サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

文化・芸術・娯楽

無頼派雑記

俗に「無頼派」と呼ばれる作家の一群がある。明瞭な定義を問い訊ねても無益だが、一般にその双璧は太宰治と坂口安吾である。 彼らを「無頼派」と称する所以は生憎審らかにしないが、少なくとも太宰と安吾に関して言えば、彼らが社会の醇風良俗と対峙する作家…

「堕落」に関する対蹠的な見解 三島由紀夫と坂口安吾をめぐって

三島由紀夫という作家は、生きることを一種の「堕落」として捉えていた。彼にとって「若さ」は常に美徳であり、一方の「老い」は醜悪な悪徳に他ならない。実存的な時間の流れに導かれて、生から死へと躙るように進んでいく我々の生物学的な宿命は、或る純粋…

音楽における「理性」と「感性」

偶々YouTubeでフレデリックという名の関西出身のバンドの曲を聴いて、割と気に入った。きちんと歌詞を読んだ訳ではないが、言葉に過剰な意味が与えられていない。私はサカナクションやPerfumeの音楽を好んでいるが、彼らの楽曲においても、言葉は意味よりも…

芸術と記憶(あるいは「祈り」)

芸術とは「記憶」の異称ではないだろうか。 芸術は、一瞬を永遠に変えたいという欲望に貫かれている。或る瞬間の出来事を永遠に記録しておきたいという欲望だけではない。つまり、単なる事実の記録だけに留まらない。失われてしまった何かを再び甦らせ、明瞭…

批評は常に出遅れている(無論、それは罪ではない)

批評というものは、必ず何らかの対象の存在を必要とする。あらゆる批評的言説は常に、批評を受ける対象の現前を要請する。それは意識が常に「何かに就いての意識」であることに似通った消息である。 だが一方で、批評もまた自立した作品として存在することが…

批評と創造(或いは、その「融合」)

考えることは、所謂「創造性」とは無縁なのだろうか。 そんなことはない、寧ろ考えることこそ、真の創造性が成り立つ為には不可欠の条件なのだと、直ちに反駁してもらえるだろうか。だが、この問題は入り組んだ観念によって構成されていて、厳密に検討を始め…

文学的形式の多様性(「スタイル」と「ジャンル」の問題)

文学という抽象的で観念的な言葉によって指し示される形式は、果てしない多様性を備えている。例えば「詩歌」という大雑把なジャンルに限っても、日本固有の短歌・俳句から、中国における絶句や律詩などの漢詩、ヨーロッパのソネットやバラッドなど、その形…

ロゴスの不協和音(小説における「調和」)

小説は、単一の論理的な体系による支配に叛逆し、それを巧妙に突き崩す。それは、或る一つのイデオロギーに、別様のイデオロギーを対峙させるという、通常の論駁とは異質な方法意識に基づいている。 或るロゴス(logos)と別のロゴスとの相剋、これは小説に…

「意味」を求めない散文

「小説」とは「意味」を求めない散文であるという妄説を思いついたので、書き留めておく。書き留めておくとは言っても、この妄説の全貌が既に予見されている訳ではない。漠然たる想念の束が、意識の内部を浮遊しているというだけの話である。 小説とは基本的…

短詩愚見

最近「短詩型文学」というジャンルに就いて、漠然と考えることがあった。 頗る大雑把な前提であることは承知の上で書くが、散文と詩歌とを隔てる一つの重要な分水嶺は、恐らく「理窟を語るかどうか」であり、もっと言えば「意味を説明するものであるかどうか…

芸術と「quality」

芸術というジャンルが特殊であるのは、それが如何なる意味でも「クオリティ」(quality)が総てであるという苛烈な構造的条件に貫かれているからではないかと、私は思う。 芸術という人間にとって根源的な営為が、商業的な原理に巻き込まれることが何ら珍し…

中上健次の文業

私は中上健次の熱心な愛読者という訳ではないが、その独特な文学世界には昔から持続的な関心を懐き続けてきた。彼の作品に就いては、柄谷行人を筆頭に、既に多くの言論が蓄積されている。それら怒涛のような論評の嵐に触れれば、中上健次の文学的時空の奥深…

「書評」に就いて

私は最近、中上健次の分厚い長篇小説「地の果て 至上の時」(新潮文庫)を読んでいる。最初に購入して通勤の往復の電車で読み出し、途中で飽きて投げ出したのが二十代前半の頃だったと曖昧に記憶しているので、それから知らぬ間に随分と月日が過ぎてしまった…

「まず読んでみる」という蛮勇に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 最近、岩波文庫に収められたハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読んでいます。最初に「白鯨」という作品に触れたのは恐らく小学生の頃で、両親が同じ団地の知り合いから譲り受けた大判の「世界文学全集」(確か講談社の発…

「小説」と「人事」

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 偶には趣向と気分を変えて、敬体の文章で記事を書いてみたいと思います。 特に深い意味はありません。単なる気分の揺らぎの問題です。 気持ちとしては、演壇に登って一席弁じているような感覚です。 御覧の通り、「小説…

