サラダ坊主日記

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プラトン「ティマイオス」に関する覚書 4

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」の後半における物質の組成に関する聊か煩瑣な議論は、プラトン宇宙論と自然観が極めて宗教的で合理的な性質を孕んでいることを雄弁に物語っている。彼の物語る詳細な理窟は、経験的な観察の上に成り立っているが、それは物理的な実証を伴っている訳ではなく、寧ろ事前に構築され定められた「神話的思考」の秩序に即するように演繹されている。彼は純然たる知覚的な観察から帰納的に物事の真理や本質を抽出するという手法を駆使しているのではなく、専ら事前に構築された神話的な秩序を補強する為に、つまり予め決定された筋書きと矛盾しないように、経験的な事実を取捨選択し、それを自らの「自然」に関する理論的な枠組みに当て嵌め、代入しているのである。

 経験的な事実の背後に、容易には捉え難い何らかの神秘的な秩序が存在するという期待を持つことは、あらゆる人間的知性の駆動の端緒となる考えである。この点に関しては、知性的な探究を志す者は誰であっても、その理論的な立場の相違に拘束されることなく、共通の合意の上に立脚して自らの思惟に精励していると言える。けれども、この「ティマイオス」において開示される神秘的な宇宙論は、経験的な現象の累積から、共通する普遍的な規則を慎重に取り出そうとする謙虚な姿勢とは全く合致していない。彼の宇宙論は、根拠の曖昧な複数の「公理」から出発して、半ば強引に辻褄を合わされ、その結果として独創的な「幻想」を描き出している。この「幻想」は殆ど宗教的な神話に等しく、理論的な解釈を通じて真摯に吟味されるべき対象であるというよりも、専ら情熱的な「信憑」によって嚥下されるべきものとして読者の眼前に提示される。

 恐らくプラトンの関心は、生成する事物の精密な観察や分析には向けられていない。パルメニデスピュタゴラスといったイタリア学派の思想的系譜を受け継ぐ彼の視野において、感覚的に確かめられる個物の多様な形態は、真摯な思惟の対象には値しない。彼が重んじるのは専ら、純然たる理性的認識としての「ロゴス」(logos)であり、その「ロゴス」の自存的な連鎖と構造の帰結なのである。この「ロゴス」は感覚的で経験的な事物の振舞いによっては規制されず、改訂されることも有り得ない。寧ろ「ロゴス」に従ってあらゆる事物は自らの動きを統制しなければならないのである。何故なら、この世界の一切は、デミウルゴスによって創出された「被造物」であり、生成する事物は悉く超越的な設計図に依拠して構築されているのだから、経験的な事物が超越的な設計図の規範を超越することは原理的に有り得ないのである。彼にとって、感性的な領域における事物の個別的な振舞いは、思惟の副次的な対象に過ぎない。超越的な設計図の不完全な模倣に過ぎない感性的事物の演じる「現象」(phenomenon)を幾ら入念に観察し分析してみたところで、その結果として得られる法則性の認識が「真理」に合致する保証は何処にも存在しない。自存的な「論理」の要求する必然的な展開と帰結に従うことだけが、思惟の本質的な働きであり、どれだけ空理空論に見えようとも、経験的な事実に反する内容であろうとも、諸々の「公理」が要求する普遍的な「帰結」(corollary)だけが優先的に支持されなければならないのである。

 所謂「科学」は、主として経験論的な領域を取り扱う知性的探究の営為である。他方、プラトンの論じる哲学的な主題は原則として、経験論的な領域には含まれない不可知の分野に属している。彼の思惟は経験論的な現象の仕組みを解明する為に推進されるのではなく、一般に「形而上学」(metaphysics)と呼ばれる、知覚的な認識の及ばない領域に関する思弁的考察の為に捧げられている。形而上学の取り扱う主題は、経験的な観察によって観測することの出来ない対象であり、従って我々が活用し得る手段は精緻な「推論」(deduction)に限定されている。それは物理的な証拠を持たず、専ら推論の過程の妥当性に基づいて公共的な信頼と承認を確保する。プラトンが経験的な観察や実証に依拠せず、専ら「言論」の力を用いる「問答」(dialektike)を通じて「真理」に到達することを称揚するのは、推論の過程の正しさだけが結論の正しさを保証すると看做し、感性的な認識を「ノイズ」(noise)として斥けているからである。こうしたプラトンの思惟が極めて数学的な「論証」(proof)の形式に類似していることは明瞭な事実である。「ティマイオス」を通じて披歴された彼の宇宙論は、経験的観察の成果を累積し要約するものではなく、純然たる「論証」と感性的な世界との「照応」(correspondence)を強調する為に綴られている。理性的な「実在界」と感性的な「生成界」との「照応」を立証することは、言い換えれば、彼の「論証」が単なる観念の遊戯ではないことを訴えることに等しい。両者の「照応」が成立しない限り、プラトンの精緻な議論は実践的な効力を発揮することが出来ないからである。感性的な認識を「謬見」(doxa)として排斥するだけでは、彼の理論は経験的な現実に作用する為の具体的な「回路」を獲得することが出来ない。

 両者の「照応」が成り立つ限りにおいて、精細な「論証」への執拗な熱中は、プラトンの「知」の特権的な威光を約束する。徹底的に磨き抜かれ、如何なる瑕疵も含まぬほどに鍛えられた美しい「論証」はそのまま、経験的な現実に関する個別的な観察を一蹴し、絶対的な「正しさ」を形成するだろう。一つ一つの断片的な観察の成果に惑わされて、それらの総てを包摂する理論的な枠組みを提示し得ない憐れむべき人々に対して、プラトンの輝かしい「論証」は超越的な影響力を発揮するだろう。しかしながら、こうした振舞いそのものが、厳密な学術であるというよりは、遥かに宗教的な「知」の体系に近似しているという事実は否み難い。彼の精密な論証の正しさが、何らかの結論の正しさを証明するとしても、それは或る限られた体系の内部においてのみ適用され得る正しさではないのか。その限定された知的体系は、幾つかの普遍的な公理を認めることによって初めて参入し得る閉域である。従って、その閉域の正統な権威を認めない人々の眼には、どれほど精緻な推論によって織り成されていようとも、特定の公理から純然たる演繹によって導き出された学説は、欺瞞的な偏見として映じる虞がある。そうした事態を避ける為に、彼は超越的な「イデア」を、下界の多様な個物の裡に「臨在」(parousia)させようと試みるが、その手続きが直ちに「実在/生成」の相互的な「照応」の事実を証明することに帰着するとは言い難い。この世界が超越的な秩序に従って合理的に設計されているという信仰自体が、不可知の根拠に基づいて組み立てられた、一つの先験的な公理なのだから、その公理自体を頑強に否認する者にとっては、合理的認識が必ず経験的認識と相関するというプラトンの言い分こそ、紛れもない「謬見」(doxa)に他ならない。言い換えれば「ティマイオス」は、宇宙の生成に関する実証的な探究の書物ではない。それは宇宙の生成に関するプラトンの思想的な要請を描き出した一つの「神話」である。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本