サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十四章 樹海の社にて 3

 敏捷な鹿の背に跨って先導するフェレッサの後ろ姿を追って、渋面のサスティオは黙々と獣車を駆り立てた。午前の光が射し込む切通しを抜け、再び薄暗い樹海の小径に貧相な轍を刻む。軈て木立が途切れ、俄かに開けた視界の涯に、巨大な城壁が忽然と姿を現した。神秘的な深緑の岩石を堅牢に積み上げて作られたその城壁は、果てしなく広がる樹海の陰鬱な色彩に滑らかに溶け込んで見える。宮城を去って聖職の途へ身を投じた健気な寵姫の安全を慮って、黄駿帝が南方の都市トガインから態々運ばせた稀少な常緑岩が、不届者を眩惑する為に迷彩の効果を発揮しているのだ。常緑岩は、トガイン近郊に点在する一部の採石場でしか切り出されることのない途方もなく高価な岩石で、王家の威光と権勢がなければ到底城壁の全面に惜しみなく用いることは不可能であっただろう。

 城門を塞ぐ重厚な鋼の鎧戸は、常緑岩より聊か暗く濁って見える濃緑の塗料で表面を覆われていた。掖門の傍に警衛番所と目される古ぼけた小屋があり、獣車の轍の掻き立てる時ならぬ地響きを聞き咎めたのか、数人の屈強な護官が険相を浮かべて番所の前に居並んでいた。

「フェレッサ、何事か。神聖なるスコルディルの森に、横暴にも獣車の轍を刻むとは、不敬であろう」

 古参の風格を身に帯びた長身の護官が、日に灼けた頬を厳めしく引き絞って、分厚い喉を顫わせた。鞣革の簡素な鎧を、立派な胴回りを抑え付けるように着込んだ、恰幅の良い中年の男である。佩刀の柄頭には、高貴な地位を象徴する鮮やかな緑色の碧玉が埋め込まれて、天空から降り注ぐ清冽な光に燦然と燃えている。

「ウェンシス護官頭。彼の獣車は、私の伯父に当たりますサスティオと申す馭者の持ち物に御座います」

 鹿の背から軽やかに飛び降りたフェレッサは速やかに膝を屈して地面へ蹲踞し、緊迫した面持ちと上擦った声音で、我儘な身内の名を上官に告げた。

「縁戚の者であろうと赤の他人であろうと、此処は不浄を忌む聖域だ。スコルディルの森へ、俗人を招じ入れる罪は重いぞ。お前も当地の禁則を弁えておらぬ訳ではあるまい」

 護官頭のウェンシスは、上長から授かった職責に相応しい重厚な声音を響かせて、部下の軽率な判断を厳しく咎めた。爛々と燃え盛る榛色の瞳には、長年に亘って神聖な樹海の鎮護を担ってきた男の矜持と強固な信念が、明瞭に刻み込まれていた。

「心得ております、護官頭。どうか私に、申し開きの機会をお与え下さい」

 フェレッサは窮屈な平伏の体勢を崩さずに保ったまま、護官の靴の尖端を敬虔な眼差しで見凝めて、咬み締めるように一つ一つの言葉を発した。

「申し開きなど不要であろう。時間の無駄だ。速やかにその獣車を神域の外へ放逐せよ。逆らえば、如何に忠良の内寓であっても、破門の憂き目は避けられんぞ」

 ウェンシスの峻厳な眼差しは、フェレッサの背後に控える薄汚れた獣車を、重罪を犯した穢れた咎人のように冷ややかに蔑んでいた。

「伯父は急ぎの客人を乗せております。然る高貴な御方から密命を受けて、帝都アルヴァ・グリイスへ赴かれる途上にあるのです。どうか、御目溢しを願えませんでしょうか」

「言うに事欠いて、御目溢しだと?」

 唯でさえ刻々と猜疑心を膨れ上がらせているウェンシスの眼光は、フェレッサの不用意な言葉に煽られて一際炯々と熱を帯びた。

「お前は私に不正を犯せと言うのか? 聖域の禁則を枉げて、訳の分からぬ怪しげな俗人の為に便宜を図れと申すのか?」

「滅相も御座いません! 決してそのような意図を以て申し上げたのでは御座いません」

「ならば如何なる意図を籠めて、私に犯罪の片棒を担がせようとするのか、筋道を立てて釈明してみるがいい」

 不穏な激情を露わにしたウェンシスの眉間には、断崖を想わせる険しい皺が寄り、その総身から発せられる瞋恚の波動に打たれて、フェレッサのみならず周りの護官たちも冷汗を滴らせた。

「不届者を放逐せよと敢えて命じた私の温情を、お前は聊かも理解しておらぬ様子だな」

 ウェンシスは一歩を踏み出して、慄きと共に叩頭するフェレッサに近付き、その引き締まった項へ落雷のような凝視を浴びせた。

「直ちに捕縛せず、引き返せと命じたことそのものが、お前の望む『御目溢し』に該当するとは考えんのか? それほど浅薄な男であるとは思わなかった。己の眼力の未熟を恥じるのみだな」

