サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 6

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンは「哲学者」と「ソフィスト」との区別に関して執拗な厳格さを示している。彼の考えでは、ソフィストたちが切り売りする「知識」は、哲学者の追究する「真実在」に関する「知識」とは根源的に異質である。「真理」の希求は、誠実な哲学者たちの専売特許であって、ソフィストたちが取り扱う商材としての「知識」は、迎合的な処世術に過ぎないと看做される。

 両者の峻別の根拠は、所謂「イデア」(idea)に関する学説の裡に据えられている。「イデア」に関するプラトンの独創的で神秘的な論考は、人間の知識を「ドクサ」(doxa)と「エピステーメー」(episteme)の二種類に分別している。プラトニズムにおいて、哲学者が究明すべき本来的対象は「エピステーメー」に限定されており、それは存在の厳密で普遍的な「本質」に関する認識を獲得することを意味する。他方、人々が肉体的な感覚を通じて受け取る経験論的な認識は「ドクサ」と呼ばれ、存在の「本質」を蔽い隠す諸々の偶有的要素によって汚染されていると看做される。

 存在の本質を識別すること、様々な事物に関して、その本質的要素と偶有的要素とを精確に弁別すること、これがプラトンの重んじる哲学的探究の最も基礎的な規律である。肉体的な感官を通じて意識に顕れる多様な認識を等価的に並列させるのではなく、それらの関係を「同一性」の理念の下に整序し、優劣の位階を授けること、そこから「哲学者」と「ソフィスト」とを峻別する思索の形式は生成されている。

 事物の「本質」とは、普遍的に維持される揺るぎない同一性の総称である。感覚的に把握される「現象」としての事物は、常に変わらず維持される絶対的な同一性の領域と、時間的推移に応じて頻繁に移り変わる偶有的な部分との「混淆」として成り立っている。状況に応じて獲得されたり失われたりする要素は、その事物の「本質」には該当しないと考えられる。如何なる状況においても持続的に存在し続ける要素こそ、その事物の固有性を規定する「本質」に相応しい特徴であると定義されるのである。

 こうした特徴を見出す為には、厳密な抽象的還元の手続きが不可欠である。「如何なる要素を以て、その事物の本質と看做すか」という設問に従い、執拗な論究を重ねない限り、人間の認識が事物の本質へ到達することは有り得ない。換言すれば、プラトンにおける「知識」とは「事物の本質に関する認識」を意味するのである。「事物の理解」は「事物の本質に関する認識」と等号で連結されねばならない。

 けれども、ソフィストたちの役割は、そのような「事物の本質に関する認識」を裕福な雇い主たちに教授することではない。彼らが備えている知識とは「処世術」であり、言い換えれば「社会に対する適切な迎合の技術」である。それは事物の本質に関する真理的な水準とは全く異質な次元に属する認識の体系であると言える。ソフィストが教えるのは、大衆の集まる社会において栄達する為の技法であり、その手段としての「弁論術」である。

 プラトンの批判する対象としての「弁論術」の特徴は、所謂「正しさ」という理念に関して、それが「真理」と接続されないという点に顕れている。哲学的探究は「真理=本質」を「正しさ」と等価の位置に据える。しかし弁論術は「迎合の技術」であるがゆえに、必ずしも「真理=本質」を「正しさ」に結び付けない。この場合の「正しさ」とは、社会的合意として形成される「正しさ」である。換言すれば、ソフィストの信奉する「真理」は、多様な大衆の総意として規定されるのであり、何を「真理」と看做すかに就いての議論は、大衆の欲望や快楽に基づいて相対的に変動する。ソフィストにおける「真理」は「多数派の論理」に依拠して決定される。

 「真理」を「社会的合意」と同一視することは、プラトニックな本質主義の規範に歴然と背馳している。大衆の個人的で主観的な見解によって変動するような性質の認識を「真理」と看做すことは、事物の本質に関する普遍的認識を「真理」と看做す哲学的探究の原則に抵触する行為である。社会的合意の成立する要件が専ら「多数派の承認」に基づくのならば、そうやって擁立された「真理」の内容は、地理的にも歴史的にも普遍的な性質を欠くことになる。しかし、時間的推移に応じて変遷する認識は、プラトンの「真理」に関する定義の要件を満たさないのである。また、地域や風土に応じて変動する認識も同様に「真理」の定義に適わない。

 弁論術の主要な役割は、説得の作業を通じて自己の見解や言い分を他者に受容させ、承認させることに存する。換言すれば、弁論術における正義は「真理」の精確な把握を要求せず、単に提示した言い分が相手の感情を揺り動かせば済むのである。その言説の過程において、主に事態を嚮導する原理は「真理」ではなく「利益」や「快楽」である。大衆が欲するものは「真理」ではなく「利益」であり、感情と肉体を満足させる「快楽」である。若しも「真理」が個々の欲望の充足を阻害する性質を持つと看做される場合には、人々は極めて容易に、不愉快な「真理」を足蹴にするだろう。

 従って弁論術の主要な目的は、説得されるべき対象としての俗衆の秘められた欲望や関心や情熱の実態に就いて適切な理解を持ち、それらの欲望に寄り添って迎合的に振舞うことで、彼らの魂を内在的に掌握し支配することに存すると考えるべきである。それは俗衆を「真理」の把握に向かって嚮導し鍛錬しようと試みる教育的な意志とは全く無縁である。言い換えれば弁論術の機能は、単一的に存在する普遍的「真理」への到達には根本的に関与していないのである。弁論術における「真理」は社会的合意の成立という仕方で局所的に生成される相対的な正当性であり、それは歴史的=地理的条件によって規定されるがゆえに、幾らでも流動する可能性を秘めている。こうした「真理」の局所的生成の過程は無限に反復され、決して絶対的な常住の境涯に安置されることはない。

 だが、このような「真理」の流動的変容は、プラトンにとっては断じて是認し難い謬見として受け止められたであろうと推察される。彼にとって「真理」は、如何なる状況においても決して変容する可能性のない普遍的な事実を意味する概念であった。尚且つ彼は、そのような普遍的事実としての「真理」を把握することが可能であると看做した。こうした「真理」に関する定義は、プラトンが自ら綴った夥しい哲学的対話篇の主役に、師父であるソクラテスを選び続けたという事実とは裏腹に、ソクラテスから直接的に継承された言説ではなく、プラトンの独創であったと看做すべきであろう。初期の対話篇に登場するソクラテスは、決して自ら普遍的な「真理」を明示しようとは試みない。彼は自分が無知な人間であることを繰り返し強調し、自身の見解が「真理」に到達していると宣言することに関して極端に禁欲的な姿勢を貫いている。彼の展開する執拗な議論は専ら「アポリア」(aporia)に帰着して、結論を留保するばかりである。

 恐らくソクラテスの哲学的問答は、弁論術の範疇に属するものであったと推察される。それゆえに彼は当時の劇作家アリストファネスによって「ソフィスト」の筆頭として戯画化され、諷刺されたのであろう。但し、ソクラテスの弁論術は、プラトンが弁論術に対する批判の要旨として持ち出した「迎合」の概念には当て嵌まらず、寧ろその対極に位置する性質を備えたものであると言える。ソクラテスは俗衆の欲望や感情を逆撫でし、彼らの信奉する理念や価値観の矛盾を執拗に曝露した。ソクラテスの弁論術における卓抜な技巧は専ら、煽動的なポピュリズムに対する最も尖鋭な批判を成し遂げる為に用いられたのである。それはプラトン的な「真理」の探究とは異質な政治的実践の要素を濃厚に含んでいる。ソクラテスは飽く迄も市井の俗衆に混じって誰彼構わず議論を仕掛ける生活を離れなかったが、プラトンは自らの手で理想的な学園を創設した。ソフィストに対するソクラテスの不満とプラトンの不満との間には、根源的な差異が潜在しているのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

シーソーと糾える縄

 我ながら、顧みれば迷ってばかりの人生で、今でも日々迷妄の種は尽きず、生きることの正解が何なのか分からず、右へ左へ彷徨するような生活を送っている。だから、達観した人生の名人のような境涯に落ち着いて、艶やかな木製のパイプでも燻らせながら、遠い眼をして雨垂れの庭を眺めつつ、来し方を振り返るというような抒情的回想など綴れる訳もない。私は今も迷い続けているし、今後も同じように思い悩み、頻繁に途を誤るだろう。それが生きることの宿痾ならば、私だけが恩寵のように特別な抗体に恵まれる理由もないのだ。

