容易いが、その累積した負債を償却するのは断じて容易ではない。しかも快楽は常に苦痛という代償を我々に対して要求し、絶対にその支払いを免除しない。死ぬまで快楽に耽溺するということは同時に、死ぬまで苦痛の業火に身を焼かれるということを意味するのである。そうした無益な輪廻の過程を逃れることが、先生の提唱する幸福の実相である。情動や欲望は、我々の肉体に内在する「運命」であり、その「運命」を黙殺することによって初めて、人間は幸福な自由を購うことが出来るようになるのだ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

サラダ坊主の幸福論 13 セネカ先生のストイシズム(五)

 引き続き、セネカ先生のストイックな幸福論に就いて探究を続ける。先生の幸福論は、古代ギリシア以来の伝統的な主知主義に根差し、自らの精神を生の支配者に任じて、外在的な事物に惑わされない堅牢な「自家発電」の境涯を形作ることに重きを置いている。あらゆる種類の欲望は、内なる飢渇を癒やす為に自己の外部へ果てしない貪婪な探索の旅路に赴くことを要求するが、先生の幸福論においては「少欲知足」の理念に基づいた節制が最大の権威を有し、無益な奔走を戒めている。

 われわれの言う善きものは、また別様にも定義できる。言い換えれば、同じ一つの概念は必ずしも同一の言葉を用いなくとも言い表せるということである。ちょうど、同じ一つの軍隊が、あるときは広く展開し、あるときは集合して密集隊形を作り、あるいはまた中央部を湾曲させて角形の陣形を作るときもあれば、前線を一直線に展開するときもあるが、どのような陣形をとろうとも、その戦闘能力は同じままで変わりがなく、同じ陣営の側に立って戦う意志もまた同じままで変わりがないのと同様に、最高善の定義も、ある場合には敷衍して広義に定義することもできるし、ある場合には限定して狭義に定義することもできる。したがって、「最高善とは、(永続的な)徳に喜びを見出し、偶然的なものを軽視する精神である」と言っても、あるいはまた「最高善とは、さまざまな事象に精通し、行動するに冷静沈着、かつ深い人間性と、交わる人々への気遣いとをともなった不屈の精神力である」と言っても、同じことであろう。また、こう定義してもよい、われわれの言う幸福な人とは、その人にとって善きものと悪しきものが、善き精神と悪しき精神以外にない人であり、立派で名誉あるものを信奉し、徳で満ち足り、偶然的なものによって有頂天になることも意気沮喪することもなく、みずからがみずからに与えうる善きもの以上に大きな善を知らず、その人にとっての真の快楽が快楽を蔑視することである人だ、と。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.140-141)