「御許し下さい、護官頭」

 追い詰められたフェレッサの悲痛な訴えは、獣車に乗り組んだ招かれざる客人たちの鼓膜に、刺々しい擦過傷を幾重にも走らせた。堪りかねたラシルドが客車の扉に逞しい指先を掛けたので、フェロシュは素早く冷淡な諫言を唾のように吐き捨てた。

「自ら進んで人相を晒すのは賢明な判断ではありません。少なくとも、あの護官たちを斬り伏せる覚悟がないのならば」

「彼の立場を慮る積りはないのか。あの青年は、我々の為に不当な窮地へ追い込まれているんだぞ。指を銜えて、安穏な観客を気取る訳にはいかん」

「騒ぎが大きくなるだけです。どうせ騒ぎになるのなら、残らず殺す積りで扉を開けて下さい」

「お前は血の気が多過ぎる」

「あれだけ多くの生き血を吸った後で、今更善人の仮面なんて被れないわ」

 相変わらず、目上の人間に対する世俗的な敬意を平然と踏み躙って恥じようともしないフェロシュの傲岸な素振りに、流石のラシルドも安手の苛立ちを覚えずにはいられなかった。構わず内側の把手を握り締めて思い切り扉を開け放つと、ラシルドは護官たちの敵意に満ちた注視に臆することもなく、堂々たる足取りで眼前の修羅場へ迫った。

「お前が、ならず者の頭目か」

 這い蹲るフェレッサから目線を外して、ウェンシスは威厳に鎧われた頑強な体躯を押し出すように、ラシルドを迎えた。澄んだ緑色に燦めく碧玉を柄頭に埋め込んだ佩刀の金具が、その重厚な動作に合わせて不穏な音色を響かせた。

「如何なる料簡で、その不浄の身を、神聖なるスコルディルの樹海へ紛れ込ませたのか、釈明してもらおうか」

「釈明は無意味だと、先刻仰言ったばかりではありませんか」

 ターラー正教会の敬虔な信者であるラシルドにとっては、宗旨の垣根に拘らず、立派な風采を持つ内寓の貴人に向かって無礼な口を叩くことは決して本意ではなかった。けれども今更、樹海の道を引き返して官道を往くことは余りに危険で無防備な選択肢であるし、フェレッサの軽率な言動に護官頭が忿怒を滾らせている今となっては、無傷で逃げ帰ることも許されそうにない。ラシルドは肚を括り、相手の激情を更に煽り立てることさえ辞さずに、正面から護官頭の攻撃的な眼差しに対峙した。

「単なる商人が、態々好き好んでミューバの神領を渡ろうと思いつくとは考え難い。後ろ暗いことがなければ、誰もそのような不敬の罪を敢えて犯そうとは思うまい」

「確かに我々は、人には言えぬ密命を担っております。そうでなければ、護官頭の仰言る通り、禁断の樹海へ獣車で乗り込むことなど思いも寄りませぬ」

「ならば、如何なる密命を帯びているのか、さっさと白状するがいい」

 ウェンシスの表情を覆い尽くす野蛮な殺気が少しずつ色褪せつつあることを、ラシルドは鋭敏に察知した。固より国内で最も古参の部類に属する神領の護官頭に擬せられるほどの人物が、一過性の感情的な奔騰に長々と引き摺られて、己の理性を何時までも抑圧し続ける筈もなかろう。ラシルドは意地を張って白を切り続けるよりも、素直に一連の顛末を語って聞かせた方が得策ではないかと思案した。ミューバ神領に住まう浄身派の正教徒たちは、外界の血腥い現実から隔絶された人々である。帝国全土を震撼した二十年前の雷鳴戦争においても、彼らは鬱蒼たるスコルディルの樹海の奥深くに隠棲して、あらゆる政治的な立場からの自由を吝嗇な態度で堅持した。今、殉国隊の残党が追い込まれている窮状から、如何なる利害も享受する見込みのない彼らが、捕縛した不審者を直ちに帝都の腹黒い叛逆者たちに売り渡そうと企てるとは思えなかった。

「我々は、雷声帝の遺児、ガルノシュ・グリイスを領袖に戴く連中に、命を狙われております」

 ラシルドの発した不穏な言葉は、地面に膝を屈したまま、一連の応酬を凝然と眺めていたフェレッサの顔色を蒼白に染め上げた。ウェンシスの背後に居並ぶ護官たちも、覆面に半ば遮られた銘々の顔へ、動揺と当惑の感情を忽ち行き渡らせた。

