サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 4

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫という作家は、我々の存在を否が応でも取り囲み、腕尽くで捕縛して決して解放することのない「時間」という奇妙な形式、権力、原理の有する「腐蝕」の作用に就いて、根深い敵愾心を胸底に懐き続けた。彼が殊更に「死」という不穏な運命への憧憬を強調し、そうした性向を様々な作品の細部に明瞭な形で刻み続けた理由も、恐らく「死」という現象に「時間」の魔力からの救済の可能性を見出していた為ではないかと推察される。

 時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか。(『奔馬新潮文庫 P253)

 聊か生硬な物言いになるが、本多の歎ずるように「時の流れ」が「崇高なもの」の悲劇的で美しい外貌を刻々と腐蝕させていくのは、時間が本質的に「相対化」という比較級の効力を備えていることの所産ではないかと私は思う。或る事物が如何なる記憶とも想像とも認識とも結合せず、従って少しも比較されずに、或る個体の精神的な領野の全体を覆って、完全に占有してしまうとき、その事物は如何なる外在的な存在によっても侵犯されることのない「絶対性」を身に纏うだろう。時間の経過、或いは「時間」という一つの存在の領域そのものの裡に、崇高な存在の帯びている絶対的な性質を転覆させる力学的な構造が装填されているのである。そうした「時間」の支配を免かれることに情熱を燃やすということは、或る存在の固有な様態を特権的な仕方で「絶対化」することを望むのと同義である。一方、滑稽なものは、常に絶対化された存在の裡に多様な「亀裂」を発見することに愉悦を味わうようなタイプの主体の視野を通じて析出される心理的現象である。絶対的な存在、如何なる比較とも批判とも無縁の存在、それが自らの崇高な性質を保ち続ける為には、時間の有する腐蝕の効能は最悪の宿敵なのである。

 清顕は美しかった。無用で、何ら目的を帯びずに、この人の世を迅速に過ぎ去った。そして美の厳格な一回性を持っていた。さきほどの一セイの謡が、

「汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ」

 と謡われたあの一瞬のように。

 鋭く、たけだけしいもう一人の若者の顔が、その消えかかる美の泡沫みなわの中から泛び上ってきた。清顕において、本当に一回的アインマーリヒなものは、美だけだったのだ。その余のものは、たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求したのだ。清顕において叶えられなかったもの、彼にすべて負数の形でしか賦与されていなかったもの……(『奔馬新潮文庫 P254-P255)

 「一回性」という観念が、無限の広がりを有する時間的な領域の秩序に対立する断絶的な性質を孕んでいることは明瞭である。或る存在が一回的である為には、時間の流れは断ち切られる必要がある。何故なら、時間という枠組み自体が不可避的に、或る存在の「反復」の可能性を含んでいるからである。反復される可能性を備えた総ての存在は「美の厳格な一回性」という秘蹟に化身することを予め禁圧されている。言い換えれば「時間の廃絶」という三島の宿願を叶える為には、如何なる「反復」も許さない特権的な行為へ踏み切ることが肝要なのだ。

 我々の存在や精神や行為が、如何なる場合においても反復し難い固有性を備えていると断ずることは容易い。だが、我々が自身の固有性であると特権的に捉えている様々な事柄や要素が、果てしない時間の流れの中で、二度と反復されることのない「一回性」を孕んでいると、厳密に立証することは、実際には不可能に等しい。この瞬間そのものの「一回性」を認める為の根拠は、決して客観的な形では存在しないのである。

 恐らく三島にとって「美」という現象の本質は「一回性」という観念によって構成されている。或る事象が審美的な価値を認められる為には、その事象が「反復されない存在」であることが絶対に必要なのである。反復の不可能性とは即ち「時間の廃絶」に他ならない。時間の流れを断ち切ってしまえば、その存在は自らの固有の形態を「永遠」の領域に定着させ、一切の腐蝕と相対化から保護することが可能になる。少なくとも「死」は、或る個体の固有な形態を一つの額縁の裡に固定し、様々な変容の可能性を一斉に棄却し、総てを二度と書き換えられることのない不動の状態へ遷移させる力を備えているのだ。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 3

