サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「ツバメたちの黄昏」

「ツバメたちの黄昏」 四十五 革命家の横顔

その女の名前は、クエルザ・パトノスといった。その名前を聞いただけで、私たちは彼女が典型的なフェレーン皇国の臣民とは異質な素性の所有者であることを直ちに察知した。パトノスという苗字は、ダドリアの西部地方では頻繁に見聞きする名前だが、フェレー…

「ツバメたちの黄昏」 四十四 離島の淑女

南洋の気怠い静寂と不穏の渦中に埋もれた昔日の墓標のように、その小屋は切り払われた樹林の一隅へ佇んでいた。私たちの訪問を待ち受けていたとは思えないが、少なくとも無惨な遭難者である私たちにとっては、その人工的な建築物は一種の運命的な恩寵のよう…

「ツバメたちの黄昏」 四十三 真昼の静かな小屋

私たち護送団の一部が、砂浜から海岸線に沿って進む東西の二つの見晴らしのいい経路から除外され、何処に危険な野獣や異族が潜んでいるかも知れない不穏な叢林の中を分け入る経路へ割り当てられてしまったのは、確かに不本意な事態ではあったが、何れにせよ…

「ツバメたちの黄昏」 四十二 南蛮の潮風

冴え渡るような純白の砂浜が、飢渇に追い詰められた憐れな船乗りたちの乱暴な着岸を黙って受け容れてくれた。有難いことに、三日三晩の漂流の末に漸く遭遇することの出来た陸地へ縋るような想いで漕ぎ着けるまでの間、私たちの隠避船の行く手を妨害する不愉…

「ツバメたちの黄昏」 四十一 マロカ島の砂浜

四日目の明け方、すっかり体力の衰えた私は瞼を開く労力さえ頑迷に惜しんで、船艙の暗がりに薄汚い砂色の毛布と共に身を横たえ、懶惰な眠りの深淵を彷徨していた。 乏しい食糧と真水の備蓄は、公平な管理とは無縁の荒くれ者たちの手で恣意的に取り扱われてお…

「ツバメたちの黄昏」 四十 シュタージの尻尾に導かれて

それから、漂流は三日三晩続いた。 不機嫌極まりないマジャール・ピント氏の御託宣の通り、人力で櫂を漕いで乗り超えるには、錦繍海峡を抜けた先の海域は潮の流れが余りに劇しく手強かった。ウェルゲリア大陸南岸と、ラカテリア亜大陸東北部のセヴァン半島に…

「ツバメたちの黄昏」 三十九 漂流の引鉄

クラッツェルの度肝を抜くような爆発的な一撃を喰らってからの、フクロウたちの動顛と混迷は思わず哄笑したくなるほどに深刻で、滑稽に感じられた。自分たちは性悪な十字鉤を山ほど発射して獲物の航行の自由を奪い去ることに御執心でありながら、自分たちが…

「ツバメたちの黄昏」 三十八 銛撃ちクラッツェルの渾身の投擲

「だが、構うことはないとも言えるな。何れにせよ、フクロウどもの餌食になるのは真っ平御免だ」 ジグレル・クラッツェルの良識的な懸念に対して、小隊長クラム・バエットが導き出した答えの中身は随分と粗略で大雑把なものであった。最早、それは一つの組織…

「ツバメたちの黄昏」 三十七 「風花号」の悪戦苦闘

純情だが余り頭の回らない部下を抱えて業務に精励するということは、数多くの艱難を抱え込むことに他ならない。無論、部下やバエットの前で己の小さな器を悟られたくないという一心から安易な感情の虚飾に走った私の浅薄な考え方が、真っ先に批判されるべき…

「ツバメたちの黄昏」 三十六 パドマ・ルヘラン氏の分不相応な矜持

当時も今も、フェレーン皇国の界隈では帆船が主流で、崇高なフェレノ王家の威光と版図を護衛する為に国庫から潤沢な支援を受けている軍艦に限っては、油を燃やして外輪を回す最新鋭の機構が据え付けられているものもあるが、それも海軍においてさえ主流派と…