「ガルノシュ・グリイスだと?」

 ウェンシスの双眸に浮かび上がる追憶と混乱の光を眺めて、ラシルドは己の挑んだ乾坤一擲の賭けが充分な威力と効果を発揮したことを理解した。

「何故、雷声帝の遺児が、お前たちの首を刎ねようと画策するのだ」

「我々は殉国隊の残党に御座います、護官頭」

「殉国隊? 寝言を申しておるのか」

 猜疑心に満ちた眼光が、ラシルドの鼻面を撫で斬りにするように鋭く閃いた。

「寝言ではありません。私は嘗て殉国隊の首領を務めておりました、ラシルドと申します」

 ラシルドは背筋を伸ばして改めて威儀を正し、ウェンシスの燃えるような双眸を渾身の力で凝視した。先方の立場から眼前の事態を眺めれば、俄かに現れた胡散臭い不浄の俗人が唐突に殉国隊の残党を名乗った訳で、そんな奇態な言い分を直ちに鵜呑みにすることが出来ないのは至極尤もな話であった。然し思い切って信じてもらわなければ、現下の膠着した状況を打開することは不可能である。後は相手の理性と度量の深さに総てを賭して、委ねるしかない。幸いにして護官頭は、旧弊で閉鎖的なミューバ神領の住人でありながらも、決して狭隘な心根の持ち主ではなかった。

「その言葉の真偽を、今此処で糺しても無益であろうし、私にその権限は与えられていない」

 息苦しい沈黙を暫く溜め込んだ後で、ウェンシスは双肩に凝った力を抜くように逞しい首を揺すった。

「護官長の裁可を仰ぐべきであろう。護堂へ案内する。フェレッサ、この者たちの武具一切を預かれ」

Cahier(「鏡子の家」・現実・退職)

*最近は三島由紀夫の長大な「鏡子の家」(新潮文庫)を読んでいる。同時代の批評家から冷遇されたと伝えられる作品だけに、退屈しないかと心配しながらページを開いたが、そんなに悪しざまに貶されるべきものだとは思わない。ただ「金閣寺」という緊密な構造と絢爛たる文飾に支えられた芸術的達成に類するものを期待して臨んだ読者にとっては、この「鏡子の家」という作品は聊か失望の種となるかも知れない。

 未だ百ページほどしか読んでいない段階で彼是と断定的な口調で論じるのは気が退けるが、些細なことでも備忘の為に書き留めておきたい。三島由紀夫は「仮面の告白」以来、その独特の秀麗な文体を徹底的に錬磨してきた。彼の描き出す世界が常に人工的な様式美の風合いを湛えているのは、彼がそのような世界の捉え方を好み、そのような世界を紙上に構築する為の言語的技術を入念に鍛造してきたからである。彼の文学的な作法は、現実よりも観念を重んじる。美しく磨き上げられた端麗な措辞は総て、現実の世界をプラトニックな観念の反映に染め上げることに奉仕している。彼は少しも、素朴で端的な現実に関心を寄せていない。彼にとって最も重要なのは、己の信じる内在的な価値を、現実の断片を材料として組み上げることであり、現実そのものは内在的な価値への窮屈な隷属を強いられている。その集大成が「金閣寺」であり、そこでは一切の現実が、彼にとって重要だと思われる内在的な価値の為に精選され、緊密な様式美が隅々まで神経質なほどに行き渡っている。

 けれども「鏡子の家」において、作者は彼自身と現実との関係性を組み替えているように見える。彼は自身の内在的な論理を架空の世界へ充満させる代わりに、敢えて現実の即物的な諸相を模写することに重点を移している。換言すれば、彼は身も蓋もない現実を黙って受け容れ、咀嚼しようとしている。彼の審美的な規範に基づいて現実を一方的且つ残酷に裁断するのではなく、現実の不透明で奇怪な様態に眼を凝らそうとしている。この変容は何よりも先ず文体の変化において鮮明に告示されている。絢爛たる観念的な措辞は、些か無骨で飾り気のない、或る意味では単調な文体に切り替わっている。こうした変貌が従来の愛読者たちを失望させる効果を孕んでいること自体は、端的な事実として認めなければならないだろう。

*三月中旬から休職に入り、一旦他の店舗へ応援に入る形で復職していた以前の部下から、退職の手続きを済ませた旨を報告するメールが届いた。退職の方向で話が進んでいるということは既に伝え聞いて知っていた。六月の終わりに完全に勤務を終えるという。次の仕事は決まっていないが、教わったことを活かして前向きに頑張っていきたいという文面であった。

 人は色々な理由で仕事を辞める。仕事を辞めること自体に、貴賤を問うのは無益である。退職が明るい未来の端緒となることもあるだろうし、或いは地滑りのような不幸の幕開けとなる場合もあるだろう。何れの結果に帰着するか、それは本人の今後の努力に懸かっている。とりあえず七月が来たら呑みに行こうと伝えた。送別会を開く遑もなく、不本意なタイミングで休職に入ってしまったので、聊か心残りに思っていたのだ。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

 

苦しみのないところには、歓びもまた存在しない。

 人間の認識は「差異」というものの把握を前提に組み立てられている。「比較衡量」という言葉があるように、私たちは「差異」によって隔てられ、区分された対象を並べて比べてみることで、様々な観念の壮麗な伽藍を脳裡に建設する。換言すれば、私たちの有する認識と思惟の機能は、常に二元論的な比較の手続きに基づいている。