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のような観念、やさしい母の胸にすがりつくような観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるいは切腹の観念に結びつけるものだった。「花と散る」というときに、血みどろの屍体はたちまち匂いやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だった。だから、純粋は詩なのである。

 勲には、「純粋に死ぬ」ということはむしろ容易く思われたが、たとえば純粋で一貫しようとすると、「純粋に笑う」ということはどういうことだろうと思い悩んだ。感情をどう規制してみても、彼は時にはつまらないものを見て笑ってしまった。道ばたの仔犬が、下駄をくわえて来て戯れているのならまだしも、いやに大きなハイヒールをくわえて来て、ふりまわして戯れているのを見たときにも笑ってしまった。彼はそういう笑いを人に見られたくなかった。(『奔馬新潮文庫 P141-P142)

 「純粋」という言葉の意味は曖昧で広範な性質を備えている。ただ文脈から察するに、三島にとっての「純粋」という観念は、我々の属する通俗的で社会的な現実の本質を成す「日常性」という規矩に背馳するものであると考えられる。「日常性」とは即ち「時間の無限性」の異称であり、従ってそれは三島の信奉する「時間の廃絶としての永遠」という崇高な理念と矛盾する代物である。「純粋に死ぬ」ことは容易であるのに「純粋に笑う」ことは理解し難い行為に思われるという勲の述懐は、そもそも「純粋」という観念が無時間的な性質を備えていることの傍証である。「笑う」という行為は眼前の現実を構成している様々な不合理や矛盾に対する寛容な視線の上に初めて成立するが、それは「純粋」という観念が含んでいる性質とは相容れない。何故なら「純粋」という性質は「正義」という観念に固有の美徳であり、従って「純粋」という価値を称揚することは諸々の不合理や矛盾に対する厳格な峻拒を選択することに他ならないからである。

 純粋という美徳は、正義という観念が内包している美徳と相互に分かち難く結び付いている。それは一切の矛盾や異物を孕まない完璧な同一性を指し示す観念である。純粋であることは、異物に対する厳格な排斥の意識を絶えず堅持することに他ならない。従って純粋な人間は原理的に「笑う」ことが出来ない。何故なら「笑い」は完璧な同一性の破綻に向かって捧げられる肯定の感情であるからだ。

 勲にとっての政治的情熱は、単一の正義に対する完全な服従と奉仕を意味している。重要なのは極限まで「純度」を高めることであり、一切の夾雑物を放逐することであって、混沌たる多様な現実の総てを包摂する寛容な社会的展望を構築することではない。勲の信奉する政治的理想は極めて全体主義的な性質を濃厚に含んでいる。それは如何なる例外も逸脱も許さない「純粋性」を至高の規範に定めている。しかも、その純粋性の観念は現実との具体的な聯関を欠いているのである。

 勲は綱領を作らなかった。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するように働らいている世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであろう。……従って又、勲は同志を選ぶための会見では、何一つ自分の企図を語らず、何一つ約束をしなかった。この若者は入れてやろうと思ったとき、勲はそれまで故ら作っていた厳しい顔を和らげて、相手の目を親しげにのぞき込んで、ただ一言、こう言いかけるだけであった。

「どうだ。一緒にやるか」(『奔馬新潮文庫 P233)

