サラダ坊主日記

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ジャン・ブラン「ソクラテス以前の哲学」に関する覚書 4

 ジャン・ブランの『ソクラテス以前の哲学』(文庫クセジュ)に就いて書く。

 古代ギリシアの思想的系譜や伝統的な世界観においては、宇宙は有限であり、万物は或る巨大な存在論的同一性の内部に包摂されている。時間でさえ、こうした観念に拘束されており、それは明確な起源と終末を持たず、専ら円環的な反復の過程として想定されている。万物は絶えざる生成と流転を繰り返すが、それは飽く迄も根源的な「存在」の暫定的な変態に他ならず、個別的な存在者の消滅は断じて「存在」という事実そのものの消滅を意味しない。つまり、ギリシアの伝統的な存在論は、事物の「生成」に関して、実体的な虚無の介入を認めないのである。「存在するもの」が「存在しないもの」に変異することは有り得ない。それは「存在しないもの」から「存在するもの」が生み出されることは有り得ないのと同一の論理に基づいた帰結である。従って、彼らは事物の「創造」を認めない。純然たる虚無から、何らかの存在が析出されるという観測は、論理的に排斥されるのである。

 存在論的同一性は、如何なる歴史的な起源も持たず、存在者が絶えざる変転を重ねるのに反して、存在そのものは恒常的な同一性を保持している。「万物流転」(panta rhei)というプラトンの要約によって知られるヘラクレイトスでさえ、こうした存在論的同一性の観念に就いては揺るがぬ信頼を寄せているのである。本書の著者も、ヘラクレイトスの物語る「生成」という観念が「存在の生成」ではなく「存在のうちでの生成」を意味していることを幾度も強調している。従ってプラトンが対話篇「テアイテトス」において提示した相対主義への批判は、少なくともヘラクレイトスの学説に対しては有効であるとは言えないのである。

 それならば、クセノパネスやパルメニデス、ゼノンによって樹立されたエレア派の思想的系譜は、このような古代ギリシアの伝統的な世界観や宇宙論に対して、如何なる性質の創見を付け加えたのだろうか。先ずクセノパネスに関して言えば、彼はタレス以来の自然学者たちが推進してきた神話的思考からの離脱を、極めて抽象的な思惟の段階に押し上げたと言えるだろう。擬人化された神々の観念を排除して、彼は「神」という概念と存在論的な同一性の概念とを分かち難く癒合させた。また、自然学者たちのように具体的な個物を万物の「アルケー」(arkhe)として遇する経験論的な思考にも賛同しなかった。少なくともヘラクレイトスの時代までは残存していた「アイステーシス」(aisthesis)に基づく思考の影響を、クセノパネスは徹底的に洗浄し、純然たる理性的推論に依拠して「神」の概念を再編したのである。

 パルメニデスは、クセノパネスの抽象的な思惟の技法を継承しつつ、生成に関する過激な断定を告示した。彼は存在論的な同一性を担保しつつ、存在の変容として営まれる万物の生成に関して、それが謬見に過ぎないことを宣言したのである。それは感覚に映じる存在者の流転を、純然たる錯覚に還元しようとする点で、従来のギリシアにおける思想的系譜からの飛躍的な転回を意味していた。擬人的で感覚的な「神話」に基づく宇宙論からの脱却の過程は、自然現象の観察と分析に従事したイオニアの賢人たちの営為を経由して、遂に「感性的認識の否定」の段階へ帰着したのである。

 パルメニデスは「存在」が不生不滅であることを強調し、その生成が錯覚であることを強調した。そして「虚無」が存在しないこと、従って「虚無」に関する思惟を繰り広げることは不可能であることを明言した。ヘラクレイトスにおいては、万物の生成は恒常的な同一性の内部において無限に反復される「変容」の過程として定義されていたが、エレア派の思想は、そうした「変容」が謬見に過ぎず、従って「生成」は存在しないということを結論したのである。

