サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「超越」と「虚無」に関する断片)

三島由紀夫の文業を「プラトニズムとニヒリズムの相剋」として読解すること、これが近頃、私の脳裡を去来する個人的読解のプログラムである。

 こうした見取り図は、決して私の創見ではない。近年では大澤真幸氏が『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書 2018年)において、プラトンの思想に基づいた「金閣寺」の分析を実践している。そもそも、三島由紀夫の作品からプラトニズムに親和する表現や構造を抽出すること自体は、それほど困難な作業ではない。「金閣寺」の序盤で語られる「心象の金閣」=「現実の金閣」の対比などは、露骨なまでにプラトニズムの図式に合致している。尤も、彼の豊饒な作品の総てを、プラトニズムの語彙で一律に裁断することは不当である。作中で示される三島の欲望が、濃密な「絶対性」への希求で充満していることは事実だが、それは彼が純然たるプラトニストであることを直ちに意味しない。

 プラトニズムが「観想」の哲学であることは歴然としている。そして三島由紀夫が優れた観想的知性の持ち主であったことも明瞭な事実である。しかし、三島の本質はプラトニズムによって描き出される世界観とは必ずしも合致しない。その端的な理由は、彼が「認識」の裡に留まり続けることを嫌悪し、絶えず「行為」への欲望に劇しく駆り立てられていたことに依拠する。彼は超越的な「実相=イデア」を「彼岸」の領域に期待する哲学者の節度とは無縁であった。三島の野蛮で貪婪な欲望は、本来ならば肉体的感官を通じて把握することが不可能であると考えられている「実相」と、生成する「現象界」の内部で邂逅したいという矛盾した夢想を生きていた。絶対的なものを、相対的な世界の裡に実現させたいと願う彼の困難な挑戦は、概ね敗北を喫したと断言して差し支えない。名高い「金閣寺」は、恐らくその挫折と転回の記録であり、金閣寺と共に焼け死ぬ幸福を辛うじて峻拒したとき、彼は索漠たる相対性の地獄へ漕ぎ出す決意を語っていたのである。

プラトニックな欲望が挫折したとき、ニヒリズムの病理が顕現する。それは必ずしも憂鬱な怠惰を意味しない。プラトニズムの挫折から生じるニヒリズムの特徴は、それが万物を等し並みに「仮象」として取り扱うという点に存する。超越的な「実在」の降臨が不可能であるならば、万物を「仮象」と看做すのは当然の措置である。そして「仮象」である限り、事物や行為は何らの価値も持たない。ここから無際限な「自由」が生じる。総てが「任意の選択」に委ねられ、如何なる事物も行為も、特権的な「価値」を剥奪される。この比類無い「自由」の行使は時に、悪魔的な有能さを人間に賦与する。ニヒリストには、あらゆる「価値」の信徒に擬態する能力が備わるからである。彼は良心の呵責を覚えず、悪徳に耽溺することもない。その融通無碍の実存的特質が、あらゆる領域に彼の活躍の場を準備するだろう。しかし、ニヒリズムを貫徹することは三島の人格に必ずしも適合しなかった。超越的な価値を棄却し、相対的な生滅の論理へ柔軟に適応しながら生きることは、彼の美学に反した。無価値な「仮象」の世界を自在に動き回ることは、絶対的な宿命に貫かれることを希求する彼の生来の実存的方針と食べ合わせが悪いのである。

*最終的に三島は、ニヒリズムの破壊を、つまり空虚な日常性の破壊を企図し、末期の蛮行に踏み切った。彼の掲げた政治的大義は、例えば「憂国」という短篇において露骨に示されているように、極端な言い方をすれば「捏造された大義」であり、人工的に構築された「任意の宿命」とでも称すべき紛い物なのである。「天人五衰」の安永透が、転生者であることを証明しようと自裁を企てて失敗するように、三島は授からない「宿命」を自らの手で作り出すことに賭け金の総てを投じたのだ。

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)

 
金閣寺 (新潮文庫)

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鏡子の家 (新潮文庫)

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花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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