サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 3

 不用意な窃視者の視線を拒むように黒い板で覆われた自動ドアが、鈍い音を立てて緩慢に開いた。闇の中に形作られた人工的な、つまり世間の一般的な生活から隔絶された異郷が、徐に謙輔と陽子の鼻先へ不穏な姿を現した。何もかもが、注意深く日常的な生活の片鱗を拭い去られ、卑俗な文脈から切り離されて、奇態な沈黙の裡に鎮まって見える。フロアの片隅に置かれた定型的な観葉植物の鉢植えさえ、何かの儀式のように、不自然な静謐さの中で威儀を正している。或いは怠惰な無関心を装っている。この館では、秘め事だけが真実であり、総ては個人の秘密の為に捧げられているのだと、謙輔は考えた。勿論、それを知った上で、この忌まわしい空間に足を踏み入れたのだった。
 埃の浮いたタッチパネルへ適確に指先を躍らせて、謙輔は最も安値の空室を選んだ。何れにせよ、長居をする為の空間ではない。限られた時間、それは妻子を持っている謙輔にとっては、夜明けまでの長ささえも意味しなかった。日付が改まった瞬間から、恐らく暗黙裡に、秒読みが始まっている。この場所でも、隔てられた自宅の、静まり返った寝室においても。だから、痕跡を残さぬように、不自然な航跡を規則正しい日常の行進の端々に顕さぬように、謙輔は慎重な振舞いを心掛けなければならなかった。三階の部屋が空いていた。個性を欠いた、生活から切断された異郷という性質は、あらゆる種類の宿屋に共通する特質だ。宿屋の役目は人々に無為の愉楽を授けることに尽きている。その閉て切られた異郷の密室では、人々は如何なる生活の責務からも解放され、あらゆる雑役の負担を免除される。社会的な義務から切り離された人間が選ぶものは、原始的な欲望の指差す標的以外に存在しない。美味しい食事、快適な睡眠、そして愛慾の齎す官能的な興奮。他に何を求める必要があるだろう? そこでは、あらゆる責務と宿命が揮発しているのだから。
 受付で告げられた値段に軽く頷き、財布を取り出す陽子を、無限に繰り返される儀式に含まれた一つの段取りのように滑らかに制して、謙輔は喫茶店に立ち寄る前に下ろしたばかりの紙幣を丁寧に計え、カウンターの彼方に佇む年配の女に手渡した。女は大仰ではない、抑制された職業的な微笑を浮かべて、受け取った金額に問題がないことを宣した。受け取った無粋な形の鍵は幾度、こうした不謹慎な夜の懐ろを潜り抜けてきたのだろう。無論、誰もが不適切な関係に覆われている訳ではないから、概ね、この鍵は清浄な夜の中に安らいでいたのだろう。しかし、そもそも愛慾が清浄である瞬間など、片時でも存在し得るのだろうか? 相手が後ろ暗さのない恋人であろうと、何ら道徳的に瑕疵のない正式な妻であろうと、愛慾そのものの裡には、決して拭い去られない濁りが含まれているのではないか? 透明な液体の裡に、眼に見えない凝結した酒精が入り混じっているように。
 だが、それは自身の願望に由来する穿った見方に過ぎないのかも知れないと、謙輔は思い直した。エレベーターの階数表示を黙って仰ぎ見ながら、清浄な愛慾という懐かしい言葉に想いを馳せる。懐かしいというのは、自分が未だ不道徳な関係に無縁であった頃の記憶と、その観念が結び付いている所為だった。愛慾は穢れた情熱だと開き直って考えたがるのは、表層的な正当化の所作に過ぎないのではないか。だが、若しも愛慾が清浄な感情であるならば、何故こんな背徳に惑溺する必要があるのか。未婚の女を泥濘へ引き摺り込むような悪事を働いてまで、何故自分は殊更に危険を冒し、伴侶を欺こうと試みるのか。考えている間に、気圧の影響だろうか、謙輔の蟀谷に鬱陶しい頭痛が兆した。梅雨明けの異常な酷暑に煽られて、出処の不明な驟雨が俄かに暗い舗道を洗おうとしているのかも知れない。
 エレベーターの暗がりで、扉が閉じた瞬間に、総ての錯雑した思念が一挙に煩わしくなって、謙輔は陽子の仄かに汗ばんだ背筋へ唇を埋めた。驚いたように身を引きかけて、直ぐに陽子は小さな笑い声を漏らした。消された鉛筆の痕のような、余りに微かで見分け難いほどの小さな笑い声が、謙輔の唐突な愛撫に対する抑制された礼儀のように、彼の鼓膜を揺らした。彼の唇は陽子の微かに浮き上がった頸椎に触れ、やがて小振りな耳朶へ移った。
「やめてって言ってるじゃん。耳はやだ」
 控えめだが鋭利な声音で、陽子は謙輔の愛撫を邪険に扱った。そのとき、丁度エレベーターの扉が開いて、陽子は仔猫のように身を捻り、人影のない静まり返った廊下へ逃れた。清冽な香水の匂いが謙輔の鼻孔の深奥に眠る獰猛な欲望を軽やかに誑かした。夜の闇の息詰まるような中心へ、自分たちの靴底が確かに触れたような気がした。