  生得的な本能の優位、それは避け難い情動や欲望や運命といった要素に支配される事態を意味するが、セネカ先生の幸福論は、専らそうした要素への抵抗を議論及び実践の主眼に据えている。情動も欲望も運命も共に、我々の主体的な意向とは無関係に生起し、不安定且つ偶発的に出現して、我々の精神に深甚な影響を及ぼす。このような自然的事象に支配されたり制約されたりする従属的な立場を脱して、自己自身に対する揺るぎない主権を確立することが「最高善」という言葉の本義である。例えば露骨で貪婪な享楽主義は、主として肉体的な感官を通じて齎される快楽の経験に固執し、その有無こそが人生の幸福を決する重要な問題であると考えている。こうした立場は、セネカ先生の議論に立脚する限り、明らかに隷属的で非主体的な生き方に他ならず、正に「偶然的なもの」に自己の生の基盤を預ける不安定で脆弱な実存的態度であると言い得る。「快楽を蔑視すること」が「真の快楽」であると看做されるのは、それが他律的な事象への隷属を排する立場を意味しているからである。但し、厳密には「快楽」そのものが悪しきものだと難じられているのではなく、飽く迄も偶然的で相対的なものであるに過ぎない「快楽」の裡に生の根拠を見出すことが問題視されていることに我々は注意を払わねばならない。重要なのは「自己支配」であり、他律的なものに依存して、自己の幸福の源泉を自己の外部に放逐する過ちを犯さないことである。他者から授かり得るものは一時的な享楽の経験に限られており、しかも他者の側は、自己に対して絶えず享楽を供給する理由も責務も負っていない。他者は自己の幸福の為に存在しているのではなく、銘々の幸福の為に、銘々が個人的な努力を積み重ねているのである。従って、他律的なものに自己の幸福の根拠を求めようとする態度は、他者の存在を自己の幸福の為に使役し、腕尽くで奉仕させる悪徳へ直結しかねない。多くの依存的な恋愛が、幸福の相互的な収奪として悲惨な結果を招くのも、こうした背景に基づいている。その意味で先生が書き記した「みずからがみずからに与えうる善きもの以上に大きな善を知らず」という一節は、重要な意義を備えている。己の幸福を生み出せるのは唯一、自分自身の精神と言行に限られている。己の悲惨な不幸に苛まれる余り、狭量な他責に走るのも、特定の人や物に己の幸福の根拠を全面的に委任するのも、等しく同質の病弊から派生した残念な結果である。何かを獲得したり所有したりすることによって、自己の幸福が確立される訳ではない。幸福とは一つの主観的で内在的な状況であり、その構築は他律的な原因によって左右されるものではない。絶えず他人の非を咎め、その愚昧と悪徳を論い、それゆえに自分は非常に不快な心境へ陥れられたと声高に言い張る総ての人々は、自分の不機嫌の根拠を無条件に他人の言動と結び付けている点において、幸福から最も遠く疎隔された種族であると結論することが出来る。彼らは自らの本来的な幸福が他律的な要因によって阻害されていると考え、尽きせぬ不満を営々と陳述し続ける。しかし、自己の幸福を形成するのは専ら自身の精神の働きであり、制御し得ないものに振り回されて禍福の境界を往還し続ける己の度し難い従属的な性質を恥じないのは、暗愚な人間であることの明瞭な証左に他ならない。こういう人間にとっては、如何なる資産も栄誉も悉く不幸の種子となり得るし、その貪婪な欲望が不快な飢渇を脱する見込みも限りなく乏しい。他者に依存せず、他者を問責せず、専ら自己の選択と忌避の基準に従って生活を設計し、過大な期待も深刻な煩悶も懐かずに精神の平静を保つこと、これがセネカ先生の勧める幸福論の要旨である。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

サラダ坊主の幸福論 12 セネカ先生のストイシズム(四)

 引き続き、古代ローマの高名な政治家であり、ストア派の優れた哲人でもあったセネカ先生の倫理学的知見に就いて検討を進める。

 われわれは、外見が見栄えのするものではなく、純粋で、安定し、隠れて見えない部分ほど美しさを増す善きものを追求しよう。それを掘り出そうではないか。それは決して遠くかけ離れたところにあるのではない。見つけられる。必要なのは、ただ、どこに手を差し伸べればよいのかを知ることだけである。だが、現実は、あたかも闇の中を行くがごとく、われわれは、手に入れたいと願う当のものに突き当たりながら、そうとも知らず、そのそばを通り過ぎて行くのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.138)

 他人の言行から著しい影響を蒙り、絶えず偶発的な事件に導かれて、頻繁に生活の方針を革め続ける浮薄な生き方を、セネカ先生は厳しく難詰しておられる。自己の外部に幸福の根拠を探し求める他律的な生き方は、先生の倫理学における根幹的な要諦に反しているのである。生の価値の源泉を外部に求めるからこそ、我々は世界に対して受動的な姿勢を堅持することになり、結果として、他人の思惑を忖度して阿諛追従に奔走したり、或いは逆に他人の不快な行状を口を極めて痛罵したり弾劾したりする他者志向的な生活に忙殺されることとなる。また、外部に幸福の根拠や源泉を求める姿勢は必然的に、堅牢な幸福の建設に根本的な障碍を抱えることに帰着する。何故なら、外部の出来事の過半は、我々の個人的な意図や欲望とは無関係に、つまり我々の主観的な心情を全く酌量することなく、複雑な必然性の鎖に操られて推移していくものだからである。世界は我々の個人的な幸福を保全する為に存在している訳ではない。従って、世界という一つの複雑な綜合的体系に向かって常住の慈悲を期待し、確信するのは無益な願望に過ぎない。多くの人間は、こうした無益な願望に支配されて、厖大な時間と労力を空費し、求めていた幸福の劣化した模造品ばかりを掴まされて疲労困憊している。先生は、そのような境涯から脱却することを断固として勧めておられる。