 行為の内容を吟味せず、行為の決意だけを尊重するという奇態な暗黙裡の綱領は、勲の政治的情熱が如何なる具体的な「行為」とも実質的に関連していないことを示している。一般論として、行為の決意云々よりも、行為の内実の方が重要な意義を帯びていることは疑いを容れない。つまり、ここには奇妙な倒錯が生じているのである。この倒錯は、勲が政治的理想の為に殉死を選ぶのではなく、殉死という壮麗な行為へ辿り着く為に政治的理想を活用しているという心理的な顛倒と、構造的に同期している。行為の目的や効果よりも、行為するという決断だけが殊更に尊ばれるという奇怪な原理は、換言すれば行為の時間的な性質を悉く捨象しようと試みる欲望の形態と深く関わり合っていると言えるだろう。行為そのものよりも、行為の決意が重要な意義を帯び、その行為の帰着する結果の内実よりも、行為という一つの枠組みが手厚く扱われるという論理は、或る行為の有する時間的な経過の意味を不当に軽視していると言えるだろう。言い換えれば、その行為は一瞬の奇蹟的な静止画のように眺められ、時間的な幅員を極限まで縮減され、目的や因果といった論理的且つ時間的な構成の制約から切り離された状態で、いわば審美的な鑑賞の対象として留置されているのである。別の角度から事態の構造を観察すれば、勲の蹶起という「行為」の終極的な目標が、当面の目標の成否に関わらず「自刃」の一事に尽きているということも、彼の行為が「時間性」の観念からの脱却を志向していることの証明であると言える。勲の「純粋」という美徳に対する過剰な固執もまた、時間という形式の内包する「腐蝕」の効果に対する反発と抵抗を含んでいるのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

 

転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 2

 引き続き、三島由紀夫の『奔馬』(新潮文庫)に就いて書く。

 「豊饒の海」の第一巻に当たる「春の雪」においては、主役である松枝清顕は未来を削除された情熱的な恋愛の裡に、無時間的な「永遠性」の観念を見出して計り知れない陶酔に溺れた。それは「結婚」に代表される現実的な社会関係の構築を免除された、つまり「時間」の堆積の可能性を予め封じられた、奇妙な「感情の球体」(三島由紀夫「絹と明察」に登場する修辞である)に自ら逼塞することを意味していた。換言すれば清顕は、無時間的な「恋愛」の渦中にしか、自らの情熱を炎上させる為の燃油を発見することが出来なかったのである。そうした心理的構造は「豊饒の海」の第二巻に当たる「奔馬」においても、表層的な外貌を取り換えた上で引き継がれていると言える。

 「奔馬」の主役である飯沼勲は、かつて松枝侯爵家の書生として清顕の教育係を務めていた飯沼茂之の息子であり、その熱烈な愛読書は、明治初頭に熊本で発生した士族の叛乱の経緯を綴った「神風連史話」と称する小冊子である。勲の心酔する「神風連史話」の中には、敗残の叛徒たちが陸続と日本刀で自裁していく姿が執拗に書き込まれている。彼らの政治的な情熱の核心を成すものが「美しい死」への苛烈な欲望であることは明瞭である。腐敗した日本の現実を浄める為という大義名分は、彼らの内なる情熱を正当化する為に編み出された御題目であり、実際の神風連の人々が如何なる性質の思想を懐いていたかという史実とは無関係な次元において、少なくとも「神風連史話」と称する架空の冊子は、叛徒たちの情熱が只管に「壮麗な自刃」へ向かって迸っていたことを淡々と告示している。彼らの抱懐する政治的な情熱は、眼前の現実に対する具体的な処方箋を粘り強く実行に移していく労役と狡智の価値を、積極的に軽んじている。

 三島が「奔馬」という作品において描き出そうと試みているテロリズムへの情熱の構造は、「春の雪」において清顕が示した禁断の恋愛に対する情熱の構造と、同一の性質を備えているように見える。何れの場合にも、その情熱の極北には必ず「死」という名の絶対的な断絶の宿命が待ち構えており、遅かれ早かれ「夭折」という恩寵を賜ることが暗黙裡に予定されているのである。

「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握って、ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作って、御前に捧げることだと思います。その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになったり、あるいは、『こんな不味いものを喰えるか』と仰言って、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるようなことがあった場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であって、よろこんでその握り飯を召し上っても、直ちに退って、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握った飯を、大御食として奉った罪は万死に値いするからです。では、握り飯を作って献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましょうか。飯はやがて腐るに決っています。これも忠義ではありましょうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作った握り飯を献上することであります」(『奔馬新潮文庫 P221)

