サラダ坊主日記

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ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 7

 十九世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 ともかくここで、知力がかろうじてぎりぎり標準程度であるために「精神的欲求をもたない」人間に言及せずにはおられない。彼らは「俗物(Philister)」と呼ばれる。この表現は学生生活を出所とし、もっぱらドイツ語特有のもので、後にはもう少し高次の意味で用いられるようになったが、詩神ミューズの子とは正反対の人間を指す点で、なおも類似の意味をもつ。つまり俗物とは、文芸・学術をつかさどる女神とは無縁の者である。そこで私はより高次の観点から、俗物とは現実ならぬ現実にいつまでも大真面目にかかずらう人という風に定義したいが、こうした先見的定義は、一般の人向けにわかりやすくした本書の立脚点にそぐわず、そのために読者全員に十分ご理解いただけないかもしれない。だが俗物について最初にあげた定義なら、詳細な解説をつけやすく、肝心な点、すなわち俗物の俗物たるゆえんの特性のあらゆる根源を十分によく表している。これによれば、俗物とは「精神的欲求なき者」だ。ここから実にさまざまな推論がなされる。第一に俗物その人について。俗物は先にあげた「真の欲望なくして、真の快楽はない」という原則通り、「精神的楽しみ」というものをもたない。認識と洞察そのもののために認識と洞察を餓えたように希求することはなく、これと実に似通っているが、真に美的な喜びを希求することもないので、これらによって生活が活気づくことはない。けれども、たとえば流行や権威から、こういう種類の楽しみを押しつけられると、一種の強制労働としてできる限りさっさと片付けるだろう。俗物にとって真の楽しみは、官能的な楽しみだけだ。これで埋め合わせをする。したがって牡蠣とシャンパンが人生のクライマックスであり、肉体の幸せに寄与するすべてを手に入れることが、人生の目的となる。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.67-69)

 ショーペンハウアーの定義と表現に従えば、この「俗物」という「精神的欲求」を欠いた人々は、本書において最も幸福な人間の財産であると目される「知的生活」を保有する能力を授かっていない種族ということになるだろう。俗物は、現実との密接な癒着の状態を生きている。感覚を通じて把握することの困難な事柄に就いて、具体的な感興を覚えて愉しむという営為に参与することが出来ない。これを直ちに不幸な性質だと断定する必要はないが、彼らの生涯が人類に固有の資質や能力や尊厳から切り離されているという事実に、否定的な意義を見出すことは容易である。

 感性的認識を「臆見」(doxa)として排斥し、決して普遍的な「真理」に到達することのない虚妄として断罪したプラトン、或いはその思想的淵源と考えられるパルメニデスならば、このような「俗物」を露骨に軽侮し、批難したであろうことは想像に難くない。恐らく「俗物とは現実ならぬ現実にいつまでも大真面目にかかずらう人」というショーペンハウアーの定義は、感覚的表象を頼りにならない一過性の幻像として排除する哲学的伝統に則った表現であろうと推察される。俗物の欲求は常に肉体的な官能を刺激する類の享楽に捧げられている。その官能的な喜悦の彼方に「真実在」を探し求めることもなく、只管に享楽の無際限な反復を希うばかりである。そして束の間の享楽が驟雨のように病んでしまうと、彼らの精神は虚無と倦怠に領され、一種の麻痺状態に陥る。その苦痛から逃れたいと思う切実な衝迫が、次なる享楽への貪婪な欲求を煽動する。彼らは目に見えるもの、指先で触れられるもの、鼓膜で捉えられるものだけを現実的な世界として享受し、感覚を超越した世界の存在に就いては片時も関心を寄せず、その必要性も感じない。彼らは現実的な幸福、即ち自己の外部に源泉を有する類の幸福以外に、自らの幸福を形成する根拠を持たない。従って現実の禍福と自己の禍福との間に極めて直接的な相関性が生じる。外界を超越して、自由な閑暇の裡に憩い、個人的で主観的な愉楽を味わうという習慣は、俗物には無縁の生き方である。

 退屈しのぎに、舞踏会・芝居・社交的集い・トランプ遊び・賭け事・馬・女・酒・旅行など思いつくすべてを試みる。だが精神的欲求がなければ、精神的楽しみは得られないので、なにをやっても退屈しのぎに十分ではない。だから俗物には、鈍感で無味乾燥な、畜生めいた一直線ぶりがつきもので、それが俗物の特徴である。何事に対しても喜びが湧かず、刺激も感じないし、関心をそそられることもない。官能的な楽しみはまもなく底をつき、同類の俗物から成る社交の集いにはじきに退屈してしまい、トランプ遊びも結局、骨折り損のくたびれもうけである。場合によっては、俗物には俗物なりの虚栄の楽しみがある。それは富や位階や権勢や権力で他人をしのぎ、その点で尊敬される、あるいは、せめて同じ俗物の中でも高い地位にいる俗物とおつきあいをして、虎の威を借るキツネよろしく栄光の反映に浴するというものだ(英語のsnob)。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 p.69)

 現実には、一つの欲望において官能的要素と精神的要素とは入り組んだ複合を形成しているものである。しかしながら俗物は、肉体の感官そのものに直接的に訴求する種類の快苦しか認識しないので、その欲望の対象が孕んでいる精神的価値の側面を享受することが出来ない。情事や酒や美食は、我々の感官を直截に興奮させ、陶酔させるものであるから、俗物にとっても大いなる歓喜の源泉であると言える。しかし残念ながら、これらの事物や営為が備えている精神的で抽象的な価値に対しては、愉楽を見出す資格を欠いているのである。極端に言えば情事に際して、性的な快楽の強度が同一であるならば、同衾の相手が誰であろうと頓着しないというのが俗物の発想である。例えばそこには、特別に愛する女と睦んでいることへの歓びのようなものは混入し得ない。そういう抽象的な観念は、彼らの関心を誘惑しない。また、彼らは肉体の昂奮を幸福の要件として重んじるので、絵画や彫刻に触れても、感覚を通じて抽象や連想へ至る精神の繊細な働きを欠いている為に、単なる官能的な倦怠しか味わうことが出来ない。感覚を直截に刺激する原始的な享楽だけが、彼らの内面的な虚無を潤す手段なのである。言い換えれば、彼らには「知的生活」という幸福に関する安全保障の方策が欠けている。肉体的な享楽が常に彼らの官能を充足させ続けることは、様々な理由によって不可能である。外在的な機会に恵まれないという一般的事実に由来する事例は固より、そもそも肉体的な享楽は「感覚の落差」によって生じるという原理に基づいているので、与えられる享楽の強度が無限に向上し続けない限り、絶えざる快楽の裡に身を持することは出来ないのである。

 あらゆる俗物の大きな悩みは、観念的なものからはいかなる楽しみも得られず、退屈から逃れるために、たえず現実的なものを必要とすることだ。つまり現実的なものは、いっぽうではじきに底をつく性質のもので、楽しみどころか疲労をもたらし、他方ではあらゆる種類の災厄を引き起こす。これに対して、観念的なものは決して底をつくことがなく、それ自体は罪もなければ害もない。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.70-71)

 俗物の幸福は常に「現実的なもの」の関与を要請する。現に物質的な力によって官能が刺激されていない限り、彼らは如何なる幸福も歓喜も享受することが出来ない。しかも、物質的な力は常に有限であり流動的なものであるから、彼らの幸福自体も極めて不安定で脆弱な性質を帯びざるを得ない。こうした理由から、彼らは外界や他者に対して超然たる態度を堅持し、自由な閑暇の裡に安息を得る賢者の生き方から排斥される宿命を負っているのである。