サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Our Virtual Universe)

*引き続き、英語の文章を読むことに日月を費やしている。言葉を読んだり書いたりすることに熱中するのは、奇特な慣習である。別に文字を読まずとも死にはしない。文字を持たない社会というのは、古今東西、幾つもあったし、地域によっては今も存続しているだろう。けれども、文字が発明され、言葉が音声という軛を免れ、時間と空間の制約を超越するようになってから、人間の知性が爆発的な発展を遂げたことは疑いを容れない。今日では、言葉は音声であろうと文字であろうと、瞬時に通信技術の力を借りて、全世界へ飛躍することが可能となった。
 言葉は、人類の知性的な成長に多くの豊かな貢献を果たしてきた。言葉の運用に熟達することは直ちに、理知的な能力の向上を意味する。無論、言葉以外にも自己の感情や思念を表現する方法は複数存在する。言葉だけが他者との回路を開く訳ではない。しかし、言葉は極めて合理的で効率的な制度であり、情報の自在な縮約に長けている。物事の要点だけを抜き出したり、枝葉を切り取って簡潔な命題に集約したりすることは、言葉の特権である。音楽や絵画は、夥しい量の情報を一挙に明示することが出来る。そして、そこにも様々な編集があり、縮約と加工がある。しかし、言葉ほど明確に、大胆に、情報を圧縮することは出来ない。
 異国の見慣れぬ言葉を一つずつ拾い集めて、その意味を嗅ぎ取り、秘められた文法的規則に従い、見知らぬ風景を覗き込む。アルファベットの羅列の手順次第で、これほど様々な情報を示唆し、表現し、伝達し得るというのは驚嘆すべき絡繰である。そして、四囲の感覚的・経験的現実を何らかの言葉に置き換えるという作業は、我々の思考の深度を向上させる。有り触れた些末な風景でさえ、それを残らず言葉に置換して表現しようと思えば、途方もない労力と時間、綿密な創意工夫が要る。現実を能う限り精密に観察して、一つ一つの現実の断片に相応しい言葉を選り抜くというのは、簡単な作業ではない。或いは、外界の現実に限らずとも、余人の与り知らぬ、この「わたし」の内部に生起する様々な感覚や感情、思考、記憶、想像に、明確で適切な言葉を授けることも決して容易ではない。自分のことは自分が一番よく分かっていると胸を張って断言し得る人は、余程成熟した賢者か、若しくは絶望的な愚者であるか、その何れかである。自分自身との対話、つまり、自己の内部に生起する名状し難い諸々の事柄に相応しい言葉を発見する努力は、常に欺瞞的な主観の制約を被らざるを得ない。適切な表現を物事に与えるというのは難事であるが、それは訓練によって磨かれ得る能力である。誰も生まれた瞬間から自在に言葉を操れる訳ではない。必ず後天的学習の機会と時間を大量に、繰り返し持った結果として、言葉による表現や意思疎通に熟達するようになるのである。
 言葉は指標であり、記号であり、何かの代理的表象である。「犬」という言葉は「犬」そのものとは完全に無関係である。しかし、言語的時空においては、この「犬」という単語は「犬」という実体の代役を担って振舞うことを許されている。言い換えれば、言葉には、言葉専用の世界、体系、秩序、律法、領域が存在しているのだ。そして、或る音声の連なりが、特定の事物の代役を担うという仕組みは、この世界全体を特定の記号的体系に縮約し、還元することを可能にしている。言い換えれば、言葉というのはそれ自体で、一つのvirtualな空間を構築し、運営しているのだ。言葉の全体は、我々の世界全体の反映であり、世界を可知的なものに変える為の制度である。世界を我々の認識と理解に供する為の手段として、言葉は存在している。