 洞院宮殿下に対する勲の個人的信念の熱烈な表白は、彼の政治的な情熱が或る審美的で宗教的な性質の下に拘束されている事実を明瞭に示している。表白の内容は、勲の情熱の行き着く標的が常に「死」であること、彼の情熱が他の何物よりも先ず「壮麗な死」を優先して厚遇していることを端的に表している。それは政治的な外貌を纏っているが、実際には政治的な技巧や思想とは具体的な関連を有していない。

 清顕が恋愛そのものよりも、恋愛を通じて獲得される「永遠」の境涯に重きを置いていたように、勲もまた政治そのものより、政治的な運動を通じて得られる「永遠」の壮麗な顕現に最大の価値を見出している。彼にとって政治的な思想の内訳は二義的な意味しか持ち合わせておらず、肝心なのは政治的思想が彼の「死」に赫奕たる栄光を賦与するか否かという問題に限られている。若しも彼が本気で穢れた世情を理想的な形態へ改革することを望んでいるのならば、割腹自殺は最も忌避すべき悪手に他ならない。あらゆる艱難を生き延びて、如何なる恥辱も汚名も堪え忍んで雌伏する覚悟を持たなければ、政治的理想の実現という壮大な野望は達成されないだろう。しかし、勲の情熱はそのような忍辱を肯定するものではなく、理想と現実との甚だしい径庭と乖離を一歩ずつ地道に埋めていく陰鬱な労役に対して捧げられたものでもない。彼の忠義は政治的な理想を達成する為に持ち出された美徳ではなく、飽く迄も彼自身の壮烈な「死」を正当化する為の素晴らしい材料として案出された審美的な観念なのである。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 

「堕落」に関する対蹠的な見解 三島由紀夫と坂口安吾をめぐって

 三島由紀夫という作家は、生きることを一種の「堕落」として捉えていた。彼にとって「若さ」は常に美徳であり、一方の「老い」は醜悪な悪徳に他ならない。実存的な時間の流れに導かれて、生から死へと躙るように進んでいく我々の生物学的な宿命は、或る純粋無垢の情熱が無限に腐蝕していく過程として、批判的に眺められる。

 彼ほど「老醜」という身も蓋もない現実を明瞭に嫌悪し、生きることの持続を聊かも幸福で明瞭なプロセスとして称揚しなかった作家も珍しい。少なくとも彼自身は、世間の基準と比較して酷く恵まれない境涯にあった訳でもない。貧困の陋巷を這い回り、明日の衣食にも事欠く窮乏を強いられていた訳でもない。富裕な生家に恵まれ、優秀な頭脳に恵まれ、作家としても屈指の社会的栄誉を堂々たる態度で纏っていた。そういう人物の胸底を蝕む「生きることへの嫌悪」の絶望的な根深さに、私は戦慄を覚えずにいられない。寧ろ富貴な境遇に囲繞されていたからこそ、却って彼は「永遠」を欲したのだろうか? それが失われてしまう危険を持たざる者よりも遥かに強く痛感せずにいられないからこそ、時間の流れに対する劇しい憎悪を蓄積してしまったのだろうか?

 坂口安吾もまた「生きること」と「堕落すること」との間に重要な等号の介在を認めていた。けれども、そのベクトルは三島とは明確に対蹠的である。このブログでも何度も引用しているが、かの有名な「堕落論」において、坂口安吾が示している述懐の含意は、三島的な論理に正面から対立する性質を備えている。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫ほうまつのような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音あしおと、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。(坂口安吾堕落論」 註・青空文庫より転載)

 三島由紀夫が、昭和天皇の所謂「人間宣言」に反発していたことは知られた事実である。その一点に限ってみても、三島と坂口との間に横たわる方向性、価値観の相違は明瞭である。三島は恐らく「運命」という壮麗な大義名分を好んでいたが、坂口にとっては、そんなものは「虚しい幻像」に過ぎない。三島にとって最も大事なのは「特攻隊の勇士」に象徴される美しい純潔な幻影であろうが、坂口が重んじるのは「闇屋」によって切り拓かれる卑賤な「人間の歴史」の方である。無論、私は両者の優劣を論じているのではない。三島的な美学に対する解毒剤としての、坂口安吾の「健全な堕落」の重要性を再認しているだけである。

