サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 17

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの考えでは、人間の「霊魂=精神」(psyche)は不滅なる「実在」として定義される。「肉体」が生成的な現象界の裡に拘束されているのに対し、人間の「精神」は本来「実相」(idea)に類する存在であって、それは「肉体」と「悪徳」に汚染された状態で地上に顕現していると看做される。「本来ならば美しいものが、様々な障碍によって穢されている」という説話論的な構造が、その哲学の倫理的な規範を支えているのである。

 事物の「本性」(ousia)は普遍的で無時間的なものである。にも拘らず、我々の感覚が捉える事物が絶えず時間的な遷移の裡に置かれているのは、我々の感覚的認識そのものが、時間的な存在としての「肉体」の一部であるからだ。事物の「本性」を把握する為には、生成的で現象的な感覚の機能に頼ることは出来ない。滅び得る認識は、滅び得る対象しか捉えることが出来ない。

 プラトンの哲学的要求は、こうした現象的=生成的な制約への服属を承諾しない。つまり、彼は人間の認識が相対性の枠組みの中へ幽閉されることを峻拒している。プラトンは「理性」(logos)の絶対的な性質を強調し、それが事物の「本性」を捉え得る唯一の手段であり機能であることを説いた。「理性」は普遍的な事実だけを取り扱い、感覚的認識が陥る「流動性」の宿命を超越すると看做される。「理性」の認める真実は、如何なる時間的条件によっても遷移することのない絶対的な普遍性を伴うのである。

 けれども、そのような超越的機能が何故、有限である人間の「肉体」に備わっているのか。例えばルクレーティウスのように「霊魂」と「肉体」の有機的な合一を信じる見地に立てば、理性的認識と感覚的認識の峻厳な区別は成立しない。「霊魂」と「肉体」の有機的合一は、必然的に「霊魂」の有限性というアンチ・プラトニックな帰結を析出するからである。有限なる「霊魂」から超越的な「理智」(logos)が導かれ得るのであれば、有限なる「肉体」から導かれる感覚的認識も同様に超越的であり得るだろう。こうした論理に反駁する為には、不可避的に「霊魂の肉体に対する独立性」という命題を提起しなければならない。「霊魂」の普遍的な性格を認めなければ「霊魂」による認識の普遍的な性格を論証することは出来ない。従って「霊魂」は有限なる可死的な「肉体」から分離され、その自存的な性格を承認されねばならない。

 可死的な「肉体」から分離された「霊魂」は定義上、如何なる変容も遷移も免かれ、普遍的な仕方で、つまり無時間的な仕方で存在する。それならば人間の「霊魂=精神」が様々な不正や悪徳に覆われ得るのは何故なのか。こうした設問に対しては、他の事物に関する場合と同様に「実在=生成」の弁別が応答することになる。「霊魂」の本質は美しく聡明なものであるが、様々な偶有的要素と混淆することによって、その本来的な美徳が抑圧されてしまうのである。「理智」による普遍的な認識が歪められるのは、それが「感覚」による相対的な認識との癒合を強いられる為である。従ってプラトンの学説は不可避的に「霊魂の浄化」という理路を包摂することとなる。それは「霊魂」から「可死的=生成的=現象的」な要素を除去するということである。

 こうした論理を「魂の三区分」の見地から眺めてみれば、事態は一層鮮明な仕方で解剖される。プラトンの考えでは、人間の「霊魂」は「理性=気概=欲望」の三つの範疇に分類される。これらの要素において、普遍的な認識の獲得に対応するのは「理性」の部分である。他方「気概」及び「欲望」は、専ら相対的で生成的な現象に関与する部分であると看做される。従ってプラトンは「気概」及び「欲望」に対する「理性」の優越と権威を認めることで、人間の「霊魂」が「肉体」に代表される可死的な要素へ服属することのないように倫理学的な警告を発する。それは同時に「肉体的快楽」に対して「精神的快楽」を優越させることを含意する。「苦痛」との対比によって喚起される相対的な「快楽」を、理性を通じて享受される「真実の快楽」と弁別する議論は、こうした背景を踏まえて展開されるのである。

 「実在するもの」と「現象するもの」との区別は、プラトニズムの壮麗な体系を支える最も核心的な論理である。「どのようにあるか」ということと「どのように見えるか」ということは等価ではない。「真実らしく見える」ものが「真実である」とは限らない。例えばプラトンによるソフィストへの批判は、彼らの駆使する巧妙な「弁論術」を「現象するもの」に、プラトン自身の標榜する「ディアレクティケー」(dialektike)を「実在するもの」に紐付けることで成立している。「国家」の全篇を通じて議論される「正義」の主題に関しても、他者から「正義であると思われること」と「実際に正義であること」との区別は重要な意義を担っている。「芸術」に関する議論においても、プラトンは芸術家の「創作」に就いて、それが事物の表層的な「模倣」(mimesis)に留まり、精確な「知識」(事物の「本性」に対する適切な理解)の裏付けを欠いている点を指弾している。つまり彼は事物の「本性」(それが実際にどのようなものであるか)を知らずに、事物の「表層」(それがどのように見えるか)だけを把握し、表現することで、恰かも卓越した「叡智」の所有者であるかのように振舞う芸術家の姿勢を、欺瞞的な態度として排斥しているのである。

 民主主義的な政体に関するプラトンの懐疑も、同様の理路に基づいている。多数派の原理に依拠し、民衆の公約数的な総意によって国家の「守護者」を選任するデモクラティックな社会は、往々にして「実際に優れた人物」よりも「人々に優れていると思わせることに長けた人物」を重んじる欺瞞的な帰結へと至る。こうしたポピュリズムが齎した歴史的な悲劇は枚挙に遑がない(民主主義的政体が「僭主独裁」の成立を排除し得ないことは、例えばナチス・ドイツの事例が実証している。そうした理路を、プラトンは「国家」において明晰に予見している)。つまり、如何なる話柄を扱う場合においても、プラトンの議論は「実在=現象」の二元論的な構図に依拠する点で首尾一貫しているのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)