サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

シーソーと糾える縄

 我ながら、顧みれば迷ってばかりの人生で、今でも日々迷妄の種は尽きず、生きることの正解が何なのか分からず、右へ左へ彷徨するような生活を送っている。だから、達観した人生の名人のような境涯に落ち着いて、艶やかな木製のパイプでも燻らせながら、遠い眼をして雨垂れの庭を眺めつつ、来し方を振り返るというような抒情的回想など綴れる訳もない。私は今も迷い続けているし、今後も同じように思い悩み、頻繁に途を誤るだろう。それが生きることの宿痾ならば、私だけが恩寵のように特別な抗体に恵まれる理由もないのだ。

 子供としての原風景と、大人としての原風景とは、等号では結ばれない。幼児でも深く悩み苦しむことはあり、大人の眼には些末な事柄と映じる問題でも、例えば毎週愉しみにしているアニメの放送が野球中継の延長で吹き飛ばされて悲嘆の淵に沈んだり、明日の給食の献立が嫌いな豆ごはん(グリーンピースごはん)であることを知って愕然としたり、そういう小さな「事件」に躓いて、本人は悶々としているものである。けれども「迷い」と「決断」はやはり、大人の特権であるだろう。或いは、子供が大人へ変容していく途次、次々と現れる厄介な里程標が「迷い」であり「決断」であると言うべきなのかも知れない。それを踏み越えることは深刻な痛みを伴い、今まで信じ切っていた風景の構図を、その意味を激変させる。画面に亀裂が走るように、私たちはそれまで疑いもしなかった現実の隠された暗部を思い知る。迷うだけならば、子供でもするだろう。しかし、その入り組んだ迷宮の涯まで歩き続ける強靭な意志は、大人であることの証明書なのだ。

 私は十九歳のときに、大学を辞めた。肌寒い早春の三月、桜上水のキャンパスへ出向いて、教務課で退学したい旨を伝えた。そのとき、私は大学を辞めることに不安も恐懼も覚えていなかった。碌に使っていないクレジットカードを退会するような気軽さで、大学生の身分をあっさり投げ捨てようと軽率にも考えていた。別に、辞めようが辞めまいが、どちらでも構わなかったのだ。大学の事務室から、貴方の息子さんが殆ど講義に出ていませんと連絡を受けて血相を変えた両親に、友人と安い居酒屋でチゲ鍋を囲み、鏡月の水割りを呑んで頼りない足取りで自宅へ帰り着いたところを捕えられ、説教を浴びせられ、踏み絵を迫られた十二月の或る夜が若しも訪れなかったならば、私は素知らぬ顔で両親を欺いて形式的な大学生の生活を保っていただろう。当時、千葉県松戸市に住んでいた私は、新宿で京王線に乗り換えて下高井戸へ向かう果てしない通学の道程にうんざりしていた。特に朝方の通勤ラッシュと重なったときは、噎せ返るほどの人混みに呑まれてまで、わざわざ大学の講義を受けに行かねばならない現実に心から絶望し、改札を潜らずに構内の喫茶店で生意気にも莨を吹かし、飲み慣れない苦い無糖のコーヒーを啜って、頽廃的な若者の末席に名を列ねたような、自堕落な感慨に耽っていた。そのまま、駅ビルの青果店のバイトへ出掛けてしまうこともあった。

 新宿駅まで辛うじて辿り着いたとしても、講義を受けようとは思わなかった。そのまま、東口の階段を上がって新宿の真昼の雑踏へ、塵芥のように流れ出る日の方が多かった。私には何の用事もなく、確固たる野心もなく、持て余された日暮れまでの厖大な時間だけが潤沢に懐中へ詰まっていた。憧れていた新宿の紀伊国屋書店で、汗牛充棟の形容が相応しい豊饒な書棚に夏の蛾のように眩惑され、小難しい外国の小説や厳めしい哲学書の頁を無闇に捲った。イアン・マキューアン柄谷行人浅田彰舞城王太郎冲方丁江藤淳靖国通り沿いのドトールで、吹き込む蒸し暑い外気に燻されながら、露を滲ませたアイスコーヒーを吸引する。夕刻、徐に動き出した後、行き先はバイト先である松戸の青果店か、大学近辺の居酒屋に限られていた。私は乏しい友人や先輩と酒を酌み交わす為だけに大学のある街へ通っていた。それは乾涸びたような青春だった。私は素性の知れない焦躁に駆られていた。

 退学の方針を固めた頃、私は八歳年上の女性と親密な関係に陥っていた。彼女は離婚歴と九歳の娘を持っていた。元々は私が苦手なタイプの、聊か押し付けがましい明るさを備えた女性だった。特に好みの顔立ちという訳でもなかった。それでも私は知らず知らず恋に落ちて、彼女の存在に対する依存を深めていった。大学一年の終わりに退学の手続きを済ませた。そして七月に彼女の妊娠が発覚した。私は青果店のバイトを続ける傍ら、怠惰で目的を欠いた私生活を過ごしていた。本当は小説家になりたいと思い、何の面白みも独創性もない習作を書き散らす積りであったのに、気付けば年上の成熟した女に溺れ、私の人生の進路は不可解な転変を遂げつつあった。妊娠を告げ、結婚すると親に告げた。母親は絶望したが、父親は静かに「分かった。責任を取る覚悟があるなら、自分の思うようにしなさい」という趣旨の発言をした。彼女の両親は激怒して、私に会ってもくれなかった。堕胎しないなら二度と家の敷居は跨がせないと、彼女に向かって言い放ったらしい。同じ過ちを繰り返す積りか、という訳だ。私の母親も、一旦は父親の方針に倣って結婚に同意したが、翌日には前言を翻して「堕胎しなさい」と電話を掛けてきた。息子の身を思えばこそ、そういう風に言ったのだろうが、当時の私は、堕胎を命じられて憔悴する彼女の姿を目の当たりにしていたから、母親の命令には従えなかった。