 「禍福は糾える縄の如し」という慣用句が示す通り、禍福は交互に入り組んだ状態で訪れるものであり、人生の総てを幸福と不幸の何れかで一面に埋め尽くすことは出来ない。それ以前に私たちは、幸福というものの価値を、不幸という経験との比較を通じて初めて明瞭に知覚する生き物である。これらの価値は相補的なものであり、銘々が独立した堅固な輪郭を備えている訳ではない。その意味でも「禍福は糾える縄の如し」なのだ。

 人間は贅沢な生き物であり、欲望には際限がない。一たび充足に達したとしても、その愉悦は束の間の夢幻であって、直ぐに新たな飢渇が迫り上がり、充足の魅惑的な幻影を粉微塵に吹き飛ばしてしまう。そして充足の永遠的な持続を希求し、喪失を危惧し、恋々たる執着を様々な対象に向かって抱懐し、濃縮させる。けれども、一切の瑕疵を免かれた完璧な幸福、完璧な愉楽そのものに、堪え難い飢渇を生み出す要因が含まれているのだとすれば、完璧な幸福とは永遠に不可能な夢のままに留まり続ける理念であるということになる。完璧な幸福の内側に潜在する「否認」が、既に与えられた潤沢な幸福を毀損するのならば、私たちは常に飢渇に苛まれ続けるしかない。

 完璧な幸福は退屈と倦怠を齎し、それは結果として完璧な幸福に対する破壊的な敵意を宿す。この不可解な自壊作用は、人間の精神が絶えず「比較衡量」の原則に従っていることの傍証ではなかろうか? 私たちは不幸の症候だけを選択的に抽出して除去することで、却って幸福な充足を排斥しているのである。その根底には「永遠」を希求する不可能な欲望の暴走が関与している。或る特定の状態が永遠に持続することを願う心情は、幸福が不幸との間に相補的な関係を有していることを看過している。不幸を知らない人間に、幸福というものの崇高な価値が理解出来る訳がないのだ。

 こうした消息は、あらゆる人間的な事例に共通して該当する。例えば自由は、不自由との相補的な関係性に基づいて、その実質的な真価を発揮するものである。抑圧や制約が存在するからこそ、自由の希求と獲得に重要な意義が生じるのであり、無際限に許された状態、つまり「放縦」の状態にあっては、自由であることは如何なる清新な輝きも有さない。少なくとも私たちの精神は、無際限な自由に容易く食傷して、却って不当な隷属の息苦しさに憧れるだろう。

 不自由な制約に苦しめられているとき、自由という理念は人間の眼に美しい光輝を帯びて映じる。けれども、実際に放埓な自由を授かってしまえば、光輝は忽ち色褪せ、砂を咬むように索漠とした自由の曠野で、人は途方に暮れるだろう。一方の極に偏することは常に、人間を堪え難い不満の渦中へ投げ入れる。私たちは単独で存在する絶対的で普遍的な価値の存在を信ずるべきではない。あらゆる価値の相補的な性質を理解し、極限への志向性が絶えざる反動と結び付いている現実に注目すべきである。

 欲望という器は、満たされるほどに、その容量を無限に増大させていく。換言すれば、欲望の充足とは常に一時的な現象であり、従って充足を累積することで完璧な充足に到達することが可能であると考えるのは根源的な謬見である。若しも私たちが絶えざる充足と精神の平安を望むのならば、欲望は決して充足されないという厳粛な真理に開眼する必要がある。そのとき、使い古された「少欲知足」という教訓が重要な意義を帯びて、私たちの眼前に顕現するだろう。これは「決して現状に満足しない」という近代的な欲望の経済学に対する叛逆の態度である。

 現状に満足することを拒絶し、絶えざる自己否定の精神を堅持することは、資本主義の世界においては、成長と発展の要諦として認められている。けれども、こうした進取的な精神は「成長」と引き換えに「成熟」の可能性を根本から毀損してしまう。「成長」とは絶えざる欲望の苛烈な命令に進んで従属することである。それを倫理的に断罪しようとは思わない。「成長」の効用を否定するのは、人類の進取的な側面が世界に齎してきた多様な功績の意味を不当に見縊ることに等しい。だが、死ぬまで欲望の奴隷として生き続けることが、如何なる合理性を持つのか、その点に就いて曖昧な判断を懐き続けるのは愚かしい。無論、過度に「少欲知足」の精神を堅持して、己の生きる世界を縮減するのも同様に愚かしい話である。重要なのは、不満足な状態そのものを愛することなのかも知れない。欲望は決して満たされないという理念を正しく理解するならば、貪婪な欲望と同じように「少欲知足」の精神も謬見の誹謗を免かれまい。充足から見捨てられること、絶えず飢渇に苦しみ続けること、これこそ人間の根源的な姿なのではないか?