 こうした見解は、個別的な「存在者」或いは「現存」を、根源的な「存在」そのものと区別している。現存的な次元と存在的な次元との峻別は、我々が感覚を通じて享受している世界を分裂させ、重層化する。感覚を通じて把握し得る現象の背後に、理性を経由しない限り把握することの出来ない潜在的な秩序を見出すという思惟の様式は、ピュタゴラスの裡にも認められるし、イオニア学派の賢者たちも、神話的なアナロジーを離れて、自然の現象の裡に内在する秘められた秩序の究明に努めたという点において同族である。類推的な思惟からの脱却は、言い換えれば、擬人化された神々の振舞いによって説明されていた原始的な世界観を廃止することに等しい。そこからイオニアの自然学的な探究は発祥した。彼らは超越的な表象を排除し、自然の現象を自然の内部に存在するものたちの振舞いや関係性を通じて解釈することを重んじた。言い換えれば、彼らの世界観及び宇宙論は、超越的な「外部」の介入を棄却したのである。爾来、ギリシアの思想的系譜は「世界の有限性」と「外部の不可能性」という二つの基礎的な信条を掲げ、継承を重ねた。世界はそれ自体で完結しており、如何なる「外部」の存在も認められない。ヘラクレイトスは、相反するものの緊迫した調和の形成として「世界」の構造を定義し、諸々の相互に対立する要素が絶えざる反転を繰り返す過程として「生成」の概念を論じた。それは言い換えるならば、世界の完結性、有限性、閉鎖性を承認することに他ならない。何かが増加すれば、何かが減少する。従って万物の総量は変動せず、存在的な次元から眺めれば、世界は不朽の恒常性を維持している。

 パルメニデスは更に一歩進んで、そもそも「生成」とは感覚的な謬見に過ぎず、根源的な「存在」は如何なる意味でも変動しないと考えた。ヘラクレイトスの「生成」は、肉体的な感覚が生み出す「仮象」に過ぎないと断じたのである。この徹底的な敷衍は、如何なる理論的な要請を析出するだろうか。若しも「現象」が悉く感覚的な謬見に過ぎないのならば、我々の霊魂は絶対的な恒常性を維持するだろう。それは「真理」が超越すると同時に内在するという「照応」(correspondence)のアナロジカルな論理に根差した判断である。同時にパルメニデスの議論は、理性的な認識と感覚的な認識との峻別、精神と肉体との峻別という二元論的な公理にも依拠している。こうした分断は恐らくピュタゴラスの思想にその淵源を有するものと推察される。イタリア学派の根深い「主知主義」(intellectualism)の性向は、後のプラトニズムを準備する重要な土壌の役割を担っているのである。

 パルメニデスは、イオニアの自然学が築き上げた完結的な宇宙論に、つまり神話的な表象を用いない議論の構造に、抽象的な分裂を命じた。理性を通じて把握される世界と、感覚を通じて把握される世界との二元論的な分裂を、彼の徹底的な考究は齎したのである。そして現存的な自然学に比して、存在的な形而上学を優越させる哲学的な秩序を建設した。「知覚=知識」という素朴な自然学の原理を、パルメニデスの思惟は致命的に破壊した。感覚的現象を支配し、統御する根源的な摂理を究明する為に、知覚的な観察に依拠しようとするイオニア宇宙論は棄却された。その代わりに、パルメニデスは如何なる宇宙論を提示したのか。彼は生成が錯覚に過ぎないことを強調する代わりに、知性を通じてのみ把握される「現存」に就いての探究を可能にする道を切り拓いたのだろうか。つまり、現存的な事物の普遍的な固有性を抽出する思惟の方式を開発したのだろうか。感覚的認識を排除し、生成を「存在の変容」と看做す古典的な解釈さえ破棄した後で、彼は専ら現存的な事物の「本質」に就いて論じようと企てたのではないか。少なくとも、その思想的残響は、プラトンの「イデア」(idea)に関する学説の裡に読み取ることが出来る。

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)

ソクラテス以前の哲学 (文庫クセジュ 487)