 子供としての原風景と、大人としての原風景とは、等号では結ばれない。幼児でも深く悩み苦しむことはあり、大人の眼には些末な事柄と映じる問題でも、例えば毎週愉しみにしているアニメの放送が野球中継の延長で吹き飛ばされて悲嘆の淵に沈んだり、明日の給食の献立が嫌いな豆ごはん(グリーンピースごはん)であることを知って愕然としたり、そういう小さな「事件」に躓いて、本人は悶々としているものである。けれども「迷い」と「決断」はやはり、大人の特権であるだろう。或いは、子供が大人へ変容していく途次、次々と現れる厄介な里程標が「迷い」であり「決断」であると言うべきなのかも知れない。それを踏み越えることは深刻な痛みを伴い、今まで信じ切っていた風景の構図を、その意味を激変させる。画面に亀裂が走るように、私たちはそれまで疑いもしなかった現実の隠された暗部を思い知る。迷うだけならば、子供でもするだろう。しかし、その入り組んだ迷宮の涯まで歩き続ける強靭な意志は、大人であることの証明書なのだ。

 私は十九歳のときに、大学を辞めた。肌寒い早春の三月、桜上水のキャンパスへ出向いて、教務課で退学したい旨を伝えた。そのとき、私は大学を辞めることに不安も恐懼も覚えていなかった。碌に使っていないクレジットカードを退会するような気軽さで、大学生の身分をあっさり投げ捨てようと軽率にも考えていた。別に、辞めようが辞めまいが、どちらでも構わなかったのだ。大学の事務室から、貴方の息子さんが殆ど講義に出ていませんと連絡を受けて血相を変えた両親に、友人と安い居酒屋でチゲ鍋を囲み、鏡月の水割りを呑んで頼りない足取りで自宅へ帰り着いたところを捕えられ、説教を浴びせられ、踏み絵を迫られた十二月の或る夜が若しも訪れなかったならば、私は素知らぬ顔で両親を欺いて形式的な大学生の生活を保っていただろう。当時、千葉県松戸市に住んでいた私は、新宿で京王線に乗り換えて下高井戸へ向かう果てしない通学の道程にうんざりしていた。特に朝方の通勤ラッシュと重なったときは、噎せ返るほどの人混みに呑まれてまで、わざわざ大学の講義を受けに行かねばならない現実に心から絶望し、改札を潜らずに構内の喫茶店で生意気にも莨を吹かし、飲み慣れない苦い無糖のコーヒーを啜って、頽廃的な若者の末席に名を列ねたような、自堕落な感慨に耽っていた。そのまま、駅ビルの青果店のバイトへ出掛けてしまうこともあった。

 新宿駅まで辛うじて辿り着いたとしても、講義を受けようとは思わなかった。そのまま、東口の階段を上がって新宿の真昼の雑踏へ、塵芥のように流れ出る日の方が多かった。私には何の用事もなく、確固たる野心もなく、持て余された日暮れまでの厖大な時間だけが潤沢に懐中へ詰まっていた。憧れていた新宿の紀伊国屋書店で、汗牛充棟の形容が相応しい豊饒な書棚に夏の蛾のように眩惑され、小難しい外国の小説や厳めしい哲学書の頁を無闇に捲った。イアン・マキューアン柄谷行人浅田彰舞城王太郎冲方丁江藤淳靖国通り沿いのドトールで、吹き込む蒸し暑い外気に燻されながら、露を滲ませたアイスコーヒーを吸引する。夕刻、徐に動き出した後、行き先はバイト先である松戸の青果店か、大学近辺の居酒屋に限られていた。私は乏しい友人や先輩と酒を酌み交わす為だけに大学のある街へ通っていた。それは乾涸びたような青春だった。私は素性の知れない焦躁に駆られていた。

 退学の方針を固めた頃、私は八歳年上の女性と親密な関係に陥っていた。彼女は離婚歴と九歳の娘を持っていた。元々は私が苦手なタイプの、聊か押し付けがましい明るさを備えた女性だった。特に好みの顔立ちという訳でもなかった。それでも私は知らず知らず恋に落ちて、彼女の存在に対する依存を深めていった。大学一年の終わりに退学の手続きを済ませた。そして七月に彼女の妊娠が発覚した。私は青果店のバイトを続ける傍ら、怠惰で目的を欠いた私生活を過ごしていた。本当は小説家になりたいと思い、何の面白みも独創性もない習作を書き散らす積りであったのに、気付けば年上の成熟した女に溺れ、私の人生の進路は不可解な転変を遂げつつあった。妊娠を告げ、結婚すると親に告げた。母親は絶望したが、父親は静かに「分かった。責任を取る覚悟があるなら、自分の思うようにしなさい」という趣旨の発言をした。彼女の両親は激怒して、私に会ってもくれなかった。堕胎しないなら二度と家の敷居は跨がせないと、彼女に向かって言い放ったらしい。同じ過ちを繰り返す積りか、という訳だ。私の母親も、一旦は父親の方針に倣って結婚に同意したが、翌日には前言を翻して「堕胎しなさい」と電話を掛けてきた。息子の身を思えばこそ、そういう風に言ったのだろうが、当時の私は、堕胎を命じられて憔悴する彼女の姿を目の当たりにしていたから、母親の命令には従えなかった。

 私は仕事を探した。面接官は、若くして所帯を構えるのだから滅多なことでは逃げ出さないだろうと踏んだのだろうか。仕事は幾らでも見つかった。しかし私は大人たちの信頼と想定を軽やかに裏切って直ぐに挫け、職場から逃げ出した。最初の在職は半月、次の在職は三箇月。しかも妻の誕生日に無職となったのだ。家の中は針の筵で、私は日傭いの夜勤に繰り出しながらハローワークへ足繁く通い、現在の勤め先に拾われた。そこでも上司と折り合えずに弱気になって職場を無断で抛棄し、一晩だけ行方を晦ました。学生時代の友人を訪ねて、雨降りの新宿を傘も持たずに徘徊し、桜上水の小さなアパートに一晩泊めてもらった。彼は突然現れた私に、何も理由を訊ねなかった。気遣いだったのか、厄介な問題に巻き込まれたくなかったのか、今となっては、その真意は定かではない。

 妻から連絡を受けて、私の行方を探し回ってくれた別の友人が、桜上水の友人に電話を掛けてきた。そうして私は逮捕された。それから、何を考えて松戸まで帰ったのか記憶していない。松戸駅に到着した後も、私の歩みは異常に鈍かった。どんな顔をして妻に会えばいいのか、日暮れがどんどん濃密な暗色を深めていくというのに、私は家の近所の畑の傍で、ガードレールに腰掛けたまま動けなかった。復旧させた携帯の留守電には、様々な人の声音が記録されていた。か細く痩せた妻の涙声が聞こえ、私は加害者の分際で貰い泣きをした。俺は何をしているんだろうか。俺は何処へ行こうと思っていたのか。世界の涯だろうか。どんな不幸も制約も迫害も存在しない世界を探して? それならば、何の為に所帯を持ったのか。周囲の強硬な反対を踏み躙って子を生したというのに、妻子を置き去りにして、俺は如何なる桃源郷を目指したのだろう。

 猶も女々しく、家の近くの公園から、妻に電話を掛けた。おくるみに包まれた生後半年ほどの息子を抱いて、陰気な表情の妻が姿を現した。家へ帰り、私は台所の暗がりに膝を抱えて座り込んだ。酷く頭の中が混乱していた。やがて妻が私の肩を抱き締めて、貴方の帰る場所は此処なんだから、もう勝手に何処かへ行ったりしないでと囁いた。

