サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧

「Hopeless Case」 28

「椿ちゃんはどんな男性がタイプなの?」 徐々に酔いの深まり始めた幸野が、仄かに舌足らずな声で尋ねた。若しも同じ質問を、年の離れた男性の社員が投げ掛けたら、直ちに淫猥なハラスメントの罪状を眉間に刻印されるだろう。それは奇妙な相対主義ではないだ…

「Hopeless Case」 27

忘年会という風習が悪しき旧弊だと嫌がられるようになってから、どれくらいの年月が経っているのか分からない。けれども辰彦の勤め先では、その旧習は今も頑固に根付いていた。御用納めの納会は、毎年社長の掛け声で潤沢な経費が認められ、経理部長の芳川の…

「Hopeless Case」 26

毎週金曜日の夫の帰りが遅いことを、梨帆は何時しか気に病むようになっていた。固より、公務員の如く十七時の鐘と共に終業するような性質の勤め先ではないが、同僚と毎晩のように酒を酌み交わすタイプでもない。娘が生まれてからは特に、夫の飲み会の頻度は…

「Hopeless Case」 25

小説だって現実だ。椿の断固たる確信に支えられた言葉は、辰彦のスマートな理性を聊か混乱させた。実際、そのように考えることが出来なければ、衰燈舎が手掛けている類の、とてもマイナーで癖の強い外国の小説を翻訳して高価な造本で国内に頒布するという重…

「Hopeless Case」 24

季節は矢のように駆け巡った。夏季休業が終わると、椿が衰燈舎を訪れる機会は自ずと減った。内定は学士の肩書を前提としていたから、彼女は卒業証書を確実に勝ち得る必要があった。必ずしも勤勉な学生とは言い難い椿は、普通の四年生に比べて取りこぼしてい…

「Hopeless Case」 23

「遅かったね。疲れてるの?」 字面だけを受け止めれば優しい労わりの言葉以外には聞こえようもないが、人間の発する言葉は必ず生身の肉声を伴っていて、その生理的な音楽が吐かれた科白の文脈を規定する。その観点から耳を澄ます限り、彼女は何かしら疲労を…

「Hopeless Case」 22

もう自分が確りと面倒を見る以外に選択肢はないと、辰彦は覚悟を決めた。荒城との面談を終えた椿は脱け殻のように無口で、そんな憔悴した姿を目の当たりにした編輯部の面々は、ざまあ見やがれという無慈悲な感想を口にしつつも、同時に或る痛ましさも感じて…

「Hopeless Case」 21

「色々と面倒な繰り言が俺のデスクに押し寄せて来るんだよ」 各種の打ち合わせに用いられる殺風景な部屋の奥まった場所に置かれたソファで、荒城は乱暴に膝を組んで、左右に分かれて座った二人の顔を順繰りに眺めた。二人とも沈黙で自分の身を護る以外の途を…

「Hopeless Case」 20

定岡と遣り合った翌日の金曜日、窓から射し込む光が仄かな茜色を混淆し始めた午後四時、椿は編輯部長の呼び出しを受けた。彼女の実質的な保護者である辰彦も、同席を命じられた。 定岡との諍いが、何か劇的な破局に結び付いたという訳ではない。悲劇的な惨事…

「Hopeless Case」 19

椿の生活は充実していた。傍目には、それを充実と呼んでいいのかどうか、判然としなかったに違いないが、少なくとも彼女は活々と動き続けていた。就活の終わった同世代は、人生最後の夏休みと思い定めて螽斯キリギリスのように遊び呆けていたが、椿は学友た…

「Hopeless Case」 18

否が応でも、川崎辰彦の仕事は増えた。椿と最初にコンタクトを取り、尚且つ荒城に掛け合って面談の場を誂えたのが辰彦の仕業であることは周知の事実だったから、椿の世話を引き受けるのも辰彦であるべきだというのが、社内の暗黙の了解だった。それを受け容…

冷笑・虚無・神秘主義 三島由紀夫「死の島」

三島由紀夫の短篇小説「死の島」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。 この作品は「火山の休暇」及び「旅の墓碑銘」と共通する主役・菊田次郎の登場する物語である。菊田次郎は作者である三島由紀夫の分身と思しき芸術家であり、彼の経験と独白を借…

「Hopeless Case」 17

大学四年の長い夏休みの間、椿は来る日も来る日も、衰燈舎の入居する老いさらばえたビルに入り浸った。同輩の人々から、無類の文学好きで、世間の標準的な規範から逸脱していて、正しいと目される習慣に従うことを望まない、聊か附き合い難いタイプの女子だ…

「Hopeless Case」 16

敢て顔を出さずにいたのは、荒城に喫煙所で言われた「公私混同」という表現が無闇に疎ましかったからだった。辰彦は編輯部の人々の間で鬱陶しい噂が広がることを怖れていたし、ただでさえ彼の同僚たちは夥しい読書の堆積の所為か、豊かな想像力を患っていた…

「Hopeless Case」 15

衰燈舎は、新常盤橋に程近いビル街の一隅に、置き忘れた帽子のようにひっそりと間借りしていた。その仮寓の社屋は年季の入った汚れ物で、色褪せた混凝土の壁には年月と風雨の痕跡が色濃かった。椿は緊張した面持ちで、待ち合わせの時刻より一時間も早く、大…

「Hopeless Case」 14

厚かましく不敵であること、それは往々にして集団の調和を擾す悪しき性質であると目されるものだが、どんな悪徳も、適切な分量と用法を守れば思わぬ画期的な効能を発揮することがあるのは、経験的に知られた地上の真理である。椿の豪胆な自己顕示は、辰彦の…

愛の破獄と、その蹉跌 三島由紀夫「果実」

三島由紀夫の短篇小説「果実」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。 同性愛の女性カップルの悲惨な末期を描いた「果実」は、その全篇が不穏な臭気に覆われている。初期の作品とは異なる稠密で無駄のない硬質な文体は、三島の作家的成熟を濃密に実感…

権威・支配・悪徳 三島由紀夫「怪物」

三島由紀夫の短篇小説「怪物」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。 我々は日常に「善悪」という珍しくもない定規を振り回しながら、互いの長さや形状が異なるがゆえに衝突や係争を繰り返し、様々な事柄に「善」や「悪」のラベルを貼付して、それぞ…