サラダ坊主日記

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廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」に関する覚書 3

 廣川洋一の『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)に就いて書く。

 古代ギリシャを代表する思想家であり、所謂「哲学」(philosophy)の歴史の実質的な創始者と目されるプラトンは、自らの著述(対話篇「テアイテトス」)において、ヘラクレイトスの「万物流転」(panta rhei)の学説に触れ、プロタゴラスと共に、彼の思想が専ら「生成」に関する思惟の体系であることを強調し、批判的言及の対象としている。森羅万象が絶えざる流動の裡に置かれていることを告示するヘラクレイトスの思想は、イタリア学派の実在論の系譜を継承するプラトンの思想と、表面的な次元においては対立しているように見える。しかし、この対立は本当に宥和も超克も困難な問題であろうか? 寧ろプラトン相対主義に対する批判は、聊か戦略的な意図に基づいているように感じられる。彼はソフィスト的な「論争」を厳しく糾弾したが、それは必ずしも彼が「論争」の政治的効用を理解しなかったからではなく、寧ろ「問答」(dialektike)を通じて超越的な正しさに到達し、下界で営まれる煩瑣な論争の総てを一蹴し得る堅固な権威を獲得することを望んだからではないだろうか。不動の真理に依拠して正義を語る者には、銘々の個人的な信条を振り翳して方々を駆け回り、絶えざる口論に汲々とする衆生は度し難い愚者に過ぎない。

 だが、問題はプラトンの政治的威光の軽重ではない。私が知りたいのは、プラトン実在論ヘラクレイトスの経験論との対立という簡潔な図式の欺瞞的な性質だ。ヘラクレイトスが万物の相対的な生成に就いて語ったことは事実である。しかし、ヘラクレイトスが生成的な相対主義に就いて論じたからと言って、直ちに彼が超越的な規範に対する無関心の所有者であったと看做すのは、不当な言い掛かりに等しい。感覚に映じる地上的な事物が絶えざる流動と生滅の反復の裡に拘束されていることは、経験的な観察を通じて容易に得られる事実である。ヘラクレイトスは、それらの現象を支配する秘められた「ロゴス」(logos)の探究を重視した。それは確かに、プラトン的な意味で「生成」を「仮象」或いは「虚妄」として遇する過激な実在論の方針には必ずしも合致しない。プラトンは生成的な現象そのものを支配する原理に就いては、知性的な探究の欲望を示さない。虚妄に就いて論じることは貴重な時間の空費であるからだ。けれども、両者の対立は「実在/生成」の図式に即して語られ得るほど単純なものではない。何れの場合にも、経験される現象の「超越」を図ったという点に就いては、両者の探究の方針は一致しているからだ。

 この感覚に映じる肉体的な現象の一切を、そのまま「真理」であると看做すことが、幼稚な謬見であることは疑いを容れない。対話篇「テアイテトス」の過半を費やして、プラトンが徹底的な批判を試みたのは正に、そのような「知覚=知識」の等式に対する素朴な信憑であった。けれども、例えばヘラクレイトスの思想を包括的な仕方で「知覚=知識」の等式に還元することが適切な解釈であると言えるだろうか。刻々と生起する感覚的な認識だけが、その当人の思惟の総てを占めるような存在の形態は、成熟した人間に相応しいものではない。

 それゆえ、共通なるものに従わなければならない。しかるに、かのロゴスは共通なるものであるにもかかわらず、大多数の人間は自分だけの(私的な)智をもつかのように暮らす。(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 p.230)

 ヘラクレイトスの断簡に示された思想は、明らかに超越的な規範としての「ロゴス」の重要性を認めている。プラトンは「知覚=知識」の素朴な等式に附随する相対主義的な性質を批判したけれども、少なくともヘラクレイトスに関しては、彼がそのような幼稚な相対主義の信奉者であったと断定し得る根拠は存在しない。ただ、ヘラクレイトスプラトンのように「実在界」と「生成界」を並行させることには同意していない。彼の探究する「ロゴス」は、飽く迄も生成する森羅万象を統御する普遍的な規則であり、感覚的な事物から切り離されて自存する訳ではない。その意味で、ヘラクレイトスの思想が「生成」の哲学であることは明確な事実である。彼は万物の生成を統御する普遍的な規則の発見を、哲学的思惟の目的に据えた。ヘラクレイトスにおける「真理」の探究は、感覚的な現象そのものの「超越」(transcendence)を意味するものではなく、感覚的な現象の地平に立脚しながら、それらを支配する共通の法則を抽出することを意味するのである。彼は万物の「生成」を一つの端的な事実として承認した。それはパルメニデスによる「生成の否認」を継承するプラトンの眼には、不完全で老朽化した思想的遺産として映じたのかも知れない。

 ヘラクレイトスにとって「真理」とは「生成の規則」を意味する。彼は事物の永久的な同一性を認めず、それらの絶えざる流動を信じ、繰り返される生成の根本的な規約だけに同一性を賦与した。とはいえ、その規則が時間的遷移を通じて改訂される見込みは必ずしも排除されない。つまり、プラトンが「真理」を「普遍的実在」或いは「恒久的同一性」と看做したのとは対蹠的に、ヘラクレイトスにおける「真理」は、一定の有効期限を備えた規約に過ぎないのである。

 万人にとって同一のものたるこの宇宙秩序コスモスは、いかなる神も、人も造ったものではけっしてない。それはつねにあったし、今もあり、これからもあるだろう。それは常久とこわに生きる火であり、一定の分だけ燃え、一定の分だけ消える。(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 p.235)

 こうした見解もまた、プラトンの設計主義的な思惟とは対立するだろう。対話篇「ティマイオス」においてプラトンは、この宇宙を「デミウルゴス」(demiurge)による「イデア」(idea)の模倣の所産として説明した。完璧で無時間的な「コスモス」(cosmos)が、現に存在する流動的で生成的な「コスモス」に先行するという考え方は、ヘラクレイトスの現世的な思惟とは照合しない。「真理」を「生成」の過程から峻別しなければならないというエレア派の論理的要請に、ヘラクレイトスの思惟は拘束されていないからである。生成する現象の背後には、それらを差配する何らかの規約が存在するという考え方と、生成は感覚の生み出す虚妄に過ぎず、事物は恒久的な「実在」の相の下に配置されているという考え方との間には、決定的な背反が関与している。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)