サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 7

 一時間ほどで、否が応でも目醒めるしかない短い夢の定期的な反復。それが二人の平凡な生活に里程標の役目を担って突き刺さっていた。けれども、幾ら短い夢想を数珠の如く繋ぎ合わせてみても、辿り着ける場所には限界がある。二人が進める領域は厳格な制約を受けていて、その境界線を飛び越えれば直ちに、世間に雇われた道徳的で噂好きの歩哨が彼らを銃殺に処するだろう。彼らの監視の眼差しを潜り抜けて、地平線の彼方に理想的な桃源郷を探し求めるのは流石に馬鹿げている。恐らく人間の幸福は社会の内側にしか存在しない。見限られた人間は様々な衣裳を脱ぎ捨てた揚句に、きっと野蛮な動物の境涯へ身を落とすだろう。
 それでも、一旦動き始めた歯車に急激な停止を命じることは難しかった。健全な日常の隙間に差し込まれた刹那的な約束の期待に支えられて、凡庸な雑役で埋まった生活の息苦しさを凌ぎ、この深夜の懐中へ漸く辿り着いたのだ。その貴重な僥倖を、決然たる道義的な信念に基づいて自ら投げ捨てられるほど、謙輔は強靭な魂の持ち主ではなかった。ベッドの縁に腰掛けていた陽子の躰は、既に押し倒されて無防備な姿態を晒していた。何度も確かめた筈なのに、夢が醒める度に悉く忘れてしまうのだろうか、幾ら抱いても謙輔の内なる不可視の飢渇が残らず癒えた例はなかった。要するに、俺が欲しいものは本当は此処にはないのだろうかと、彼は息せき切って陽子の柔らかい躰に覆い被さりながら考えた。彼女を愛しいと感じる想いに偽りはない。性欲の粗暴な誘惑に抗えないだけで、こんなにも危険な夜間飛行を果てしなく繰り返す筈がない。だが、幾ら彼女を抱き竦めても、野犬のように劇しく腰を振り立てても、解消されることのない不可解な渇きならば、陽子の局部の豊饒な潤いでは永久に癒されないのではないか。謙輔は瞼を閉ざして、不吉な疑念を追い払うように俯いて自分の唇を鋭く咬んだ。此処にないからと言って、他に何処を探せばよいのか。少なくともそれは、彼の築いた家庭の内部には見当たらない筈の何かであった。だからこそ、彼は知らぬ間にそれを外界の沙漠に探し求めたのだ。
 謙輔は自分の心臓が不可解な軋みと唸りに苛まれ始めたような気がした。何かに急き立てられるように、彼は日頃の優雅な愛撫を忘れて、陽子の後頭部に掌を差し入れ、力強い接吻を試みた。歯茎と歯茎がぶつかるような、砂利を咬むような不快な感触が、二人を結び合わせる蝶番の部分に俄かに生まれて、陽子の瞼が驚いたように見開かれた。
「どうしたの?」
 柔らかく甘えるような猫撫で声の響きの裏側に一縷の疑念が編み込まれていた。明らかに彼女は謙輔の不透明な変貌と動揺を察知していた。
「何でもないよ」
「そう」
 謙輔は呼吸を整えて、荒んだ試合を仕切り直すように、ゆっくりと陽子の首筋へ頬を埋めた。一日の間に伸びた細かな髭が針金のように陽子の白い肌を擦った。本当は彼女に痛みを与えない為に浴室で髭を残らず剃り落とすべきだった。しかし、それは謙輔の立場にあっては許されない選択だった。嗅ぎ慣れない洗剤の香りと同じく、剃られる筈のない髭が剃られていてはならないのだ。自分は常識的な次元の優しさや気配りさえ充分に彼女に与えてあげることが出来ないのだと謙輔は思った。再び疑念が再燃しそうな気配が兆した。彼は頭を軽く揺すって、蟀谷に走る痛みを堪えるような表情を浮かべた。
「変だよ、今日は」
 陽子の冷ややかな声音が、不意に謙輔の鼓膜を強かに打った。歴然と冷ややかという訳ではない。愛し合う者たちの間で培われる癒着の温もりが、声音の表皮となって言葉の一つずつを梱包している。けれども、その芯の部分に詰め込まれた冷淡な刺々しさは隠し切れていなかった。そもそも、彼女はそれを隠蔽しようとは考えていなかったのだ。若しも隠蔽しようと思うのならば、殊更に「変だよ」という決定的な科白を口に出す必要はない。
「変じゃないよ」
「変だよ。気が散っているみたいに見えるよ」
 口調は飽く迄も穏やかで、激昂とは程遠かったが、陽子が自分の発見した違和感の素性に就いて追及の手を緩める意思のないことは、謙輔にも明瞭に感じ取れた。こういうとき、女性の詰問の連鎖を躱すことは容易ではないし、何れにせよ甘美な充実の時間をこの状態から短い間に復旧させることは不可能に決まっていた。謙輔は観念して起き上がり、ヘッドボードに凭れながら、横たわる陽子の静謐な面差しを黙って眺めた。何かが確実に決定的な仕方で罅割れ、ばらばらに散らばった感情の断片を再び元の場所に戻し、かつて描かれた美しい抽象画を甦らせることは既に不可能となっていた。
「何か悩んでいるの」
「不安になっただけさ」
「何が不安になったの」
「全部嘘っぱちじゃないかという気がするんだ」
「嘘っぱちって、私たちの関係が、という意味?」
「そうかも知れない」
 この期に及んでも未だ、曖昧な返事で言葉に幅と余白を保たせようとする己の煮え切らない優柔不断の態度に、謙輔は忸怩たる想いを禁じ得ぬまま、絞り出すようにそう言った。