サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十九 誇り高き炊事番の憤慨

 黄昏の洋上で演じられた血腥く騒がしい乱闘の光景は、未だ雛鳥のように頼りなく歩き方も覚束ない新参の監督官の眼には鮮烈に刻み込まれた訳だが、討伐されたベルトリナスの亡骸が、翌日の晩餐の慎ましい食卓に供されることになろうとは流石に予測すらしていなかった。解体されたベルトリナスの様々な部位が、様々な調理法で魔術でも浴びたように姿を変えて食卓に所狭しと並べられ、旨そうな湯気を立ち昇らせているのを見たときは、まさかそれが、あの凶悪極まりない海洋の怪物の痛ましい成れの涯だとは思いも寄らず、単に空腹を満たす為の贅沢な御馳走の威容に涎を堪えて眼を奪われていただけであったが、何食わぬ顔で大振りな背鰭の黒っぽい皮を剥ぎ取り始めたバエットの不慣れな手つきに違和感を覚え、問い質したのが運の尽きであった。
「食べるんですか? あの化け物を?」
「ええ。何か問題でもありますかね。引き締まった赤身が実に旨いんですよ」
 恍けたような顔つきと口振りで平然と私の糾弾の悲鳴を払い除けると、磨り潰した塩漬けのトマトと刻んだ青葱のソースに柔らかく煮込んだ尾鰭の切り身を浸して、如何にも旨そうに頬張り始めたバエットの横顔を、私は唖然として眺めることしか出来なかった。他の連中も小隊長の幸福そうな表情に倣って荒々しい物腰で卓子に盛られた大皿から次々と引っ手繰るように姿を変えたベルトリナスの断片を攫い、酒と香辛料と共に勢いよく平らげていくばかりで、私のようにあの忌々しい化け物の残骸を喰らうことへの繊弱な逡巡と嫌悪感に同調を示す者は一人もいなかった。
「食材というものは成る可く現地調達するに越したことはないんです」
 口許のソースをシャツの袖で無遠慮に拭いながら、バエットは得意の涼しい顔つきで言い放った。
「だってそうでしょう。我々の任務は荷主から依頼された品物を然るべき場所へ届けることで、その駄賃で口を餬する訳ですから、限られた船艙の空間を、金を生み出す荷物の為に充てるのは基本中の基本です。我々の食糧品に場所を奪われては、金儲けも覚束ないのは貴方だって御存知でしょう」
「しかし、あんな悪魔のような魚類の肉を喰らうというのはどうも」
「何だい、お前さん。俺の飯が不味くて腹に入らねえっていうのか」
 不意に聞こえてきた不穏な声音に話を遮られて、私は思わず口を噤んだ。恐る恐る眼差しを持ち上げた先では、如何にも切れ味の鋭そうな包丁を銀色に滑らせて、莨を銜えたままベルトリナスの返り血に木綿の前掛けを汚している髭面の男が、不満を露わにした表情で私のことを睨みつけているのだった。どうやらこの船の炊事番らしいが、その風体は単なる厨房の番人にしては威圧感が豊富過ぎるし、眼つきも堅気のものとは到底信じられない。己の迂闊な発言が彼の癇に障ってしまったのだとしたら、私の身に降り掛かり、魂に刻み込まれた不運という奴も随分と大物であるということだ。
「見た目が薄気味悪かろうが、どんなに化け物じみた禍々しい性格だろうが、殺しちまえば今更牙を剥いたりする訳もねえだろ。何をそんなに怯えやがる。文句があるなら、固めた小麦粉でも齧って空きっ腹を黙らせるがいいや」
 滑舌の悪い炊事番の上唇が茶色く引き攣れているのが視界に映じた。よく日に焼けた肌は浅黒く、如何にも気の強そうな太い眉に頑丈な顎、不衛生とも言い得るほど生い茂った髭は唇の周りから顎の下、頬を覆って揉み上げに繋がっている。だが、包丁を握り締める指先は節榑立っているものの、他の部分に比べれば随分と白っぽく、弦楽器を奏する楽師のように長く伸びていた。
