サラダ坊主日記

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「超越」と「虚無」の相剋 中条省平「反=近代文学史」

 引き続き、三島由紀夫に関する評論を渉猟している。今回は中条省平の『反=近代文学史』(中公文庫)に就いて書く。

 中条氏は「三島由紀夫――〈外〉をめざす肉体」と題された本書の第七章において、三島由紀夫の文学に就いて論じている。

 自己の不確かさに苦しむ三島由紀夫は、自己を空間的、時間的に確定することになみなみならぬ執着をしめした。自己を空間的に確定するもの、それはいうまでもなく肉体である。(『反=近代文学史』中公文庫 p.203)

 三島のプラトニックで知性的な傾向を、彼の稀薄な肉体的感覚の反映と看做すことは、考察の有効な補助線である。プラトニズムの特徴の一つに、肉体的感覚の軽視が挙げられる。事実、プラトンが「パイドン」や「国家」において論じた内容によれば、感官による認識からの離脱は「哲学」の本義であると明瞭に定義されている。言い換えれば、生まれつき薄弱な肉体的感覚の持ち主であるタイプの人間にとっては、プラトンの提示する「実在=生成」「本質=偶有」の二元論的な構図は、実に馴染み易い思考の形式なのである。

 「肉体」という「不治の病」(「天人五衰」)は、その避け難い衰亡の懸念も含めて、明確に「時間」という「現象」の裡に存している。従って「肉体」が「現象の超越」を図るプラトニックな哲学的探究の最も尖鋭な敵対者であることは論理的必然である。極めてプラトニックな性質に恵まれながら、生成的な現象界へ参入することに絶えざる憧憬を懐き続けるという葛藤が、三島由紀夫という人格の果てしない振幅を形成している。彼の生涯は、相互に異質な「生成」と「実在」の両極を絶えず揺れ動き、往還し続けることで成り立っているのだ。

 自分が永遠に拒まれているという「悲劇的」な感覚の特権化は、三島のなかに、理解と参与が不可能な絶対的〈外〉という観念をもたらす。そして、この絶対的〈外〉は、理解不可能であるがゆえに、思いもかけぬやりかたで自分のもとを訪れるかもしれないという期待を生みだす。(『反=近代文学史』中公文庫 p.210)

 中条氏の論じる「悲劇的な感覚」は、例えば「金閣寺」における決して開かない究竟頂の扉を想起させる。「理解と参与が不可能な絶対的〈外〉」という表現を、プラトンの語彙に置換するならば、恐らく「イデア」(idea)という観念が適切だろう。事物の「本質」そのものである「イデア」は、肉体的=現象的な存在である生身の人間には決して触れることの出来ない超越的な対象である。それは専ら「理智」或いは「想像」の力によって把握される。

 しかしながら、三島の貪婪な野望は「イデア」という形式でしか存在し得ない完璧な事物に、肉体的=現象的な認識を通じて到達したいという不可能な夢想を患っていたのではないだろうか? 彼の比類無い知性が描き出す「理念」としての完璧な美しさに、飽く迄も肉体的な感覚を通じて接触しようと試みること、この超克し難い矛盾への過度な執心が、三島由紀夫という独特な個性を形作る礎石の役目を担っているのではないか。

 例えば「心象の金閣」と「現実の金閣」との対比は、そのままプラトニックな「実在」と「生成」との対比に照応している。「心象の金閣」は、理念的な存在であるがゆえに完璧な美しさを保持している。その理念的な美しさに、感性的な現実の世界において邂逅したいと希うことが、溝口の欲望の枢要を成している。若しも溝口が純然たるプラトニストであったならば、少しも美しくない「現実の金閣」のことなど歯牙にも掛けず、徹底的に「心象の金閣」の幻像に耽溺していればよかった筈だ。本来、感覚によって捉え難い「イデア」を、肉体的な感官を通じて「現象界」の裡に見出そうとする強烈な欲望は、プラトニストの特質ではない。

