サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-02-01から1ヶ月間の記事一覧

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 3

バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)を読了した。 非常に多岐に亘って「禍福」の原理を、具体的な実例と明快な考察と共に究明しているラッセルの「幸福論」の内容を、軽率で杜撰な要約に還元するのは適切でも生産的でもない態度である。けれども…

Cahier(「不機嫌な私」は他者に由来しない)

*人間は生きていれば些細なことで機嫌を損ね、刺々しい感情の虜に堕す。情緒が安定しているのが一番好ましく望ましい状態であることは理窟では弁えているのに、不機嫌に傾斜していく自分自身を押し留めようにも抑止出来ず、無意味な口論や意地の張り合いに…

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 2

引き続き、バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)に就いて書く。 人間が「幸福」という茫洋たる観念に就いて明瞭な視界を確保したいと望む場合、差し当たってラッセルの書物に含まれている記述を悉く点検すれば、その要求は見事に叶えられるのでは…

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 1

セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読了したので、今はイギリスを代表する思想家の一人に計えられるバートランド・ラッセルの著名な『幸福論』(岩波文庫)を繙読している。 「幸福」という観念は、極めて内在的なものであり、事物の表層だけを捉え…

Cahier(「奴隷」の道徳)

*人間は誰しも他者からの評価を気に病む。毀誉褒貶に一喜一憂し、自己の存在や行動を、多数派の他者が築き上げた普遍的な規矩に合致させることに、奇妙な社会的幸福を感受する。こうした他律的な生き方は、余りにも深く我々の魂を蚕食しており、それ以外の…

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 5

セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読了した。 二千年前の著述が未だに「生」の現実に対する有効性を失っていない。その厳然たる事実に私は驚嘆せざるを得なかった。セネカは古代ローマの激動の時代を生き抜いた有能な政治家であり、その生涯を苛み…

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 4

引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。 欲望は絶えず「欠如」の認識によって触発され、飢渇に導かれて亢進する。言い換えれば、享楽的な主体は常に自らの所有しない対象、不在の対象、欠如した対象に向かって認識の焦点を合わせ…

Cahier(「婚姻」の改革)

「婚姻」という制度を「離婚」という破局(如何なる正当な事由が介在していようとも、論理的に考えれば「離婚」が「婚姻」の失敗した形態であることは明白である)から救済する為には、「婚姻」に附随する様々な有形無形の義務を削減する以外に途はない。 「…

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 3

引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。 「忙殺」という無惨な悪徳が、自己の「生」の他者による簒奪或いは侵襲によって生じるのだとすれば、我々がそうした悪徳の齎す虚無の症候を免かれる為には、当然のことながら、この貴重な…

Cahier(三島由紀夫と「享楽」)

*セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を繙読していたら、次のような記述に逢着した。 しかるに、快楽は喜悦の絶頂に達した瞬間に消滅するものであり、それほど広い場所をとらず、それゆえ、すぐに満たし、すぐに倦怠を覚えさせ、はじめの勢いが過ぎれ…

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 2

引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。 多くの人間が、生物学的な宿命たる「死」の到来の厳然たる絶対性に眼を塞いで生きている。日々、忙しさに追い立てられて暮らしていると、自分の「死」という約束された暗鬱な未来に想いを…

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 1

最近は専らセネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読んでいる。丁寧で稠密な訳文を少しずつ咬み締めるように堪能している。勿論、私にはラテン語の原文を読解する能力など微塵もなく、従って訳文の適切性を原文に徴して確かめることなど不可能である。…

Cahier(理性・激情・セネカ)

*この一年余り、ずっと三島由紀夫の小説を読んで、感想文を書き綴るという個人的な計画に邁進してきた。主に長篇の峻険な山脈を踏破することに照準を定め、初期の「盗賊」や「仮面の告白」から、長大な遺作である「豊饒の海」までを無事に読了し、今度は新…

Cahier(愛情と触知)

*人間は時々、自分が「動物」であることを忘れる。 或いは常に忘れて、稀薄な自覚の裡に眠りこけているのかも知れない。一般に誰も切り花を見たところで生命の残虐な形態に心を痛めたりはしないが、人間の生首を鼻先に突きつけられたら、余りの惨さに恐懼し…

Cahier(目的の正しさは、手段の正しさを論証しない)

*目的の正しさは、手段の正しさを論証しない。目的が正しければ、如何なる手段も自動的に無謬の正当性を賦与される訳ではない。この場合、我々は「正しさ」という言葉を倫理的な観点から捉えなければならないだろう。英語で言えば「right」と「correct」の…

「生活」と「事件」の相剋 三島由紀夫「新聞紙」

引き続き、三島由紀夫の自選短篇集『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に就いて書く。 「新聞紙」(「しんぶんし」ではなく「しんぶんがみ」と読む)と題された短篇を読み終えたとき、その静謐な掉尾の修辞から、私は夏目漱石の「夢十夜」を連想した。 敏子…