詩作 「BUENA VISTA」

その馬は

私の息子と同じ年の

同じ日に生まれた

中山競馬場に足を運ぶ習慣が途絶えてから

ずいぶん経って初めて知った

性別は違うけれど

そもそも生き物の種類が違うけれど

私の息子は

北海道生まれの彼女のように

美しいフォームで

黒鹿毛のたてがみを風に揺らして

誰よりも早く走ることは出来ないけれど

幼い息子は

五歳の初夏に父親と別れた

当たり前の暮らしが

息子の知らない暗がりのなかで

外れた馬券のように

ちぎられてスタンドの風に舞った

ちぎったのは私

ちぎったのは軽率な父親である私

 

二〇〇六年三月十四日

明るく晴れた日の正午

私の息子は無事に生まれて

やんちゃにわめいて

この世界の光の眩しさに泣きじゃくった

生まれてすぐに立ち上がらなければ

乳を呑めずに死んでしまう厳しさのなかで

レースに勝つことを

存在の理由として

生まれる前から課せられている彼女とは

違った期待のなかで

彼は病院の蛍光灯の下で泣いてねむった

歳月は矢のように過ぎ去りながれる

その馬はターフの光を浴びて

可憐な少女の恥じらいも忘れて

生きるために走る

あるいは

走るために生きる

幼い彼女は

阪神ジュベナイルフィリーズの直線を

大外から駆け抜けて差し切った

それはまだ

私と妻が

たがいに愛しあい

求めあっていたころ

 

桜花賞でもオークスでも

一世一代の大舞台で

ライバルを差し切って彼女は

常に勝利の栄冠と共にあった

しかし秋が来て

冬が来て

彼女は立て続けに敗北を喫した

盛者必衰の理だろうか

いかなる愛の情熱もやがて

音さえ立てずに冷えていくように

どんな甘い蜜月にも

陽射しの途絶える季節がふりかかる

地球は回りつづける

重なり合っていた想いも静かに

互いの輪郭を見極められずに

少しずつ朽ちて黄ばんでいくのだ

 

二〇一一年の夏に

私の築いた家庭は

私の壊れかけた家庭は

正式に解体された

五歳の息子に何がわかるだろう

言葉ではきっと何も伝えられない

だけど五歳の幼い心のなかにも

波紋は描かれていくに違いない

言葉にならなくても

言葉にならないからこそ

彼の小さな胸の奥に降り積もる

雪のような想いの冷たさを

軽率な父親はおそれた

それでも 身勝手な私は

己の孤独と戦うことに躍起で

傷つけられた少年の眼差しを

軽んじていたのだ

血管のなかを

濁ったあぶらのような

罪がながれる

罪に汚れた血液が

このカラダを倫理的に腐敗させる

 

別れて半年ほど経ったころに

新しい女ができた

別れた妻のように嫉妬深く

別れた妻と違って寂しがり屋だった

私は新しい生活の始まりのなかにあった

家族を捨てて

たとえ自ら望んだ訳ではなくとも

子供を置き去りにして

新しい生活を選んだ

未来への無邪気な憧れを選んだ

罪が心臓を劇しく波打たせても

夢中で女を抱いた

私は 堕落するように恋に落ちた

 

全盛期を過ぎた彼女は

その年のジャパンカップにエントリーした

かつては伴侶のように常にかたわらにあった勝利が

彼女を見捨てて置き去りにしてから

すでに長い時間が経っていた

最後の直線

劇しい攻防の末に

彼女は先頭でゴールに駆け込んだ

スタンドは地鳴りのように揺れた

夜明けの曙光のように華々しく

彼女は懐かしい栄冠をつかみとった

彼女は私の息子と同じ年の

同じ日に生まれた

北海道生まれの黒鹿毛の彼女が

私の息子のために走ったとは思わないけれど

レースに勝つことを

存在の理由として定められた彼女が

私の愚かな感傷のために走ったとは思わないけれど

 