「役割」に就いて

 人間は純粋に一人きりで生活を成り立たせていくことは出来ない。現代のように、あらゆる事柄が分業化されている世界では猶更、表面的には孤独な、自閉的で個人的な私生活が可能に見えても、実際には、高度な分業と他者との相互的な依存が、生活の前提に据えられている。分業が進めば、確かに私たちは固有の血縁や地縁に拘らず、色々なサービスを金で買うことが出来る。その意味では、私たちは厄介な関係の構築を金銭の力で省略し、自由と孤独を購うことが出来るという現代的な僥倖に恵まれている、稀有な存在だと言えるかも知れない。けれども、それは関係の在り方が変化したということであって、他者との社会的関係そのものの消滅を意味するものではない。血縁と地縁に基づいて織り成された濃密な共同体の原理は、都会的な匿名性の原理に蝕まれ、猛烈な速度で呑み込まれつつある。インターネットの発展も、そうした趨勢に拍車を掛ける要因の一つであろう。それは確かに重要で決定的な変貌には違いないけれども、それが孤独な個人の自立を齎したと判定するのは、適切な結論ではないと私は思う。

 関係性の構造が変化したとしても、人間が社会的な集団を形成しながら暮らす生物であるという根源的な条件は変わっていない。あらゆるものがパソコンやスマホの画面越しに手に入るという商業的なインフラストラクチャーが整備されているからと言って、その技術的な達成が人間の絶対的な自由と孤独を実現していると看做すことは出来ない。寧ろ人間同士の関係が余りに複雑化した所為で、可視化されなくなっていると看做す方が、妥当な解釈であろう。関係性が認識可能な範囲を超過して、不可視の暗闇へ紛れ込んでいる為に、私たちは孤独な自立が達成されているかのように誤解してしまう。無論、それは初歩的な幻想に過ぎない。

 換言すれば、私たちは自分の「役割」を把握し辛い社会に生きているということだろう。自給自足の生活を脱して、近代的な工業化と貨幣経済の浸透によって、巨大な分業の機構が発明されて以来、そうした「役割」の不透明化という事態はずっと継続しているが、通信技術の爆発的な発展は猶更、私たちの相互的な関係を錯雑した泥濘の奥底へ沈めている。こうした状況は、地縁と血縁に基づく共同体の堪え難い閉塞、門地や家柄に準ずるカースト的な制約に苦しむ人々にとっては福音であるが、如何なる福音にも必ず歓迎されない側面というものは附随している。身内と顔見知りだけで構成された世界に生きている限り、私たちは自分自身に課せられた役割とその由来を明瞭に看取することが出来る。それは殆ど自明の肉体的な役割として、私たちの意識の一隅に頑強に居座り続け、片時も醒めることのない強固な夢のように私たちの生活と行動を支配するだろう。そのとき、私たちは孤独の息苦しさよりも、濃密な関係性の息苦しさに重大な問題を見出して苦悶するに違いない。そして余りに明瞭で他律的な役割に囚われて生きることに、奴隷の絶望を覚えるかも知れない。

 こうした他律的な生き方への抵抗と、様々な技術的発展が組み合わさって、現代的な孤独の性質は形成された。私たちは可換的な役割の軽さに思い悩み、血縁の秩序の薄弱さに当惑し、容易く自分の生存の意義を見失ってしまう危険と隣接して暮らしている。それは選択の自由の漸進的な拡大という近代の果実であるが、誰もが選択の自由に肯定的な価値を認めている訳ではない。近代の自由主義は、個人の崇高な自立の実現を踏まえて設計された思想であり、それは万人に向かって開放されているが、必ずしも万人に適合した普遍的な思想であるとは言い難い側面を有している。自主独立を忌み嫌う人間にとっては、近代的な自由主義は、共同体の麗しい秩序を蹂躙する残虐なテロリズムに他ならない。自分自身の責任において、自分自身の意見を述べ、自分自身の行動を決定するという進取的な精神は、群棲する動物としての人間の本能的な部分に背反する性質を含んでいる。

 換言すれば、現代において古典的な共同体の論理は次々と崩壊の危機に瀕している。その最も具体的で象徴的な事例は「家族」という最小の社会的単位の機能的な不全であろう。未婚率と離婚率の増加、晩婚化、出生率の低下、これらの指標は悉く「家族」という古色蒼然たる共同体の論理が、具体的な現実との間に深刻な齟齬を来しつつあることの徴候である。私たちは自明の役割に従うことで「生の充実」を確保するという古典的な夢想に耽溺する為の条件を喪失する途上にある。「異性愛=家族=生殖」の三位一体の強力なイデオロギーは既に、その普遍性に関して明瞭に疑義を突き付けられている。私たちは最早「親」や「配偶者」といった役割の自明性さえも信じることの難しい、困難な境涯に立脚することを余儀無くされているのだ。役割の可換性の獲得は確かに、旧弊な共同体主義からの明朗な解放を意味している。けれども、その解放が別種の艱難を惹起することは避け難い。総てが自らの選択と決断の結果であると信ずることは、誰にとっても容易な道程ではないのである。