 この世界に逃げ場などないと、そのとき私は学んだ。驚嘆すべき忘れっぽさと共に。辞める積りだった会社に、温かい慰留を受けて舞い戻りながら、私は肚を括った。逃げ場なんか何処にもないのだ。此処で踏み止まれ。しかし、その後も私は幾度も現実から逃げ出した。二十五歳のときに、最初の妻と離別した。どうも様子がおかしいと最初に問い詰めたとき、彼女はもう私のことを愛していないと言っていた。私は逃亡から帰還したあの夜と同じ暗い台所の床へ蹲り、タオルに顔を埋めて曙光が射すまで嗚咽を続けた。何もかも失ったような気がした。総てが欺瞞的な夢想に過ぎなかったのだと、私は思った。一年間、関係の修復を試み続けたが、彼女は冷え切った気持ちは何も変わらないと結論した。それは要するに、決断の刻限を迎えたということと同義だった。

 丁度、八年前の今頃に、私は単身、侘しいワンルームのアパートへ移り住んだ。最初の日の夜、私は孤独に堪えかねて夜中に妻へ電話を掛け、流山街道沿いのファミレスへ呼び出した。理性の留め金が外れたように、私は元に戻りたい、愛してくれなくても構わないから、家族を失いたくないと訴えた。けれども彼女はもう、翻意しなかった。悲しげな、或いは何かの苦痛を堪えるような顔つきで、伏し目がちに、その淋しさは一過性のものだと、私を静かに諭した。

 「迷い」と「決断」は何時でも、禍福のように、糾える縄と化して私たちの生活を取り囲んでいる。別れる決断は、再び誰かと巡り逢う為の布石でもある。だが、その決断の深奥にも、脂のように迷いが染みている。信仰と理性との絶えざる相剋のように、私は今も果てしないシーソーゲームの最中だ。あれから未だ八年しか経っていないのかと、時々思う。まるで昨夜見た悪夢のように生々しい風景。別の街に移り住み、別の女性と子を生して、私は別人のような風貌で、日々の迷妄と雑踏に、まるで埃のように紛れているのである。

プラトン「国家」に関する覚書 5

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「本質」という概念に関する考察を深めて、その思索における役割や機能を明瞭に理解することは、プラトンの思想を適切に把握し、その成果を有意義に活用するに当たっては、非常に重要な作業であると言える。事物の本質を問うという知性的営為は、プラトンの思想や哲学の根幹を成す、最も基礎的な手法であるからだ。

 我々の外界に関する認識が、経験論的な知覚から始まることは普遍的な事実であろうと考えられる。そして我々の認識における進化は、経験論的な知覚の齎した情報が記憶の裡に蓄積されることによって促進される。我々は複数の認識を、記憶の機能による助力に与りながら相互に照合し、比較し、両者の関係を精査する能力を備えている。これが「思考」の最も基礎的な形態である。この「関係」を見出す能力、夫々に個別に存在する事物の間の関係性を生成する能力、これが我々人間の「理性」を構成する重要な過程であり、方法である。

 別けても、この「理性」の働きにおいて「本質」という概念の形成に決定的な影響を及ぼすのは「同一性」の認識であると言えるだろう。複数の事物を比較して、それらの間に何らかの「同一の要素」を措定する能力は、我々の理性の裡に「本質」という概念の原型を宿らせる。この「同一の要素」だけを選択的に抽出し、それ以外の要素を偶有的な部分として捨象するのが「本質」という概念の形成の過程である。

 一般に、こうした「本質」の概念は、経験論的な知覚の編輯を通じて形成される理性的な仮象として受け止められている。しかし、プラトンは「本質」を個別的な事物に先行する「真実在」(ousia)として定義し、夫々の事物は「本質」を分有することで生成されたと考える。プラトンにおいては寧ろ、経験論的な知覚を通じて捉えられる事物の現象的な形態こそ「仮象」なのである。

 こうした逆転は、素朴な経験論的発想を覆し、世界に対する認識の関係性に就いて、新たな局面を開拓するものである。プラトンは経験論的知覚を認識の主観的な要素として規定することに異議を唱える。彼は存在の「本質」を把握することに「思考」という営為に課せられた最も重要な使命を見出しているのである。そして具体的な事物を「本質」に還元するという手続きを経由することで、彼は「思考」の可能性を拡張しようと図ったのだと看做すことが出来る。

 例えば経験論的思考においては、幾何学における「図形」は、諸々の具体的個物の形状から抽象的還元の作業を通じて取り出される便宜的な「仮象」である。しかしプラトニズムにおいては、幾何学的図形は諸々の具体的個物に先行し、それらを超越する「真実在」として定義される。寧ろ具体的個物の形状は、事前に存在するイデア的図形に基づいて形成されると看做されるのである。プラトンは総ての事物に関して、その超越的な「設計図」の先行を承認する。そして、このような発想に依拠する形で、森羅万象を「被造物」と看做す制作的な世界観が顕現するのである。

 プラトンの「国家」における諸々の煩瑣な議論もまた、こうした「制作的世界観」に基づいて展開されている。彼は偶発的な要素の累積を通じて無作為に形成される歴史的な「国家」の実態を「国家」の名の下に承認することに否定的な方針を示している。何故なら、彼の論じる「理想的国家」とは「国家」という概念の本質的抽出によってのみ開示されるべき対象であると看做されているからだ。現実に存在する「国家」は、諸々の偶有的要素によって汚染された不完全な「国家」に過ぎない。プラトンの議論は、そうした実在の「国家」に抽象的還元を施すことによって「国家」の本質的要素のみを選別し、救済することに主眼を置いている。プラトニズムの用語法においては「本質」と「理想」とは、実質的に同義語なのである。あらゆる被造物を、理想的な設計図に向かって改変し復元すること、偶有的要素を悉く洗い流して、抽象的本質だけを取り出すこと、これがプラトンにおける思索の主要な目的である。

 「本質への回帰」という命題は、プラトニズムにおける倫理学的要請であると言える。可能な限り、存在の「本質」へ接近すると共に、事物を「本質=理想」の状態へ向けて改変していくこと、個々の事物の単独性を超越すること、或る巨大な同一性の下に森羅万象を統合すること、これらの方針が、プラトニズムにおける実践の根幹的部分を構成している。

 こうした壮大で空虚な形而上学的思考の形態に向かって、エピクロス的な経験論的実証主義の観点に立脚しながら、頗る実際的な批難の言辞を投擲することは、科学的な合理性の観念に慣れ親しんだ現代の人間にとっては容易い企てであると思われる。「霊魂の不滅」や「イデアの実在」といった超越的考想に関して、その実証性の欠如を声高に問責し、具体的な根拠を欠いた妄想的な謬見に類する暴論であると断定することは、言葉さえ操れる者ならば誰にとっても簡単な作業である。しかし、プラトニズムの驚嘆すべき強靭な膂力は、そのような尤もらしい簡便な反駁に遭遇しても一向に震撼されない堅牢な秩序を保持し続けてきたと言えるだろう。エピクロスの批判は、キリスト教神学と習合した本質主義の実効性を瓦解させることに失敗した。プラトンの提示した煩瑣で抽象的な学説を、経験論的な現実から乖離した荒唐無稽の空論として幾ら熱心に弾劾したとしても、それによって本質主義的な思考の持つ方法論的な価値が減殺される訳ではない。イデアの実在を謳うことは確かに形而上学的な「越権」であると謗られても仕方ないだろう。しかし、本質主義的な思考の構図が備えている有用性は、現に人類の発達と進化に大きく貢献してきたのである。

 本質主義と経験論的な実証主義は、人類の文明を発展へ導く知性の両輪であり、銘々の機能は相互に対立と補完を繰り返しながら、実に多様な革命的知見を創出してきた。先ず想像的な仮説を形成し、それを実証によって確かめるという思索と認識の螺旋的な循環は、知性的創造の歴史を貫く最も重要な命脈である。「思索=実践」や「抽象=具象」といった形で示される二元論的相剋は、こうした螺旋的循環の躍動的な性質を意図的に軽んじている。

 けれども、そのように厳密な峻別を仮構した上で論理的な検討を加える作業は、つまり二元論的な区分の意識的な設定は、事物の構造に関する我々の視野を確保する上で有効な手続きであると言える。このような抽象的作業は確かに、我々が肉体的感覚を通じて享受する諸々の経験論的知覚から遊離している。しかし、経験論的知覚から微塵も遊離し得ない知性というものを想像してみれば、それが如何に貧弱で動物的なものであるか、直ちに理解し得るのではないだろうか。プラトン形而上学的な空論は、眼前の経験論的な現実から飛躍して、新たな知見を創出し、新たな視野を開拓する為には必要な手続きである。少なくとも「理性」の役割は、経験論的な「感性」だけでは構成し得ない抽象的な見取図を発明することに存していると言える。現実から乖離した理性的仮象を、経験論的な確証の欠如を理由に断罪するのは軽率な振舞いである。