 したがって、幸福な生とはみずからの自然(の本性)に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応し、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になることなく、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つをも礼賛することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。付言するまでもなく、(そのような精神であれば)われわれを悩ませたり恐れさせたりするものは払拭され、そのあとに続いて永続的な心の平静と自由が訪れることは了解できるであろう。なぜなら、快楽と………瑣末で脆弱なもの、そして〈まさにその破廉恥さによって有害なもの〉は消滅し、計り知れないほど大きく、不動にして、安定した喜悦が、さらには精神の平穏と調和と、温厚さをともなった高邁さとがそれに取って代わるからである。獣的な粗暴さの由って来る所以は、おしなべて(精神の)弱さなのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.139-140)

 この一節は、セネカ先生の信奉する倫理学的な要諦の核心に触れている。幸福を専ら理智的で主観的なものとして遇する考え方は、以前に取り扱ったエピクロス先生の幸福論的見識とも共通している。先生は幸福の根拠を自己の外部に求める態度に与せず、貪婪な享楽の魅惑に欺かれて日夜繁忙な生活に奮迅する愚かしい人々の振舞いの原因を、精神の脆弱性の裡に見出している。一般的で通俗的な偏見とは異なり、所謂「獣的な粗暴さ」は果敢な心意気や力強い精神の脈動から生み出されるものではない。それは寧ろ自己の内部に生の根拠を保持する辛抱強い姿勢を貫くことの出来ない精神的な弱さの裡に淵源を有する。我々が如何なる物質的所有に恵まれているか、社会的名誉に鎧われているか、といった問題は、我々の幸福の本質的な形成には聊かも寄与しない。それは偶然の導きによって不定期に授与される脆弱な仮寓に過ぎず、財産や名誉が我々の存在の根幹を形成することは有り得ない。単なる運命の恵みに依存して、恰かもそれを自己の本質であるかのように看做すことは、巷間に有り触れているが故に深刻で度し難い謬見である。幸福の本質は我々の主観的な精神、しかも普遍的な規約によって整理され正された精神を揺るがぬ基盤としている。幸福の根拠を外在的な他者、それは豊かな財産でも他人の恩顧でも美食や美酒でも何でも構わないが、そういった客体の裡に求める態度は、自己の主権を客体に譲渡し、自分ではないものの奴隷として生きることを含意する。そうではなく、幸福を感じるか否かは、専ら我々の精神の健全で倫理的な性質の多寡によって規定される。精神を如何にして健全化し、恒常的な平静を保ち、外部の事象に由来する諸々の影響を最小限に食い止め、苦悩や恐怖を迅速に排除するか、という問題が、我々にとっては最も切実な事案なのである。その為には、外在的な事物によって惑わされず、それらによって支配されたり制約されたりすることを断固として望まず、生きることの基盤を専ら自己の内部に形作ることが肝要である。言い換えれば、運命に翻弄されない堅固な自己を構築することが幸福の源泉の掘削に他ならないのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

サラダ坊主の幸福論 11 セネカ先生のストイシズム(三)

 引き続き、セネカ先生のストイックな御高説を拝聴し、自らの幸福論的探究の充実に役立てたいと思う。

 私がここで言う「俗衆」には、花輪をかぶった連中も、ギリシア風の外套を着込んだ連中も含まれている。(幸福な生というものを考える際)私が目を向けるのは、身体を覆う衣装が何色かという問題ではないからだ。事、人間に関しては、私は肉眼を信用しない。私には真偽を識別するさらに確かで優れた(心)眼がある。精神に関わる善きものは、精神に見出させるがよい。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.136)

 この一節は、セネカ先生の倫理学的な省察が、古代ギリシアにおけるソクラテス以来の主知主義の系譜に連なるものであることを明瞭に示唆している。此処には、感覚的認識を不確かな謬見として貶下し、専ら理性的認識の優越を説いたプラトンの思想が残響している。先生は感覚を通じて得られる様々の浮薄な認識に拘泥せず、また他者の弄する流動的な言説にも左右されずに、普遍的な理智の審判に基づいて生を歩むことを厳格に勧告している。事物の真偽を糺す為には、相対的な感覚の判定よりも普遍的な理智の判定を重んじる方が有益なのである。感覚的認識は瞬間的且つ流動的なものであり、刻々と変化して、様々な理由で厄介な錯覚を我々の精神に齎す。それゆえ、感覚的認識に総ての審判の基準を委ねている限り、我々の生は絶えざる逸脱と動揺を免かれることが出来ない。これは他人の見解を鵜呑みにして右往左往し、正しい道を頻繁に踏み外してしまう付和雷同の精神が陥る困難と同型の構造を備えている。重要なのは、人生において計画的で統一的な方針を堅持することであり、目先の現象や瞬間的な認識に影響されて本来の道程を外れるような過失を排除することである。