「ツバメたちの黄昏」 三十五 暗い海原を渡る「フクロウ」たち

誰でも承知していることだろうが、広大な海洋は彼方此方に人目の行き届かない未知の領域を宿しているもので、深い森や猛々しく険阻な山岳と同じく、或いはそれ以上に、公権力の緻密な支配というものから無限に解き放たれている。それは一面では政治的な圧力…

「ツバメたちの黄昏」 三十四 洋上の夜襲、艱難の調べ

遽しい出立の準備の涯に乗り出したヘルガンタの沖合の海原には、月明かりと星屑の照り返しが美しく繊細な綾を描き、吹き抜ける潮風に総身を嬲られながら、私は自分がすっかり海の男の同胞へ転身したような気がして、慣れ親しんだ凡庸な現実との隔絶に眩暈を…

「ツバメたちの黄昏」 三十三 遽しい船出

頑迷であることと、信念に忠実であること、見た目は同じようでも、実際の働きようは随分と異なる訳で、一概に良いとも悪いとも決めかねるのが、私たちの暮らす浮世の厄介な側面である。クラム・バエットが、己の信念と決断に対して頗る忠実であり、その精神…

「ツバメたちの黄昏」 三十二 狐色の頭巾の男

「結論から言えば、船は用立ててくれるんだな?」 痺れを切らしたバエットの眉間には三日月のような皺が幾つも縦に列なって見えた。頑迷極まりない性格のアルガフェラと向かい合って彼是と不毛な議論に時を費やすのは、彼の主義にも方針にも反する選択であっ…

「ツバメたちの黄昏」 三十一 アルガフェラ氏の談話

背丈が余り高くなく、髭や体毛が濃く密生していて、がっしりと逞しい骨格を有するのは、昔ながらのビアール人たちの肉体的な特徴であり、私たちの眼前で偉そうに紙巻の莨を燃やし続ける密航屋メージェン・アルガフェラ氏の風貌も、その古き良き伝統に真直ぐ…

「ツバメたちの黄昏」 三十 黄昏の密会

昼間訪れたときとは百八十度異なり、花街の場末に溝鼠のように息を潜めていた海猫亭の軒先には、鮮やかな燈光が閃いていた。中へ入ると、狭苦しい店内には肩を寄せ合って男たちが鈴生りに並び、縁の欠けた器で芳醇な醸造酒や火傷しそうな蒸留酒を次々と呷り…

「ツバメたちの黄昏」 二十九 伝統と軋轢

黄昏までの長過ぎる時間、その緊張と退屈の絶えざる繰り返しのような時間の経過の中で、私は自分が流れ着いた国境の街の風物に、虚無的な眼差しを注ぎながら過ごした。ヘルガンタは私が商館員として長く暮らしてきたスファーノ湾の港町ジャルーアと、様々な…

「ツバメたちの黄昏」 二十八 「ヤミツバメ」の穴倉

今になって思い返せば、海猫亭での一幕が、私にとっては初めて「ヤミツバメ」と称される人々の存在に触れた記念すべき瞬間であったということになる。無論、国法から逸脱して海原を秘密裡に横切ろうと試みる一種の悪党たち(それが極端に強調された表現であ…

「ツバメたちの黄昏」 二十七 不埒なる隠避船の伝統

「ダドリアの状況を知らねえ訳じゃあるめえ」 如何にも突慳貪な口調でバエットの顔を睨み据えながら、男は流し場の縁に凭れて皺の寄った紙巻の莨へ火を点けた。その眉間は深い憂愁を感じさせる皺が幾重にも刻まれ、濫れ出る紫煙に抗うように顰めっ面は、彼が…

「ツバメたちの黄昏」 二十六 巷間の抜け道に関する知識

国内、国外を問わず、極めて広範な地域から多種多様な民族と積荷が集まり、遽しく通過していく国境の商都ヘルガンタには、あらゆる港町の通例に準じて、埠頭から少し離れた界隈に賑やかで淫猥な花街の伝統を有していた。商売人の情熱を存分に発揮して、利益…