三十二歳の男

 結局、自分という生き物の組成を理解する為に、私は色々な事柄へ関心を寄せて、彼是と益体のない思索に耽っているのだろう。他人を理解することは、自分を理解することよりも時に容易く感じられる。それは私が、他人の外在的な事実だけを捉えて考察を加える為に、欺かれる部分が少ない為ではないかと思う。人間が最も見破り難いのは恐らく、他人の吐く嘘ではなくて、自分自身に対する欺瞞である。正当化や美化、或いは不都合な暗部の黙殺、それらの内的な欺瞞を自力で打破することは非常に困難である。

 客観的に事態の全体を眺められる立場にあるとき、対象の本質を読み解くことは寧ろ容易い。けれども、自分の行動や生活や思想を俯瞰して、その全体的な構造を滑らかに展望することは難しい。だから、私たちは自分の正体を容易く見失ってしまう。自分が何を信じ、何を欲しているのか、その矛盾した構造に気付くことさえ難しい。だが、世の中に蔓延する問題の過半は、自分で自分の本質を捉え損ねていることに起因するのではないだろうか? 自分の本当の欲望を知らず、本当の感情を無意識に偽り、結果として不毛な行為の連鎖に陥落していく。迷妄は深まり、真実は無際限に遠ざかり、不本意な行動を本質的な欲望と取り違える。この下らない混乱と謬見の深みで悶えているのが、多くの人間の逃れ難い性ではないだろうか。

 自分自身に就いて知ること、学ぶこと、その為にも他人と世界に就いて学ぶこと、それが生きることの叡智の根本に据えられなければならない。世界と、その世界に属する存在としての自分に関する理解を深める作業を省いてはならない。世界を理解しようとする欲望、或いは志向性は、人間的なものの基礎的な領域の中枢を占めている。自分自身の存在も含めた世界に対する関心を喪失したとき、人間の精神は虚無の奈落へ転がり落ちるだろう。如何なる意欲も熱情も死に絶え、世界は灰白色に染まり、生きることの理由と価値は見失われるだろう。

 自分が本当は何を望んでいるのか、その欲望に充足が与えられる見込みはあるのか、そういった抽象的で観念的な問題に、時々脳裡を抑えつけられることがある。そんなことを考えても無意味だという気分にもなる。何が本当で、何が嘘なのか、そういう問題の設定の仕方が既に一つの根本的な欺瞞の上に成り立っているような予感もする。結局、本当の自分などという便利な観念は何処にも存在しないのではないか。そういう若々しい夢想を諦めてしまうべき刻限に、実は既に到達しているのではないか。私はもう若くないのだろうか。三十二歳で、妻子を持って、十年以上続けてきた仕事があって、終の栖に定めた持ち家のローンを少しずつ返済して、それは若さの喪失だろうか?

 考えてみれば、つまり昔日を振り返ってみれば、私は何も持たない少年であった。学歴も特技も何もない、世間知らずの生意気で陰気な、そして何処か狷介な少年の端くれとして、訳も分からず社会へ飛び出した。それから十数年の歳月が過ぎたことが何だか信じられない。あの頃とは、何もかもが変わってしまった。二十歳の私は、何も持っていない自分の現実に始終苛立っていた。何かをしなければならないという焦躁と、何をすればいいのか分からない不安と、何も手に入らないのではないかという絶望が、渾然と混ざり合って私の精神を浸していた。大学を辞めて、子持ちの女性と勢いで結婚したとき、何れ子供が出来ると分かっていながら避妊もせずにセックスばかりしていたとき、私は閉塞的な日常を打破する為に、過激な手段を自ら選択したのではないかと思われる。時々、私は平坦な日常を粉々に破壊したくなる衝動に駆られることがある。そんな衝動は、妻子と部下を持つ三十二歳の男には相応しくない。犠牲者のことを何も考慮しない訳にはいかない。世間体という言葉は今も嫌いだが、それでも周囲との関係を蔑ろにするには、随分、手垢のような常識に塗れてしまっている。

 三島由紀夫の小説を読みながら、少なくとも二十歳の頃の私は、金閣寺を焼き払った僧侶のように、何らかの危険な博打に手を染めていたのだと考える。退屈な日常、未来永劫、この世界に響き続ける退屈な旋律に心底うんざりしながら、私はきっと自分の「人生」が明確な出発の号砲を告げないことに苛立っていたのだ。しかし、色々な因果に搦め捕られて、私は知らぬ間に人生の方へ滑り出していた。幸福も不幸も織り交ぜて、子供の頃に想い描いた未来とは少しも重なり合わない現実の怒涛に、私は何時しか呑み込まれていた。そうやって息継ぎを繰り返しながら、私は時に難破の危殆に瀕し、辛うじて酸素を頬張って、脆弱な命を繋いできた。これから、私はどんな世界へ向かって泳いでいくのだろうか? 別段、虚無的な心情に支配されている訳ではない。未来に絶望している訳でもない。ただ、不可思議な心境に立っているだけだ。未来は常に不確定なものである。不確定な未来に、人は不安を覚える。だが、時に人は、確定的な未来に対しても、奇妙な不安を覚えるものなのだ。

