サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

愛の破獄と、その蹉跌 三島由紀夫「果実」

 三島由紀夫の短篇小説「果実」(『鍵のかかる部屋』新潮文庫)に就いて書く。

 同性愛の女性カップルの悲惨な末期を描いた「果実」は、その全篇が不穏な臭気に覆われている。初期の作品とは異なる稠密で無駄のない硬質な文体は、三島の作家的成熟を濃密に実感させると共に、二人の異様な情熱と破局の過程を丹念に活写している。

 破綻はこの年の春から来た。破綻という言葉が当らないなら、飽和状態というべきである。極度に愛し合って、しかもその一風変った愛が袋小路のような梗塞された構造をもっているので、愛し合えば愛し合うほど足掻きがとれなくなる。その愛は本質的に堕落を知らない。堕落を知らない愛の怖ろしさは、決して外れを知らない賭事があるとすれば、そういう怖ろしさである。終りがないのだ。逸子が時折自分たち二人の生活を絵の中に塗り込められた生活だと考えるのは、アトリエに起居していることの自然な聯想であるが、絵具の膠が画中の人物を放恣な姿勢の磔刑にかけたので、部屋のそとでも二人の女は磔刑にかかっている人間の特質を微妙に示した。歩くときの二人の指はいつも絡み合ったまま離れない。断末魔の叫喚のようなけたたましい笑い声を立てる。時によると、喪心の体で小一時間もものを言わずに坐っている。それでいてこうした生活は、それが日ましに重荷になり、日ましに厭わしいものになってゆくのをどうすることもできない。(「果実」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.213-214)

 熱烈な愛情が得体の知れぬ閉塞感を齎すということは、経験的には想像し得る事態である。他者への常軌を逸した執着が、愛情の一般的な様式を超過して、奇怪な変貌を遂げるという現象は充分に起こり得る。気の向いたときだけ相手に関心を寄せるという浮薄な態度が備えている優れた通気性は、こうした極度に濃縮された関係性の当事者にとっては極めて冷酷な背信に他ならない。愛することが、常時相手の心身を凝視し続ける息苦しい情熱だと定義されるならば、確かに瞬時の余所見すら愛情の減退の確たる証拠として法廷に提出されることになるだろう。また恐らく彼女たちの愛情が極端な凝結を強いられる背景には、同性愛という関係に固有の特徴が関与しているのではないかと推察される。一般に恋愛の価値は、結婚や出産といった社会的な営為へ帰着するかどうかで判定される慣例である。一組の異性が、銘々の自由な意志に基づいて相互に愛し合い、その存在の価値を称揚し、社会的結合を成し遂げることによって、営まれた恋愛は遡及的に評価され、その正しさを承認される。この一連の過程から疎外された愛情は、欠損を抱えた不完全な事例として侮蔑され、場合によっては迫害される。特に同性愛に対する偏見は、極めて厖大な歴史的蓄積に基づいた強烈な差別的意識に由来しており、未だに同性愛の婚姻を合憲と看做す法律は、本邦には存在していない。

 それゆえに彼女たちの関係は、社会的な進展の可能性を奪われているし、彼女たちの愛情が法律と社会によって祝福され、公正な関係として庇護される見通しも立たない。彼女たちの真摯な愛情を祝福する者が彼女たち以外に存在しないという状況は、極めて陰惨な閉塞感を強いるものである。彼女たちの愛情は、第三者による承認や肯定を伴わず、当事者同士の強烈な感情だけが、彼女たちの紐帯を支える唯一の根拠である。こうした構造的要因が益々、彼女たちの情熱を濃縮し、愛情の証明に関して比類無い苛烈な道徳性の要求を助長することとなる。「その愛は本質的に堕落を知らない」という一文は、彼女たちの関係に附随する厳格な倫理的性質を示唆する表現であるように思われる。周囲の無理解と社会的抑圧が、追い詰められた恋人たちの愛情の濃度を極端に高め得ることは、例えば「心中」などの事例を鑑みても明らかである。それゆえに彼女たちは「余所見」をする余裕すら持たず、軽率な浮気に興じることも出来ない。相互の愛情が実存の骨格にまで高められているので、淪落と背信は直ちに両者の生活の根本的な破滅へ直結してしまうのである。愛することが生きることと同化し、一挙手一投足が恋人に対する絶対的な忠誠の証明として提示されなければならない状況は、確かに「堕落を知らない」と表現して差し支えないだろう。だが、こうした愛情が長期化すれば、内発的な愛しさよりも峻厳な義務の齎す抑圧の感覚の方が強まるであろうことは火を見るより明らかである。愛情は自由で主体的な意志の表象であることを諦め、関係の継続が最大の目的として重んじられ、生きることは愛することの手段に過ぎなくなる。しかし本来、愛情とは生きる為の手段であり、生きることの内訳を充実させる為の媒体ではなかったのか。