誰もが幸せの在処をさがす

誰もが幸せの形骸にすがる

走るために生きるブエナビスタのように

私の生命に何か意味があるのだろうか

 

黒鹿毛の彼女は

有馬記念で敗れて引退した

私は女と一年足らずで別れて

ひとりに戻った

息子は小学校に通っている

われ関せずと

地球は回りつづける

私はきっとまた

見知らぬ女を愛するだろう

過去の遺産を虹の彼方に投げ捨てて

けっきょく私は

別の誰かを 傷つけるように好きになるだろう

空っぽのターフに新しい風が吹く

走り去った蹄のあとを追って

私は誰かを愛するだろう

詩作 「PASSIVE VOICE」

愛されることよりも

強く深い比重で

私のこころに迫るもの

静かな黄昏に

あなたのこころを過るもの

手を伸ばして

指を開いて

いつだってひたすらに求めていた

愛されることよりも

強く深い比重で

私を満たす

愛しさのスープ

 

階段をのぼるように

確実に私たちは

隔てられた空間を越えて

跳躍して

互いにだきしめあう

音を立てて

その唇をむさぼる

愛されることは確かに大切なことだ

幼い子供が

母親の帰りを待つような切なさで

何かを求めるのは

しかし

私の望む姿ではなかった

 

相手の顔色を

うかがうのではなく

この体温計の目盛りだけを頼りに

私はあなたを好きになる

何かを与えられたい訳ではなくて

私のなかに穿たれた空洞を

埋めてもらいたい訳ではなくて

淋しさを帳消しにしたいのではなくて

あなたの空洞を

あなたの淋しさを

あなたの奥底に眠っている

埋葬された過去を

厖大な遺留品を

分かち合いたいのだ

その傷口のふるえに

この心臓の鼓動を近づけたいのだ

愛されることを

拒むのではない

あなたの幸福に

伸ばした指先で触れてみたいのだ

 

かつて私は多くのものを求めた

足りないものをひたすらに欲した

飢えた子どもが

哺乳壜をねだるように

ときには涙を流して

相手の温情に縋って生きた

空腹を満たすために

あらゆる手立てを講じた

その幼さが

別れた人のこころに

傷をいくつも刻んで疲れさせた

別れは

私の飢渇の始まりだった

むさぼることが

たえがたい空腹の幕開けだった

 

どれほど悔いても

罪は消えない

十字架を背負って

刺青をシャツの袖に隠しながら

私は飢えを満たすことをあきらめた

空腹にたえる力を蓄えなければ

この険しい道のりを

歩き通すことは難しい

歩きながら

私は少しずつ目を覚ましていった

他人の飢渇に

少なくとも私は

飢渇の苦しみを知っている

この肉体に染み込んだ

求める者の苦しみを痛切に知っている

かえりみれば

私は別れた人の飢渇を軽んじていた

盲目の瞳に

あの人の飢渇は映じていなかった

己の劇しい飢渇が

あの人の飢渇に上書きされて

冷たい無理解の長雨を降らせていた

 

あなたの飢渇に

見覚えがあります

かつて私も

同じ飢渇に打ちひしがれて

思いやることを忘れて

曠野のような生活に埋もれていました

これは憐憫かもしれない

憐れみと愛情は別物かもしれない

けれど

私はあなたの飢渇の苦しさを想像することが出来る

そして

想像力は常に愛することの始まりで明るく燃えているのではありませんか

身を切るような辛さのなかで

孤独・不安・絶望・悲哀・寂寥・憤怒・敵視・悔恨・不満・憧憬・焦躁・怨恨・情欲

さまざまに名づけられ象られた感情の密林のあいだで

私も飢渇からの救済を

切実に願っていました

それが叶えられなくなってから

見捨てられる孤独の厳しさに浸ってから

ようやく私も掴み始めたのです

愛することと

求めることを混同してはならないと

 