 薄明の色に混濁する生と、壮麗な夕焼けの記憶。薄明のようにさだかならぬ生とは、自己の存在の不確かさを終生病みつづけた作者そのひとの生であり、「比びない壮麗な夕焼け」とは、詩篇「凶ごと」の「夕焼」と同じく、ついに実現しない絶対的〈外〉の顕現である。金閣寺の放火、炎上が、この「比びない壮麗な夕焼け」の記憶の再現の試みでなくて、いったいなんであるというのか。(『反=近代文学史』中公文庫 p.214)

 この中条氏の見解に関して、私は同意を留保する。金閣寺への放火は「比びない壮麗な夕焼け」の記憶を再現する為の蛮行ではない。金閣寺が「比びない壮麗な夕焼け」を「私」に向かって開示せず、しかも絶えず「私」の現象的な実存を妨げ、褪色させる禍々しい権威を誇示していることは、小説の全篇に亘って精細に縷説されている。溝口が柏木に向かって「美は怨敵なんだ」と口走る場面を想起すれば、金閣寺への放火が「比びない壮麗な夕焼け」の再現ではなく、寧ろその徹底的な「根絶」を意図していることは明瞭であるように思われる。

 〈外〉と〈内〉をつなぐ肉体という縁。肉体という縁を媒介にすれば、絶対的な〈外〉と精神の〈内〉をつなげることが可能かもしれない。〈外〉に属しながら〈内〉を堰きとめている表面としての肉体の発見。『金閣寺』の主人公もまた、自分の「内界と外界が吹き抜けになる」ことを夢みていたが、彼がまだ肉体を発見していない以上、それは不可能な夢だった。(『反=近代文学史』中公文庫 p.220)

 到達し難い「イデア」と不確かな自己の内面との間に「肉体」という架橋を築く為に「筋肉の形成=教養ビルドゥング」(p.220)が要請されるという論述は、余りに粗雑な見解ではないだろうか。プラトニズムの論理に照らせば、超越的実在としての「イデア」に肉体を通じて接触することは不可能である。幾ら筋肉を鍛えても、それが超越的な絶対者の到来を容易にすることは有り得ない。

 理念的な実在、つまりプラトニックな意味を賦与された不可視の「実在」に、肉体的感覚を通じて触れたいと希求するディレンマが、三島的な論理の核心であるとするならば、その最終的な到達点は、如何なる命題によって表現されるのか。言い換えれば、無時間的な「実在」に対して、時間的な「生成」は如何なる接点を持ち得るのか。端的に言って、時間的な存在が無時間的な領域へ移行する為には「死」を選ぶ以外に途がない。死者は時間を超越し、一つの超越的な「実在」に転じる。しかし、単なる物理的な死は、時間的な現象の一部に過ぎない。死者が超越的な「実在」の位相へ移行する為には、その死者を一つの超越的な「実在」として認知し、記憶する「証人」の存在が不可欠である。言い換えれば、死者は記憶されない限り、超越的な「実在」の位相に留まることが出来ないのである。

 そう考えるならば、あの大作「豊饒の海」の末尾において、正に生粋の「証人」である本多繁邦が、長い物語の涯に「記憶もなければ何もないところ」に到達する場面は、超越的な「実在」への移行が、根本的に不可能であることを暗示しているように思われる。少なくとも「不可能である」という絶望的な認識が語られているように聞こえる。その絶望は「究竟頂の拒絶」が齎したものと同型である。プラトニックな欲望の蹉跌、それが索漠たる日常への回帰というニヒリスティックな実存への転回を促す。極めて粗雑な見取り図だが、三島の抱え込んだディレンマとは要するに「プラトニズムとニヒリズムとの絶えざる相剋」ではないだろうか。

反=近代文学史 (中公文庫)

反=近代文学史 (中公文庫)