「ツバメたちの黄昏」 二十五 裏通りの密航屋「海猫亭」

舗装された埠頭の石畳を踏み躙るような荒々しい足取りで突き進むバエットの異様な健脚に、事務作業に慣れ切って肉体の鍛錬を怠っている私とポルジャー君は、息も絶え絶えに追い縋るだけで精一杯であった。急き立てられるように前進を維持するバエットの後ろ…

「ツバメたちの黄昏」 二十四 税関総局の鉄壁

「流石にハイジェリー商会の重役は一筋縄ではいかない難物でしたね。我々も改めて、今後の方針を考え直さなければならないようだ」 柔らかな午前の光が繊細に泡立っている港の明るい石畳を、私たちは複雑な心境で連れ立って歩いていた。同業者の誼を買い被っ…

「ツバメたちの黄昏」 二十三 商売敵との対峙

それは息詰まるような蒼白の沈黙に貫かれた、忌まわしい時間であった。ラクヴェル氏の冷淡で蔑みの感情に満ちた顔を、私は今でも克明に、生々しく想い起こすことが出来る。その邪悪な商館長と正面から向かい合って対峙したバエットの不敵な面構えも、未だに…

「ツバメたちの黄昏」 二十二 辺境に住まう州侯家の思惑

丁寧に撫でつけられ、櫛を入れられた白髪は綿毛のように軽やかな光沢を放ち、消し炭のように色褪せた口髭にも行き届いた手入れの痕跡が残っていた。創業百年を迎える大店の商会で、支店長の重責を任される人物に相応しい貫禄と威厳だと称するべきだろう。堂…

「ツバメたちの黄昏」 二十一 ハイジェリー商会の顔役

入港の翌朝、仕度を早々に済ませて訪れたハイジェリー商会のヘルガンタ支店は、石造りの古びた建物で、罅割れた煉瓦の隙間は暗い緑色に苔生しており、彼らがヘルガンタという街で営んできた商売の歴史の長さと重さを間接的に物語っていた。助手のポルジャー…

「ツバメたちの黄昏」 二十 苦学生エレファン・ポルジャー君の肖像

猛獣ベルトリナスとの劇しい格闘の一件以来、船路は頗る穏やかな、落ち着いた日々によって彩られた。船という洋上の密閉された空間で来る日も来る日も寝食を共にしていると、最初は険しかった新米監督官と荒事に慣れ親しんだ護送小隊の面々との間の隔壁も不…

「ツバメたちの黄昏」 十九 誇り高き炊事番の憤慨

黄昏の洋上で演じられた血腥く騒がしい乱闘の光景は、未だ雛鳥のように頼りなく歩き方も覚束ない新参の監督官の眼には鮮烈に刻み込まれた訳だが、討伐されたベルトリナスの亡骸が、翌日の晩餐の慎ましい食卓に供されることになろうとは流石に予測すらしてい…

「ツバメたちの黄昏」 十八 パーフォーヴェンの異端者

それは一瞬の出来事であったように記憶している。クラッツェルの精悍な横顔に荒々しい水飛沫が押し寄せて、引き摺られるように傾いた甲板の上を金属のバケツが音を立てて転がり、人間のものではない耳障りで不吉な奇声が長閑な夕映えの潮風に入り混じった。…

「ツバメたちの黄昏」 十七 銛撃ちクラッツェルの華々しい登場

それから俄かに船上は遽しく賑わい始め、甲板に鳴り響く囂しい怒号と靴音、それらの厖大な奔流に押し流され呑み込まれながら、私は舷側の手摺に掴まって一連の成り行きを茫然と眺めることしか出来なかった。屈強な肉体に喉笛まで覆い被さる襟の締まったシャ…

「ツバメたちの黄昏」 十六 海神様の御光臨

初夏の空は透き通る瑠璃で造った天蓋のように美しく晴れ渡り、降り注ぐ光は私たち商船員の心に明朗な希望を射し込んでいた。安閑とは言い難い不吉な航海へ乗り出す私たちにとって、その壮麗な青天白日の海原の風景は、間違いなく心の支えであり、癒しと安ら…