サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(三島由紀夫と神秘主義)

三島由紀夫の作品を踏破する計画を中断して、最近は専らプラトンの『国家』(岩波文庫)を読んでいる。

 その合間に不図、バートランド・ラッセルの『哲学入門』(ちくま学芸文庫)を捲りながら、偶然にも次のような一節を見出したとき、直ぐに脳裡を過ったのは三島由紀夫のことだった。

 こうしてプラトンは超感覚的な世界、私たちになじみの感覚の世界よりも、はるかに実在的な世界にたどり着く。それは変化することのないイデアの世界であり、その反映としてのみ、感覚の世界は色あせた実在性を持つことができる。プラトンにとって真に実在するのはイデアの世界なのである。なぜなら感覚される世界内のものに関して何を言おうとしても、私たちに言えることは「それはこれこれのイデアに与る」ということ、それゆえ「それが持つ諸々の特性はすべてイデアからなる」ということだけだからである。ここから神秘主義へとなだれ込むのは非常にたやすい。神秘的な光の中で、感覚の対象を見るときのようにイデアを見たいと望み、さらにはイデアは天に存在する[exist in heaven]と想像することもありうる。こうした成り行きは非常に自然だが、しかし理論の基礎はあくまで論理にある。そして私たちが考察すべきなのも、論理に基づくものとしてのイデア論なのである。(バートランド・ラッセル『哲学入門』ちくま学芸文庫 pp.114-115)

 例えば「金閣寺」において、溝口という若い寺僧が「心象の金閣」の美しさを「目に見える」形で体験したいと願うのは、彼の神秘主義的な性向を傍証していると言えるだろう。理論上、感覚を超越した事物の「実相」(eidos)を、飽く迄も何らかの感覚を通じて把握しようとする逆説的な試みが、所謂「神秘主義」(mysticism)の本質である。言い換えれば三島は、絶対的な「超越」が論理的な「観想」の領域に留まることを承諾しなかったのだ。彼の貪婪な野望は、理論的な「実在」を知性的な仕方で把握するだけでは満足しなかった。「空飛ぶ円盤」や「宇宙人」が登場する「美しい星」は、三島の文学的系譜においては異色の作品であると看做されがちだが、それは三島の内なる神秘主義的欲望の例外的な明示であるという意味で異色なのであり、必ずしも彼の実存的本質から逸脱したものであるとは言えないように思う。「超越的存在の感覚的把握」という困難な要求(それはプラトンの精緻な論理的考究からの飛躍である)は、三島にとって終生の切実な「希望」であったように思われるのだ。

 だが、三島由紀夫という人格は非常に多面的で、複雑な矛盾を孕んだ個性である。根強い神秘主義的な性向(「貧弱な肉体」から離脱して、超越的な「実在」に触れたいという願い)と共に、彼の内部には剣道やボディビルを通じた「肉体的充実」への欲望も宿っていた。良くも悪くも、彼は肉体的な(つまり、それは「生成的」且つ「現象的」であるということだ)実在の感覚に強い執着を懐いていたのだと思われる。しかし、それは固より困難な生の様式である。絶対的なものに強く憧れながら、絶えず相対的な「肉体」に固執するという矛盾は、深刻な懊悩を彼に強いただろう。「生きることの意味」を絶えず希求するのは、誠実な人間の生得的な欲望である。彼は絶対的なものへの憧憬や、肉体的な実在感への固執を通じて、内なる虚無的な認識(この世界は純然たる偶然の集積に過ぎない)を破壊しようと企てた。それが成功に帰着したのかどうか、私にはよく分からない。要するに彼は「他者の視線」に過剰に依存していたのではないか。他者の承認を求めることが、自己の内なる「虚無」に「生きることの意味」を充填する作業と密接に関連していたのかも知れない。

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)