サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「パイドロス」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。

 「パイドロス」の前半において熱心に追究される主題は「恋愛」(eros)である。尤も、この「恋愛」に関する精密な定義を示すことが、必ずしも当座の目的であるとは言えない。恐らくプラトンの意図は「恋愛」が「両論併記」を受け容れる流動的な振幅を備えた主題であることを読者に告げる為に、リュシアスの議論とソクラテスの議論を最初に併置してみせたのである。

 リュシアスは「自分のことを愛する者より、愛さない者に身を任せるべき」であると論じ、一方のソクラテスは「自分のことを愛する者に身を任せるべきである」と論じる。興味深いのは、何れの言い分にも相応の説得力が備わっているように聞こえることだ。リュシアスは「恋愛」の野蛮で利己的な側面に就いて論じる。彼の論述の方針に基づいて、ソクラテスが一層精緻な表現を以て粗描してみせた「エロス」(eros)の姿は醜悪で、独善的且つ抑圧的な権威を纏っている。

 だから、恋する者は必然的に嫉妬ぶかくならざるをえない。そして一般に、立派な人間となるのにとくに役だつ数多くの有益な交わりから愛人を遠ざけることによって、重大な害悪をもたらす因となるのは、さけられないことである。とりわけ、叡智を最も高めうるような交わりをさまたげるとき、この害悪は最大となる。叡智を最も高めるものといえば、神聖な哲学のいとなみこそがそれであって、恋する者は、自分が軽蔑されるようになるのをおそれるのあまり、愛人をこのいとなみから遠ざけずにはいられない。またその他一般に、彼は、自分の愛人が何ごとにつけても無智のままでいて、何ごとにつけても、恋している自分のほかには目をくれないようにと策をめぐらすのは、必然のなり行きである。そういった彼ののぞむ通りの人間に愛人がなるならば、愛人はたしかに、自分を恋している彼にとってはこの上なく快い人間となるわけであるが、しかしそれは、われとわが身を最も毒することにほかならないであろう。

 このようにして、精神的な面の事柄に関しては、心に恋をいだく人間は、保護者として、交際の相手として、どうみてもけっして有益な人間ではないのである。(『パイドロス岩波文庫 pp.46-47)

 「パイドロス」の執筆におけるプラトンの綜合的な意図に就いては暫し措く。リュシアスの著述を敷衍する形で、ソクラテスによって展開された議論は、所謂「恋心」に関する適切な分析に成功しているように思われる。この「恋心」は、自己の享楽に他者を奉仕させる狭量な執着と同義である。その便利な奴隷の離反を防ぐ為に、恋する者は恋される者を「無智」と「孤立」の裡に収監しようと策謀する。それは傍目には醜悪な「搾取」の関係に他ならないが、支配者の独善的な悪徳と同様に、奴隷の側にも力強い他者への盲従を厭わない卑屈な悪徳が備わっている。つまり、こうした関係は隠然たる「共犯」の密約に支えられているのである。

 こうした「エロス」の正体は要するに、官能的な欲望による「霊魂の独裁」であると言えるだろう。肉体的な享楽が、総ての欲望や未来への配慮に優越し、当人たちの霊魂の秩序を完全に掌握しているのである。それゆえにリュシアスは「自分のことを愛さない者に身を任せるべきである」と結論する。言い換えれば、自己の存在を官能的な仕方で欲することのない相手に限って、官能的な関係を結ぶべきであるという逆説的な表現が、リュシアスのコロラリーなのである。

 しかしながら、自己への官能的な欲望を持たない相手に限って、官能的な関係を結ぶべきであるという奇態な格率は、必ずしも理解の容易な命題ではない。自己に対して官能的欲望を感じない相手と性的関係を結ぼうと試みるのは、如何なる動機に基づく行動だろうか。欲望の存在しない場所で、欲望を充足させることは論理的に不可能である。こうした疑問を解決する為には恐らく「功利的打算」という観念の補助線が必要だろう。つまり、官能的な関係をそれ自体の享楽の為ではなく、何らかの外在的な利益を得る手段として駆使すべきであるという狡智が、リュシアスのコロラリーには潜んでいるように思われるのである。

