サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(理性・激情・セネカ)

*この一年余り、ずっと三島由紀夫の小説を読んで、感想文を書き綴るという個人的な計画に邁進してきた。主に長篇の峻険な山脈を踏破することに照準を定め、初期の「盗賊」や「仮面の告白」から、長大な遺作である「豊饒の海」までを無事に読了し、今度は新潮文庫に収録されている短篇集を渉猟しようと思い立って、現に「花ざかりの森・憂国」を読み終えた(未だ総ての作品に就いて感想文は書いていないが)。

 そして『真夏の死』(新潮文庫)と題された次なる短篇集に着手し、別けても「春子」や「サーカス」などの作品に特別な関心を寄せて愉しんでいたのだが、私生活で色々と凡庸だが重要な揉め事が起こり、不意に憑き物が落ちるように、或いは桜の繊細な花弁が雨に打たれて誰も知らぬ間に剥落するように、果たして絵空事の小説に就いて彼是と思索を巡らせるという迂遠な方法、古き良き時代の「文芸評論」の手法に、こうして脳天まで埋没しているのが正しいことなのかと、疑念が湧出した。

 これは一応自覚症状のある「疾病」だが、只管に三島の小説ばかり耽読して、その拙劣な感想を評論家気取りの文章で纏める作業に熱中してきた上で、改めて来し方を顧みると、自分の読み方が非常に理窟に偏ったものであること、芸術の感性的な細部や形式に着目するより、作品に秘められた思想や哲学にばかり眼を奪われる傾向が強いことなど、そういう自分の特性或いは偏向が如実に感じ取れる。それが芸術的な鑑賞の様式としては必ずしも健全でなく、芸術家の価値観に寄り添ったものでもないことは、漠然と理解している。或る作品を「意味」や「大意」や「要約」に還元しようとする性向、これは真の意味で芸術を愛好する人間の感覚とは異なる。

 過日、インフルエンザで出勤停止になった数日間の唐突な休暇の終わりに、妻と子育ての方針を巡ってそれなりに深刻な諍いがあり、それでも意見の相違を感情的な擦れ違いの状態に留めておくのは適切な振舞いではないと聊か我が身を反省して、妻と真剣な議論の場を持った。それで成る可く私的な感情に流されぬ意見の交換を企図し、飽く迄も理性的な議論を実践すべく努めたのだが、最後の最後で妻に「言い方に温かみが欠けている」と言われ、頭を抱えてしまった。肝心の中身に就いては前向きな合意に至ったと言えるのだが、議論の仕方という部分に就いて自分の課題を指摘され、やはり自分は冷酷な、理窟に偏った、体温を欠いた人間なのだろうかと悩んで、職場の同僚に喫煙所で相談も持ち掛けた。

 本質的な部分では、私は激情に襲われ易い人間で、過ぎ去った日々を顧みても、突発的な感情や衝動に駆り立てられ、世人が指弾するような類の行為に及んだことは幾度もある。だからこそ、理窟を重んじて冷静な議論を試みることで、激情に振り回されることのない自分を築き上げようと意識している部分もあり、その両極を揺れ動いているのが実情だ。これは私という人間に埋め込まれた宿命的な課題であると言えるかも知れない。

 さて、自分が理窟に偏り易い人間であることを認識した上で、それを今後の実存的方針に活かすに当たっては、大別して二通りの道筋が考えられる。理窟に偏る傾向を是正する為に敢えて感情や感覚の領域へ自分自身を投げ込む遣り方と、自己の本然に即して、理窟っぽい性格を一層洗練させ、成熟させることで、幼稚な理性の孕みがちな害毒を減殺する遣り方である。何れを望むのも個人の自由な裁量の範囲に属することは間違いのない基礎的な事実であろう。

 小説に限らず、あらゆる芸術は感性的な形式の支配する世界であり、それは本来、如何なる意味も超越して、その先駆け、或いは原型的な経験の裡に人を招き入れる構造を有している。しかし私は、そのような感性的形式の支配に耽溺することを必ずしも希望していない。寧ろ私の主要な関心は、感性的形式に支配された主観的な経験を包括する巨大な「意味」の体系を解明し、定義することに存している。それならば、態々「小説」という感性的且つ形式的な虚構の空間に踏み込んで、散らばった意味の断片を拾い集め、首尾一貫した俯瞰的な「パースペクティブ」(perspective)を築き上げようと試みるのは、余りに迂遠ではないか? 虚構の世界に「意味」を求めて旅せずとも、四囲を見渡せば、そこには幾らでも「意味」の多様な断片が混在する世界が、無限の曠野と化して眼路の果てまで広がっているのである。態々「虚構」を経由せずとも、眼前の世界に就いて、自身の生身の経験も踏まえながら、もっと直截に「思索」の労役を積み重ねた方がいいのではないか? そもそも私には、この眼前の現実、社会、世界に関する基礎的な勉強が圧倒的に不足している。小説を読んで思索を巡らせることが、現実を裁断する重要な契機となる二十世紀的な方法論(「近代」に固有の特殊な、歴史的な手法)を、安穏たる意識でだらしなく模倣しても始まらない。

*そこで『真夏の死』の繙読は一旦休止し、所謂「虚構の物語」から束の間、離れてみるのも一興だと思い立ち、二階の納戸に眠っている夥しい「積読」の中から、俄かに埃を払って救出されたのが、ローマの賢人として名高いセネカの『生の短さについて』(岩波文庫)である。人間の懊悩の中身は数千年前から大して進歩していない、というのは、世間で頻々と言挙げされる聊かシニックな真理である。数千年単位で移ろうことのない、未だ解決を見ない人類の基礎的な課題に就いて、改めて根本から勉強するのも悪くないと考えたのだ。芸術という或る仕組まれた感性的=形式的な装置(それは一種の「attraction」であろう)に乗り込んで、彼是と考え込むより、眼前の具体的な現実に就いて苦悩すること。結論の出ない問題に就いて千言万語を費やすこと。飽き性の私の言うことだから、明日には朝令暮改の醜態を晒しているかも知れないが、思い立ったが吉日である。先ずは行動に着手することが大切だ。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)