 精神は、その善きもののために一息つき、自己へ立ち返る余裕が与えられれば、みずからを責め、ああ、どれほどの真実をみずからに告白し、みずからに語りかけることであろう、「自分がこれまでに行なってきたことはすべて、しなければよかったと思うことばかりだ。これまでに語ったあれこれを反省してみると、唖者がうらやましい。今にして思えば、自分が望んだものはすべて、自分に悪意を抱く者たちの呪いであった。自分が恐れたものはすべて、ああ、何ということ、自分が切望したものに比べて、何と取るに足らないものであったことか。自分は多くの人間と敵対関係をもち、また、悪人同士のあいだにいささかでも親愛の情というものがありうるとしての話だが、憎悪を捨てて親愛関係に戻ったこともあった。しかし、自分はいまだに自分自身の友ではない。自分は全力を傾注し、衆に抜きん出、何かの才を磨いて注目を浴びる存在になろうと努力してきた。だが、それは、みずからを敵の攻撃の矢面に立たせ、悪意に誹謗中傷の種を与えること以外の何であったろう。お前の雄弁を褒めそやす者たち、お前の富に靡く者たち、お前の愛顧に阿る者たち、お前の権勢を賞揚する者たちを、お前は目にしているであろう。あれは皆、敵か、さもなくば、同じことだが、敵となりうる者たちなのだ。賛嘆する人間の数だけ、嫉妬する人間がいる。なぜ本当に善きもの、誇示するためのものではなく、みずからが実感する善きものをこそ、追い求めようとしないのだ。人々が視線を向けるもの、人々が足を止めるもの、人々が互いに吃驚しつつひけらかし合うもの、そのようなものは、外見はきらびやかに見えても、内実はみすぼらしいものにすぎない」と。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.136-138)

 他人の思惑に依存し、それに振り回されることの深刻な弊害を、セネカ先生は何にも況して徹底的に糾弾し、排撃しておられる。他人の称讃を何より強く欲しながら、同時に他人の悪意に満ちた誹謗を過度に恐懼する俗人の振舞いは、恵まれた「幸福な生」へ到達する為の適切な生き方の作法から、遥か程遠い場所で生起している。自分の持ち物を、金銭や資産に限らず、持ち前の能力や資質も含めて、他人に向かって誇示することを生き甲斐とするような振舞いは、愚昧な悪徳に分類される。

 所謂「SNS」全盛の現代に生きる我々にとって、他者からの承認を何よりも強く欲望することは最早奇態な心理的現象ではなくなっているが、他者からの評価に依存して自らの生を設計することは、先生の考えでは揺るぎない幸福から最も疎隔した態度なのである。大多数の人間が肯定的に言及し、大袈裟に称讃する事物に最大の価値を認める民主的で資本主義的な制度は、現代の社会を構成する最も基幹的な構造である。そこでは成る可く多くの「他者」が認めるものに至高の評価が授けられ、真理と正義の尊称が冠せられる。最大の得票数を集めた者が国家の首魁として推戴される政治的制度に象徴されているように、現代においては、そうした他者依存、他者志向の風潮は極限まで亢進し、生活の随所に隈無く浸潤している。他者からの批難や罵詈は、極めて容易に、迫害される当事者の精神を窮迫させ、場合によっては不幸な自死に追い遣ってしまう。他者からの評価が、自己の生存の価値の判定を完全に掌握している為に、そのような極端な事態が現出するのである。そうであるならば猶更、セネカ先生の幸福論は重要で実践的な意義を、現代に生きる愚かな我々に提示して下さるものであると言えるだろう。アメリカの社会学者リースマンが自著において提唱した「他人志向型」という概念は、伝統的な慣習や内在的な道徳律ではなく、専ら同時代的な他者の動向に適応しようとする努力を、人生の原理として採用している現代の大衆社会の特徴を言い当てる為に創案されたものである。このような他者志向の生き方が培養する精神的な害悪を癒やす為には、セネカ先生の言葉を借りるならば「自己へ立ち返る」ことが先ず肝腎なのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