「不快な気分にさせたのなら申し訳ありません。なにぶん、食べ慣れない食材だったもので」
 型通りの詫びの言葉を咄嗟に紡ぎ出して、熱り立った炊事番の感情を宥めようとした私の賢しらな態度を、不機嫌な料理人は鼻を鳴らして露骨に蔑むように見凝めた。
「全く気に入らねえ野郎だ。食べ慣れねえだと? 曲がりなりにもてめえは商館員だろうが。世界中を駆け巡って未知の食材でも宝物でも見つけ出して商うのが本分じゃねえのか。ベルトリナスくらい、この海域を渡ったことのある人間なら誰だって喰らったことがあるもんさ。それを知らねえで怯えるなんてのは素人の振舞いだ。自分の勉強不足に少しは恥を知ったらどうなんだ、畜生め」
 巻き舌で捲し立てる炊事番の鬼神のような剣幕に圧倒されて物も言えなくなった私の醜態に、同席する護送小隊の面々は何の遠慮もなく豪快な嘲笑と罵声を浴びせ掛け、腹を抱えて卓子を乱暴に叩きのめし、ベルトリナスを喰ったこともない世間知らずが監督官様だなんて聞いて呆れるぜと堂々と放言し始めた。流石に臆病な私も手酷い屈辱の感情に堪えかねて頬に赤みが差し、口の悪い炊事番の凶悪な面構えを毅然と正面から睨み据えたが、固より対等な勝負など望める筈もなく、どんな風に言い返したらいいのか懸命に考えているうちに機先を制して我らの親愛なるバエット小隊長が仲裁を買って出てくれた。
「フォートラス。あんまり大事な監督官様を苛めてくれるなよ。いいか、お前がどんなに海上の物識りな賢者で、此方の若者が陸のことしか知らない新米の監督官だとしても、商館の書記官と俺たちツバメとの間には、歴然たる階級の壁というものがあるんだ。軽率な発言は遠慮した方が身の為だぜ」
「小隊長。俺は階級やら肩書やらで物事を測るのは嫌いな質だ。御存知でしょうが」
「そんなものは、お前の個人的な好みの問題だろう。俺に迷惑を掛ける積りか。俺の積年の野心を知らぬ訳ではあるまい?」
 俄かに険しい表情と峻烈な口振りで炊事番の短気と非礼を咎め始めたバエットの高圧的な雰囲気に、それまで狭苦しい食堂を賑わせていた、聞くに堪えない猥雑な発言の数々は潮が引くように消えていった。先刻まであれほど強気な態度を剥き出しにして、私の何気ない当惑を吊るし上げようとしていた炊事番も、流石に小隊長の叱責には逆らえないのか、極まりが悪そうな顔で視線を背けると、小骨や油に塗れた愛用の包丁を桶に張った水で濯ぎ始めた。
「全くうちの連中は好戦的な奴らばかりで困ります。申し訳ありません、監督官閣下」
 大仰に頭を下げてみせるバエットの鄭重な姿勢に却って困惑しながら、私が大慌てで再び謝罪の言葉を述べ出すと、彼は俯いて不機嫌そうな横顔を改めようともしない炊事番を指差して、朗らかな笑顔で言った。
「彼はウェイリン・フォートラス。我が小隊の胃袋の番人です。口も顔も悪いが、腕利きには違いない。どうか御勘弁下さい。そら、フォートラス。仲直りの杯を誂えろ。さっさと仕度しないとベルトリナスの巣穴へ抛り込むぞ」
 如何にも挑発的な小隊長の科白にも意想外の殊勝さで従うと、炊事番のフォートラスは小さな厨房の床に設えた倉庫から年代物の葡萄の蒸留酒を取り出して、薄汚れて艶の出ない杯にたっぷりと注ぎ入れ、私の眼前に勢いよく突き出した。
「悪かったよ。気が短い性格なんだ。勘弁してくれ」
「とんでもない。私が迂闊でした」
 渡された酒杯に早く手をつけろと言わんばかりのフォートラスの視線を感じて、大して上戸とも言えないひ弱な肝臓の持ち主である私は、覚悟を決めてその強烈で芳醇な蒸留酒を呷り、食道の内側を焼きながら流れ落ちていく重厚な手応えに、くらくらと眩暈を覚えて息を吐いた。