サラダ坊主日記

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ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 5

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 パルメニデスが存在の本性に就いて明確で堅牢な定義を行ない、イオニアの自然哲学が擬人化された神々の物語に依拠する伝統的な世界観の排撃を目論んで、超越的な表象によるアナロジカルな理論を脱却し、自然界において見出される諸々の現象に内在する普遍的な秩序や規則を抽出する過程で、絶えず「生成」の観察や分析に明け暮れてきた事実を踏まえながら、それらが感覚的な謬見であり、一種の「虚妄」であることを明瞭に告示して以来、古代ギリシアの思想は重要な分岐点に直面することを強いられた。少なくともヘラクレイトスまでは、往古の自然哲学は生成的な現象に内在する規則を、感性的認識と理性的分析の両面から探究してきたが、エレア派の思想的革命は、そのような経験論的思索が虚しい遊戯としての側面を備えていることを声高に告発したのである。エレア派の主要な学者たちは、生成が錯覚であることを威風堂々と強調し、存在は如何なる意味でも生成を経験しないと断定し、存在と生成との有機的な統一を分断へ向かわせた。「理性=真理」と「感性=謬見」という明瞭で二元論的な図式が構築され、生成を「存在の変容」と看做す古典的な思惟の伝統は棄却された。

 恐らくエレア派の画期的な性質の淵源は「存在者」と「存在」との厳格な抽象的識別の裡に求められるだろう。無論、タレス以来の自然哲学においても、こうした区別は絶えず維持され、如何なる空虚の存在も含まない有限の完結的宇宙という理念は、ギリシア的な金科玉条として保全されてきた。だからこそ、ヘラクレイトスの「生成」という観念も「存在」という包括的な同一性の内部に閉じ込められることに異議を唱えなかったのである。個別的な「存在者」は無限に変容するが、根源的な事実としての「存在」そのものは不変であり、時間の遷移によって腐蝕されることも書き換えられることもない。従ってイオニアの自然哲学が堅持してきた「生成」の観念は、その多様な外貌に関わらず、常に「存在」という根源的な実体への服属を不可避の前提として備えていたのである。

 エレア派の齎した新たな提案は、そのような思想的系譜の更なる極端な純化であった。彼らは認識論の観点から、感性的認識の有する相対的な限界に就いて批判を試みた。経験論的な事実から、論理の力を通じて普遍的な実体を抽出する努力は、イオニアの自然哲学の歴史においても繰り返し継承されてきた思惟の作法である。多様な現象が根源的な同一性を保っていることに就いて、一般的には「生成」の哲学者であると目され、パルメニデスと対置されることの多いヘラクレイトスでさえも、原則として反駁は企てなかった。そもそも、多様な現象の裡に根源的な同一性を読み取ろうとする知的な格闘こそが、イオニアで生み出された自然哲学の最も重要で基礎的な原理なのである。千差万別であるように感受される無数の個別的な存在者の背後に、共通する要素としての「同一性」を探し求めることは、自然哲学の初歩に他ならない。「普遍」を問うことは、哲学的な探究の本質の一つである。

 けれども、イオニアの自然哲学が育んだ思想的な財産は、専ら「存在」という普遍性の内部で生起する感性的な現象の解釈を通じて涵養された。万物を貫く「同一性」に明瞭な形象を与えようとする知性的な努力が、自然哲学の本領であると言える。しかしエレア派の学者たちは、そのような「同一性」に何らかの感性的な表象(例えばタレスの「水」や、ヘラクレイトスの「火」)を賦与することは、一種の擬人的なアナロジーに過ぎないと考えた。万物を生成し、万物に変異する根源的な「存在」(例えばプラトンの「コーラ」という概念を参照されたい)に、特定の感覚的な性質を認めるのは論理的矛盾である。それ自体は如何なる感覚的特徴も帯びていない、最も抽象的な「存在」の構造に就いて考えてみなければならない。こうした理論的要請は自ずと感性的認識の欺瞞的な性質に批判の矛先を向けることになるだろう。存在の同一性に就いて考える為には、如何なる感覚的表象にも依拠しないという原理的な変更が不可欠である。現象を現象によって説明することは出来ても、存在そのものを現象によって定義することは出来ない。それは「存在者」と「存在」との認識論的な識別を抹殺し、両者の径庭を超越することに等しいからである。

 純然たる知性的思惟を通じて、人間は「存在者」の代わりに「存在」という概念を創出する。それは感覚を通じて把握し得る個別的な現象ではなく、潜在的に想定される理性的な想念である。この観点に立脚すれば、万物の「始原」(arkhe)=「存在」を特定の「存在者」に帰着させようとする累代の自然哲学の発想は総て否定され、無効化されることとなる。「始原」は如何なる個別的な特性にも偏らず、万物の多様性を丸ごと包摂する。従って「始原」は特定の要素に固着する資格を定義上、剥奪されている。それは感覚的な形状を持たず、視覚や聴覚や触覚といった局所的な視野を通じて把握されることがなく、専ら理智的な推論によって見出される。

