サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「思想」の多様性 / 「真理」の複数性)

プラトンの対話篇に疲弊して、彼是と言い訳を弄しながら、三島由紀夫の小説の読解へ復帰したのに、何だか見苦しい遁走を図ったような後ろ暗さが否めず、結局鞄の中に「テアイテトス」の文庫本を舞い戻らせた。プラトンの哲学が命じる観照的な「徳性」の規範には到底従えないが、だからと言って、古今東西の数多の賢人たちの遺した思想的遺産の渉猟自体を途絶するのは、聊か性急で偏狭な振舞いであると思い直したのだ。

 プラトンが「哲学」と呼ばれる特異な思想の領域を開拓したことは歴史的な事実である。その独創性が後世の文明に及ぼした影響の大きさは計り知れない規模に達している。恐らくはピュタゴラスから受け継いだと思われる「霊魂の不滅」という学説は、イスラム教やキリスト教の壮麗な神学的体系の礎石を成している筈である。だが、こうした巨大な業績を理由に、所謂「哲学」という言葉の含意を、プラトニックな思惟の体系に悉く還元してしまうことが生産的な判断であるかどうかに就いては、議論の余地がある。勿論、狭義の「哲学」をプラトニズムと等号で連結することは妥当な措置であると言えるだろう。しかし、厳密な思考の埋蔵する価値を、プラトニックな「観照」の特権として独占するのは適切ではない。

 通俗的な意味で「哲学」の書棚に分類されている古典であっても、その総てがプラトンの学説に賛同している訳ではないし、錚々たる顔触れの著者たちが一様に「事物の本質の観照」というピュタゴラス的な実存の様式を、人間の理想として讃えている訳でもない。プラトンの講じる「哲学」に納得し得ないという主観的な事実は、必ずしも「哲学」を含む「思惟」一般の価値を認めないという判断には帰着しない。重要なのは、多様な思想に触れて、自己の視野を拡張し、深みと奥行きを与えることだ。

 無論、小説を読解することもまた、一つの思想に触れることに他ならない。プラトンは対話篇「国家」において、詩人や画家の仕事を糾弾した。それはプラトンの志向した厳密な「整合的論証」の対極に位置する曖昧で不完全な事業と看做されたからである。けれども、芸術家の眼力が時に人間の実存的側面に対して発揮する分析の鮮烈な鋭さは、歴史的に認められた事実である。確かに芸術は、事物の本質的な要素を限定せず、そもそもプラトンの排斥した「感覚」に根深く依拠している。従って芸術家の抱懐する認識は、プラトニックな論証の強度には遠く及ばない。しかし、それが直ちに芸術の無力を意味するだろうか。人々の感情に訴求することは、プラトンにとっては悪しき行いである。何故なら、彼の追究する整合的論証の世界においては、人間の感情は如何なる有用性も発揮せず、その特性は完全に不要であるからだ。だが、整合的論証に感情が不要だからと言って、感情に依拠した振舞いの総てが人間的な「徳性」(arete)の規範に反するものだと断言するのは正当な言明だろうか。

 プラトンの創始した「哲学」の範型は「数学」の分野に求められる。数学的な正しさは、科学的な正しさとは異なり、実験や観察を通じて得られる「センスデータ」(sense data)を論証の根拠として用いない。それは専ら「ロゴス」(logos)の内在的で自己完結的な規則に基づいて論証を成し遂げるのである。こうした認識を踏まえれば、プラトンが正当な「知識」(episteme)から感覚的な要素を排除した理由も明瞭になる。プラトンの開創した学園「アカデメイア」が、幾何学の素養を持たない者の入門を許さなかったという伝承も、こうした事情と符節を合している。問題は、プラトンの整合的論証が果たして「正義」や「節制」といった社会的=倫理的な事象にも適用することが可能かどうかという点に存する。数学における合理性と、人間の実存における合理性とは必ずしも同義ではない。数学の領域においては「尤もらしさ」(eikos)は不完全な論証を意味するだけだが、我々の生活においては寧ろ、厳密な論証よりも「尤もらしさ」の方が実践的な有用性を認められている。ソフィストの「詭弁」に対するプラトンの執拗な批判は、彼らの駆使する「弁論術」(rhetorike)に厳密な論証的性質を与えようとする企図に基づいているが、そのような「ディアレクティケー」(dialektike)への志向が、感覚的な生成界に対しても適用し得るかどうかは極めて疑わしい。だからこそプラトン自身も、感覚的な「謬見」(doxa)を思惟の領域から排除することに躍起になったのだろう。感覚的認識は、合理的な論証を妨げる危険な障碍でしかない。従って「肉体」を排除したとしても、彼の夢見る「整合的論証」(proof)は失われない。

 だが、そもそも人間が実際に「整合的論証」を実行するのは、生成的な時間の裡において、有限なる肉体を駆使しながらではないのか? こうした疑念は、例えば「肉体」と「霊魂」の有機的な合一を信じるエピクロス=ルクレーティウスの系譜から提起され得るだろう。言い換えれば、プラトンにとって「霊魂の不滅」というピュタゴラス的な学説は、単なる宗教的な信仰に留まらず、その「主知主義」(intellectualism)の存立を支える不可欠な要素なのである。霊魂が肉体を超越していなければ、整合的論証もまた、その無時間的な正当性を維持することが出来なくなる。

 逆に言えば、霊魂と肉体の有機的合一を前提としたとき、整合的論証は如何なる処遇を与えられるのだろうか? それが普遍的な正当性を持ち、如何なる生成的条件にも規定されずに自存すると言い切ることは、可能だろうか? 誰かが実際に「論証」を実現しない限り、その論証を通じて発見された「真理」は存在しないのではないか? 例えばピュタゴラスによって発見される以前にも、この世界には「三平方の定理」が確実に存在したと言えるのだろうか?