だから

夏の青空のような世界の片隅で

あなたを知って

あなたのなかの寂寥に気づき

その醗酵した香りに懐かしさを覚えてから

私はあなたを愛しく想うようになった

その飢渇を私の力でいやしたいと思った

単純で透明な感情が

私のなかに芽生えて

その感情にも懐かしさがあった

誰かを愛するということ

愛されることよりも

強く深い比重で私のなかに宿る新たな魂

その美しく優しい旋律

好きになってもいいでしょうか

あなたの愛を得られるかどうかは分からないけれど

単純にその飢渇をいやしたいという私の勝手な願望で

あなたのことを想ってもいいでしょうか

 

孤立した真空の球体が爆ぜるように

私の内側を満たす力強い感情が

飢渇を忘れさせてくれる

飢渇は消えたのではない

それは常に私の

あるいは総ての人間の内側に

余燼のように燻っているけれど

その痛みにたえられるように

神様が授けてくれた新しい力と情熱に

愛という名を与えられるのなら

それが許されるのなら

私はあなたを愛しています

愛されることよりも

己の飢渇を埋めることよりも

あなたの飢渇が埋められることを

つまりは

あなたの幸福が叶えられることを

私は願い始める

その優しい祈りの声が

届く保証は

もちろんないけれど

 

愛されることよりも

強く深い比重で

その空洞に流し込みたい

虹色の鮮やかな感情を

あなたが孤独の痛みを忘れられるように

この一瞬の閃光のような

生きて死ぬまでの束の間の日々を

幸福な微笑で

覆ってしまえるように

 

死に別れるその瞬間まで

物語の結末まで

花籠に揺られる夏菊のように

明るい真昼の太陽の下で

私はあなたの寂寥を消しましょう

受動態ではない

この短い人生の

マグネシウムのような輝きのために

詩作 「そうやって少しずつ忘れていく」

そうやって

昨日が見えない場所へにじみながら消えていく

たとえばフロントグラスを覆う夕立

たとえば明け方のベランダから見える朝霧の市街地

たとえばタバコの煙の向こうの君の微笑

たとえば削除したアドレスの複雑なアルファベット

 

初めて口づけたときの戸惑いも

時間の涯で

不意に振り落されるだろう

僕たちは簡単に忘れてしまう生き物だ

古い写真は眩しい光のなかで少しずつ色褪せていく

心の温度がきわめて緩慢な速度で下がっていくように

巧みに重ね合わされた二つの情念の地図も

大陸が移動するように

徐々にかけはなれていく

 

そうやって

少しずつ僕たちは

かけがえのないものを忘れていく

たとえば君と最初に交わした言葉

たとえば眠れない夜に聞いた音楽の切なさ

たとえば初めて呑みすぎて戻したときの苦しさ

たとえば自分の居場所を見つけたときの幸福

 

忘れることは罪じゃない

忘れなければ支えられない日々もある

息苦しくて逃げ出した世界

こわくて触れられなかった世界

家出を考えて眠れなかったこともあれば

認められない結婚に痩せ細ったこともある

夜は常に暗い

どれほど華やかな光で闇を追い払おうとしても

忍び込むのだ

だから忘れようよ

少しずつ積み重ねるように

忘却の呪文を記憶の空に浮かべてみようよ

 

そうやって

必要ではなくなったものの名を数えあげてみる

たとえば両親の厳粛な意見

たとえば幼稚な恋人のヒステリー

たとえばプリント柄のティーシャツ

たとえばマジックテープのスニーカー

たとえば去年のカレンダー

たとえば甘いカクテル

たとえばお揃いのマグボトル

たとえば結婚の約束

たとえば就寝前の長電話

たとえば頻繁なメールのやりとり

たとえば映画館の会員カード

たとえば通いなれたホテルの電話番号

たとえば君の家までの電車の経路の記憶

たとえば誕生日にもらった厚手のコート

 

空白が幾何級数的に増大していく

夜明けまでの距離

僕たちは簡単に忘れられるだろう

生者必滅の物理法則が

僕たちの恋を壊れた彗星のように

生の彼方へ走らせる

凩の吹き荒れる家路について

僕は今夜最後のタバコに震える手で火を点ける