サラダ坊主日記

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ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 2

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 ピュタゴラスを開祖とする一群の学統は、世界に内在する数理的な秩序への情熱的な信仰によって特徴付けられている。とはいえ、彼らは必ずしも世界の総てを均一な数値的基準によって測定しようと試みた訳ではない。様々な現象を、抽象的で普遍的な度量衡の単位へ還元する為に、数理的な秩序の神秘的な権威を強調した訳でもない。彼らは数学という観念的な体系を便利で合理的な道具として自在に使役したのではなく、専らその秘教的な価値を崇拝し、特権化したのである。

 けれども、ピュタゴラスを、近代を特徴づけているこうした数量支配のいまだに逡巡している先祖にしたてようとするのは、おそらく誤りであって、ピュタゴラス学説は、じじつ、数のある概念を含む一世界観によって支えられてはいるものの、それは、今日われわれのものである数の概念とは、ぜんぜん異質なものなのである。今日わたしどもは、数を単位数ユニテ〔数1〕の寄せ集めと考えるであろうし、かくて、3はわれわれにとっては1に1を、またさらに1を加えることの結果としてでてくるため、したがって、数は単位数の反覆から生じるのである。演繹とか冪の技術にいたる展開デブロプマンとかの諸哲理が生じたのは、このような概念からである。

 これに反して、ピュタゴラス教徒にとっては、数は単位数の分割から生じたのである。アリストテレス(『形而上学』一四巻、三章〔?〕)が述べているように、《一者は二分されて二倍になる。一は二を生じたのである》。したがって、適切に語るなら、単位数の複数はない。あるいはむしろ、一者アン(τὸ ἓν)、つまりもろもろの数と、1の数モナド、つまりもろもろの数えられるものの数とを、区別しなければならない。このような世界概念は、単位数が数の一部をなすどころか数が単位数の一部をなすアンヴロプマンの哲理に、達するのである。

 かくて、今日わたしたちは、好んであらゆる数を一連の線分によって図式化するであろう反面、ピュタゴラス教徒は、いっそう好んで、数を円の分割によって表現するであろう。(ジャン・ブラン『ソクラテス以前の哲学』文庫クセジュ p.44)

 ピュタゴラスにおける数理的な概念は、世界を均質な数値へ還元し、測定する為に重用されているのではない。若しも測定が最大の目的であるならば、測定される現象は無限に増大する単位数の累積によって覆われ、包摂されるだろう。そのとき、世界を統括するものは単位数という同一性の果てしない反復と蓄積である。しかし、ピュタゴラスにおける数理的概念の体系は、そのような同一性の反復としては定義されない。「ト・ヘン」(to hen)と「モナド」(monad)とを混同する謬見は排除されねばならない。ここには「一者から万物が生成する」というプロティノスの「流出説」(emanationism)を連想させる考え方が埋め込まれている。尤も、こうした構想はプロティノスの独創であるというよりも、古代ギリシアに瀰漫する伝統的な思惟の様式であると看做す方が適切な解釈であるように思われる。ピュタゴラス的な数理は、限定された同一性としての単位数を素材として構築される体系ではない。それは総ての事象を包摂する巨大な同一性の内部に生じる独特の秩序を意味している。単位数は無限に増殖し得るが、ピュタゴラス的な数理は、事前に定められた境界の内部を循環するだけで、その総量は増殖しない。同様に「一者から万物が生成する」という理路は不可避的に、生成する事物の総量の限界を事前に規定しているのである。無限の膨張という観念は、単位数の無際限な反復と同期している。しかし、ピュタゴラスの学説に従うならば、万物の「始原」(arkhe)である「一者」(to hen)は、そのような増殖の余地としての「空虚」(kenon)を聊かも含有せず、事前に定められた境界に制約されているので、果てしない測量の営為は原理的に不要なのである。彼が重んじるのは無限の冒険的な測量ではなく、個性的で単一的な「数」同士の関係の性質である。「一者」の分割によって生み出された諸々の「数」は、それぞれに固有の特徴を持ち、均質な単位数としての役割を喪失している。言い換えれば、ピュタゴラスの唱える特異な数論は、均質な単位数の配列や結合によって森羅万象を解釈し説明しようとする「原子論」(atomism)の構想とは全く相容れない階層的な秩序を内包しているのである。

 原子論の基本的な構想は「アトム」(atom)或いは「モナド」(monad)と呼ばれる分割不能の最小単位を想定し、万物の組成や現象をそれらの離合集散の過程として説明するというものである。言い換えれば、原子論の見地に立つ者は、世界の総てを単位数の増減や集散として解釈し、尚且つ、原子たちの自由な運動を保証する根源的な舞台としての「空虚=ケノン」(kenon)の存在を前提的な条件に定める。原子論的世界観の特徴は、森羅万象の限度を定めないという点に存する。これは世界の総体を単一の巨大な同一性として、つまり「一者」として把握する考え方と対蹠的である。あらゆる生成的事物の始原としての「一者」は、総ての可能性を内蔵しているが故に、如何なる外部も持たず、如何なる空虚も持たない。総ての事象は「一者」の内部で完結的に営まれ、推移するのである。従って「一者」としての世界は必ず何らかの限界を備えている。外部を持たないということは、言い換えれば「無限」という性質を持ち得ないということである。若しも世界が無限であるならば、我々は「世界の外部」の存在を否認することが出来ないだろう。万物が事前に包摂されている根源的な「一者」の存在を信奉する限り、人間は「世界の外部」を想定することが出来ない。ピュタゴラスは万物を「一者」という包括的で絶対的な同一性に還元する。原子論者たちは、万物を均質な単位の離合集散として解釈し、それゆえに「無限の空虚」という観念を理論的に要請する。

 ピュタゴラスの数理的な世界観は、根源的な「一者」から流出し、生成する万物の間に「諧調」を見出そうとする。こうした特徴は如何なる含意を暗示しているのか。それは万物の生成の背後に、厳密な設計図と整理された法則の先在を想定する思惟の方式を表現している。万物は無作為に、専ら偶然の集積に衝き動かされて、多様な生成を遂げるのではなく、事前に定められた規範に従って、崇高な諧調を形作るように促されているのである。森羅万象は、数理的な秩序に則って生滅を繰り返す。言い換えれば数理的な秩序は、具体的な個物の生成に先立って存在している。こうした考え方が、プラトンの「イデア」(idea)という概念の形成へ繋がっていることは明白である。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)