音楽における「理性」と「感性」

 偶々YouTubeフレデリックという名の関西出身のバンドの曲を聴いて、割と気に入った。きちんと歌詞を読んだ訳ではないが、言葉に過剰な意味が与えられていない。私はサカナクションPerfumeの音楽を好んでいるが、彼らの楽曲においても、言葉は意味よりも遥かに深く強く音楽に奉仕しているように聞こえる。一つ一つの言葉は、その意味によって選ばれる以上に、音の響きや調べによって選び取られている。それが耳に心地良く響くのだ。

 言葉というのは不思議なものだ。それは単なる記号でも、意味の連なりでもない。だが、そこに如何なる意味も担われていなければ、それは言語とは呼ばれないだろう。一口に音楽と言っても、歌詞の「意味」に大きな比重を与えているミュージシャンは大勢存在する。その一方で、言葉の響きだけを愛しているように見えるミュージシャンも少なくない。私は決して、両者の優劣を論じているのではない。言葉に対する意識の在り方は多様であり、それを一義的な規律によって拘束するのは退屈であり、不当である。

 言葉が明晰な意味を、つまり単純な記号のように明確な役割だけを持つとき、言葉は極めて論理的な性質を宿すようになる。一義的な言葉は、世界を明瞭に語り、事実を厳密に特定する場合には画期的な有用性を発揮する。そのとき、言葉と意味との間には不動の密接な関係が構築され、両者の輪郭は完全に重なり合う。

 けれども、それが言葉という不可思議な存在、或いは機能の価値の総てだと言い切るのは生産的な態度ではない。私たちは言葉を純粋な音として愉しむことが出来るし、文字の表情を視覚的に味わうことも出来る。文字を純然たる視覚的形象として捉える芸術、書道やタイポグラフィ(typography)もまた、言葉を意味から切り離して認識しているように見える。しかし私たちは両者を、つまり言葉の意味的=内在的な側面と、物理的=外在的な側面とを完全に分離させた上で取り扱っている訳ではない。言葉の重層性は、それが物理的な音声であったり形象であったりするのと同時に、意味という記号的な性質を伴っているという両義性によって培われ、齎されている。言葉は単なる意味の連なりではないが、意味という原理から完全に自由になることも出来ない。

 洋楽は歌詞の意味が分からないから好まないという趣味の人も世の中にはいる。そうした人々は音楽を「意味」として捉えずにいられないほど、明瞭な世界観に囚われているのだろう。けれども、言葉の意味が分からずとも、洋楽の旋律や響きに心を奪われることは可能である。音楽が国境を越え得るとすれば、それは音楽が意味に還元されない価値を発揮し得るものであるからだ。

 こうした問題は、理性と感性との二元論的な対立と同型の構造を有している。理性は絶えず意味に縛り付けられ、対象の意味を問い、世界の体系的な聯関を把握しようと努める。言葉に限らず、理性はあらゆる事物の背後に、別の事物の存在を想定しようと企てる。それが理性に内在する本能のようなものである。

 けれども感性は、そうした「事物の背後」よりも、事物そのものに強く惹きつけられ、事物そのものの知覚的な形象を重視する。事物そのものを捉えようとするとき、理性が拵えた意味の網目は却って余計な障碍となり得る。事物そのものを捉えるとき、私たちは予期される一切の意味的な拘束を解除せねばならない。

 例えば一般に私たちが金銭を欲するのは、金銭が様々な価値を代理し、可能性を想定させるからである。金銭そのものに価値を見出すのではなく、金銭が可能にする様々な人生の選択を、金銭の「背後」に見出して欲望を亢進させるのである。しかし、貨幣の蒐集家は、貨幣の経済的な意味ではなく、貨幣の物理的な存在そのものを愛する。無論、彼らの欲望が貨幣に関する種々の「意味」を完全に排斥しているとは言えない。例えば彼らが或る硬貨の「稀少性」を得々として熱く語るとき、彼らはその硬貨の「背後」に光り輝く「意味」を見凝めているだろう。

 完全に意味を排除して、事物の純然たる実相を捉えることは殆ど不可能に等しいが、少なくとも、そうした状態を目指し、肉薄することは不可能ではない。そのとき、人間は言語的な意味の体系に汚染されない、感性的な領域へ自らの存在を移行させることになる。無論、感性さえも一つの「意味」であることは確かだ。しかし、それは言語的な意味によっては汚染されない、或いは包摂されない部分を隠し持っている。

 音楽が感性的な芸術であることは言うまでもない。尤も、だから言語的な意味の混入を極力避けるべきだなどと、門外漢の驕慢な言辞を弄する積りはない。ただ、折角ならば音楽には言語的な意味の形成する秩序を超越してもらいたいと願ってしまう。言語的な意味に寄り掛かった抒情に、音の秩序を添えるだけで作品の完成を信じるならば、音楽の備えている本来的な特権は決して輝くことが出来ないだろう。

