サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「昊の棺」

「昊の棺」 9

それから私は、潮風の吹き荒ぶ崖の上で、知らぬ間に眠りに落ちていた。眠っている間に、夢を見た。 私は住み慣れた西船橋の家で、寝る仕度を整えていた。何故か傍らには、裸体の夏月が寄り添っていた。その表情は霞んで、傷ついたディスクのように読み取れな…

「昊の棺」 8

過去は過去であり、現在とは区分されるべきである。その区分を守る為に、人間の脳には忘却という機能が生まれつき組み込まれている。だが、過去は黒い光のように、閉ざされたドアの隙間から、明るい未来の方角へ向けて射し込む。純白のドレスを掠める、不吉…

「昊の棺」 7

夏月は離婚すると言った。浮気相手の商品企画部の係長は過去に妻と死別していて、小さな男の子を抱えていた。とても優しくて寛容な人なのと彼女は落ち着いた口調で説明した。言外に含まれた、硬い棘。貴方とは違う人なの。何が違うのか、そんなことは、重要…

「昊の棺」 6

逢瀬は、その後も人目を忍びながら、翌年の春先までダラダラと続いた。私たちの関係は肉体的なものであり、享楽を目的とした儚い紐帯に過ぎなかったので、結婚を考えるとか、大袈裟な野望には話が及ばなかった。 会わなければ気が狂いそうになるといった、初…

「昊の棺」 5

軈て、私の側に異変が起きた。大病を患ったとか、精神を病み始めたとか、そういった陰惨な変事ではない。要するに私は、満たされぬ想いを晴らそうとして、他の女に手を出してしまったのである。 相手は、その春から私の勤務する印刷会社に新卒採用で入ってき…

「昊の棺」 4

結婚した後も、夏月は旅行代理店の仕事を続けていた。印刷会社に勤める私は土日祝日が公休で、シフト制勤務の夏月は不定休、休みは合う場合も合わない場合もあった。或る晴れた土曜日の朝、錦糸町の職場へ出かける夏月の背中を見送ってから、私は洗濯機を回…

「昊の棺」 3

私たちの結婚式は、海浜幕張のホテルで挙行された。 一組の男女が、相手を生涯の伴侶として認め、共に家庭を営み、やがて死んでいくプロセスは、動物的な現象でしかない。その幕開けを態々、披露宴という形で世間に知らしめるのは、その動物的な現象に、社会…

「昊の棺」 2

私の自宅は西船橋にあり、彼女が荷物を纏めて立ち去って以来、一人で暮らしている。偶に友達を招いたり、女を連れ込んだりすることもあるが、夏月の不在によって生じた真空を、男臭い酒宴や紙切れのようなセックスで埋めることに、私はいつも失敗していた。 …

「昊の棺」 1

「なんでそんな言い方しかできないの?」 夏月なつきの顔を思い浮かべるたびに、そんな科白が彼女の唇から発せられるのは、私の記憶に染み付いた宿痾だ。様々な失言の積み重ねが、敵意に満ちた彼女の口癖を、頑丈に作り上げてしまった。 世界中で自分だけが…