 尤も、エピクロスとしても理性的仮象の形成を否定している訳ではない。感覚によって確証されない学説を直ちに妄説として排斥することは、エピクロスの哲学的方針に反する選択である。彼が危惧を示したのは、感覚によって確証されない特定の抽象的空論を、独善的な仕方で「真理」の王位に登極させることの不合理な「越権」に関してである。感覚によって確証されない事柄に就いては、複数の理論が適用され得ることを認めねばならないとエピクロスは説いた。こうした「両論併記」の知性的道徳は、プラトン形而上学的な論証の効用自体を排除するものではない。現代ほど科学的技術の発達していなかった紀元前のギリシアにおいて、自然学の探究に身を捧げたエピクロスが、抽象的な仮説の意義を軽視したり迫害したりしていたと看做す明確な理由は存在しない。例えば彼の提示した偏差的な原子論は、感覚を通じて経験論的に確証された学説ではない。その意味では、彼の偏差的原子論は明らかに「空論」の範疇に属している。根本的に重要なのは、抽象的思考を通じて案出された理論的見解の複数性を保持することである。経験論的現実から飛躍する為の回路は常に多様な航跡を描き得る。人間的知性の発達の程度は「理路の多様性の拡充」によって測られるべきなのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

プラトン「国家」に関する覚書 4

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「国家」の前半における中心的な主題が「正義」という概念の厳密な本質的規定に存することは、一連の議論の推移を徴する限り、明瞭な事実である。そして「理想的国家」の性質に関する厖大な論究の涯に、作中のソクラテスは四種の美徳を見出し、その本質に就いて簡潔な定義を提示する。「知恵」「勇気」「節制」「正義」の四つの徳目は、厳密に検討するならば、その総てが倫理的価値において、一律に水平的な配置を与えられている訳ではない。ソクラテスの議論は「知恵」「勇気」「節制」の三種の美徳の間に築かれる適切な調和を「正義」の名の下に称揚している。先述した三種の美徳(知恵・勇気・節制)は、所謂「魂の三区分」の学説に基づいた、人間の「霊魂=精神」における局所的な規範であるが、最後の徳目、即ち「正義」は、それらの部分を統合する全体的な性質を備えた俯瞰的美徳なのである。

 プラトン倫理学的知見における重要な根幹は「支配・管理・統制」の理念によって構成されている。知恵によって感情と欲望が制御され、尚且つ、その制御に関して感情と欲望の側から叛逆が起こされる危険が存在しない状態を、プラトンは「正義」の実現であると結論した。この「調和」が、或る強固な知性的権力の期待に基づいて描かれた規律的な夢想であることは明らかである。「知性」による堅牢な統制の実現への意志、感情や欲望といった盲目的で流動的な現象への嫌悪、不合理を排除して一切の事物を整然たる「本質」の秩序の裡へ適正に配置しようと企てる偏執的な野心、これらの特徴は相互に絡み合って、プラトニズムの独創性を成立させている。

 プラトンの哲学は、エピクロス的な「自然」の観念と根本的に相容れない性質を孕んでいる。エピクロスにとっての「自然」は、原子の運動において不定期に惹起される「偏倚」によって偶発的に生成されるものであり、従ってそれは事前に準備された設計図とは無関係な形態を持ち、尚且つ常に流動して確固たる形態の裡に留まり続けることがない。こうした世界観ほど、プラトンの思想と対蹠的な論理に則って構成されたと言えるものは他に考えられないだろう。プラトンにおいては、あらゆる感覚的物質は完全なる理念としての「イデア」(idea)の不完全な模倣、或いは「分有」の所産であると定義される。本質と偶有との錯雑した混淆の結果として形成される感覚的物質の世界は、エピクロスの考想とは反対に、明らかに美しい設計図の存在を前提としている。完璧な理念としての世界が、不完全な現象界に先行して実在するという理路は、プラトニズムの思想的な動脈を成す学説である。

 例えば様々な形状や性質を備えた無数の岩石を、或る共通項に基づいて「岩石」という概念に集約する抽象的思考の働きは、飽く迄も経験的な現実に対する解釈の技法であるように感じられる。その場合に、個々に存在する具体的な岩石を「岩石」というイデアの分有された状態、つまり「岩石」としての本質と、様々な偶有的要素との多様な混淆と結合が行なわれた状態であると看做すのは、エピクロスの自然学的な認識と正面から背馳している。換言すれば、エピクロスの「自然」が生成的なものであるのに対し、プラトンの「自然」は制作的なものなのだ。エピクロスの「自然」は「クリナメン」(clinamen)の作用に基づいて偶発的に生成されるのに対し、プラトンの「自然」は或る崇高な超越的意図に基づいて、必然的な仕方で制作されるのである。

 プラトンにとって、感覚的現実において把握される総ての事物は「被造物」である。この制作的な世界観の根底には、或る超越的な設計図に基づいて万物を創造する主体的意志の存在が前提として組み込まれている。世界の総体が被造物であるならば、それらは造物主における主体的意志の必然的な反映であり帰結であるということになる。それは様々な偶発的要素の複合的所産ではなく、無目的に生成された流動的現象でもない。事物の一つ一つに何らかの固有の意味や価値を発見しようと試みる世界観は、その価値が顕在的であるか潜在的であるかに関わらず、超越的な絶対者の介入を想定している。例えば個別の自転車は「自転車」という一つの技術的な範型に基づいて実際に製造され、我々の社会に流通している。各々の自転車は「自転車」という「本質」に、多様な偶有的要素を附加することによって造型され、存在している。その背後に誰かしら「制作者」と称すべき主体の意図が関与していることは明白である。プラトンは、感覚的世界を「個別の自転車」のように捉えている。そして真実在としての「自転車」に到達する為には、一切の偶有的要素が除去されねばならないと推論する。だが、如何なる偶有的要素も含まない純然たる「自転車」が、物質的世界の裡に明確な形態を備えて実在することは原理的に不可能である。何故なら物質的世界の裡に実在するということは、必ず交換可能な部分、つまり「本質」に属さない偶有的な部分を保持することと同義であるからだ。

 本質とは、相互に異なる個体の間に共通して見出される要素のことである。同時にそれは、或る存在の範疇の固有性を維持する最低限の要件を意味している。純然たる本質のみの状態で感覚的世界に現前するということは、如何なる可換的要素も含まない状態で地上に顕現するということと同義である。しかし「具現化」という現象は必ず「個物としての実在化」を伴うように構造的に規定されている。「個物」は、その本性において相互に異質であり、独立的である。言い換えれば、存在の本質は、相互に異質な個物を経由してのみ、我々の感覚的認識の機能に与えられ、開示されるのである。存在の本質は、感覚的形態を持たない。それは総ての感覚的形態に共通する特性として理性的に把握されるのであり、如何なる感官によっても捕捉することの不可能な超越的対象である。

 こうした認識の形態が、プラトンの重んじた幾何学の分野において最も明瞭な姿で顕現していることは確実である。幾何学における図形は、感覚的形態として顕れる総ての個別的な「形状」の抽象化された様態である。教科書や黒板に記された具体的な図形も含めて、あらゆる可感的図形は「図形の本質」の不完全な転写として我々の視野を領している。何故なら「図形」とは個別の具体的形態ではなく、或る「関係性」そのものの抽象的な形式化の所産であるからだ。例えば我々は「線描の太さ」を一義的に規定し得ない。様々な太さの線描を集めて、その共通する要素を抽出する場合、何れの太さの線描が完全に本質的であるかという問題に、厳密な正解を賦与することは不可能である。「関係性」に可感的な形態を授けることは出来ない。換言すれば、存在の本質とは即ち「関係の形式」なのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

