サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十七 銛撃ちクラッツェルの華々しい登場

 それから俄かに船上は遽しく賑わい始め、甲板に鳴り響く囂しい怒号と靴音、それらの厖大な奔流に押し流され呑み込まれながら、私は舷側の手摺に掴まって一連の成り行きを茫然と眺めることしか出来なかった。屈強な肉体に喉笛まで覆い被さる襟の締まったシャツを身に着け、防水用の外套を羽織った護送小隊の男たちは、陽光を浴びて煌びやかに染まり輝く海原へ突如として出現した獰猛な魔物に軒並み、好奇に満ちた眼差しを射込み続けた。如何にも修羅場に馴染んだ様子の陽気な物腰は、血に飢えた水棲の肉食獣の突撃に晒され、絶体絶命の窮地に追い込まれているというのに怯みもしないで、寧ろ船上の退屈を足早に食い破ったこの椿事に気持ちを高ぶらせているように見えた。
「随分と意気込んでいますね。危険ではないのですか」
 ベルトリナスという耳慣れない海の野獣の得体の知れない悪評に脳天を打ち砕かれた私は、舷側や舳先から身を乗り出して口々に喚き立てている護送小隊の面々の真剣さを欠いた様子に不安を覚えて、バエットに呼び掛けた。彼らの実力を安易に疑う積りはないが、既にバエット自身、彼らの小隊が由緒正しきファルペイア州立護送団の栄光に満ちた戦列の中で、余り好ましく思われていない「外れ籤」の部隊であることを明言しているのだから、戦いに入る前から臆病風に吹かれ始めた私の醜悪な態度を一方的に指弾するのは遠慮してもらいたい。何しろ積荷の中身は前代未聞の血腥い「貴重品」で、しかも我々に輸送任務を命じたのは偉大なるソタルミア州侯家の長者様なのだ。革命派の共和主義者どもと血で血を洗う乱闘を演じた末に撃破され、悲劇的にも海の藻屑と化すのなら未だ言い訳のしようもあるが、幾ら狂暴とはいえ所詮は野蛮な獣に過ぎないベルトリナスに船腹を食い破られ轟沈したなどとなれば、嘲弄されるだけでは済まないかも知れない。命さえ助かればどうとでもなるという楽観的な意見を一蹴する積りもないが、信望に反して早々と旅路に挫折したコスター商会の間抜けな商館員の無様な失態を、一体誰が心の底から本気で擁護してくれるというのだろうか?
「安心して下さい。我々は素人じゃない。調子っぱずれの嫌われ者の集まりだとしても、血に飢えた海の無頼漢に見す見す船底を抉られるほど、盆暗じゃありませんよ」
 船上の突発的な暴風にも似た喧噪に少しも動じた気配を見せないバエットは、のんびりと腕組みをしたまま、遽しく動き出した部下たちの戦闘の仕度に尤もらしい助言や上官らしい訓示すら与えようともせずに、担ぎ出された重たい銛の突端の鈍い光沢に、無関心そうな瞳を向けるばかりであった。その鷹揚とも貫禄があるとも言い得る態度によって、浮足立つ私の胸底が慰められたなどと偽証しても意味がないだろう。そのときの私は正に、不安と混迷の渦中に沈み込んで右も左も見極められないような動顛振りだった。誰も気後れして頼りなくバエットに泣きついている肝っ玉の小さな商館員の動静に注意を払わなかったのが、今思えばせめてもの救いであっただろう。
「ちゃんと結わえてあるだろうな」
 私の直ぐ目の前を横切っていった護送小隊の男が、丸太のように鍛え抜かれて膨れ上がった太腿に力を籠めて、誰かが台車に載せて運んできた巨大な銛を持ち上げながら、不機嫌に問い掛けた。睨みつけられた同僚は平然とした表情で頷き、銛の尾部から伸びた航海用の荒縄を掴んで、大仰に揺さ振ってみせた。
「案じるな。さっさと殺っちまえ」
 焚きつけられた男は不平そうに一度鼻を鳴らすと、荒縄を結わえ付けられた巨大な鋼鉄の銛を肩に背負い込み、堂々たる足取りで舳へ向かって歩き出した。揺れる甲板に抗うように大股で踏ん張った下肢は、頑丈な物見櫓のように確りと聳え立って微塵も顫えない。
「偉そうに言いやがる。此間解けたから確認したんだ」
 ぶつぶつと低い声で唸りながら船縁へ上体を乗り出し、獲物の所在を確認する銛撃ちの男の背中を指差して、バエットは誇らしげに相好を崩した。
「御覧なさい。うちの小隊で一番の腕利きの銛撃ちです。名をクラッツェルといいます」
「クラッツェルさんですか」
「ええ。古株の銛撃ちで、先祖代々、南方の捕鯨船の一族なんですよ」
 皇国南東部の沿海州には、鯨を捕る為に年がら年中遠洋へ漕ぎ出して半年でも一年でも執念深く標的を狙い続ける漁民の集団があり、その出航の基地はダントレアナ州の州都パーフォーヴェンに設けられている。パーフォーヴェンの漁民たちは鯨の為なら幾らでも国境を跨ぎ越すし、異国の言葉も積極的に学んでラカテリア亜大陸やその他の群島諸国にも根城を設営して見知らぬ海原へ分け入っていくから、護送団の中にはダントレアナの捕鯨船員たちを好んで引き抜くところもあると聞いたことがあった。要するにツバメとして雇い入れるには最適の人員が無限に湧き出る土地柄ということだ。
「さあ、御手並み拝見ですな」
 バエットが愉しそうに呟いた瞬間、再び船体の下部から地響きのような鈍い音が轟いて、甲板に立っていた私たちの躰は刈り取られた稲穂のようにだらしなく投げ出された。無論、護送団の面々は皆辛うじて踏み止まり、最悪でも尻餅を搗くぐらいの被害で済んだが、不慣れな私だけが派手に転倒して後頭部を硬い木の床に叩きつけ、眩暈のような痛みに打ちのめされたのであったが。
「未だ破れてねえな」
 クラッツェルが隆々たる筋骨を軋ませながら、劇しく揺れ動く甲板の縁へ傲然と佇んで、抱えた銛をゆっくりと構えるのが視界の涯に映り込んだ。痛みに噎せ返りながら漸く起き上がった私の視線の先で、クラッツェルの上体が弓の弦のように撓り、総身の力を張り詰めた緊張の中へ溜め込み、軈て獰猛な叫び声と共に、解き放たれた銛が空気を速やかに斬り裂いて海原へ吸い込まれていった。