「生活」に就いて

 「生活」という言葉は、私たちの暮らしの中に、当たり前のように溶け込んでいる。誰もが「生活」という言葉の厳密な定義を改めて検討する必要にも迫られぬまま、遽しい世渡りに齷齪している。例えば「就活」(就職に向けた活動)やら「婚活」(結婚に向けた活動)といった最近の言葉と照らし合わせてみたとき、この「生活」という言葉を「生存に向けた活動」という具合に言い換えることが可能である。

 自らの生存を維持する為に行なわれる活動の総体を纏めて、人はそれを漠然と「生活」という言葉を用いて呼称する。そのように考えれば、この世界に「生活」という観念と無縁の人間は誰もいないということになる。死んでいない限り、人間は生きており、生きている以上は否が応でも、生きる為の様々な活動(食事や排泄といった基礎的な生物学的行動も含めて)に精励しなければならない。生活を嫌悪する人でも、自分の心臓が血流を支え、肺臓が酸素と二酸化炭素を交換していること自体に異論を唱える人はいないだろう。

 換言すれば、自殺に赴く人々は皆、生活に対する嫌悪を抱え込み、生きる為の活動に明け暮れる日々に抑え難い倦怠を懐いてしまった人々であると、定義することが出来る。場合によって人間は、生きる為に飯を食い、厠へ日に何度も入って踏ん張り、銀行口座を空っぽにしない為に自分自身に鞭打って勤めに出掛けるという日常的な現実そのものを憎悪し、排斥したくなることがある。生きているという事実と、今後も長く生きていたいという願望との間に、単純な因果関係を定言的に求めるのは必ずしも適切な考えではない。生きることへの嫌悪、日々の生活を維持していくことへの嫌悪、そうした負性の感情が降り積もって、徐々に醗酵し、或る日突然、最後の規矩を飛び越えてしまう。生活の圏域から離脱して、涅槃の境地へ物理的に移行してしまう。そのとき、周囲の人々は時に当惑を口にする。仕事振りも真面目で、人柄も良かったのに、何故、世を儚んで自殺してしまったのだろうか、と。しかし、彼は真面目に生活の規矩を守りながら、内面には堪え難い衝動を刻々と肥大させていたのかも知れない。

 私が思い立って昨秋から集中的に読み込んでいる三島由紀夫の文業には、こうした「生活への嫌悪」が随所に、署名のように刻み込まれている。彼の生涯には、生活の反復的な秩序から脱して、崇高な「死」の安逸へ逃げ込むことへの憧憬が絶えず反響している。無論、彼はずっと「死への衝動」を素朴に肯定していた訳ではない。例えば「金閣寺」において、語り手である見習いの僧侶が、幼時から憧れ続けてきた金閣寺に火を放つのは、金閣が彼の「生活」への参入と自足を妨礙する存在であったからだ。換言すれば「金閣」は、あの不幸な僧侶にとっては「死」の象徴であり、代理的な観念であったのだ。彼は死を通じて生活からの脱却を図ろうとする悲劇的な欲望と、生活に参与し、生活に没入したいと考える積極的な願望との間で苦悩を積み重ねてきた。金閣寺を焼き払うことは、三島にとって「生活」を尊重する為の重要な決断であり、内在的な誓約であったのではないかと思われる。

 生活するということ、生きるということ自体を肯定すること、それは倫理的な観点から眺めれば、一つの根本的な美徳であろう。生存を肯定しない限り、生活の為の思想も行動も生まれようがない。そして生存の肯定は、生命体を支える根本的な原理である。あらゆる破滅的な悪徳は、生きること、生活することへの敵愾心に満ちた否定から生じる。悪徳の成立する根源的な要件は、生に対する嫌悪と拒絶である。生きることを呪うとき、人間は他人が抱え込んでいる生活への憧憬や欲望さえも軽んじて、蔑視するようになる。自分の生存を肯定し、承認出来ない人間が、他人の生存の価値を安く見積もるのは当然の理窟である。

 幼い子供を虐待して殺したり、見ず知らずの他人を突発的に襲って命を奪ったりする人々の心にも当然、生きることへの已み難い嫌悪の情が根深く巣食っているのではないかと思う。生きていくことへの堪え難い疲労の感覚、生きていることに意味を見出せない虚無的な心情、そうしたものが他人の命を奪い取り、路傍へ投げ捨てることへの逡巡と躊躇を麻痺させる。そうした思想を、単なる刑事的な処罰によって解消することは殆ど不可能に等しい。生きることに価値を見出さない人間にとって、懲罰が如何なる意味を持つだろうか? それは単なる物理的な抑止以上の効果を持たない。重要なのは、彼らに生活の価値を教え、理解させ、信じさせることである。生活への肯定だけが、世上の陰惨な悪徳を衰微させる根源的な威力を持ち得る。死ぬことに憑かれた人間の法外な自由(例えば三島由紀夫の「青の時代」に登場する川崎誠という青年の有していた自由)を抑え込む為には、生活の価値を信奉させる以外に途はない。死を恐懼しない人間の悪徳を癒やすのは、生きることへの積極的な憧憬だけである。