サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 4

 深閑と静まり返った無機質な室内に、ただ只管に空調の低く懶い歌声が、潜められた誰かの不穏な囁き声のように漂い、泡立つように充ちていた。後ろ手に扉の内鍵を締めて、まるで危険な追跡者から逃れるように、謙輔は二人きりの虚空に似た密室を外側の広大な世界から断ち切り、厳格に隔絶した。生温い空気が部屋の全体を覆い、総ての家具調度が鮮明な輪郭を備えて、密やかな沈黙の裡に身を硬くしていた。
「今日も疲れたね」
「そうだね。毎日疲れるね」
 断片的に交わされる会話そのものに明確な価値が備わっている訳ではなかった。会話は透明な翅のように軽やかに中空を舞い、二人の標準化された沈黙の隙間を、無邪気に往復するばかりだった。机の上に鞄を置いて束ねた毛先を指で梳いている陽子の華奢な骨格を、謙輔は背後から凝と眺めた。密室に隔離された憐れな家畜のように、彼女は従順な適応を心掛けているように見えた。謙輔は自分が悪辣な誘拐犯になったような良心の疼痛を覚えた。今更、この期に及んで道徳的な苦しみに苛まれるなど、随分と自分勝手な倫理的感情に過ぎないと自嘲しながら、それでもこの危険な駆け引きから思い切って撤退しようと試みない己の惰弱を忌々しい気分で見凝めた。それさえ、表面的な「内省」の演技に過ぎないことは分かっていた。しかし、時には人間は、演技を通じて身も蓋もない現実との間に酸素の入る適切な間隙を作り出さなければ生きていられないのだ。
 そうだ。溺れる人間が水上の新鮮な空気を恋しがって劇しく暴れ回るように、自分は現実との隙間を欲して、こうやって背徳的な夜の逃避行に明け暮れているのかも知れないと謙輔は発作的に考えた。日々、追い立てられるような凡庸な暮らしの中で、徐々に目詰まりを起こし始める現実との接続された回路の穢れを、乱暴な手段で洗い流そうと企てているのだ。それを世間は明瞭に「遁走」と呼んで指弾するだろう。しかし、指弾する者が代わりに謙輔の人生の目詰まりや軋轢の責任を引き取ってくれる訳ではない。批判は常に虚しい谺であり、耳を傾けても実体は存在しないのだ。
 束の間の雑談の後で、謙輔はシャワーを浴びる為に立ち上がった。どうせ幾度も裸を見せ合った関係だというのに、風呂へ入る為の脱衣の姿を見られることに些少の心理的抵抗を覚えるというのは奇妙な話だ。脱いだスラックスを皺が寄らないように丁寧に畳んで、ベッドから成る可く離れた壁際にそっと置いた。陽子はベッドの縁に腰掛けて夜のニュース番組に曖昧な視線を宛がっていた。その背中を眺める。俺はいつも彼女の後姿ばかり好んで観察しているような気がするなと、謙輔は微かに口の端へ笑みを滲ませた。
 こういうホテルの洗剤は、何故か柑橘やココナッツなど濃厚な匂いの漂うものが多くて困る。それは情事の昂揚を更に盛り立てる為のスパイスであれという配慮の産物なのかも知れないが、痕跡を残したくない人間にとっては、強烈な香りは呪わしい刻印のように迷惑だった。局部や腋窩や蹠だけを念入りに磨き上げ、不快な匂いが陽子の夢想を破らないように工夫しながら、首から上は温水で丁寧に濯ぐだけに留めた。円形の、無暗に広い湯舟が見捨てられた廃船の残骸のように薄暗い光を吸っていた。二人で湯舟にのんびりと浸かって互いの躰の温もりを曖昧に伝え合い共有するような充分な時間は、謙輔たちには許されていない。限られた時間の手枷が、彼らの関係を絶えず濃密な凝縮へ導いていた。普通の恋人たちは、有限性ということに就いて何処まで自覚的なのだろうか? 彼らの視野には、無限に持続する退屈な線路のような風景が絶えず映じている。夏の日盛りの陽光を浴びて、極限まで灼熱した金属の軌道が、風景の彼方まで延々と伸びていて、眩暈を惹起する。その線路には終わりが存在しないように感じられるし、命が尽き果てるまで只管に線路の上を汗水垂らして歩き続けねばならないような重圧に囚えられる。けれども本当は、人間の命は直ぐに潰えるものだし、眼前の現実はたった一本の指先に触れられただけで瓦解し得る儚い紙細工の楼閣に過ぎないのだ。
 浴室の薄いドアを押し開けて、バスタオルに手を伸ばした。湯気が一斉に無機質な室内へ氾濫して、この短い時間の裡にも、多少は部屋の壁や水栓器具や諸々の調度に、蠢くような生き血が通い始めたように感じられた。謙輔は手早く総身の水滴をタオルの繊維で、小さな羽虫を捻り潰すように吸い取って行った。陽子がフィルムを外して洗面台の縁に畳んでおいてくれたバスローブを、彼は無言で羽織った。大きな鏡面に映じた自分の顔が、不可解な疲労に蝕まれて錆びついているように見えた。眼の下に黒い塵芥の吹き溜まりのような変色が薄らと展がっていた。これは夜の闇が齎す症状の一種なのだろうか。眠らないことは単に肉体の疲弊だけを齎すのではない。眠りの欠如は人間の魂の中枢にも、拭い難い負の痕跡をじわじわと打刻するのではないかと考えて、謙輔は掌で自分の顔を乱暴に擦ってみた。