 それならば、我々の感覚に映じる多様で豊饒な現象に関して、我々は如何なる態度を以て接すれば良いのだろうか。現象が悉く感覚の機能によって捏造された精緻な錯覚に過ぎないのだとしても、万物を不可視の「始原=存在」に還元するだけでは、思惟の成果は我々自身の実際的な生活に役立つことがない。パルメニデス的な実在論は、言い換えれば新たな宗教、新たな超越的表象の導入を意味しており、しかもそれは地上的な生成の原理に対する徹底的な批判と蔑視を含んでいる。イオニアの自然哲学が、擬人的な神話を排除し、地上の現象を天界の神々の腥い振舞いに置き換える類推的思考からの脱却を意図したものであることは明確な事実である。古来の神話的思考との訣別は、事物の振舞いに就いて、超越的な表象に基づくアナロジカルな解釈を施すことを禁じる。その代わりに、イオニアの自然哲学は万物の構造や秩序に関して、自然の裡に内在する原因を探究した。雑駁で豊饒な地上的現象を、別種の地上的現象との聯関によって説明することで、擬人化された神々の物語を認識の現場から放逐したのである。それは超越的な神々による「存在の創造」という筋書きの棄却を意味する。地上の出来事は、神々の振舞いのアナロジカルな反映ではなく、それ自体に内在する秩序や法則に基づいて生滅を繰り返す。

 こうした自然哲学の累積された功績を、パルメニデス的な実在論は排斥することになる。生成は感覚的な謬見に過ぎず、この宇宙は有限の同一性の内部に残らず包摂されている。そのとき、擬人化された神々の代わりに、如何なる特定の個性も持たない匿名の一神教が創出されるだろう。それは多神教的な個性、人間社会の反映であるような個性を備えた神々の観念を破壊する。神は万物を包摂し、宇宙そのものの化身として存在し、個別的な存在者は神の一部として形成され、同時に滅び去る。このような従来の考え方から「時間」の観念を剥奪することによって、エレア派の理論は生み出される。ヘラクレイトスの「生成」から「時間」の観念を抜き取ることによって、パルメニデスの宇宙は完全なる不動の「一者」として確立される。無時間的な認識の下では、生成の具体的な内実に関わらず、存在の根源的な同一性は絶えず完璧に成就されている。感覚的認識が謬見であるということは、言い換えれば、感覚的認識を通じて把握される事物の多様性そのものが無意味な虚妄に過ぎないということを意味している。感覚を通じて享受される事物の多様性は、根源的な同一性の遊戯的な表象に過ぎず、それ自体に固有の価値が備わっている訳ではない。地上的な生成の現況は、善悪の価値を持たない。善行も悪徳も同じ楯の両面に過ぎない。時間の遷移を停止させてしまえば、そのような虚妄に惑わされる不毛な事態は直ちに解消されるだろう。ここから「死」を「恩寵」として遇する宗教的な考え方が析出される。無時間的な観点に立脚すれば、世界は直ちに完璧な同一性を恢復するのである。

 パルメニデス的な実在論は、経験論的な認識の探究を無効化するだろう。感覚的な認識が悉く虚しい謬見に過ぎないのであれば、イオニア的な自然哲学の努力は精緻な徒労以上の価値を持たなくなる。そして、パルメニデスの思惟に従う限り、我々に必要なのは一切の感覚的謬見から脱却することであり、如何なる具体的な探究も無益であるという事実を悟ることである。言い換えれば、彼は認識そのものの廃絶を倫理的な要請として提唱しているのである。地上的な認識は如何なる意義も持たず、その内部において倫理的な規則を論じることは不毛な企てである。地上的な相対性を、超越的な同一性によって回収することで、パルメニデス的な実在論は「彼岸」の価値を一挙に高騰させる。有限で完結的な宇宙という伝来の固定観念は、パルメニデスにおいて極限まで純化され、あらゆる生成が「存在の変容」であることを踏まえながら、彼はその変容が無時間的な理性を通じて否認される運命にあることを強調している。存在は不生不滅であり、如何なる時間的制約からも自由であり、万物を包摂しており、それゆえに恒常的な同一性を保持している。こうした認識は、言い換えれば認識の停止であり、終結であり、揺るぎない「真理」への回帰である。パルメニデスの思惟に基づいて生きることは、極端なニヒリズムを齎すだろう。そのとき、万物は等しく同じ価値の紐帯で結ばれ、あらゆる分別は任意の選択以上の意味を持たなくなる。絶対的な同一性の措定は逆説的な仕方で、純然たる相対性の曠野を出現させるのである。パルメニデスの自由は、地上的な価値の一切を要約し、同一視することで形成される。その認識の畏怖すべき「フラットネス」(flatness)は、現存的な個体に固有の価値を悉く鏖殺するのである。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)