サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

詩作 「BUENA VISTA」

その馬は

私の息子と同じ年の

同じ日に生まれた

中山競馬場に足を運ぶ習慣が途絶えてから

ずいぶん経って初めて知った

性別は違うけれど

そもそも生き物の種類が違うけれど

私の息子は

北海道生まれの彼女のように

美しいフォームで

黒鹿毛のたてがみを風に揺らして

誰よりも早く走ることは出来ないけれど

幼い息子は

五歳の初夏に父親と別れた

当たり前の暮らしが

息子の知らない暗がりのなかで

外れた馬券のように

ちぎられてスタンドの風に舞った

ちぎったのは私

ちぎったのは軽率な父親である私

 

二〇〇六年三月十四日

明るく晴れた日の正午

私の息子は無事に生まれて

やんちゃにわめいて

この世界の光の眩しさに泣きじゃくった

生まれてすぐに立ち上がらなければ

乳を呑めずに死んでしまう厳しさのなかで

レースに勝つことを

存在の理由として

生まれる前から課せられている彼女とは

違った期待のなかで

彼は病院の蛍光灯の下で泣いてねむった

歳月は矢のように過ぎ去りながれる

その馬はターフの光を浴びて

可憐な少女の恥じらいも忘れて

生きるために走る

あるいは

走るために生きる

幼い彼女は

阪神ジュベナイルフィリーズの直線を

大外から駆け抜けて差し切った

それはまだ

私と妻が

たがいに愛しあい

求めあっていたころ

 

桜花賞でもオークスでも

一世一代の大舞台で

ライバルを差し切って彼女は

常に勝利の栄冠と共にあった

しかし秋が来て

冬が来て

彼女は立て続けに敗北を喫した

盛者必衰の理だろうか

いかなる愛の情熱もやがて

音さえ立てずに冷えていくように

どんな甘い蜜月にも

陽射しの途絶える季節がふりかかる

地球は回りつづける

重なり合っていた想いも静かに

互いの輪郭を見極められずに

少しずつ朽ちて黄ばんでいくのだ

 

二〇一一年の夏に

私の築いた家庭は

私の壊れかけた家庭は

正式に解体された

五歳の息子に何がわかるだろう

言葉ではきっと何も伝えられない

だけど五歳の幼い心のなかにも

波紋は描かれていくに違いない

言葉にならなくても

言葉にならないからこそ

彼の小さな胸の奥に降り積もる

雪のような想いの冷たさを

軽率な父親はおそれた

それでも 身勝手な私は

己の孤独と戦うことに躍起で

傷つけられた少年の眼差しを

軽んじていたのだ

血管のなかを

濁ったあぶらのような

罪がながれる

罪に汚れた血液が

このカラダを倫理的に腐敗させる

 

別れて半年ほど経ったころに

新しい女ができた

別れた妻のように嫉妬深く

別れた妻と違って寂しがり屋だった

私は新しい生活の始まりのなかにあった

家族を捨てて

たとえ自ら望んだ訳ではなくとも

子供を置き去りにして

新しい生活を選んだ

未来への無邪気な憧れを選んだ

罪が心臓を劇しく波打たせても

夢中で女を抱いた

私は 堕落するように恋に落ちた

 

全盛期を過ぎた彼女は

その年のジャパンカップにエントリーした

かつては伴侶のように常にかたわらにあった勝利が

彼女を見捨てて置き去りにしてから

すでに長い時間が経っていた

最後の直線

劇しい攻防の末に

彼女は先頭でゴールに駆け込んだ

スタンドは地鳴りのように揺れた

夜明けの曙光のように華々しく

彼女は懐かしい栄冠をつかみとった

彼女は私の息子と同じ年の

同じ日に生まれた

北海道生まれの黒鹿毛の彼女が

私の息子のために走ったとは思わないけれど

レースに勝つことを

存在の理由として定められた彼女が

私の愚かな感傷のために走ったとは思わないけれど

 

誰もが幸せの在処をさがす

誰もが幸せの形骸にすがる

走るために生きるブエナビスタのように

私の生命に何か意味があるのだろうか

 

黒鹿毛の彼女は

有馬記念で敗れて引退した

私は女と一年足らずで別れて

ひとりに戻った

息子は小学校に通っている

われ関せずと

地球は回りつづける

私はきっとまた

見知らぬ女を愛するだろう

過去の遺産を虹の彼方に投げ捨てて

けっきょく私は

別の誰かを 傷つけるように好きになるだろう

空っぽのターフに新しい風が吹く

走り去った蹄のあとを追って

私は誰かを愛するだろう