プラトン「国家」に関する覚書 3

 引き続き、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの「理想的な国家」の形態や構造を巡る実験的な議論には、聊か疑義を呈したくなる側面が幾つも刻み込まれている。音楽や詩歌に関する堅苦しい道徳的抑圧、医療に関する優生学的な規範、私有財産の禁止を含む政治家たちへの苛烈な倫理的要求など、実現に際しては多くの弊害を惹起するであろうと思われる類の提案が散見するのである。プラトンの国家に関する見解には、中央集権的な「全体主義」の感触が滲んでいる。彼は「国家」の理想的形態を明瞭に描き出す為に、意図的に「現実的な国家」の実態を掻き集めて知的な「蒸留」の作業を施した。彼の「理想的な国家」に関する綿密な論証は、数多の「現実的な国家」に対する酷薄な審判の上に成り立っている。

 プラトンは恐らく「国民主権」という理念の崇高な価値を容認しない独裁的な性格の持ち主である。私はその倫理的な善悪に就いて明確な断罪を試みようとしている訳ではない。言葉の上で、プラトンの政治的思想における冷酷な特質を糾弾するのは極めて容易な実践である。重要なのは、そうした表層的な批判に溺れて、自らの思考を停滞させることではなく、彼の思想の深層に潜り込む為の執拗な考究を維持することである。

 「国家の理想的形態」に関する煩瑣な議論に限らず、その対話篇の全般を通じてプラトンが明示している思索の様式における特徴は「本質の抽出」であり、もっと端的に要約するならば「抽象化」という知性的作業である。彼の思考は常に諸々の具体的な個物を貫く核心的な要素を把握することに捧げられている。彼は単に「国家の理想的形態」に就いて自己の意見を開陳しているのではなく、そもそも「国家の本質」に就いて徹底的な探索を試みているのである。しかも、その並々ならぬ野心的な努力は、国家の現実に関する経験論的な観察を敵視している。何故なら、経験論的な現象の把握は寧ろ事物の「本性」に関する精確な知識の獲得を妨げ、知性の働きを混乱の坩堝へ陥れるものだからである。彼にとって哲学的な探究とは「本質の定義」であり、その対象となる存在に固有の条件を明確に断定することを目的としている。

 事物の「本質」に対する徹底的な考究の情熱は、事物の多様な形態をそのままの状態で保全するという「多様性」の理念と原理的に背馳する信念である。「本質」を捉えようとする知性的な努力は不可避的に、相互に異なる多様な存在の形態に共通する同一の要素を探し求め、その探究の目的に適わない「逸脱」の部分を捨象することを当然の要請として積極的に受け容れる。「本質」を追い求めるという精神は、絶えず事物の世界に「共通項」や「同一性」の手懸りを発見しようと驚異的な努力を積み重ねる。そして「理想的形態」は、そうやって見出された普遍的な「本質」への適合を根拠として承認されるのである。

 「本質」の実在性を認め、それを事物の本来的な姿として、つまり理想的形態として称揚し、そうした本質と恣意的で偶発的な仕方で結び付いている副次的な属性を捨象する思考の形態が、いわば「認識論的浄化」とでも称すべき作業を含んでいることは明瞭な事実である。プラトンは肉体的で感覚的な認識の機能に就いて、それが霊魂による「真実在」の把握を阻害する「穢れ」であるという視点を「パイドン」において提示している。この場合の「穢れ」とは明らかに、事物の本質と無関係でありながら、その事物に偶然接続されることとなった諸々の「合成的属性」のことを指している。

 事物の構造を「本質」と「偶有」とに二分して弁別する思考の形式は、プラトニズムを彩る明瞭な特徴の一つである。人間の存在を「霊魂」と「肉体」とに切り分ける二元論的な発想もまた、こうした「本質」と「偶有」という認識論的構図に依拠している。そして「肉体」を偶有的な属性として賤視し、人間の本質を「霊魂」の側に求める差別的な規範が、プラトンにおける倫理学的秩序の根幹を形作っているのである。

 こうした「本質主義」(essentialism)の傾向は、偶有的な要素に対する差別的冷遇を齎すと共に、現象的な世界に対する「普遍」と「超越」の性質を事物の中核に見出す。プラトンの「真理」に関する考え方が、こうした本質主義的傾向によって規定されていることは明瞭な事実である。そして本質主義的な思考の方法は必然的に「選別と排除」の論理を、その運動の中心的な枢軸に設定する。換言すれば、本質主義には「純化」と「浄化」への絶えざる反復的な衝迫が宿っているのである。

 更に本質主義においては、事物の進化や発展といった現象的変容に対する保守的な批判が常態化するのではないかと想定される。何故なら、本質主義における最も根底的な概念である事物の「本質」は、現象界における諸々の流動や、偶有的な要素の改廃とは無関係に、普遍的な同一性として存立し、あらゆる現象的変容を超越する堅固な実体を備えると考えられているからである。若しも事物の本質が普遍的なものであり、現実的文脈による一切の制約を免かれていると仮定するならば、諸々の偶有的要素と混淆した状態にある地上の事物は、そうした偶有的な「汚染」から脱却すべきであり、そうした「浄化」が完璧に実行されたならば、そのとき事物の本質は全面的な「開顕」の状態に移行すると看做される。それが本質主義における事物の理想的状態である。本質主義者の考える「進化」の過程は、こうした事物の「純化=浄化」の進捗によって形成されており、或る事物が新たな偶有的要素を獲得することで進化を遂げるという現象的思考は、寧ろ「純化=浄化」の過程を妨げる変化であるとして排撃されることになるだろう。

 このような本質主義的観点に立脚して推し進められるプラトンの「国家」に関する議論が、成員に対する厳格な統制や倫理的制約を伴うことは不可避的な帰結である。彼は現実に存在する国家の実態から諸々の妥協的な折衷の方策を思案するという段取りを選択しない。彼が思考の対象に据えるのは飽く迄も「国家の本質」であり、国家の本来的=理想的な存在の様態に就いて明瞭な見取図を確立することが最も重要な本務であって、国家の実態を具体的に改革することは副次的な問題として遇されている。彼は偶有的要素を組み替えることで最善の状況を手繰り寄せようと試みる泥臭い実際的努力には、稀薄な関心しか寄せていないのである。彼は国家の本質に附随し、結合し、混入している諸々の偶有的要素を選別し排除することによって、予め潜在する国家の理想的形態を発掘しようと企てる。こうした試みは、諸々の現象的な事実を巧みに組み合わせて理想的国家を設計しようとする実務的な発想とは対極的な思考の所産である。

 プラトンの思想は、様々な偶有性によって彩られた不合理な現実に対して、寛容であるよりも酷薄であることを選択する。彼は事物の本質を蔽い隠す現象界の混濁を愛さない。明瞭な秩序に基づいて境界が画定され、総ての事物が本来の位置に留まり、不合理な混淆が排除されるような世界を志向している。換言すれば、プラトンにおける「真理」は紛れもない「権力」の機構なのである。こうした性向が、西洋における巨大な「哲学」の体系を構築する原動力として機能したことは確実である。同時に、こうした「真理」は、その本性において抑圧的で暴力的な側面を濃密に有している。プラトニズムの精髄は、現象的な世界と、それに内属する諸々の多様な事物に対する「審判」の原理の裡に宿っていると考えるべきである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

対話篇「実務と教養」

甲:世の中には「実務的な知識」とそうでない知識が存在するという議論に関して、君はどういう見解を持っているかね?

乙:所謂「実学志向」の話かね? 仕事の役に立たない知識を大学で教えることに関して、主に経済界から批判的な視線が突き刺さっているという、例の現象かい?

甲:まあ、それも無関係な話ではないね。大学を高度な「職業訓練校」のように改造したいというのが、経済界の側からの独善的な要求であると共に、国家の方針でもあるというのが、私には聊か気に入らないのだ。新卒の学生諸君に職業的な意味で「即戦力」であることを要求するという社会的な要求は、近視眼的だと思わないか? 我々人間は家畜じゃない。何らかの実利的な目的や価値の為に二十年も養われ、肥育されている訳じゃない筈だ。

乙:まあ、仰る通りだね。ただ、経済界の人間だって別に「優秀な家畜」が欲しいと考えている訳じゃないだろう。彼らが嫌がっているのは、この世界の現実から遊離した、ぼんやりした学生の集団を雇用するということじゃないのかい。現実に対する見識を欠いた、未熟な人間を望まないというのは、そんなに批判されるべき態度かね?

