サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 6

 柔らかな湯気が、空調で乾燥した室内に時ならぬ潤いを広々と顫えるように延ばした。タオルの擦れる微かな響きが連なって、謙輔の鼓膜の表面を薄らと撫で回した。固より、こういう筋書きは事前に予定され、殊更に言葉を用いて互いに確かめ合わずとも共有された既定路線であった。二人は幾度も通し稽古を繰り返して呼吸を割符のようにぴったりと合わせた馴染みの役者仲間に似て、これから繰り広げられる演目の成り行きを悉く諳んじている筈だった。それなのに謙輔は得体の知れない胸騒ぎが高まるのを如実に感じていた。心臓へ焼き鏝を当てられたような、悍ましい焦躁と緊張が彼の脊椎の中を電流の如く駆け抜けて刺し貫いた。何を躊躇っているのだろうか。衣服を脱ぎ捨て、俗世の道徳的な規律さえも同時に抛って、裸形の自己を弾ける湯に晒した一人の若い女の決意に今更、姑息な男の側が怖気付くのは辻褄の合わぬ話であった。
「何してるのー」
 間延びした語尾の甘えるような声音が、沈黙する謙輔の内心の動揺を見透かしたように浴室から届いた。莨を吸っていたと謙輔は平静を装って簡潔に答えた。首から上は洗わずに済ました彼女の唇には口紅の光沢が残っているように見えた。白い粗末なバスローブに覆われた彼女の華奢な躰は、俄かに窮屈な日常の檻を逃れて新鮮な大気に喘いでいるように感じられた。虚栄、外聞、体裁、そういった常日頃の大切な甲冑が見事に取り除かれて、誰の視線も届かない閉鎖された薄明の部屋で、彼女は漸く正しい呼吸を始めたようだった。
 並んでベッドに腰掛け、饒舌な言葉の泉が涸れたような気分で、二人は互いの双眸を見凝め合った。言葉という社会的な道具が不要になる極限の地点まで、こうして二人で手を繋いで逃亡に明け暮れてきたような気がした。テレビの画面は闇に融け、空調の顫える無粋な翅音だけが室内の沈黙を扼していた。どんな言葉も、この瞬間には繊細な砂糖菓子のように脆く無力であるように思われた。そもそも、言葉だけに頼って生きられるのならば、誰が好き好んで淪落の深淵に臨むだろうか。過不足のない明晰な論理に跨って、広大な海原を渡れるのならば、そして何処に陸地の輪郭が描かれ、何処に安らげる港湾の燈火が燃え盛っているのかを事前に残らず把握出来るのならば、誰がこんな行方の知れない陰惨な旅路を往くだろうか。世間に指弾され、露顕すれば直ちに今まで積み上げてきた社会的な信頼の一切合切を立ち所に瓦解させるような剣呑な夜間飛行を、誰が自ら率先して企てるだろうか。
 きっと言葉が通じないから、人間は言葉以外の方法で不確かな何かを無理にでも通じさせようと試みるのだと謙輔は考えた。若しも言葉が総てならば、それであらゆる問題を解決し、揺るぎない絶対的な正解へ導いていくことが出来るならば、誰も無言で、こうやって互いの存在を見凝め合ったりはしないだろう。そうせずにいられないのは、どんな言葉でも結局は間に合わないような気がするからだ。滑らかで聞こえの良い言葉では割り切れない残余、どうしても抹消することの出来ない困難な小数点以下の「聞こえない」言葉、それが自分を沈黙の果てへ拉致するのだ。謙輔は情事の最中に余計な言葉を使いたくなかった。仮に使うとしても、明瞭な意味に結実しない端切れのような、純然たる感嘆符だけの言葉が望ましかった。陽子の瞳が僅かに潤み、それだけで日頃は伏せられている生々しい情念の油分が堰を切ったのだと分かった。愛慾という言葉では、聊か眩し過ぎる。そんな野獣めいた劇しい飢渇が、この夜の底の真摯な密会を成り立たせている訳ではなかった。獰猛な愛情が、社会の重んじる大切な規矩を乱暴に食い破ったのではなかった。総てはもっと繊細な感情の顫えに由来していた。
 謙輔は手を伸ばして、儚い輪郭の顎へ指先を掛けた。陽子の唇が、判決を待つ囚人のように薄く閉じられて待機の姿勢を取った。その瞳は真っ直ぐに謙輔の感傷的な動作を観察し、悉く受け容れていた。重ねられた唇は甘美な湿潤を貪り、絡められた舌先は雀のように梢を躍った。途端に時間が停滞を開始したように思われた。誰の基準も物差しも届かない隔絶された領域へ、肉体の重心が転がるように移った。骨組みの歪む音が聞こえるような気がした。この秘められ封鎖された密室の空間ごと、世界から一挙に切り離されて闇の覆う海原へ漕ぎ出したような頽廃的な気分だった。謙輔は夢中で陽子の唇を、滑らかな口腔の粘膜を貪婪に確かめた。そこにはどんな言葉よりも雄弁な沈黙が、透明な体液に入り混じって濫れていた。呼吸を忘れるように、謙輔は指先を伸ばして彼女の柔らかく温もった項へ触れた。そうしなければ、衰えた水仙のように彼女の躰が傾いで途中で折れてしまいそうだった。そうやって絶えず確認を塗り重ねて彼女の存在に溺れていなければ、何処にも辿り着けないような不安が只管に募った。陽子は無言で両眼を瞑っていた。その瞼の薄い皮膚の上に、アイシャドウに混じった微細な金粉の片鱗が星屑の残骸のように転がっていた。