サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 6

 引き続き、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンは「哲学者」と「ソフィスト」との区別に関して執拗な厳格さを示している。彼の考えでは、ソフィストたちが切り売りする「知識」は、哲学者の追究する「真実在」に関する「知識」とは根源的に異質である。「真理」の希求は、誠実な哲学者たちの専売特許であって、ソフィストたちが取り扱う商材としての「知識」は、迎合的な処世術に過ぎないと看做される。

 両者の峻別の根拠は、所謂「イデア」(idea)に関する学説の裡に据えられている。「イデア」に関するプラトンの独創的で神秘的な論考は、人間の知識を「ドクサ」(doxa)と「エピステーメー」(episteme)の二種類に分別している。プラトニズムにおいて、哲学者が究明すべき本来的対象は「エピステーメー」に限定されており、それは存在の厳密で普遍的な「本質」に関する認識を獲得することを意味する。他方、人々が肉体的な感覚を通じて受け取る経験論的な認識は「ドクサ」と呼ばれ、存在の「本質」を蔽い隠す諸々の偶有的要素によって汚染されていると看做される。

 存在の本質を識別すること、様々な事物に関して、その本質的要素と偶有的要素とを精確に弁別すること、これがプラトンの重んじる哲学的探究の最も基礎的な規律である。肉体的な感官を通じて意識に顕れる多様な認識を等価的に並列させるのではなく、それらの関係を「同一性」の理念の下に整序し、優劣の位階を授けること、そこから「哲学者」と「ソフィスト」とを峻別する思索の形式は生成されている。

 事物の「本質」とは、普遍的に維持される揺るぎない同一性の総称である。感覚的に把握される「現象」としての事物は、常に変わらず維持される絶対的な同一性の領域と、時間的推移に応じて頻繁に移り変わる偶有的な部分との「混淆」として成り立っている。状況に応じて獲得されたり失われたりする要素は、その事物の「本質」には該当しないと考えられる。如何なる状況においても持続的に存在し続ける要素こそ、その事物の固有性を規定する「本質」に相応しい特徴であると定義されるのである。

 こうした特徴を見出す為には、厳密な抽象的還元の手続きが不可欠である。「如何なる要素を以て、その事物の本質と看做すか」という設問に従い、執拗な論究を重ねない限り、人間の認識が事物の本質へ到達することは有り得ない。換言すれば、プラトンにおける「知識」とは「事物の本質に関する認識」を意味するのである。「事物の理解」は「事物の本質に関する認識」と等号で連結されねばならない。

 けれども、ソフィストたちの役割は、そのような「事物の本質に関する認識」を裕福な雇い主たちに教授することではない。彼らが備えている知識とは「処世術」であり、言い換えれば「社会に対する適切な迎合の技術」である。それは事物の本質に関する真理的な水準とは全く異質な次元に属する認識の体系であると言える。ソフィストが教えるのは、大衆の集まる社会において栄達する為の技法であり、その手段としての「弁論術」である。

 プラトンの批判する対象としての「弁論術」の特徴は、所謂「正しさ」という理念に関して、それが「真理」と接続されないという点に顕れている。哲学的探究は「真理=本質」を「正しさ」と等価の位置に据える。しかし弁論術は「迎合の技術」であるがゆえに、必ずしも「真理=本質」を「正しさ」に結び付けない。この場合の「正しさ」とは、社会的合意として形成される「正しさ」である。換言すれば、ソフィストの信奉する「真理」は、多様な大衆の総意として規定されるのであり、何を「真理」と看做すかに就いての議論は、大衆の欲望や快楽に基づいて相対的に変動する。ソフィストにおける「真理」は「多数派の論理」に依拠して決定される。