方法と主題

文学作品を論じるに当たって、表題に掲げた「方法」と「主題」は相互に対立する観念として峻別されることがある。無論、一つ一つの作品が何らかの「方法」と「主題」の複雑なアマルガムとして形成されていることは明白な事実なのだが、何れの観念を重視する…

近代化の原理 2 (ミラン・クンデラ「小説の技法」に導かれて)

ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。 現代文学の最も重要な牽引役の一人に計えられ、フランツ・カフカの熱心で雄弁な擁護者としても名高いチェコの亡命作家ミラン・クンデラの手で綴られた、このカラフルで…

近代化の原理(再び「燃えつきた地図」について)

安部公房という作家は、「都市」と「沙漠」の双方に強い関心を有していた作家である。批評家の柄谷行人は「都市」と「沙漠」が共に「共同体の間」に存在する領域であることを、確か「言葉と悲劇」に収められた講演録の中で指摘していたように記憶するが、実…

「恋愛」の危険で純粋な形象 新海誠監督「君の名は。」をめぐる断想

幕張新都心のイオンシネマで、今更ながら「君の名は。」(新海誠監督)を観賞してきた。実に印象深く心に残った作品であったので、今更ながら感想を書き留めておきたい。 この作品は日本のみならず、国境を飛び越えて海外でも幅広く公開され、好評を博してい…

現実と幻想の抽象的接合 「千と千尋の神隠し」をめぐる断想

金曜ロードショーで、久々に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を再見する機会に恵まれた。改めて見直してみても、やはり「傑作だ」という素朴な感嘆と新鮮な興奮が生まれ、既に知り尽くしている筈の筋書きや一つ一つの場面さえ、少しも退屈な印象を齎さずに…

ファンタジーという言葉 3 (乾石智子という作家に関する覚書)

最近、乾石智子の「魔道師の月」(東京創元社)という小説を読んでいる。 私にとって、乾石智子の作品に触れるのは、彼女の処女作である「夜の写本師」(東京創元社)に続いて未だ二作目に過ぎず、この「魔道師の月」という小説も100ページほどを読み進め…

ファンタジーという言葉 2

或る意味では、どんな種類の文学作品もファンタジーの眷属なのだと強弁することは充分に可能である。どんな文学作品も、それが私たちの住まう外在的な現実の単なる引き写しに過ぎないということは有り得ないし、仮に有り得たとすれば、それは文学「作品」で…

ファンタジーという言葉

難しく考え始めたら際限がなくなる主題というのは、世の中に幾らでも転がっている訳で、言葉の定義なんかも厳密さを追求し始めたら、それこそウロボロスの如く出口の見えない無限の循環へ呑み込まれる結果に帰着しかねない。 ファンタジー、という言葉には、…

共感する歌は、広く届かないと、彼は言った

先日、NHKの「SWITCH」という興味深い番組で、映画監督の西川美和氏と、「いきものがかり」の水野良樹氏が対談していた。表題の「共感する歌は広く届かない」という発言は、水野氏のものである。 西川氏の「何故、自分たちの音楽活動がマス=大衆に…

中上健次の「記憶」

先日、NHKで中上健次と「路地」の記憶を巡るドキュメンタリー番組が放映されているのを、切れ切れに眺める時間を持った。 和歌山県新宮市の被差別部落に生まれ育った中上健次の文業が、自身の生まれ育った環境に対する、愛憎の入り混じった執着に染め抜か…

「演歌」のメンタリティ

所謂「演歌」や「歌謡曲」という名称で扱われる邦楽には、男を支え、苦労を堪え忍ぶ健気な「女」というイメージが頻出する。女性の社会進出が叫ばれるようになって久しい昨今、そういうイメージが古臭く感じられるのは止むを得ない。しかも、そうした社会的…

理解されること、記憶されること

芸術の目的、或いは「本望」は、理解されることではなく、記憶されることに存するのではないだろうか。 芸術は何かを説明する為に存在するのでもなく、何らかの論説を述べる為の代替的な手段でもない。それは何かを伝えようとするが、その伝えようとする内容…

ギフトとしてのブログ

ブログを運営し、極めて個人的な文章を世間に向かって垂れ流すことに、何の意味があるだろうか。誰に頼まれた訳でもないのに、誰が関心を寄せるかも分からない、身勝手な主題を選んで、身勝手な文章で書き綴る、というのは、腕の悪いストリート・ミュージシ…

「わたし」を隔てる境界線 細田守「おおかみこどもの雨と雪」

今日、久し振りに細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」という長篇アニメーションを途中まで見返した。封切りの時に劇場で鑑賞して以来なので、概ね四年振りだろうか。相変わらず、感想は変わらない。紛れもない傑作で、非常に美しいアニメーション作品だ…

「借景」と詩想(言葉の加減乗除)

所謂「短詩型文学」と称される作品の様式、つまり短歌や俳句など、厳しい字数制限を課せられた詩歌の様式は、その構造として「借景」の効用を活かすことが原則である。「借景」という言葉は主に「作庭」の世界で流通する概念であると認識しているが、詩作の…