甲:現実から遊離した考えを持つこと自体が悪であるとは言えないと思うね。以前に私は君と「実務家の限界」に就いて議論を交わしたね? 現代の経済界が如何なる人物を欲しているのか、詳しいことは知らないが、優秀な実務家を求める余り、それ以外の要素を斬り捨てるという極端な選別が常態化するのは、人類の未来にとって危険な風潮だと思うんだよ。現実から逸脱する部分、それは要するにルクレーティウスの言葉を借りるならば「クリナメン」ということになると思うんだが、そういう要素を悉く排除して、常に現実への完璧な適応を追求するというのは、これはコンピュータの論理だ。人工知能の属性だよ。

乙:君は現代的なラッダイトのような科白を吐くんだね。機械的決定論からの逸脱が人間の尊厳であり自由の根拠であるというのが君の個人的な見解かね。

甲:実際、それこそが人間の実存における醍醐味であり、生きることの魅惑の源泉だと思うね。例えば「愛情」というものは、現実に対する過剰な適応を心掛ける人間にとっては、邪悪なノイズに過ぎないね? あんな不可解な感情を、実務家の論理は決して積極的に受容しようとは考えないだろう。自分の子供に対する極端で特権的な愛情に、実務家の論理は無用だろう? 両者は水と油の関係じゃないか。

乙:だが、過剰な愛情は時に狂気と化す場合があるね? 現実に対する合理的な対応を排除するのも、過剰な適応と同様に、危険な弊害を含んでいると僕は思うね。水と油を乳化させる企てが人間の生活には必要なんじゃないか?

甲:実務家的な適応の価値を完全に否定する積りはない。ただ、それだけに尖鋭な仕方で特化するのは人工知能の発達に委ねておけばいいと思うんだ。多くの雇用が、シンギュラリティの時代には優秀な機械の手で簒奪されるだろうと言われているね? そのときには、単なる実務的な能力は容易に、洗練されたプログラムの体系に置き換えられてしまうだろう。そのときにも残存し続ける人間的な価値を、どうやって私たちは育むべきなのか、それを真剣に考究することが肝腎だと私は訴えたいのさ。

乙:それで君は、実務的な能力よりも理論的な能力の方が、シンギュラリティの時代にあっても簒奪されず、今までと変わらずに人類の主権の下に置かれ続けると信じているのかね? それは聊か楽観的な視点ではないかね。論理的思考は、人工知能によって簡単に置換され、代行され得ると言われているではないか。

甲:理論的な思考というのは、単に論理的な手順を辿ることだけを意味するのではないよ。例えばプラトンイデアに関する学説が、純粋な論理的考察だけで出来上っていると君は思うかい? 論理的な法則は、現実の構造の反映であって、物理的な法則の写像だ。プラトンならば、物理的な法則の方が論理的法則の不完全な写像だと言い立てるだろうがね。私が言いたいのは、理論というものが現実からの自在な離脱を含んでいるということだよ。それは論理的思考そのものとイコールじゃない。理論的思考の可能性は、眼前の具体的な現実の「超越」の裡に存在するんだ。論理の厳密さや精緻さということは、そういう「超越」の広範な可能性に比べれば、所詮は些末な問題に過ぎないね。

乙:「論理」と「理論」とは異なるという君の見解は、何だか言葉の遊戯のように感じられるね。そもそも、これらの言葉を用いて僕たちが何を指し示しているのか、その点を克明に示さなければ、この議論は生産的な価値を欠いてしまうんじゃないかね?

甲:それは至極、尤もな提案だね。「論理」というのは、或る思考の流れの中から一般的に抽出される普遍的な規則のことだと言えるんじゃないだろうか。人間の持つ様々な考え方、それは色々な知識や情報の聯関として産み出される訳だが、それらの聯関における共通の形式、純化され一般化された形式の類型が「論理」と呼ばれているのではないだろうか。言い換えれば、それは世の中に存在する様々な思考の体系を厳密に明晰化することで取り出される、或る抽象的な約束事の群れなのだ。

乙:随分と迂遠な説明だな。つまり、それは様々な思考の内容とは無関係な、思考の「法則」或いは「規範」ということかね?

甲:私たちの社会では頻繁に「論理的な思考」の価値が喧伝されているね? それは視点を変えれば、私たち人間が「非論理的な思考」を実行する能力や可能性を持っているという事実を傍証している。思考が論理的な性質と不可分であるならば、殊更に「論理的思考」の価値を称揚したり強調したりする必要は生じないからね。例えば「論理学」という学術上の分野は、そういった一般的で普遍的な規則としての「論理」の機能や構造に関して、専門的に考究する領域であると言えるだろう。「論理」は専ら思考の形式或いは規則に関わるもので、思考の内容と結合するものではない。

乙:だが一般に、非論理的な思考は、論理的な思考に比べて価値の劣るものだと看做されているね? 多くの矛盾や飛躍を含んだ思考は、いわば純化されていない、不透明な混濁の裡に置かれていて、現実的な妥当性を欠いていると批難されるのが通例ではないかね。

甲:実践の領域において、曖昧な思考が何故か、現実的な有効性を大いに発揮するということは有り得ることではないかね? 思考が論理的な明晰さを欠いていたとしても、様々な感覚や経験的な記憶の混ざり合った、度し難いほどに錯綜した思考の力によって、新たな現実が開拓されるということは珍しい現象ではない。寧ろ、私たちはそうした「不可解な威力」の顕現に対して「創造的である」という肯定的評価さえも賦与する慣わしではないかね?

乙:それならば一体、世の中に蔓延する「論理的思考」への信仰告白は、如何なる根拠に基づいて行われていると考えるんだい? 論理的な明晰さに、君は如何なる価値も創造性も認めない覚悟なのか?

甲:そうじゃない。論理の効果というものは確かに存在する。ただ一般に漠然と信じられているほど、論理の効果は万能ではなく、或る意味では非常に限定的なものであるに過ぎないと言えるだろう。論理とは「思考の抽象化」であり、それは要するに「思考の明晰化」ということだ。それは思考の流れにおける内在的な聯関の構造を明示する為の道具なんだ。「思考の自意識」と呼び換えてもいいだろう。「論理的に考える」ということの本来の定義は、自らの展開する思考の内容を厳密に吟味し、その内訳を精細に解剖するということだと、私は思うね。

乙:それならば「理論」とは一体何なんだい。それは「論理」という概念と如何なる点で異なっているのかね?

甲:「論理」は常に「明晰である」ことを自らの定義の裡に含んでいる。けれども、私たちが個別に信奉する銘々の「理論」は、必ずしも「明晰である」ことを必要としていない。「論理」は「過程の明晰化」だが、所謂「理論」は発端から終局へ向かう大雑把な「過程」そのものの構築だと言える。極論を言えば「理論」には前提と結論さえ伴っていれば、それで直ちに成立し得るのだ。或いは「物語」なのだと看做しても、差し支えないかも知れないね。「理論」を構築することと、その過程を明晰化することとの間には、重要で決定的な「次元の差異」が関与しているんだ。

乙:それで君は、論理という或る限定的な武器に固執することに野心を燃やしているのではなく、もっと猥雑な要素も含んだ、或る綜合的で包括的な思考のようなものに、軸足を置こうと企図しているのかね? 単に論理的な明晰さや正しさを追究することには関心がないのかね。

甲:それほど重要なことではないと言えるだろうね。無論、局面によっては何よりも「明晰化」への意識が求められる場合もあるだろう。だが、それは「人間が思考する」という営為の本質を成す過程ではないと思うね。部品を洗浄することと、色々な部品を組み立てて或る巨大な構造物を組み立てることとは、相互にイコールではないだろう? 無論、部品の洗浄は大切なことだ。そこから新たな発見が析出されることもあるだろう。けれども、それらの部品は洗浄される為に存在している訳ではない。構造物の一部として、構造物を形成する為に開発され、選択されて、その場所に配置されている筈だ。「論理的思考」という概念そのものを、究極の切り札のように崇め奉っても仕方ない。論理的に物事を捉えれば精確な「正答」に辿り着けるという考え方は見通しが甘いと思うんだよ。

乙:それならば君は一体「理論」という言葉を用いて何を描き出し、何を指し示そうとしているんだい? 「理論」を構築する能力は、論理的な演算に長じることとは別の話なんだとしたら、それはどのような構造に基づいていると看做すべきなんだ?