 「真理」を「社会的合意」と同一視することは、プラトニックな本質主義の規範に歴然と背馳している。大衆の個人的で主観的な見解によって変動するような性質の認識を「真理」と看做すことは、事物の本質に関する普遍的認識を「真理」と看做す哲学的探究の原則に抵触する行為である。社会的合意の成立する要件が専ら「多数派の承認」に基づくのならば、そうやって擁立された「真理」の内容は、地理的にも歴史的にも普遍的な性質を欠くことになる。しかし、時間的推移に応じて変遷する認識は、プラトンの「真理」に関する定義の要件を満たさないのである。また、地域や風土に応じて変動する認識も同様に「真理」の定義に適わない。

 弁論術の主要な役割は、説得の作業を通じて自己の見解や言い分を他者に受容させ、承認させることに存する。換言すれば、弁論術における正義は「真理」の精確な把握を要求せず、単に提示した言い分が相手の感情を揺り動かせば済むのである。その言説の過程において、主に事態を嚮導する原理は「真理」ではなく「利益」や「快楽」である。大衆が欲するものは「真理」ではなく「利益」であり、感情と肉体を満足させる「快楽」である。若しも「真理」が個々の欲望の充足を阻害する性質を持つと看做される場合には、人々は極めて容易に、不愉快な「真理」を足蹴にするだろう。

 従って弁論術の主要な目的は、説得されるべき対象としての俗衆の秘められた欲望や関心や情熱の実態に就いて適切な理解を持ち、それらの欲望に寄り添って迎合的に振舞うことで、彼らの魂を内在的に掌握し支配することに存すると考えるべきである。それは俗衆を「真理」の把握に向かって嚮導し鍛錬しようと試みる教育的な意志とは全く無縁である。言い換えれば弁論術の機能は、単一的に存在する普遍的「真理」への到達には根本的に関与していないのである。弁論術における「真理」は社会的合意の成立という仕方で局所的に生成される相対的な正当性であり、それは歴史的=地理的条件によって規定されるがゆえに、幾らでも流動する可能性を秘めている。こうした「真理」の局所的生成の過程は無限に反復され、決して絶対的な常住の境涯に安置されることはない。

 だが、このような「真理」の流動的変容は、プラトンにとっては断じて是認し難い謬見として受け止められたであろうと推察される。彼にとって「真理」は、如何なる状況においても決して変容する可能性のない普遍的な事実を意味する概念であった。尚且つ彼は、そのような普遍的事実としての「真理」を把握することが可能であると看做した。こうした「真理」に関する定義は、プラトンが自ら綴った夥しい哲学的対話篇の主役に、師父であるソクラテスを選び続けたという事実とは裏腹に、ソクラテスから直接的に継承された言説ではなく、プラトンの独創であったと看做すべきであろう。初期の対話篇に登場するソクラテスは、決して自ら普遍的な「真理」を明示しようとは試みない。彼は自分が無知な人間であることを繰り返し強調し、自身の見解が「真理」に到達していると宣言することに関して極端に禁欲的な姿勢を貫いている。彼の展開する執拗な議論は専ら「アポリア」(aporia)に帰着して、結論を留保するばかりである。

 恐らくソクラテスの哲学的問答は、弁論術の範疇に属するものであったと推察される。それゆえに彼は当時の劇作家アリストファネスによって「ソフィスト」の筆頭として戯画化され、諷刺されたのであろう。但し、ソクラテスの弁論術は、プラトンが弁論術に対する批判の要旨として持ち出した「迎合」の概念には当て嵌まらず、寧ろその対極に位置する性質を備えたものであると言える。ソクラテスは俗衆の欲望や感情を逆撫でし、彼らの信奉する理念や価値観の矛盾を執拗に曝露した。ソクラテスの弁論術における卓抜な技巧は専ら、煽動的なポピュリズムに対する最も尖鋭な批判を成し遂げる為に用いられたのである。それはプラトン的な「真理」の探究とは異質な政治的実践の要素を濃厚に含んでいる。ソクラテスは飽く迄も市井の俗衆に混じって誰彼構わず議論を仕掛ける生活を離れなかったが、プラトンは自らの手で理想的な学園を創設した。ソフィストに対するソクラテスの不満とプラトンの不満との間には、根源的な差異が潜在しているのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)