サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 2

 終戦によって齎された絶望を如何にして克服するか、それが溝口の実存における最大の課題となる。そこに顕れる奇矯な学友・柏木の論理は、溝口の思想に重要な影響を及ぼす。

 俺は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、生れついた内翻足だった。……さて俺がこんな風に告白をはじめると、君は俺のことを、相手かまわず身の上話をやりだす哀れな病人だと思うだろうが、俺は誰にでもこんなことを話すわけじゃない。俺のほうでも、恥かしいことだが、君を打明け話の相手として最初から選んでいたんだ。というのは、どうやら俺のやって来たことは多分君にとっていちばん値打があり、俺のやって来たとおりにすれば、多分それが君にとって一等いい道だと思われたからだ。宗教家はそういう風にして信者を嗅ぎだし、禁酒家はそういう風にして同志を嗅ぎだすことを君も承知だろう。(『金閣寺新潮文庫 pp.119-120)

 柏木は、溝口の思想に具体的な展望を授ける「先覚者」の役回りを負っている。両者は「性的不能」によって「新鮮な現実」への参与に失敗するという共通の課題によって結ばれているからである。そして柏木の独創的な思想は、溝口の陥った絶望の構造そのものから「欲望」或いは「快楽」を抽出しようとする。それを柏木自身は「そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理」と呼んでいる。

 俺の考え方はわかりにくいだろうか。説明を要するだろうか。しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになったことは、君にもわかるだろう。不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止しており、同時に到達しているのだ。この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註する必要があるだろうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと。――やがて俺は、決して愛されないという俺の確信が、人間存在の根本的な様態だと知るようになった。これが俺の童貞を破った顚末だよ。(『金閣寺新潮文庫 p.130)

 「金閣」の内包する「実相」としての「美」に憧れる溝口の感情は、正に「仮象が実相に結びつこうとする迷蒙」そのものである。その不可能性は既に「終戦詔勅」を通じて厳然と告示されている。柏木の独創性は、そうした絶望を保存したまま、世界の眺め方を切り替えた点に存する。彼は感性的な認識を排除し、不可知の「実相」に認識の焦点を合わせることで肉体的な不能を超克する。それはプラトニズムの徹底的な純化である。柏木の用いる「夢」という言葉は恐らく「仮象」の同義語だ。

 溝口の野心は「実相」と「仮象」を重ね合わせ、それを飽く迄も肉体的な感官を通じて味わうことである。しかもその野心は「真理」や「正義」ではなく、専ら「美」に向かって捧げられている。絶対的な「美」の「実相」が、感官を通じて捉え得る「仮象」の肉体を伴って地上に顕現することを、彼は熱烈に祈願している。他方、柏木はそのようなロマンティシズムをはっきりと棄却している。

 老いた寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内翻足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。(『金閣寺新潮文庫 p.129)

 柏木は「仮象」の価値を認めないことによって、肉体的な興奮を担保している。この奇妙な転倒は、プラトニックな求道者の志向とは必ずしも合致しない。生粋のプラトニストは「仮象」の無価値を前提することで、あらゆる肉体的な興奮から解脱することを目指すだろう。しかし柏木は寧ろ欲望を奪還する為に「実相」を観想しているのだ。

 注意すべきことは、彼が溝口のように「実相」と「仮象」の審美的融合を求めていないという点に存する。寧ろ彼が求めているものは両者の厳然たる断絶である。何故、両者の断絶が柏木の性的不能を癒やすのか。言い換えれば、何故「実相」と「仮象」の接触が、彼の官能を凍らせる結果に繋がるのか。

 このときから、俺には精神よりも、俄かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈なく愛撫し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確乎とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。(『金閣寺新潮文庫 pp.125-126)

 柏木の語る欲望の形態は、例えば「豊饒の海」における本多繁邦の窃視や、或いは「月澹荘綺譚」に登場する侯爵を想起させる。具体的な関係を持つのではなく、透明な存在と化して只管に「認識」の快楽に溺れること、つまり純然たる「観照」の主体となること。しかし「内翻足」という生の条件が、そのような「観照」の特権を柏木に許さない。「実相」の側に立って「仮象」を見物する天使のような超越性は決して下賜されない。

 しかし忽ち内翻足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる「物」として、そこに存在していた。(『金閣寺新潮文庫 p.126)

 「透明なもの、見えないもの、つまり風になること」へのプラトニックな憧憬は、決して他人に看過されることのない「内翻足」によって挫折を強いられる。「風」とは純然たる観照的主体の比喩であり、その成立の為には理論上、生成的な「肉体」の棄却が必要とされる。地上の「仮象」を悉く超越し、純然たる「認識」の裡に逼塞しない限り、人間が「風」と化すことは出来ない。言い換えれば、柏木が自分自身を純然たる「精神」であると信じ込もうと試みても、黙殺し難い「内翻足」という肉体的条件がそれを頑なに阻止するのである。