 恐らく数学的実在論は、ピュタゴラスの存在や行為に関わらず、この世界には絶えず「三平方の定理」が存在してきたし、これからも存在し続けると明言するに違いない。だが、数学という巨大な抽象的体系は本当に、普遍的だが未知の状態に留まっていた「真理」を発掘したのだろうか? それは飽く迄も「真理」の「創出」ではなく「現前」であると、実在論の信者は主張するだろう。そのように考えることが、数学的体系の発展に寄与するならば、たとえ実在論が虚偽であったとしても、それは生産的な「擬制」であるということになるだろう。しかし、数学的観念が客観的な実在であるという証拠は何処にあるのだろうか? それは人間の生成的=現象的な発明ではないのか?

 普遍的な「真理」の実在を認める為には、人間は必ず超越的な絶対者の介入を要請しなければならない。一般に「神」と称される超越的絶対者は、その存在が仮に不可知であったとしても、それを実在として前提することで、この世界の全体に「ロゴス」(logos)を行き渡らせるのである。この世界が本質的に「合理的なもの」(rational)であると信じない限り、普遍的な「真理」の実在を認めることは不可能である。尚且つ、この場合の「合理性」(rationality)は、世界の全体を漏らさず包括する単一の規則として定義されなければならない。言い換えれば「超越的絶対者=神」は単独でなければならない。若しも「神」の複数性を認めるならば、この世界の全体を包括する普遍的な「真理」への信仰は断念されねばならない。

 だが、そもそも普遍的な「真理」とは何なのか。常に変異することのない確定的な事実というものが、この世界には有り得るのだろうか。プラトンは「イデア」(idea)をそのようなものと看做した。それは事物の本質的要素、つまり生成変化することのない普遍的要素の純化された形式である。しかし「イデア」が実在すると断言することは可能だろうか? それは知性的思惟を通じて把握されるという。だが、人間の知性がそもそも「肉体」に根差した相対的な機能に過ぎないとしたら、それが捉える対象としての「イデア」が、普遍的な「実在」であるという証拠は何処にあるのだろう? それが知性によって構成された「被造物」である可能性を、厳密に排除することは可能だろうか?

 また「真理」が「変異しない事実」であると仮定した上で、それが未来永劫に亘って「変異しない事実」であり続けると考える根拠は何処にあるのだろうか? 変異するもの、即ち「生成するもの」は「実在するもの」ではないから「真理」の名に値しないという理路は明晰だが、そもそも「生成するもの」の一切を除外した上で猶も残存する「変異しない事実」とは何だろうか? 例えば、数学における「自然数」(natural number)は、生成的な現象とは無関係に、普遍的な「真理」として自存し続けると言えるのだろうか? けれども、それが生成界の原理に拘束されず、普遍的な自存を保持し得るのは、そもそも「自然数」が人工的な「規約」であり、人間の知性に由来する抽象的な「被造物」だからではないのか。言い換えれば「自然数」が生成変化を免かれているのは、それが最初から実在していないからではないのか? プラトンが「実在」であると信じるものこそ、本当は人為的な「仮象」(appearance)なのではないか。

 若しも「自然数」が人為的な「仮象」であるならば、それが知性の規則である「論理」(logos)に従属するのは必然的な帰結である。だが、人為的な被造物ではないもの、例えば我々の存在を囲繞する無限の「宇宙」(universe)或いは「自然」(nature)が、必ず人間の「論理」に従属する保証が何処にあるだろう? 例えばエピクロス=ルクレーティウスの提唱する「クリナメン」(clinamen)の概念は、プラトニックな「論証」に亀裂を走らせ、普遍的な「真理」という理念を倒壊させるだろう。そもそもプラトンの議論は、人間の肉体的な機能の一環である「知性」に極めて過分な権威を授けているのではないだろうか(尤も、プラトン自身は「知性」を「肉体」から切り離して捉えている)。

 私は決して「論証」の価値を毀損しようと考えている訳ではない。問題は、森羅万象を首尾一貫して説明し得る包括的な「真理」の実在を認めるかどうかという点に存する。言い換えれば、我々の見出す現実的な「真理」は常に局所的で有限なものであり、未来永劫に亘って変異せずに自存することは不可能であるということだ。エピクロスが「感覚」に「認識」の根拠を求めるのは、恐らく「論理」の自己完結的な性質を棄却する為であろうと思われる。プラトンは、所謂「自然科学」が取り扱うような対象を悉く排斥し、純然たる「論証」の力だけで定義し得る事物に限って思惟の対象に据えた。プラトン倫理学的規範は、そのような「論証」への絶対的忠誠の裡に根拠を置いているという意味で、万人に妥当する普遍性を欠いている。総ての人間が「論証」だけに精励している社会など、瞬く間に崩壊するに決まっているではないか。彼は純然たる「霊魂」へ化身することを奨励し、専ら「知性」の権威を重んじた。対話篇「国家」で語られる理想的な社会において、彼は「哲学者」による統治の夢を語っているが、その夢想を共有することに、私は個人的な拒絶を示さずにはいられない。

国家〈上〉 (岩波文庫)

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国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

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エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

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物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

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