 四月半ばに学校友達が二人を花見へ誘いに来たことがある。偶々弘子が風邪で伏していた。逸子は誘いを断わり、客を送り出してドアを閉めた。忘れ物の煙草入れに気づく。客のあとを追って出ようとすると、寝床の中から弘子が狂暴な眼つきで「行かないで!」と叫ぶ。本心は病人の私を置いてお花見へ行きたいのだろうと厭味を言う。逸子は黙ったままアトリエに還って、煙草入れから他人の煙草をとり出して喫んだ。無意識の動作である。――枕に顔を伏せて泣き出した弘子はこれを見なかった。知らずに喫み出した煙草が他人の所有物だと気づいたとき、逸子は一瞬間、深い澄明な闊達の心持を味わった。弘子に気づかれぬように用心しながら、深々と吸った。ありふれた和製の煙草である。それがこれほど旨く感じられるとは何事であろう。しかしこの感情をつきとめることは恐怖のために出来かねた。ただこの時以来、お互いの愛がお互いに恐怖を与えもする所以を覚ったのである。(「果実」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.214)

 愛情はその本質的な定義において自発的なものであること、主体的な決断の帰結であることを求められる。強いられた愛情、命じられた愛情が、愛情の本質的な定義を充たさないものであることは明白である。従って他人に真摯な愛の証拠を求めるのは矛盾した行為であり、望んだものを益々遠ざける結果にしか帰着しないのだが、相手の存在に自己の実存の基礎を置いている依存的な人間においては、そのような沈着な判断を保持する余裕など有り得ない。病床の弘子を気遣って花見の誘いを断わった逸子の態度は一般に、紛れもない愛情の証明として認められ得るものだが、絶対的な愛情を飢餓に苦しむ人のように求め続ける弘子にとっては、あらゆる逸子の振舞いが厳格な審判の対象となるので、与えられ、示されたものだけで満足するという健全な心理的節倹は選びようがない。過剰な愛情に呪縛された人間が、酷薄な裁判官の相貌を纏うことは稀少な事例ではない。こうした切迫した事態は、両者の紐帯の慢性的な脆弱性に対する暗黙裡の懸念によって喚起され、強められる。それゆえに逸子が「他人の煙草」から「深い澄明な闊達の心持」を引き出すのは自然な帰結である。厳重に塞がれた窓の彼方に、限りない紺碧の大空が広がっているという普遍的な事実を、「他人の煙草」は改めて思い出させてくれるからである。

「まあ、可愛い!」

 二人の女は異口同音に叫んで顔を見合わせた。純粋な喜悦に心を貫かれ、愛を混えない共感の表情を見交わした。何という共感であろう。何カ月ぶりで、逸子と弘子は分け隔てのない心を、怖れ合わない心を、裸かの心を再び近づけ合うことができたのである。遠ざかる乳母車を見送って二人は身動ぎもしない。乳母車は樫の木蔭へ隠れた。二人は眼ざめた。そして完全な欠乏を、言いかえれば、或る完全な飢渇を二人の間に感じた。(「果実」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 pp.216-217)

 愛情は恋人の存在そのものに対して直截に注がれる。他方、子供への愛情は一般に、夫婦における共通の理念の役割を担い、夫婦の密着した対面的な関係に一条の通風孔を穿つ効果を発揮するものである。恋人や配偶者に対する過剰な関心は、両者の紐帯が脆弱であればあるほど、存続の危殆に対する恐怖に煽られて、一層亢進する。逸子と弘子の関係は、その典型的な症例である。そうした閉塞の息苦しさを減殺する希望に満ちた理念として「赤ちゃん」が登場する。共通の理念に向かって生きることは、愛情の異様な梗塞を緩和しながら、同時に紐帯の確実性を高めるという意味で、二人の関係における重要な転換点を成している。同窓の女学生たちの悪意によって、望み通り「赤ちゃん」を手に入れた二人は、異様な情熱を燃え上がらせて育児に熱中する。

 逸子も弘子も倦怠と死の誘いから完全に免かれ、安全な共感の中にいた。二人はもう一緒に家を出ることはない。買物にはかわるがわる出た。買物は主に玩具である。四畳半の天井には幼児の眼をよろこばす玩具がとりかえ引きかえ吊られていた。それらが一せいに廻転するまばゆさは、幼児の神経を惑乱させた。

 晩夏の一日、赤ん坊は白い顆粒のある吐瀉物を吐いた。水分の多い下痢が数日前からつづいていた。しかし食慾は衰えない。逸子と弘子は栄養補充のために授乳の量を殖やした。嬰児は泣きつづけて止まない。時たま喪心したように眠りに落ちた。眠っている眼が心持釣り上ってみえる。呼ばれた医師は重篤な消化不良症という診断を下した。入院して三日目に嬰児は死んだ。(「果実」『鍵のかかる部屋』新潮文庫 p.221)

 嬰児の登場による束の間の蜜月と希望の恢復は、瞬く間に打ち砕かれて灰燼に帰す。密室で発見された二人の亡骸は、夏の苛烈な暑気を浴びて「熟み腐れた果実のように」異臭を放つ。この「果実」とは、二人の関係の幻想的な所産としての嬰児の暗喩であるように思われる。糜爛する「果実」のイメージは、愛情の悲惨な梗塞の残骸を表象している。三島の描き出す恋愛は「潮騒」という例外を除いて悉く、悲劇的な運命を免かれ得ないのである。