甲:「理論」は、必ずしも現実の論理的な解釈に依拠しているとは言えない筈だよ。精確な計算だけが、画期的な数学上の発見を齎すとは限らない。「論理」に関する知識が、思考の流れに一定の方向性を賦与することは事実だ。しかし、私たちの精神はそれほど受動的な機構ではない。重要なのは、或る目的や発見に向かって論理的規則を巧みに配備することだ。論理は手段に過ぎず、それは革命的な理念を創発するものじゃない。言い換えれば「理論」には或る奇態な情熱や野心的な意志の働きが必ず包摂されている筈だ。その奇妙な「欲望」のような力が、論理的規則という「道路」に従って前進していくんだ。何処に目的地を設定するかという判断と、どの道路を経由するべきかという判断とは、同一の次元には属していないだろう?

乙:随分と本題から逸れている気がするね。君自身、本来考えたかったことが何なのか、分からなくなっているんじゃないか?

甲:そうかも知れないね。今日はこれで切り上げることにしようか。

対話篇「具象と抽象」

甲:先日、君と「抽象」と「具象」に就いて議論したのを覚えているかい?

乙:覚えているよ。今年最初のアイスコーヒーを飲んだ日だ。印象深いね。

甲:あの話題に就いて、あれから徒然に考え込んでいたんだよ。なかなか重要な問題じゃないかと思ってね。君は同じように関心を持ってくれているかな?

乙:君ほど熱心に同じ話題に就いて考え込むような気概はないがね。僕は飽き性だし、移り気な男だから。

甲:その点、私は偏執的な性格だからね。実務家と理論家の違いというものに関して、彼是と断片的に考えを巡らせていたのだ。抽象と具象とを往復することが大事だと、確か私は君に意見を開陳したね?

乙:ああ。それに関しては、私も特に異論は示さなかったように思うが。

甲:その通りだ。ただ、聊か綺麗事のような結論に至ったことに、身勝手な話だが、ささやかな不満を覚えたんだ。抽象と具象との往復が大事というのは、いわば理想論だね。理想が美しいものであるのは大切なことだ。だが、人間は誰しも理想と乖離した現実の中で、日々の具体的な生活を営んでいる。個性というものは、基本的に「偏向」を含んでいるものだ。実務家には実務家に固有の偏向が、理論家には理論家に固有の偏向が存在する。その偏向の実態というものを適切に把握しなければ、両者の間には不毛な反目が生じてしまうだろう。そういう反目を、綺麗事の理想論で一気に統合して克服してしまおうと考えるのは、余り合理的な解決ではないように感じた訳だ。

乙:相変わらず厄介で世話の焼ける男だな。じゃあ一体、どういう結論が望ましいと君は思うんだい。議論というものは、理想を描かなければ役に立たないだろう? 既存の現実を追認するだけならば、理想なんてものは最初から不要に決まってるじゃないか。

甲:別に眼前の現実に屈服して白旗を挙げようという積りはない。だが、偏向というものが現実に存在することを理解した上で、互いに妥結し得る場所を発見しなければ、対話は常に喧嘩別れに帰結してしまうだろう。例えば「実践」という主題を掲げた場合でも、そもそも実務家にとっての「実践」の定義と、理論家にとっての定義との間には、根本的な隔たりがある筈だ。その隔たりを計算に入れないで、両者の齟齬を看過した状態のままで議論を進めても、有効な対話というのは成立しないんじゃないだろうか?

乙:まあ、それはそうかも知れない。じゃあ兎に角、君の目下の見解を聞かせてもらおうじゃないか。実務家にとっての「実践」の定義とは一体、どのようなものだと看做しているんだね。

甲:実務家にとっての「実践」は、正しく日々の生活そのものだろう。彼らはどんな抽象的な理論よりも、荒唐無稽の妄想よりも、形があって眼に見える、或いは指先で触れたり掴んだりすることの可能な現実を愛するだろう。それ以外のものは総て、遠く離れた異国の街路を打つ驟雨のように、縁遠くて無意味なものだと看做しているだろう。因みに附言しておくが、これは厳密な意味で定義された理念としての「実務家」の話だよ。

乙:心得ているさ。そういう人間にとって、実践するということは生きることの総てを占めているだろうね。考える暇があったら行動すべきだと、そういう連中は言い切って揺らがないだろう。

甲:それは、この時代の趨勢にも符合している態度だろうね。これだけ目紛しく技術の発展が現実の構造を書き換えてしまう時代にあって、生半可な思考や議論は直ぐにその価値を掻き消されてしまうだろう。さっさと現実の変化に適応して、その変革の猛烈な進展に縋って生きた方が、何かと話も早い。行動せずに考え込んでいる間にも、現実は凄まじい勢いで革命的な変貌を遂げてしまうのだから、考えている時間は無意味な浪費ということになるね。

乙:何だか物言いたげな表情だな。君はそういう現実に何かしらの不満を懐いているのかい?

甲:「実践を重んじる」と以前の議論のときに強く主張しておきながら、私自身が迅速な転身に踏み切っているようで心苦しいが、そういう気持ちは正直に言えば、私の中に確乎として存在しているね。「実践一辺倒」の時代的な風潮は、合理的であることは間違いないが、それで何もかも判断されたり裁定されたりするのは、落ち着かない気分だ。少なくとも、愉しく明るく生きるということは、目紛しく移り変わる現実に引き摺り回されることとは違う筈だ。

乙:それは君が最近、妙に熱心にプラトンの対話篇ばかり読み漁っていることの影響じゃないかね? あの「超越」と「普遍」の権化のような人物の息遣いに接し過ぎて、少しずつ空中に浮遊し始めていることの紛れもない証拠じゃないかね?

甲:そういう見方をされるのは構わないが、そんなに話は簡単じゃない。私は要するに「理論」と「実践」との不毛な相剋を是正したいんだよ。理窟っぽく振舞えば口先ばかりと罵られ、夢中で行動すれば浅慮だとか短見だとか罵言を浴びせられる、そういった類の下らない循環に終止符を打つ方法を思案しているのさ。

乙:それで、何か手懸りは掴めたかね? 掴めていないから、こんな閑人を捕まえて議論を仕掛けているのかね。

甲:私は両者の相違点を正しく理解し把握することによって、余分なボタンの掛け違えを抹殺したいと目論んでいるのさ。例えば、実務家にとっては「眼に見える現実」が最大の価値を持つ。それ以外に価値を生み出す源泉があるという考え方には嫌悪を示す。そして彼らの最大の特徴は、現実の「細部」に対する過剰なまでの執着や配慮だ。「神は細部に宿る」という金言は、実務家たちの揺るぎない伝統的信条だと私は思う。こういう特徴は、彼らの思考の主要な形態が「具象的なもの」に支配されていることの反映ではないだろうか?

乙:要するに君は「具象化」の作業が「情報の増大」を齎すということを言いたいんじゃないのかね? 例えばプラトンは、その反対に向かって議論を突き詰める種別の人物だ。君はプラトンの発想や価値観に惹かれているのかね?

甲:話はそんなに単純じゃないんだ。ただ、私がプラトンの考え方に或る奇怪な浮遊感のようなものを見出して距離を感じながらも、一方ではプラトンの誇大な妄想の力が、様々な理性的思考の威力の最も突き詰められた形態なのではないか、だからヨーロッパの文化の根底に存在すると認められているのではないか、という考えに傾きつつあることも事実だ。その意味では、君の洞察は正しい。しかし、私はプラトンの思想を一から十まで肯定している訳じゃない。「国家」の中に登場する素朴な道徳主義や優生学的発想に対しては、明確に否定の意志を突き付けてやりたいと考えているよ。

乙:だが、君はプラトンの思想が含んでいる可能性に肯定的な見解を懐いているんじゃないのかい。「実践一辺倒」の風潮に異議を唱えようとする姿勢自体が、プラトンの影響下において形成された精神的な「傾斜」であると認めたらどうなんだい。

甲:私が惹かれているのは、プラトンが具体的に示した思想的信条ではなくて、飽く迄も彼が数多の対話篇を通じて示した思考の「方法」であり「様式」の方だ。内容云々は、時代的な変化に応じて幾らでも古びるだろうし、そもそも我々が暮らしているのは、古代ギリシアの土地から空間的にも時間的にも遠く隔たった極東の島国だ。思想的内容に関して、私が彼の意見に魅了されるという可能性は極めて低いと君は考えないのかね?

