サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 6

 十九世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 詳しく言うと、私たちの実利的な現実生活は、激情につき動かされなければ、退屈で味気ないものだが、激情につき動かされると、たちまち苦痛が生じる。それゆえ、自分の意志に奉仕するのに必要な量を越えた、有り余る知性を与えられた人々だけが、幸福ということになる。というのも、有り余る知性のおかげで、かれらは現実生活のほかに、「苦痛を伴わずに」、しかも生き生きと没頭できる楽しい知的生活を営むからである。単に「余暇がある」というだけでは、すなわち、知性が意志に奉仕するのに「忙殺されていない」というだけでは十分ではなく、能力が現実に有り余っていることが必要だ。なぜなら有り余る能力のみが、意志に奉仕しない純然たる知的活動を可能にするものであり、「知的活動なき余暇は死であり、生身の人間を墓に葬るようなもの」(セネカ)だからである。この有り余る能力の大小に応じて、現実生活のほかに営み得る知的生活には、昆虫・鳥類・鉱物・貨幣の単なる収集・記録から、文学や哲学の最も優れた業績にいたるまで、無数の段階がある。こうした知的生活は、退屈のみならず、退屈から生じる身の破滅を防いでくれる。すなわち悪友を避け、幸福を現実生活にのみ求めるときに陥る、たくさんの危険・厄災・損害・浪費に対する予防策になる。ちなみに私の哲学は、私に何やら実利をもたらしたことは一度もない。だが私の哲学のおかげで、私はおおいにいやな目にあわずにすんでいる。

 これに対してふつうの人は、人生の楽しみに関して、自己の外部に頼る。財産や位階、妻子や友人や社交などに頼る。彼の人生の幸福はこうしたものに支えられている。だから彼がそれらを失ったり、それらに幻滅したりすると、幸福は崩れ去る。この状態は、「彼の重心は彼の外部にある」という言葉で表現できる。何事によらず外部からの楽しみを求めるため、資金が許せば、別荘を買ったり馬を買ったり、祝賀会を催したり旅をしたりと、とにかく贅の限りを尽くす。これは、力と健康の真の源泉はおのれの生命力なのに、衰弱した人間が肉スープや薬剤で力と健康を手に入れようとするようなものである。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.58-59)

 生きることの歓びの源泉を、外在的な現実の裡に求めることの避け難い危険を、ショーペンハウアーは幾度も強調する。彼が用いる「意志」という言葉の厳密な解釈は必ずしも容易ではない。それは単なる「克己的な性向」といったものではなく、主体の自由な裁量に基づく判断の総体でもない。それは何よりも先ず人間の生命活動を根底から支える強烈な衝迫であり、認識や理智によって編輯される以前から存在する盲目的な欲望である。一般に我々の肉体に備わった認識の諸機能(理性も含めて)は、こうした原初的な「意志」の活動や要求を適切に実現する為の手段として形成され、発達を遂げてきたと考えられる。言い換えれば、この場合の「意志」という言葉を、セネカ的な「理性」の類義語のように解釈してはならない。つまり、横暴な欲望や感情を支配し、適切な水準の裡に保ち、全体の調和を維持する優れた司令官のような存在として、ショーペンハウアーの駆使する「意志」という用語を措定してはならない。寧ろ、ショーペンハウアーの「意志」は、あらゆる精神的機能に先立って存在し、稼働する原始的な精力であり、磨き抜かれた理性の指示に服するものではなく、理性さえも自らに従わせて欲望の達成の手段として虐使する剣呑な力動なのである。その意味では、この「意志」という言葉の語釈は「激情」のそれと限りなく近似している。

 ショーペンハウアーの幸福に関する議論は、理性による自己支配を貴び、感情や欲望の適切な節制による魂の調和を崇めたセネカの見解と、著しく親和している。或いは、古代ギリシアの哲学者たちの提唱した倫理学的知見とも美しく唱和している。彼は理性の絶対的な優越と栄誉を謳歌するほどに楽天的な人物ではないが、卓越した知性の所有者に限って賦与される特権的な幸福の価値に就いて、明晰な筆致で語っている。彼は「有り余る知性」の幸福に対する劇的な効用に就いて論じている。優れた知性は単なる「意志」の奴隷としての役割に埋没せず、また「意志」の働きが鈍化することによって生じる堪え難い「倦怠」への免疫機能を賦活する。「意志」の活発な働きは生の充実を齎すが、それは同時に人間を無数の欠乏と飢渇の苦しみへ溺れさせる。他方「意志」の弱体化は、生きることに対する気力の喪失を齎し、人間の心を救い難い退屈の裡に逼塞させる。この双極的な不幸の構図を超克するに当たって、殆ど唯一の希望の光として役立つのは発達した理智の働きのみである。それは「意志」の強権的な命令に唯々諾々と服属するしかない現実的な生活からの「超越」を可能にする。無論、それは現実的な生活において発生する諸々の苦痛を、優れた理智が抹消してくれるという意味ではない。我々凡人は「意志」に虐使されて齷齪と奔走する生活を強いられ、そのことに多かれ少なかれ疲弊と苦痛を覚えるが、現に「意志」の圧政から解き放たれて「自由な閑暇」を授かると、途方もない退屈に苛まれて結局「意志」の暴力的な要請が恋しくなるという悪循環に陥っている。この避け難い「退屈」を充実した時間に置き換える媒介となるのが、強靭な理智の活動である。純然たる「認識」に附随する歓喜は、我々の精神に対して「意志」への服属以外に生の充実が有り得るのだということを明確に教えてくれる。良くも悪くも、こうした知的生活における歓喜や幸福は、現実生活における成功や幸福に特別な影響を及ぼすものではない。無論、優れた知性は「意志」の有能な助手として活躍し、現実生活における多様な収穫の増大に充分な貢献を示すだろう。問題は、そのような現実的幸福が極めて脆弱で、偶発的な運命による変動を日夜繰り返す不安定な歓びであるという点に存する。知的生活における幸福は、現実生活における幸福の欠如に対する鎮痛剤の役目を果たす。言い換えれば、ショーペンハウアーは人間的な幸福の確保に関して「ダブルインカム」(double income)という方式の選択を推奨しているのである。

 純然たる「認識」の歓びは、現実の生活において日常的に「意志」が要求する諸々の具体的な対象と、自己との関係の内実によって左右されることがない。官能的な喜悦の獲得は、外在的な対象との実際的な関係の締結を必ず要求するが、純粋に何かを知ったり考えたりすることは、外在的な対象との関係に基礎を置かない。官能的な喜悦もまた「認識」の一種に他ならないのではないかという反論に対しては、純然たる「認識」は無時間的に成立するが、官能的な歓喜は必ず現在的な関係の成立を要求すると答えておこう。例えば濃密な情事の記憶を思い返して愉しむだけならば、それは記憶と意識の許す限り、無時間的な仕方で随意に行なうことが出来るが、現に情事を営みたいという欲望は、そのような現実的状況の獲得を必ず要求する筈である。しかし、その要求が随意に充たされるとは限らず、それゆえに欠乏や飢渇の苦しみが避け難く迫り来ることになるのだ。言い換えれば「意志」の要求は常に現在的で物理的な充足に向かっているのである。「意志」の高圧的で貪婪な欲望は、現実的な充足以外の報酬を望まない。しかし解放された優雅な知性は、現実的な充足の代わりに何らかの「認識」を保持するだけで充たされ得るのである。