サラダ坊主の幸福論 10 セネカ先生のストイシズム(二)

 引き続き、古代ローマの政治家であり思想家であったセネカ先生のストイックな御高説に就いて私的な論究を進めていきたいと思う。

 セネカ先生の倫理学的な省察において重要な位置を与えられているのは「理智」及び「自立」の二つの美徳である。これらの概念の包括的な対義語が「付和雷同」であることは論を俟たない。他者の意見に惑わされず、専ら理智の嚮導に従って「選択と忌避」の判断を積み重ねること、延いては「幸福」の実体に就いて明瞭な認識を獲得すること、これらの心得が、セネカ先生の提唱する幸福論の秘鑰を成している。

 過ちを犯して他者に累を及ぼさぬ者は一人もいない。みずからが他者の過ちの因ともなり、元ともなるのである。実際、前を行く者に唯々諾々として身を任せるのは害あって益なき行為であり、各人みずからが判断するよりも他人を信用するほうを選んでいるかぎり、生について決してみずから判断を下すことはなく、いつも他人を信用するだけで、かくして過ちは人から人へと次々に伝播し、われわれを転倒させ、転落させることになる。他人の顰みに倣うことで、われわれは自滅するのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.135)

 自立的な理智の堅持、こうした美徳を欠いたまま、他人の言い分や決断に盲従する生き方は、明確で主体的な意志を持たぬ為に、何らかの具体的な目的地を措定して針路を決定することさえ覚束ない。理性による検閲を経由せずに、他者の見解を盲目的に尊重するのは、謂わば偶然の采配に総身を委ねるのと同じことである。理性を師父と仰ぐか、それとも他者の命令や思惑に隷属するか、何れを選ぶべきであるかは歴然としている。しかし、誰もが強靭な自負心に基づいて他者の意向を峻拒し得るとは限らないのが世間の実情である。往々にして人間は、自分自身の理性の判定よりも、他者の見解への宥和的な同調の方に多くの安らぎを感じる。つまり判断の正誤よりも他者との関係を重んじ、客観的な正しさよりも他者に与える印象の方を厚遇するのである。そのような生き方を続けている限り、人間が「幸福な生」へ辿り着く見込みは実に乏しいとセネカ先生は戒めておられる。そういう生き方には持続的な指針が存在せず、他者の気紛れな判断によって右往左往することを否応なしに強いられるからである。それは我々の沈着な理智が命じる正しい道程からの絶えざる逸脱を齎す。従って、一時的に適切な針路を辿っていたとしても、偶然の采配によって容易に道を外れてしまう為に、何時まで経っても本来の目的地へ到着しないという不毛な状況が避け難い。

 群集から遠ざかりさえすれば、われわれはこの病弊から癒されるであろう。だが、現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分が選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。われわれは、同じ事柄でありながら、あるときは是認し、あるときは批判する。多数(の意見)だからという理由で下されるすべての判断の、それが帰結なのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.135-136)

 セネカ先生は、幸福論の具体的な探究に着手する以前に先ず、他者への盲目的な同調に基礎を置いた不安定な生き方の批判に紙面を割いている。理智に根差した主体的な生き方が前提として確立されていなければ、如何なる幸福論も無用の長物と化す為であろう。多数派の総意への無批判な賛同は、主体的な生き方の実現を根底から阻害する。それを先生は「理性」に対する「敵対」と呼称しておられる。独立不羈の精神の称揚、それは単なる他者の排斥や唯我独尊の驕慢を意味するものではなく、他者の見解よりも普遍的な理智の審判を尊重するという意味である。自己の偏狭な判断に固執せよと命じておられるのではなく、理智の審判に依拠した普遍的な意志を維持せよと訓戒しておられるのである。そうでなければ、幸福に関する探究は、不可避的に曖昧な破産を余儀なくされるだろう。