乙:君はプラトンの思想を「内容」と「形式」に切り分けて論じようとしているのかね? 個人の思想が、そんなに綺麗に「骨」と「肉」とへ分離されるということが有り得るとは、僕には到底信じられないね。

甲:だが、人間の死骸を想像してごらん。肉の部分は死後直ぐに腐敗して崩れ去ってしまうが、骨の部分は長い間、風雪に耐えて原型を留め続けるだろう? 思想に関しても同じことが言えるんじゃないか。厖大な歴史的時間の堆積に堪え続けて、骨格としての「方法」や「形式」は残り続けるのだと。

乙:それで、プラトンの思想において重要なのは「方法」という骨格の部分だと君は断定するのかね? 肉の部分には然したる関心も持たないと?

甲:逆に言えば、それが私の人格における「抽象性」の間接的な証明であるということになるのかも知れないね。滅び易いものには関心を持たず、永続するものや中核的な要素により多くの知的な興味を惹かれるということは。それをプラトニズムへの親和性だと指摘されれば、その通りだと頷くのが公正な態度だろうね。

乙:漸く自供したか。君は「実践」よりも「思索」や「理論」により多くの関心を寄せる性格なんだろう。そうでなければ、例えば話題が「実践」であるにせよ、知識と実践との関係性に就いて長々と議論を戦わせて飽きないなんてことにはならないだろうからね。「実践の重要性」を強調する為に論陣を張るという振舞い自体が既に、充分に理論的な姿勢だと言えるんじゃないかね?

甲:まあ、確かに君の指摘は正鵠を得ているかも知れないね。全面的に同意し得るとは思っていないが。理論家という人種は恐らく、現実の「細部」に関して、実務家よりも遥かに愛情が稀薄であると言えるだろう。彼らが見たいと願っているものは、この肉眼の視覚的な解像度を向上させることで捉えられる対象ではない。彼らが関心を寄せるのはもっと抽象的で、肉体的な感官を通じては実在を確かめられないような、或る想像的な構築物だ。プラトンが肉体的な感覚による認識の価値に対して非常に懐疑的な、いや、露骨に批判的な態度を示していることは、君も知っているね?

乙:余り真摯な興味は持っていないがね。断片的な知識として、彼が「眼に見えない現実」を重んじていたという話は耳にした経験があるよ。

甲:実務家というのは眼に見えない範囲の事柄を相手に選ばないということに、一つの倫理的な美徳というか、道徳的な制約を置いているものだ。眼に見えず、触れることも出来ない事柄は、具体的な実践や行動を推し進めるに当たって、不必要な、考慮に値しないファクターに他ならない。それらに関わり合って虚空に視線を彷徨わせるのは、紛れもない時間の空費ということになる。極端に言えば、実務家に必要なのは「現在」という時間と場所の地点だけだ。そうじゃないかね?

乙:それに対して理論家は、この瞬間的な「現在」からの乖離を意識的に求めるという訳かい? 彼らは寧ろ実務家とは反対に、今この瞬間の感覚が捉えられないような不可視の対象を探究し、解明すると?

甲:そういうことだ。理論家の精神は、この瞬間的な現在への没入を嫌がるものなのさ。勿論、これは概念として厳密に想定された「理論家」の生態の話だけれどね。一般的には、人間はこの二つの軸の間を絶えず流動的に往還し続けている。ただ、意識の上で、何れの極に偏り易い傾向があるかという問題は、これとは別に存在している話だと思うんだ。誰だって両者の要素を中途半端に分有して生きていると言える。けれども、人間には必ず「偏向」というものが備わっている筈で、その偏向が、その人間の生き方や価値観や信条の形成に重要で決定的な影響を及ぼしている筈だと思うんだ。

乙:相対的に「理論家」の要素が強い人間と、「実務家」の要素が強い人間が存在している、或いは統計的に分布していると言いたい訳かい?

甲:そうだ。そして自分自身に関して個別的な観察を施すならば、恐らく私の内面には理論的なものへの志向が根強いように感じるんだ。けれども時代の環境は、必ずしも厳密な「理論」への要求を高ぶらせているとは言えない。理論よりも技術的な進歩の速度が余りに目紛しくて、必然的に感覚的な現実に駆り立てられてしまい易い状況が作られていると思う訳だよ。

乙:そういう軋轢というか、葛藤のようなものに君は苦しめられ、悩んでいるという訳か。そういう社会の現実的な構造に異議を申し立てたいと考えているのかね?

甲:苦しむとは言わない。そこまで現実の構造に圧倒されているとは言わないさ。だが、現実に追い立てられ、技術に呑み込まれているばかりでは、それは思想も理想も持たない完璧な実務家、恰かも人工知能のような実務家を養成するばかりじゃないかと、御節介な危機感を覚えているのさ。

乙:なるほど、君は「慨世の士」を気取っているという訳かい。そんな実務家ばかり育てたら、世の中の人間は悉くシンギュラリティの時代に、人工知能に覇権を簒奪されてしまうと嘆いている訳だね。

甲:実際、そういう危険は決して小さくないと思うね。理論を欠いた実務家、現実に対する過剰な適応を示す実務家ばかりを殖やしても、それは人間の本来的な可能性、固有の可能性を毀損するだけだと思うね。

乙:人間の本来的な可能性とは一体、何だね?

甲:生命体の本質は、それが感覚的で現在的な事実の列なりに刃向えるという点に存すると私は考えているんだ。無生物は、現実の構造に何もかも規定されて、絶えず必然性と因果律の内側で眠るように存在している。けれども人間は違う。人間の意志は、そういう現実の必然的な構造を組み替える力を持っている筈だ。今この瞬間の現実だけを見ていたら、私たちは「可能的な現実」を想像する力を徐々に失っていくだろう。言い換えれば、過剰な実務家は絶えず「眼の前の現実」の中に閉じ込められてしまうということだ。「マトリックス」という映画の中の人物たちのようにね。

乙:だが、逆の視点を持つことも可能だろう。極端な理論家の生態に検討を加えてみるのはどうだい? そういう批判的検討を行わずに、実務家の限界だけを言い立てるのは公正な議論であるとは言い難いね。

甲:では、過剰な理論家の特徴とは何だと君は思うのかね?

乙:僕の考えでは、彼らはいわば感覚的な現実との間の「摩擦係数」を喪失した人間たちだ。彼らの思考は、感覚的な現実から完全に切り離されて、経験論的な制約を一切蒙らない。従って彼らの意見は如何なる妄想にも奇態な信憑にも容易に結び付くだろう。極限まで亢進した理論的性向は、恐らく殆ど「狂気」と区別がつかないんじゃないかね。プラトンの「イデア」や「霊魂の不滅」に関する高尚な学説にしたって、あれを立証する為の現実的で客観的な根拠が存在するとは言えないだろう? それが形而上学的な思考に課せられた構造的で宿命的な限界なんだからね。そういう危険を理論家の精神が宿しているということは、充分に考慮されねばならない要件だと僕は思うね。

甲:まあ、聊か極論ではあると思うけれど、それはお互い様だね。確かに君が言う通り、感覚的な現実との相関を失った理論的思考は、自ら望めば幾らでも法外な妄想の世界へ飛翔していくことが可能になるだろう。目下の現実の構造とは無関係に、理想的な神話の世界を、幻想の裡に構築することが出来るし、その幻想を現実と交換してしまうことだって不可能ではないだろう。或いはプラトンが「対話篇」という形式での執筆に生涯固執し続けたのは、その「他者との対話」という仮構が、現実から遊離した巨大な思想の体系を、日常的な現実に連結しておく為の「纜」のような役目を担っていたからなのかも知れない。赤の他人の意見を受け容れる回路を遺しておくことで、理論的な思考が完全なる狂気の領域へ移行してしまわないように工夫していたのかも知れないね。