サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 5

 時計の針は刻々と夜の濃密な流れを、見えない画布の上に記し続けていた。絶えず気を配って時刻の推移を確かめていなければ、謙輔は致命的な失錯を犯す危険があった。現実の手荒な拘束が齎す息苦しい痛みを忘れて、夢想と愉楽の深みへ溺れ、窒息してしまうのだ。覚醒した瞬間に夜明けの光が白々と分厚い灰色のカーテンを透かしていたら、どんなに心臓は劇しい乱打を演じるだろうか。共に夜明けまで同じ褥で眠ることは叶えられる見込みのない切実な願いに他ならなかったが、実際にそれが唐突な油断の結果として下賜されたとしたら、総身が凍ることは確実であった。幻想が日光に焙られて、その繊弱な被膜を迅速な腐敗のように食い破られた後で、冷厳な現実の即物的な処理が始まる。解剖された鳳蝶の遺骸のように、夜の間は美しく煌びやかに思われた幻想の幸福の、無残な黒白の図面が視野を独占的に領するだろう。破壊された摩天楼の露わな躯体のように、それは寒々しい空虚を悚然と差し出すだろう。その瞬間を想像することは、総毛立つような恐怖を何時も謙輔の心に冷たく刻んだ。
 だが、そのような覚悟を持たずに秘められた逢瀬に親しむことは、自己欺瞞の最たるものではないだろうか。そういう自省が兆すとき、謙輔は必ず感傷的な罪悪の意識に捕縛された。結局のところ、自分は狡猾な軽業師に過ぎず、陽子は憐れな奴隷に過ぎないのではないか、という不安ほど、二人の情熱的な関係を内側から褪色させる想念は他に考えられなかった。それは引き裂かれることへの哀切な抵抗によって相互に結わえ付けられた孤独な共同体、最小単位の崇高な紐帯という美しい構図を根本から覆す自滅的な判定であったからだ。
 しかし、何も知らぬ妻子に罪があるだろうか。彼らの平穏な生活を秘められた情事の罪過によって殊更に共倒れさせる必要があるだろうか。滑らかな鏡面のような日常に、誰が好んで鮮明で償いようのない亀裂を態々走らせるだろう。恋愛と生活は互いに異なる領分に属する、別々の事件ではないか。謙輔はそのように一抹の偽善を振り翳すことで、己の潜在的な情欲を密かに延命させる習慣に慣れ切っていた。要するに彼の魂は依存的な脆弱の深みへ完全に陥没していた。このままの膠着、このままの日常の、つまり公式な日常とは別個に存在し、暗渠の奥底を流れ続ける無音の異様な日常の持続を、彼は無意識の裡に希っていた。
 もう一つの日常、それは誰もがその道徳的な正しさを安心して歓待し、余りに凡庸である為に特別な関心を決して捧げることのない本来の日常の、微かな罅割れの中に宿っていた。あらゆる事物が時間の重苦しい堆積の底で、徐々に劣化の痛みを増幅させ、肉眼では捉え難い微細な瑕疵を募らせていくのは、誰でも心得ている自然の理だ。それは要するに、逃避への抑え難い衝動を意味するのだろうか? たった一つの人生を自らの意思で選び取り、そこに持てる力の一切合切を傾注する直向きな行程を嫌って、或いは恐れて、保険を掛けようという臆病な魂胆なのだろうか?
「あたしも入ってくるね」
 穏やかな微笑を適切な礼節のように示して、陽子はベッドの縁から徐に立ち上がり、艶やかな象牙色の下地に、色とりどりの華やかな水滴の模様が散らされた勾玉のような髪留めを手早く外して、ナイトテーブルの上に静かに安置した。更衣の為の空間へ消えていく彼女の後姿に敢えて視線を送らぬように注意しながら、謙輔はテレビの画面を滑るように流れていく退屈なニュースの断片を無関心に眺めた。交通事故、野球の試合結果、首脳会談、極端で突発的な株安、向こう一週間は続くと思われる殺人的な酷暑の予言。世界は様々な事件や問題に取り巻かれながら、恙ない健全な運航を維持しているように思われた。この夜の、誰からも見限られた閉鎖的な鳥籠のような薄明の中で、僅か数時間の逢瀬の為に莫大な感情を捧げている自分たちの関係が、酷く矮小で小賢しい立場であるように謙輔には感じられた。こんな愚かな振舞いを、この先、一体幾度繰り返す積りでいるのだろうか。穢れた、禁じられた逢引を重ねる度に、伏せられた夜の密度は愈々重苦しく濃密なものに変わっていくようだった。
 シャワーの単調な音楽が、控えめな反響を折り重ねながら謙輔の鼓膜を執拗に嬲った。彼は明らかに何かを待ち受けていた。それは愉楽ではなく、何か、峻厳な審判のようなものだった。湯上がりの火照った女の純白の肉体を、彼は喉が渇くように待ち焦がれている訳ではなかった。単純で明快な官能的情欲が、あらゆる罪過と背徳の原因であるならば、寧ろ解決の糸口は鮮明に視野へ捉えられるだろう。複雑に絡まり合った五彩の繊維を相互に切り離して整除することはもっと容易になっただろう。謙輔は甘い香りの立つ莨を無言で二本も灰に変えた。退屈なニュースに嫌気が差して、テレビの電源を切ろうと手を伸ばした瞬間に、まるで極刑の宣告のように、蛇口を捻る音が粒立って聞こえ、水音が刃物で断ち切られたように唐突に止んだ。