 幸福な生について論じる際、元老院の議決の仕方に倣って、「こちらのグループのほうが多数と思われる」などと答えてよい理由はない。多数だからこそ、かえって悪いのである。およそ人の世の営みには、より善きものが多数の者に是とされるほどの合理性はない。大衆の是認こそ、最悪のものであることの証にほかならない。だから、問うにしても、何が最も通用しているものかではなく、何がなすべき最善のものか、何が真理の最悪の解釈者である俗衆に是とされているものかではなく、何がわれわれに永続的な幸福を所有させてくれるものかを問おうではないか。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.136)

 セネカ先生の論調は高踏的なエリーティズムの色彩を露骨に含んでいる。先生は俗衆を明瞭に蔑視し、その依存的で受動的な理性の様態を批難している。そのことの良し悪しを今は論じようとは思わない。重要なのは、多数派の賛同が真理の正当性を保証する揺るぎない根拠とはならないという点に着目することである。常に大衆が判断を誤ると断定することが妥当であるかどうかは扨措き、多数派の賛同する見解に半ば自動的な仕方で正義や真理の尊称を冠する仕組みに対しては、警戒を怠るべきではない。つまり、我々は先ず何よりも主体的に判断し、理智の嚮導や示唆に従って適切な思慮を行なう態度を身に着けねばならないのである。他者の意向や思惑に従属するのではなく、専ら理智の命令に服従すること、理論的な帰結に基づいて生活を設計すること、こうした主体性の美徳を確立しない限り、幸福論の探究は如何なる果実も結ばない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

サラダ坊主の幸福論 9 セネカ先生のストイシズム(一)

 エピクロス先生の幸福論に就いて一通りの検討を卒えたので、今度は古代ローマの政治家であり思想家であったセネカ先生の御講義を拝聴したいと思う。

 セネカ先生は一般にストア学派の哲学者に分類されるが、此処では敢て煩瑣な哲学史的問題に深入りする必要を認めない。その最大の要因は、ストア学派の歴史的な意義や特色に就いて包括的な見解を述べる力量や学識が私に欠けているという点に存するが、加之、この連載形式の記事の主題は飽く迄も古今東西の「幸福論」の吟味であって、哲学の歴史を精密に渉猟することではないという点も大きく影響している。それに、セネカ先生の倫理学的な知見を「ストア学派」という伝統的なラベリングと結び付けて読解しなければならない理由は目下、私の許には存在しておらず、寧ろ、無用の予断や通俗的な偏見に遮られて、先生自身の遺した筆致から虚心に汲み取られるべき叡智が混濁するような事態は絶対に回避せねばならないのである。

 今回、私はセネカ先生の遺著の中から特に「幸福な生について」(『生の短さについて』岩波文庫)と題された一篇の文章を選んで、個人的な吟味の対象に据えたいと思う。先生は劈頭、幸福を求める人間の普遍的な要求が、如何に実現の困難なものであるかということに注意を促している。

 ガッリオー兄さん、幸福な生を送りたいというのは人間誰しもが抱く願望だが、幸福な生をもたらしてくれるものが何かを見極めることとなると、皆、暗中模索というのが実情だ。それに、そもそも幸福な生を達成するというのは実に容易ならざる業なのであって、いったん道を誤れば、慌てて急げば急ぐほど、目指す幸福な生から遠ざかる結果を招いてしまうといったものなのだ。たどるその道が幸福な生とは逆方向に向かう道なら、急く速度そのものがますます大きな隔たりをもたらす因となるからである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 p.133)

 この素朴な訓誡の行間には、エピクロス先生の場合と同様に、幸福論を主知主義的な見地から捉えようとする姿勢が隠見している。幸福の定義に関する無智が、大多数の人々を幸福からの離反や疎隔に陥れているとセネカ先生は判断しておられるのである。闇雲で流動的な生活は、我々から幸福の可能性を奪い去る。言い換えれば、我々が「幸福な生」の実現へ到達する為には、幸福に関する適切な省察に加えて、事前の周到な計画と自己自身の注意深い統御が不可欠なのである。