 私は仕事を探した。面接官は、若くして所帯を構えるのだから滅多なことでは逃げ出さないだろうと踏んだのだろうか。仕事は幾らでも見つかった。しかし私は大人たちの信頼と想定を軽やかに裏切って直ぐに挫け、職場から逃げ出した。最初の在職は半月、次の在職は三箇月。しかも妻の誕生日に無職となったのだ。家の中は針の筵で、私は日傭いの夜勤に繰り出しながらハローワークへ足繁く通い、現在の勤め先に拾われた。そこでも上司と折り合えずに弱気になって職場を無断で抛棄し、一晩だけ行方を晦ました。学生時代の友人を訪ねて、雨降りの新宿を傘も持たずに徘徊し、桜上水の小さなアパートに一晩泊めてもらった。彼は突然現れた私に、何も理由を訊ねなかった。気遣いだったのか、厄介な問題に巻き込まれたくなかったのか、今となっては、その真意は定かではない。

 妻から連絡を受けて、私の行方を探し回ってくれた別の友人が、桜上水の友人に電話を掛けてきた。そうして私は逮捕された。それから、何を考えて松戸まで帰ったのか記憶していない。松戸駅に到着した後も、私の歩みは異常に鈍かった。どんな顔をして妻に会えばいいのか、日暮れがどんどん濃密な暗色を深めていくというのに、私は家の近所の畑の傍で、ガードレールに腰掛けたまま動けなかった。復旧させた携帯の留守電には、様々な人の声音が記録されていた。か細く痩せた妻の涙声が聞こえ、私は加害者の分際で貰い泣きをした。俺は何をしているんだろうか。俺は何処へ行こうと思っていたのか。世界の涯だろうか。どんな不幸も制約も迫害も存在しない世界を探して? それならば、何の為に所帯を持ったのか。周囲の強硬な反対を踏み躙って子を生したというのに、妻子を置き去りにして、俺は如何なる桃源郷を目指したのだろう。

 猶も女々しく、家の近くの公園から、妻に電話を掛けた。おくるみに包まれた生後半年ほどの息子を抱いて、陰気な表情の妻が姿を現した。家へ帰り、私は台所の暗がりに膝を抱えて座り込んだ。酷く頭の中が混乱していた。やがて妻が私の肩を抱き締めて、貴方の帰る場所は此処なんだから、もう勝手に何処かへ行ったりしないでと囁いた。

 この世界に逃げ場などないと、そのとき私は学んだ。驚嘆すべき忘れっぽさと共に。辞める積りだった会社に、温かい慰留を受けて舞い戻りながら、私は肚を括った。逃げ場なんか何処にもないのだ。此処で踏み止まれ。しかし、その後も私は幾度も現実から逃げ出した。二十五歳のときに、最初の妻と離別した。どうも様子がおかしいと最初に問い詰めたとき、彼女はもう私のことを愛していないと言っていた。私は逃亡から帰還したあの夜と同じ暗い台所の床へ蹲り、タオルに顔を埋めて曙光が射すまで嗚咽を続けた。何もかも失ったような気がした。総てが欺瞞的な夢想に過ぎなかったのだと、私は思った。一年間、関係の修復を試み続けたが、彼女は冷え切った気持ちは何も変わらないと結論した。それは要するに、決断の刻限を迎えたということと同義だった。

 丁度、八年前の今頃に、私は単身、侘しいワンルームのアパートへ移り住んだ。最初の日の夜、私は孤独に堪えかねて夜中に妻へ電話を掛け、流山街道沿いのファミレスへ呼び出した。理性の留め金が外れたように、私は元に戻りたい、愛してくれなくても構わないから、家族を失いたくないと訴えた。けれども彼女はもう、翻意しなかった。悲しげな、或いは何かの苦痛を堪えるような顔つきで、伏し目がちに、その淋しさは一過性のものだと、私を静かに諭した。

 「迷い」と「決断」は何時でも、禍福のように、糾える縄と化して私たちの生活を取り囲んでいる。別れる決断は、再び誰かと巡り逢う為の布石でもある。だが、その決断の深奥にも、脂のように迷いが染みている。信仰と理性との絶えざる相剋のように、私は今も果てしないシーソーゲームの最中だ。あれから未だ八年しか経っていないのかと、時々思う。まるで昨夜見た悪夢のように生々しい風景。別の街に移り住み、別の女性と子を生して、私は別人のような風貌で、日々の迷妄と雑踏に、まるで埃のように紛れているのである。