サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「堕落」に関する対蹠的な見解 三島由紀夫と坂口安吾をめぐって

 三島由紀夫という作家は、生きることを一種の「堕落」として捉えていた。彼にとって「若さ」は常に美徳であり、一方の「老い」は醜悪な悪徳に他ならない。実存的な時間の流れに導かれて、生から死へと躙るように進んでいく我々の生物学的な宿命は、或る純粋無垢の情熱が無限に腐蝕していく過程として、批判的に眺められる。

 彼ほど「老醜」という身も蓋もない現実を明瞭に嫌悪し、生きることの持続を聊かも幸福で明瞭なプロセスとして称揚しなかった作家も珍しい。少なくとも彼自身は、世間の基準と比較して酷く恵まれない境涯にあった訳でもない。貧困の陋巷を這い回り、明日の衣食にも事欠く窮乏を強いられていた訳でもない。富裕な生家に恵まれ、優秀な頭脳に恵まれ、作家としても屈指の社会的栄誉を堂々たる態度で纏っていた。そういう人物の胸底を蝕む「生きることへの嫌悪」の絶望的な根深さに、私は戦慄を覚えずにいられない。寧ろ富貴な境遇に囲繞されていたからこそ、却って彼は「永遠」を欲したのだろうか? それが失われてしまう危険を持たざる者よりも遥かに強く痛感せずにいられないからこそ、時間の流れに対する劇しい憎悪を蓄積してしまったのだろうか?

 坂口安吾もまた「生きること」と「堕落すること」との間に重要な等号の介在を認めていた。けれども、そのベクトルは三島とは明確に対蹠的である。このブログでも何度も引用しているが、かの有名な「堕落論」において、坂口安吾が示している述懐の含意は、三島的な論理に正面から対立する性質を備えている。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫ほうまつのような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音あしおと、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。(坂口安吾堕落論」 註・青空文庫より転載)

 三島由紀夫が、昭和天皇の所謂「人間宣言」に反発していたことは知られた事実である。その一点に限ってみても、三島と坂口との間に横たわる方向性、価値観の相違は明瞭である。三島は恐らく「運命」という壮麗な大義名分を好んでいたが、坂口にとっては、そんなものは「虚しい幻像」に過ぎない。三島にとって最も大事なのは「特攻隊の勇士」に象徴される美しい純潔な幻影であろうが、坂口が重んじるのは「闇屋」によって切り拓かれる卑賤な「人間の歴史」の方である。無論、私は両者の優劣を論じているのではない。三島的な美学に対する解毒剤としての、坂口安吾の「健全な堕落」の重要性を再認しているだけである。