サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「夜行列車」

「夜行列車」 9

裏返された砂時計が急速に重力へ敗れていくように、二人に残された今夜の時間は着実な減少の曲線を描き続けていた。結論を出す為には圧倒的に時間が足りない。呑気にシャワーを浴びて一日の穢れを洗い流している場合じゃなかったなと、謙輔は内心で苦笑いし…

「夜行列車」 8

もう取り返しのつかない致命的な傷痍が、二人の絆の上に墜落したと謙輔は思った。それは今までの関係の裡に予め植え付けられた夥しい伏線の結実した姿だった。そうだ、最初の瞬間から何もかも分かり切っていたことじゃないか。謙輔は己の愚かさが齎す心理的…

「夜行列車」 7

一時間ほどで、否が応でも目醒めるしかない短い夢の定期的な反復。それが二人の平凡な生活に里程標の役目を担って突き刺さっていた。けれども、幾ら短い夢想を数珠の如く繋ぎ合わせてみても、辿り着ける場所には限界がある。二人が進める領域は厳格な制約を…

「夜行列車」 6

柔らかな湯気が、空調で乾燥した室内に時ならぬ潤いを広々と顫えるように延ばした。タオルの擦れる微かな響きが連なって、謙輔の鼓膜の表面を薄らと撫で回した。固より、こういう筋書きは事前に予定され、殊更に言葉を用いて互いに確かめ合わずとも共有され…

「夜行列車」 5

時計の針は刻々と夜の濃密な流れを、見えない画布の上に記し続けていた。絶えず気を配って時刻の推移を確かめていなければ、謙輔は致命的な失錯を犯す危険があった。現実の手荒な拘束が齎す息苦しい痛みを忘れて、夢想と愉楽の深みへ溺れ、窒息してしまうの…

「夜行列車」 4

深閑と静まり返った無機質な室内に、ただ只管に空調の低く懶い歌声が、潜められた誰かの不穏な囁き声のように漂い、泡立つように充ちていた。後ろ手に扉の内鍵を締めて、まるで危険な追跡者から逃れるように、謙輔は二人きりの虚空に似た密室を外側の広大な…

「夜行列車」 3

不用意な窃視者の視線を拒むように黒い板で覆われた自動ドアが、鈍い音を立てて緩慢に開いた。闇の中に形作られた人工的な、つまり世間の一般的な生活から隔絶された異郷が、徐に謙輔と陽子の鼻先へ不穏な姿を現した。何もかもが、注意深く日常的な生活の片…

「夜行列車」 2

一夜の仮寓までの道筋を、謙輔の手足は明晰に覚えていたから、曖昧に揺れ動く会話に気を取られながらも、眼差しは常に細かく動いて、華やかな夜の光に包まれる数多の人影を絶えず確かめていた。この厖大で尽きることを知らない殷賑の渦中で、注意深く気を張…

「夜行列車」 1

謙輔は仄かに甘い香りの立つ莨に火を点けた。橙色の眠たくなるような灯りが立ち籠める閉店間近の喫茶店は、平日の夜の、閑散とした疲労の色彩に埋もれていた。時計の針は九時を回り、喫煙席の区画にいるのは、寡黙で顔色の冴えない勤人だけだ。皺の寄った薄…