 若しも「エロス」が邪悪な享楽と同義であるならば、相手が誰であろうと、官能的関係を取り結ぶことは忌避されるべきだろう。「恋する者の欠点」を論うことは、実際には「エロス」そのものの本質的な悪徳を排撃することに等しい。欲望は理性によって適切に制御されねばならないが、それを功利的な打算の為に使役することもまた、一種の世俗的な享楽に対する衝迫に他ならない。

 他方、ソクラテスの語る反駁は、所謂「エロス」の両義的な性質に論拠を求めている。「エロス」は肉体的=相対的な享楽への欲求であると同時に、超越的な「実有」(仏教的表現を拝借する)の把握が齎す「真実の快楽」への肯定的な契機としても機能する。この場合、恋することは、相手の存在を通じて「実有」の認識を求めることと同一視される。言い換えれば、一口に「エロス」といっても、そこには「仮有」に対するものと「実有」に対するものの二種類が同時に含まれているのである。こうした区分は、プラトニズムの総体を規定する根本的な原則である。つまり、事物に関する認識を「実在」と「現象」の二項対立に還元することが、プラトニックな思考の基礎を成しているのである。

 まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてある﹅﹅ ところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である。真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。されば、もともと神の精神は――そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこのことは同じであるが――けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、いま久方ぶりに真実在を目にしてよろこびに満ち、天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれるその間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、《正義》そのものであり、《節制》であり、《知識》である。この《知識》とは、生成流転するような性格をもつ知識ではなく、また、いまわれわれがふつうある﹅﹅と呼んでいる事物の中にあって、その事物があれこれと異るにつれて異った知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうの意味である﹅﹅ものだという、そういう真実在の中にある知識なのである。(『パイドロス岩波文庫 p.74)

 プラトニズムの倫理的規範は、こうした「実有」の観照を「幸福」の最大の源泉として規定する。「実有」を把握することは単なる道徳的な目標に留まらず、何よりも先ず個人の豊饒な実存を約束する有益な根拠として称揚されるのである。「生成流転するような性格をもつ知識」とは端的に言って感覚的=経験論的な認識を意味する。つまり「エロス」に関しても、感覚的=経験論的な水準に留まるものと「知性のみが観ることのできる」理性的水準に達するものの二種類が考えられるのである。そして両者を繋ぐ貴重な接点として「美」の概念が持ち出される(従って「絶対者の希求」に生涯を捧げた作家・三島由紀夫が、殊更に「美」の概念を重視したことは適切な帰結であると言える)。「美」は「実有」においても「仮有」においても、人間の魂を魅了し、劇しい欲望を喚起する特権を与えられている。プラトンが「美」を重んじるのは、それが「感覚」から「知性」への飛翔を促す最も有効な媒体である為なのだ。

 さて、秘儀に参与したのが遠いむかしになった者、あるいは堕落してしまった者は、この地上において美の名で呼ばれるものをみても、この世界からかの世界なる《美》の本体へとむかって、すみやかに運ばれることはない。したがって、そういう者は、美しい人に目を向けても、畏敬の念をいだくこともなく、かえって、快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で、交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしないのである。(『パイドロス岩波文庫 pp.84-85)

 低劣な「エロス」の虜囚に留まる者は、たとえ美しい事物に逢着したとしても、その背後に超越的な「実有」を見出そうとはしない。その認識的な水準は「生成流転」を義務付けられた感覚的な表象の裡に拘禁されている。しかし優れた知性の持ち主は、美しい事物を通じて「実有」としての「美」を想起し、超越的な世界への帰還を熱烈に希求するようになる。このようにプラトンソクラテスの口を借りて陳述する「エロス」の姿は、殆ど宗教的な情熱に等しい。単なる肉体的な享楽の希求に留まる「エロス」は、侮蔑的に排斥される。それが徐々に段階を踏んで超越的な「実有」への情熱的な希求に昇華されない限り、世俗的な「恋心」は単に節制されるべき野蛮な悦楽への欲求に過ぎない。けれども、それは「恋心」そのものの根源的な否定を意味するのではない。素朴な肉体的恋愛が、超越的な「慕情」へ通じる階梯の端緒であることは、明白に承認されているのである。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)