 それゆえ、われわれは、まず自分の求めるものが何かを措定しなければならない。次には、周囲をよく見渡し、どの道をたどれば目的地に最も早く到達できるかを見て取らねばならない。そうすれば、道が正しいものであるかぎり、道中そのものにおいて、日々どれだけの道程をたどり終えたか、自然の欲求がわれわれを駆り立てる目的地にどれだけ近づいたか、おのずと理解される。実際、先達に従うのではなく、諸所方々へと誘う人々の猥雑な喧騒や叫喚に呼び寄せられるままに、あちらこちらとさまよっているかぎり、たとえ善き精神を得ようと日夜骨折ってみても、短い生は亡羊の嘆のうちに瞬く間に過ぎ去ってしまう。それゆえ、どこを目指して進んで行くのかも、また、どの道をたどるのかも決めなければならないのである。もちろん、生というこの旅では他の旅の場合とは事情が異なるのだから、われわれが向かう目標に精通している経験者が誰かいなくてはならない。他の旅なら、目的地に通じるいずれかの道筋を見つけ出し、土地の人に尋ねつつたどりさえすれば、迷うことはない。しかし、この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.133-134)

 セネカ先生の考えでは、世の中の大多数の人々は「幸福」を齎すものが何であるかという本質的な設問に対して適切な見識を有せず、また「幸福」に関する確乎たる定義も持たずに、他人の模倣に終始して誤った道筋を選択し、結果的に不幸の渦中へ向かって頽落していると看做されている。他人の言行に容易く影響を受けて、厳密な理論的知識に基づかない流動的な選択を重ねている限り、人間は決して「幸福な生」を我が物とすることが出来ない。事実、誰もが幸福を追い求めて思い悩んでいるという我々の社会の実情は、我々が如何に幸福に関する深刻な無智と謬見を病んでいるかということの歴然たる証明である。我々は幸福の実態に就いて正しい理解を持ち合わせぬまま、闇雲に幸福らしきものを追い掛けては幾度も虚しい挫折を味わい、そのような愚行を積み重ねる裡に天賦の寿命を残らず空費してしまっているのである。

 だから、何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。さらに、多数の者が同意して受け入れたものこそ最善のものと考えて、事をなすに世評に頼ること、また、〈われわれには〉善きもの〈として通用している〉先例が数多くあるが、理性を判断基準にするのではなく、人と同じであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。次から次へと折り重なるようにして倒れ、累々たる人の山が築かれるのは、そのせいなのだ。群集が殺到し、押し合いへし合いするとき、折り重なる人の山が出来る――誰かが倒れれば、他人を巻き添えにせずにはおかず、前の者の転倒があとに続く者の転倒の引き金となるからだが――、それと同じことが生のあらゆる局面で生じるのは、見れば分かるだろう。(「幸福な生について」『生の短さについて』岩波文庫 pp.134-135)

 この一節は実に奥深い含蓄に満たされている。先ず端的に言って、この文章にはセネカ先生の有する主知主義的な性向が鮮明に表現されている。先生は「理性」を判断の基準に据えて、各自が「善きもの」の定義に就いて適切な検討を加えるように努めない限り、理想的な幸福からの疎隔は避け難いと論じておられる。他者の大多数が信奉する基準を無作為に受け容れて隷従することは、人間が不幸の渦中へ頽落する重大な要因として機能している。多数派の賛同に基づくデモクラティックな真理の判定方法は、見出された真理の正当性を聊かも保証しない。寧ろ多数派が最悪の選択に傾いた場合には、付和雷同の精神は最も深刻な損失と悲劇を我々の社会に齎すだろう。「世評」を真理と同一視する「羊」の精神は、我々の魂を容易に惑わせ、正しい道程から頻繁に逸脱させ、結果的に望ましい目的地への到達を妨げる。他者の模倣によって至高の幸福へ到達することは困難である。言い換えれば、セネカ先生の考えでは、我々が「幸福な生」を手に入れる為には先ず「理智」と「自立」という二つの美徳が確保されねばならないのである。大多数の人間が揺るぎない幸福を得られずに日夜煩悶を重ねている現実を鑑みる限り、多数派の総意としての「世評」に隷属することは概ね、不幸への捷径に踏み込むことを含意している。誰もが容易に幸福を手に入れられる社会であるならば、社会の総意に従うことは我々自身の幸福を約束する最も賢明な方途であると言えるだろう。しかし現実は異なり、程度は様々であっても、多くの人間が不幸を病み、手の届かない幸福の幻影に憧れて的外れな言行に貴重な時間を費やしている。それゆえに、多数派の示す規矩に縛られることは、不幸への頽落に直結してしまうのである。だから先ず我々は、他者の意見に惑わされない自立的な思索の力を涵養せねばならない。つまり「世評」ではなく「理性」を根拠として自らの生を律しなければならない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