サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

成熟と愛情(雨降る街で)

 先日、妻が産科を退院して、搗き立ての餅のように柔らかな頬の娘と共に家へ帰ってきた。束の間の索然たる独居は終わりを迎え、親子三人の新しい生活が始まった訳だ。慣れない母親業にすっかり疲れた様子の妻を見ていると胸が痛むが、娘の天使のような寝顔を見るとやはり生まれてきてくれて有難うとしか言いようがない。これから少しずつ、色々なことに慣れていくしかない。そうやって積み重ねた時間の尊さは恐らく、十年後、二十年後になって大きな稔りを齎すに違いない。

 仕事を終えて家へ帰れば赤ん坊がいる、という生活を送るのは、私にとっては十年ぶりのことである。二十歳の頃、最初の結婚をした私は、息子が産まれる直前になって漸く今の勤め先へ拾ってもらい、不慣れな父親業と同時に不慣れな勤人としての生活にも挑まなければならなかった。どちらかと言えば、仕事を覚えて少しでも世間の役に立つ男になるために修行を積むことの方が切実な問題で、育児は専ら連れ子を抱えた妻が一手に引き受けていた。分娩にも仕事の都合で立ち会えず、朝が早くて夜が遅い仕事であることも手伝って、その頃の出来事は余り明瞭に記憶していないというのが正直なところだ。首が据わるまでどれくらいかかるのか、沐浴を止めて一緒に湯船へ浸かるようになったのがいつだったか、記憶は実に曖昧で不透明であり、再び育児に携わることになった今では、殆ど新米のようなもので、それでも当時を振り返り俄に思い出したのは、夜の公園でおくるみに包まれた息子を抱いた妻と、気まずい対面を果たした時の風景である。何故、気まずかったのか? 答えは明瞭だ。私は仕事に嫌気が差して、職場を脱走して行方を晦ましてしまったのである。

 最初の上司と反りが合わず、また私自身が社会人として非常に未熟で役立たずだったことも手伝い、私は毎日重苦しい心境で職場へ向かう列車を乗り継いでいた。当時は未だ「パワーハラスメント」という言葉も一般的ではなかったから、仕事で何か仕損じる度に死ねだの殺すだのと罵られるのも止むを得ないというような感覚で受け止めていて、それでも匕首のように翻る暴言に切りつけられる魂の痛みには鈍感でいられなかったのだ。或る時、私は上司の心ない言葉に忍耐の糸が切れてしまった。毎日、仕事が憂鬱だなと思いながらも、妻子ある身である自分には何処にも逃げ場などないのだと言い聞かせて、歯を食い縛って職場へ通っていたのだが、本当に不意に、何もかも嫌になってしまったのである。私は逃げようと心に決め、休憩時間を迎えると足早にロッカーへ行き、私服に着替えて携帯の電源を切り、同僚に見咎められないように息を殺して通用口から外へ出た。そのまま京浜東北線に飛び乗り、品川で乗り換えて新宿へ向かった。大学を一年で中退して結婚し、運命に引きずり回されるように社会人という身分へ鞍替えをしたので、大学に入って知り合った友人たちは未だ学生のままであった。桜上水に一人暮らししている友人の家へ逃げ込もうという算段で、私は電話をした。先方は私の只ならぬ様子を何となく嗅ぎ取ったのか、詳しい事情は尋ねずに、一晩泊めてくれという私の身勝手な頼みをすんなりと受け容れてくれた。

 夕刻まで授業があるという友人の言葉に電話越しに頷いて、私は見捨てられ取り残されたような息苦しい時間を、新宿で遣り過ごすことに決めた。その日は朝から酷い雨で、傘も持たずに職場を脱獄した私は投げ遣りな気分で、雨に打たれながら歩いた。鏡は見なかったが、きっと死人のように青白い陰気な顔つきで彷徨していたに違いない。怠惰な大学生であった頃の習慣を蒸し返すように、私は一人で新宿の紀伊国屋書店へ立ち寄り、文庫本を買ってドトールの喫煙席に腰を落ち着け、不安に満ちた頭でページを捲った。活字は少しも頭の中に染み込んでこなかった。これから自分の人生はどうなっていくんだろうという恐怖と悲観が、泡のように意識の水面を不快に揺さ振っていた。

 一晩友人の家に泊まり、幾らか気分が落ち着いたのか、前日とは打って変わって晴れ渡った街並みを歩いていると、友人の携帯が鳴った。松戸にある福島県人会の学生寮へ暮らしている友人が、私の居所を探し求めて電話を掛けてきたのだ。友人から渡された携帯を握り締めて、私は何れ訪れる筈であった瞬間が唐突に眼の前へ突きつけられたことを悟り、大人しく観念した。電話口の向こうで友人は、お前が死んじまったのかと思ったんだぞと泣いていた。妻が、私と連絡がつかないので、縋るような思いで以前に家へ招いたことのあったその友人へ助けを求めたのだ。その友人は真夜中に寮を飛び出し、私が立ち寄りそうなところを思い浮かべて松戸の駅前を駆け巡ったらしい。強い罪悪感が産まれた。後に聞いた話では、私の両親に連れられて警察へ赴いた妻は、警察官から旦那さんの歯型を出せと言われたらしい。死体で上がった時に身元を確かめるために必要だったのだ。父親は「自分の嫁にそんな経験をさせるんじゃない」と、帰還した私を叱りつけた。

 家へ帰ることになり、日暮れの松戸駅へ降り立って、それでもどの面下げて帰ればいいか分からず、私は暗くなった江戸川の土手を廃人のような顔でゆっくりと歩いた。家の近くまで来てから、私は携帯に溜まった夥しい数の留守電メッセージを再生した。日頃は気の強い妻が、萎れた花弁のように儚くか細い声で、どこにいるの、帰って来てと吹き込んでいて、それを聞いた瞬間に、私はガードレールに腰掛けたまま涙を流した。実に身勝手な感傷で、私は私自身の愚かな行動のために泣いたのだ。自分のために流す涙ほど穢れたものはないと、それ以来、私は信じるようになった。

 家の近くの公園で、私は妻に電話を掛けた。呆れたような声で、今から行くと妻は告げて電話を切った。ブランコを囲む鉄製の低い柵に腰掛けて、煙草を吸っていると、おくるみに包まれた生後七箇月ほどの息子を胸に抱いて、妻が現れた。十月だったから、きっと赤ん坊の躰には苛酷な寒さであったに違いない。そのとき、小さな息子の姿を改めて見凝めて、私は、この子を置き去りにして、自分は何処へ行こうとしていたのだろうと思った。何を考えていたのか、と思った。自力では生きられないほどに幼い息子をこの世界に残して、一体どこへ逃げ出せると、愚かにも信じ込んでいたのだろうか。

 あれから十年が経った。前妻と別れ、今の妻との間に娘が出来た。退院の日、外は十年前の逃亡の日と同じように、劇しい雨が降っていた。同じ過ちはもう二度と繰り返さない。私は混み合った成田街道を走るタクシーの中で、真っ当な父親になりたいと、改めて決意した。