サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 9

 裏返された砂時計が急速に重力へ敗れていくように、二人に残された今夜の時間は着実な減少の曲線を描き続けていた。結論を出す為には圧倒的に時間が足りない。呑気にシャワーを浴びて一日の穢れを洗い流している場合じゃなかったなと、謙輔は内心で苦笑いした。
「貴方はその切り札を使おうとしているのね。自分の勝利を疑いもせずに」
 シーツで頑なに開けた胸許を覆いながら、陽子は露骨に不機嫌な表情で起き上がり、乱れた毛先を指で摘んで無意味に揺らした。その白く繊弱な横顔に薄暗い部屋の灯りが複雑な影を彫り込んでいた。謙輔は何も言わずに空調の唸り声を聞いていた。ヘッドボードに組み込まれたデジタル表示の時計が、終電までの残り時間を告げていた。そろそろ服を着なければ間に合わない。タクシーに乗っても構わないが、何れにせよ終電に遅れることは妻に対する釈明を要する行為だから、大幅に制限時間を超過する訳にはいかなかった。
「自分の勝利を疑わない訳じゃない。寧ろこれは、一つの決定的な敗北なんだ」
「何も失わないでしょう」
「失うじゃないか、君を」
「でも、それは貴方が決めたことだわ」
「家庭を捨てろと言うのかい」
「貴方の家庭なんだから、それをどう始末するかは貴方の自由でしょ。私が嘴を挿むような話じゃないわ」
「どうでもいいって意味か?」
「そうじゃない。それは私にとっても重大な問題よ。でも、それを私が期待するのは筋違いだわ。それは貴方と、貴方の家族との間で話し合われるべき問題よ。そもそも、貴方が選んで始めたことなんだから。そこに私の感情や覚悟を巻き込むのは卑怯な話でしょう」
 とても冷静な女だ、と謙輔は馬鹿みたいに素朴な感想を懐いた。彼女は冷静で、理智的で、現実を見誤ることもない。淪落の関係に陥ったこと自体は彼女の内なる野蛮な盲目の帰結かも知れないが、それだって何も分からずに耽溺してきた訳ではない。彼女は単純に自分の不透明な感情に対して明晰な態度で接して来ただけなのだ。謙輔は何だか笑い出したくなってしまった。この世界は全く奇妙だ。不条理だ。だが、そこから出発する以外に途はないし、超越的な規範や正しさを夢見ることも出来ない。例えばアルベール・カミュのように。
「君のことが好きだよ」
 無意味を承知の上で、謙輔は敢えて若干の勇気を奮い起こして言った。今まで何度、こうして色んな女性に君が好きだと伝えただろうか。それが報われるときもあれば、虚しく霧散することもあった。その意味では、こんなに空っぽな言葉も他にない。幾ら積み重ねても何も保証しない空疎な言葉だ。しかし、空疎であることは、無価値であることを必ずしも意味しない。電車に乗るとき、単なる紙切れに過ぎない一枚の切符が重要な役目を担うように、好意を伝える簡素で薄弱な言葉は、時に驚嘆すべき輝きを放つものだ。
 束の間の沈黙を挿んだ後で、陽子は呆れたように眼を見開いてから、肩を竦めて呟くように答えた。
「ありがとう」
「信用していないの?」
「そうじゃないわ。貴方の愛情を疑ったことは一度もない。貴方の愛情が虚しいものであることは、知っていたけれど」
「未来がないから?」
「そうかもね。でも、詳しく突き詰めたら考えたら、一体誰に未来を保証することなんて出来るのかしらね」
「結婚していても、という意味かい?」
「そう。仮に貴方が家族と別れて、私にプロポーズしてくれたとしても、今の『好き』という言葉の正しさや重さを、その行為が証明してくれるとは限らないわ」
「哲学的なことを言うね」
「うるさいなあ。馬鹿にしてるの?」
「馬鹿は俺の方だ」
 此れ以上、もう二人の間で交わすべき言葉はないように思われた。今度は遠慮せず、露骨に枕許の時計へ謙輔は視線を転じた。陽子は微かな溜息を吐いて、謙輔の横顔を静かに見凝めた。
「もう帰る?」
「うん」
「分かった。私はもう終電ないから、一人で泊まるね」
「いつも悪いね」
「何を今更。そう思うなら、こんなときに辛気臭い話は止して欲しかったわ」
 謙輔は立ち上がって、乱雑に崩れたパズルを元通りに組み合わせるように、衣服を身に着けた。陽子は欠伸を噛み殺しながら、携帯の画面を開いて、友人からのメッセージに返信を打っていた。もう此れで終わりに出来るだろうか。謙輔は鞄の中身を確かめ、財布と携帯が室内に置き忘れられていないことを調べて安心した。終電まで残り十五分だった。彼は足早に沓脱へ向かい、背後で陽子がベッドから降りる軋り音を聞いた。
「今までありがとう」
「こちらこそ。元気でね」
 陽子の瞳には、仄かな感傷が潜んでいた。抑制され、禁圧された感情の濃縮が、艶やかな光となって薄暗い玄関の空間を閃いた。謙輔は丁寧に靴紐を結び、バスローブ姿の陽子の唇へ、最後の口づけを贈った。その瞬間の、陽子の眦は、今にも決壊しそうな危うさを秘めていて、直視することは憚られた。踵を返し、彼はドアを開けて無人の廊下に出た。扉の隙間越しに、互いに手を振って、掠れるような声で陽子がさよならと言った。謙輔は黙って頷き、扉を閉めた。鍵を締める硬質な音が、断頭台のように響いた。若しも彼女が湯を溜めたバスタブで手首を切ったりしたら、と謙輔は考えた。そうしたら俺は、自分の携帯で救急車を呼ぼう。そして事態の経緯を余さず世間に向かって告白しよう。彼女の命が助かろうと助かるまいと、後日市役所に赴いて、まるで陽子の形見を受け取るように、俺は離婚届に判子を捺すだろうと、謙輔は思った。