サラダ坊主日記

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ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 6

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 レウキッポスとデモクリトスによって創始された古代ギリシアの「原子論」(atomism)が内包する最も重要な画期性は、その宇宙論が「空虚」及び「無限」の観念を導入したという点に存するように思われる。

 ジャン・ブランはピュタゴラスの信徒たちが語る数理的秩序の性質に関して、それが単位数の累積や総和ではなく、包括的な同一性の分割として形成されることを指摘している。そうした記述と符合するように、原子論者の齎した思想的な転回は、包括的な同一性の分割としての「生成」を否定し、分割不可能な基礎的単位数としての「原子」(atom)の結合や分離として、我々の住まう宇宙の現象を説明しようと企図した点に存する。言い換えれば、彼らは古典的な「現存/存在」の精妙で抽象的な区別を破棄したのである。個別的な「存在者」は総て、根源的な「存在」の変容した形態であり、従って万物は基本的に同一の要素で組み立てられている。同時に古代ギリシアの伝統的な観念は、宇宙の総体を完結的で有限なものとして定義しており、根源的な「存在」の外部を想定しない。

 「現存/存在」の二重性は、超越的な「一者」の分割として万物が生成されるという古典的な考え方の裡に明瞭に示されている。こうした認識が成立するのは、万物を包摂する宇宙が画然と閉ざされているという公理に依拠しているからである。有限で単一の宇宙という通説が、個別的な「存在者」の生成と生滅を、根源的な「存在」の変容の過程として捉える根拠を形作る。根源的な「存在」は、プラトンが対話篇「ティマイオス」において提示した「コーラ」(chora)の概念のように、宇宙の隅々まで浸透しており、あらゆる現存的個体の存在そのものを成立させている。この閉ざされた宇宙は定義上、如何なる意味でも実体的な外部を保有しない。この宇宙の外部には無限の「虚無」が広がっていると推測されるが、パルメニデスの理論によれば、こうした「虚無」は原理的に思惟や言表の対象ではないので、考察に値しない。

 原子論者の齎した知性的な革命は、こうした宇宙の完結性の否認に基づいている。彼らはパルメニデス的な「実在」の充満する宇宙に「空虚」(kenon)と呼ばれる非存在の領域を導入すると共に、揺るぎない「実在」の単一性という観念を排斥して、それを無数の砕片に分割した。打ち砕かれた複数のパルメニデス的な「実在」と、純然たる非存在としての「空虚」を統合することによって、彼らは「現存/存在」の二項対立を抹消し、包括的な世界観の創出に著しく貢献したのである。

 こうした考え方は、世界を理性的秩序と感性的秩序とに区分するエレア派の論理、及びその思想的遺産を継承したプラトンの論理と鋭く対立する。原子論者は宇宙の重層性を否定すると共に、その有限性及び完結性も否認する。また、超越的な表象によって現存的な個体の振舞いを説明することにも反対する。イオニアの自然哲学が積み重ねてきた自然の内在的秩序という考え方を、原子論者は極限まで推し進め、超越性に頼らない思惟と分析の方法を提示したのである。

 明確に規定された境界線の内部に自閉する宇宙という構想の排斥は、宇宙の有限性、完結性、単一性、閉鎖性の否定を伴う。代わりに彼らは極微の分割不能な基礎的単位としての「原子」の離合集散として、この世界の生成的現象に就いて語る。ヘラクレイトスやアナクサゴラスもまた、事物の離合集散に就いて語ったが、彼らは宇宙の有限性と完結性を信仰しており、従って「生成」は常に「存在の変容」として説明されるに留まった。原子論者は「単一の完結的宇宙」という理念を棄却することによって、この世界を純然たる「生成」の場として開放したのである。原子論的な「生成」は、隅々まで充実した「存在」の表層的な「変容」とは異なり、絶えず「空虚」との複合を伴っている。従って原子の運動は有限の根源的な同一性の「変態」ではなく、無数に分割された同一性の砕片の自在な離合集散として定義される。「空虚」が導入されたことによって、宇宙は無限に膨張し得る存在と化し、その辺境の所在は不鮮明なものとなった。ヘラクレイトスの「生成」は純然たる「存在」のみで形成されているが、原子論者の「生成」は「存在」及び「空虚」の複雑で不等な混合として演じられる。

 デモクリトスの段階においては、こうした原子の自在な振舞いは、仮に人智で捉え得る次元を超えているとしても、何らかの「必然性」によって支配されていると看做されている。デモクリトスの原子論に「機械論的」という但書が附せられるのは、多様な原子の運動を悉く規定する強力な必然的因果律の作用を認めた為である。万物の運動を支配する内在的な摂理を見出そうとする知的な努力は、イオニアの自然哲学の系譜に一貫して伏流する根幹的な理念である。従って「必然性」の仕組みを理解することは「生成の真理」を究明することと同義である。

 ところが、後代の原子論者エピクロス、及びその後裔たる古代ローマのルクレーティウスは、そのような必然性の強権的な圧政に疑義を呈し、如何なる因果律にも基づかない純然たる偶然としての「原子」の「偏倚=斜傾運動=クリナメン」(clinamen)という概念を導入した。「クリナメン」は時間的にも空間的にも、その発生を一義的に定めることの出来ない現象であり、因果律の鎖を辿ることによって確定的な未来を演繹する機械論的な発想を根源的に排斥する。言い換えれば、事前に存立する普遍的な「真理」という観念、明証的な公理から万物の実相を演繹し得るという数理的な信条を、エピクロスの原子論は否定しているのである。それは理性的認識の有限性を告示する考え方である。パルメニデスの無時間的な存在論に対して、デモクリトスの原子論は時間的な「生成」の概念を導入した。しかし、それが純然たる「必然」によって貫かれているのならば、原子の個別的運動は結局のところ、無時間的な認識によって把握することが可能である。エピクロスの発案した「クリナメン」は、そのような現象の無時間的要約を禁じる為に、時間の裡において初めて出現する予測し難い要素として採用された概念である。エピクロスが感覚的な明証を重視したのは、理性的認識の限界を信仰していた為であると推察される。つまり、エピクロスは決してプロタゴラス的な相対主義を標榜して、個人の主観的な感覚を「真理」の唯一の基準に仕立て上げようと画策した訳ではなく、時間的な生成を通じて生じる偶発的な偏差を捉える為には、感覚的な認識に基づいて帰納的な推論を積み重ねる以外に途はないと判断したのである。万物の生成に先立って、完成された単一の普遍的秩序が存在するという範型的な考え方を否定する限り、純然たる理智の力だけを駆使して、世界の実相に到達することは出来ない。だからこそ、感覚的認識の価値が認められることになるのである。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)