サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「債務」としての「愛情」 三島由紀夫「牝犬」

 三島由紀夫の短篇小説「牝犬」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 聊かシニカルな女誑しの若者に執着する未亡人の、法外な独占欲の顛末を描いた作者の意図が那辺にあるのか、明瞭な答えを弾き出すことは難しい。章子の異様な執着と嫉妬が、如何なる源泉を抱え込んでいるのかも不明瞭である。そもそも人間の性愛の欲望に、明瞭な原因を求めることは不可能に等しい。

 恋心が大いなる錯覚であることは誰しも弁えている。その錯覚を免かれた途端、甘美な幻影は消え去り、相手の風貌や人格は、凡庸で無味乾燥な実相を露わにする。けれども、夢が醒めない間は、我々の精神は客観的な検証に価値を見出さず、その必要も認めない。相手の存在に特権的な意義を賦与し、世界の総てを覆う天蓋の役割を宛がう。恋人の離反は、過剰な情熱に支配された者にとっては世界の破滅と同義である。そうやって、或る特定の人間や事物に依存することは、幸福な幻影を生み出すと同時に、堪え難い苦しみも蔓延させる。

 彼女の媚態には、そもそもの馴れ染めから、明瞭な敗北の身振があった。彼女の厚化粧や人並外れて派手な着物の好みは、敗北の勲章をぶらさげているようなものであった。その眼差にはいつも乞食の媚びがあった。彼女の眼はしじゅうこう言っていたのである。――『どうせ私なんか愛してもらえるわけはないんだから』(「牝犬」『岬にての物語』新潮文庫 p.178)

 過剰な執着は、相手の恋心を委縮させ、涸渇させる。何故なら、阿諛追従にも等しい恩着せがましい媚態は、自らの価値を切り下げる卑屈さで、相手の自分に対する敬意を毀損するからである。章子が繁に対して至れり尽くせりの奉仕を積み重ねるのは、自立した愛情ではなく、明確に見返りを期待して発揮される愛情の産物である。逃げ出した繁の行方を偏執的な情熱で訊ね回る章子の姿は、債権回収に血道を上げる非道な高利貸を思わせる。惜しみなく奉仕することで相手を支配しようとする、歪んだ母性的な愛情が、彼女の魂の本質を成している。それが繁の心を窒息させるのは当然の摂理である。

 章子の愛には、どこか鉄のようなものがあった。その愛は、水晶にも、薔薇にも、毛皮にも、金銀にも似ていなかったのである。この愛の鉄格子の中で、この愛の熱した鉄板の上で、この愛の小ゆるぎもしない鉄壁の内側で、囚われ人は色を失った。(「牝犬」『岬にての物語』新潮文庫 p.179)

 愛することで他人の主体性を麻痺させ、逃亡を禁じ、精神的な軟禁の状態へ追い込むこと、こうした悪徳は巷間に有り触れている。恐らく総ての嫉妬は、多かれ少なかれ「支配」の欲望に貫かれており、如何なる甘言も繊細な愛撫も熱烈な憐憫も、相手の自由を制限する偽善的な手段として濫用されるのである。恋人の離反を防ぐ為に益々劇しく募っていく奉仕の情熱は、却って相手の精神を威圧し、逃れ難い鉄鎖のように五体へ喰い入る。恋人は余計に逃亡への情熱を燃え立たせ、具体的な算段に齷齪するだろう。愛されるほどに冷めていく慕情、それは単に愛される側の酷薄な人格を意味するものではない。見え隠れする独占への欲望は、即ち「物象化」へのサディスティックな欲望である。人間としての尊厳を蹂躙し、自由と主体性を剥奪する「物象化」の衝迫は、その外見が「愛情」に類似していたとしても、根本的な部分で「愛情」とは異質である。或いは「未成熟な愛情」であると言い換えても差し支えない。成熟した愛情は、相手の自由と主体性を庇護するが、未成熟な愛情は、相手の自由と主体性を毀損してでも、相互的な依存の関係を堅持しようと画策する。

 こうした非対称的な関係性において、繁のように愛されることは殆ど、陰湿な暴力を蒙ることに等しい。愛情の仮面を被った暴力、例えば家庭内で生じる虐待において典型的に顕れる暴力の形式は、相手の尊厳や自主性を庇護するという愛情の重要な役割に背反している。しかも、それは極めて迂遠な方法で、或いは逆説的な仕方で、真綿で絞め殺すように相手の自由を蝕んでいくのである。注がれた愛情に報いないのは非道であるという尤もらしい正義の題目を悪用して、つまり「恩知らず」という論難を駆使して、章子は繁の離反を阻止しようと企てる。金貸しが債務を踏み倒すことの罪悪を声高に難詰するように、彼女は愛情を「貸借」の比喩に基づいて設計しているのである。この作品の随所に「金銭」に関する記述が象嵌されていることは、必ずしも偶然ではない。どれほど惜しみない情愛を発揮しているように見えたとしても、章子は根本的に「吝嗇な女」なのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)