サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 1

 三島の代表作である「金閣寺」は、絶対的なものと相対的なものとのプラトニックな対立の構図を重要な主題に掲げている。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(『金閣寺新潮文庫 p.33)

 溝口は「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を本来的な「実在」と看做すプラトニックな思考に囚われていながら、他方では「目に見える美」への純一な信仰を堅持している。この矛盾が、困難な挑戦を溝口に強いる。プラトニズムの議論に依拠するならば、超越的な「実相」は理性的な思惟によってのみ把握されるだけで、肉体的な感官によっては決して認識されない。若しも溝口が純然たるプラトニストならば、金閣の本来的な美しさが肉眼に映じないことを当然の現象であると考えただろう。しかし、彼は理性的な思惟の裡に安住することを望んでいない。彼は「絶対的なもの」が生成的な現象界へ来臨することを切実に夢見ているのである。

 「実相」と「仮象」の絶えざる分断、これは直接的には溝口の「吃音」によって培われた精神的特質として描かれている。「吃音」によって齎される生成的な現実との齟齬が、彼の強靭な超越的思考を育む母胎の役目を担っているのである。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(『金閣寺新潮文庫 pp.7-8)

 この僅かな時間差が、人間の内面を肥大させる重要な培地の働きを司る。精神と現象との完全で直接的な合致を否定するところに、プラトニックな超越性は宿るのである。若しも我々の精神が、認識の裡に顕れる諸々の仮象との間に、伸縮する時間的な関係性を持ち得なかったとしたら、我々の思惟は頗る貧困な反射神経のようなものに留まっていただろう。瞬間的な現実から距離を保つこと、それが思惟の生成される根本的な要件である。そして思惟を通じて見出された完璧な「実相」は、あらゆる「仮象」の彼方へ臨在する崇高な超越性として定義される。溝口は、その崇高な超越性が可感的な領域へ顕現することを熱烈に希求している。

 溝口の不可能な期待は、空襲の予感によって大きな希望を獲得する。

 晩夏のしんとした日光が、究竟頂の屋根に金箔を貼り、直下にふりそそぐ光りは、金閣の内部を夜のような闇で充たした。今まではこの建築の、不朽の時間が私を圧し、私を隔てていたのに、やがて焼夷弾の火に焼かれるその運命は、私たちの運命にすり寄って来た。金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。(『金閣寺新潮文庫 pp.57-58)

 超越的な「実相」は、時間の圧政を免かれている為に「滅亡」という観念とは決して結び付かない。しかも「金閣」という歴史的建造物は、他所へ同類の眷属を持たない為に「実相」と「仮象」が同一の場所に複合して存在し、その物理的な消滅が「実相」そのものの消滅を示唆するかのように見えるという特質を孕んでいる。一般的には、単一の「実相」に対して複数の「仮象」が存在する。しかし「金閣」に関しては、単一の「実相」と単一の「仮象」が見事に重なり合っているのである。この特異な条件が、溝口の観念的な思考の経路を難解なものに仕立てている。

 「金閣」が物理的に滅び得る存在であるという明瞭な事実は、その歴史的な永続性によって隠蔽されてきた。その惰性的な錯覚を覆す「空襲」の予感は、超越的な「実相」を生成的な「仮象」の世界へ降臨させたいという溝口の欲望に合致する認識である。「不朽の時間」という言葉は、別の表現を用いるならば「無時間」であり「久遠」である。超越的な「実相」は、その定義において時間的な生滅の法則を免除されているからである。その超越的な条件が、溝口と「金閣」との疎隔を強いている。それが物理的な破滅によって解除されるというのは、厳密に言えば錯覚である。物理的な「仮象」の消滅が、超越的な「実相」の臨在を促すということは、少なくともそれを享受する主体が生きている限りは有り得ない。但し、この「空襲」は「破滅」の「共有」ということを暗示している。単に「金閣」の焼亡のみが、両者の疎隔を癒やすのではない。両者の物理的消滅の共有が、超越的な領域における合致を約束する。この予覚は、紛れもない官能的幸福を溝口に授けるだろう。

 この美しいものが遠からず灰になるのだ、と私は思った。それによって、心象の金閣と現実の金閣とは、絵絹を透かしてなぞって描いた絵を、元の絵の上に重ね合せるように、徐々にその細部が重なり合い、屋根は屋根に、池に突き出た漱清は漱清に、潮音洞の勾欄は勾欄に、究竟頂の華頭窓は華頭窓に重なって来た。金閣はもはや不動の建築ではなかった。それはいわば現象界のはかなさの象徴に化した。現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものになったのである。(『金閣寺新潮文庫 p.58)

 結局のところ、生成的な現実は、超越的な「実相」の顕現を阻害する要因でしかない。「霊魂」の完璧な顕現にとって「肉体」は障碍なのである。つまり、溝口の祈念する「絶対者を肉体によって享受する」という欲望は原理的に不可能なのである。空襲による「破滅」の「共有」は「金閣」という超越的実相を生滅の領域へ下降させるものではない。共に滅びることによって、両者が有限な実体性を離れて、純然たる普遍的な「本質」の状態において相互に合致するという官能的な夢想が、空襲による「破滅」を通じて想像裡に喚起されることが重要なのだ。

 明日こそは金閣が焼けるだろう。空間を充たしていたあの形態が失われるだろう。……そのとき頂きの鳳凰は不死鳥のようによみがえり飛び翔つだろう。そして形態にいましめられていた金閣は、身もかるがるといかりを離れていたるところに現われ、湖の上にも、暗い海の潮の上にも、微光を滴らして漂い出すだろう。……(『金閣寺新潮文庫 p.61)

 この一節が表明している露骨なプラトニズム的理想は、物理的な実体が「束縛」であることを端的に明言している。焼亡した「金閣」の「飛翔」が、感性的な「仮象」から理性的な「実相」への「超越」を意味することは歴然としている。「金閣」は超越的な「本質」として現象界の彼方に君臨し、その「本質」はあらゆる物理的実体の裡に、様々な偶有性と合しながら砂金の燦めきのように織り交ぜられることになる。

 しかし、幸福な秘蹟のように顕現した「破滅」の予告は、忌まわしい「終戦詔勅」によって絶息させられる。「共に滅び得る」という輝かしい期待は蹂躙され、「実相」と「仮象」との根源的隔絶が復旧する。この分断は溝口に致命的な絶望を齎すが、同時に「金閣」の超越的な美しさを高める要因としても機能する。

 私の心象からも、否、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった! あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝やいたことはなかった。

 誇張なしに言うが、見ている私の足は慄え、額には冷汗が伝わった。いつぞや、金閣を見て田舎へかえってから、その細部と全体とが、音楽のような照応を以てひびきだしたのに比べると、今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。

金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎりかわらぬ事態……。』(『金閣寺新潮文庫 p.81)

 焼亡の危殆を免かれた「金閣」は再び超越的実在の水位に回帰する。「金閣」は「現象界のはかなさ」(p.58)を免除され、普遍的な「本質」としての存在を再開する。しかも、こうして「流れるもの、うつろうもの」を一切含有しなくなった「金閣」の「堅固な美」は類例のない高みへ達している。現象界の側から眺めれば、超越的な「実相」は「虚無」に他ならない。「虚無」であるからこそ、それは現象界を超越した特権的で完璧な「美」を示すことが出来るのである。「実相」は決して肉体的な知覚によっては捉えられない。従って「実相」は肉体的=現象的な主体にとっては常に「虚無」として顕れる。両者の疎隔は「金閣」が「虚無」の位相へ復帰することによって齎されるのである。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)