サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 5

 引き続き、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 だれでも、自分にとって最良で肝心なことは、自分自身であることであり、自分にとって最良で肝心なことを成しうるのも自分自身である。自分にとって最良で肝心なことが多ければ多いほど、したがって、自分自身のなかに見出す楽しみの源泉が多ければ多いほど、それだけ幸福になる。だからアリストテレスの「幸福は、自分に満足する人のもの」という言葉は、まことに正しい。すなわち、幸福と享楽のあらゆる外的源泉は、その性質上、きわめて不確かで当てにならず、はかなく、偶然に左右され、どんなに有利な状況にあっても、たちまち滞ることがある。それどころか、これらの外的源泉が常に手元にあるのでないかぎり、こうした事態は避けがたい。高齢になれば、これらの源泉は当然、ほとんどすべて涸れてしまう。すなわち、寄る年波には勝てず、色恋沙汰も冗談も旅心も乗馬の楽しみも消え失せて、社交に向かなくなり、そのうえ友人や親類まで死神にさらわれてしまう。その人自身が常にそなえているものが、いよいよ大切になってくる。これが最も長持ちする。その人自身が常にそなえているものこそ、年齢の如何にかかわらず、幸福の真の源泉、唯一の永続的な源泉であり続ける。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.48-49)

 ショーペンハウアーの文体に彫り込まれた拭い難いペシミズムの細緻な刻印は、我々に不合理な現実の手厳しい性質を思い知らせるが、その一方で、頼りない泡沫のような楽観的幻想に頼らない分、それだけ心強く感じられ、最終的には一種の乾燥した理智的な諧謔さえ漂わせるように思われる。外在的な根拠に基づいて齎される無数の享楽の本質的な脆弱性の証を羅列するときの彼の筆致は仮借無い自虐の風味すら纏っているが、こうした考え方は「生涯現役」の美名の下に、齢を重ねても若々しい肉体的喜悦を手放さずに賞味し続けることを奨励する現代の日本の風潮に違和感を覚える者にとっては、貴重な思索の清涼剤の効能を発揮するものである。

 煎じ詰めれば、ショーペンハウアーは幸福の源泉を成る可く自己に内在する要素で賄うべきであることを繰り返し説いている。内面的な空虚は、そのような「自家発電」の実現を根底において妨げ、手の届かぬ不可能な夢想に貶めてしまう。だから、彼らは喜悦の電源を自己の外部に探し求め、あらゆる手練手管を弄して、諸々の猥雑な享楽の孕んでいる熱量を、たとえそれが明確に不健全な副作用を齎すものであると知っていたとしても、構わずに自己の内部へ引き入れ、それによって冷え切った無味乾燥な自己の魂を潤し、慰藉しようと躍起になるのである。けれども、外在的な享楽の大半は、紛れもないこの「私」の為に発明された特注品ではなく、その供給に就いて万古不易の揺るぎない契約書が事前に取り交わされている訳でもない。此方がその享楽の納入に値する相応の対価を弁済する能力を失ってしまえば、冷酷な現実は直ちに電線を絶ち切り、見捨てられた人間の内在的充実の漸進的な涸渇を憐れむことさえしない。外部からの輸入に頼り、自国の産業を保護育成する地道な労役を怠った報いは、主として当人の孤独な晩年において一挙に償却されることとなる。そうなってから慌てふためいても間違いなく手遅れであり、荒れ果てた圃場に苗を植えても発芽を迎える前に寿命が尽きてしまう。

 尤も、ショーペンハウアーは極めて辛辣な見解の持ち主であるから、巧みな自家発電の経営が万人に可能であるなどと、楽観的な安請け合いをして読者を安堵させる表層的な労わりとは無縁である。彼は各自の個性が生得的なものであり、生涯を通じて根源的な変容を遂げることはなく、後天的な教育による改善の効果も限定的なものに過ぎないことを明白に断言している。言い換えれば、生まれつき内面の貧しい人間が不幸な晩節を迎えることは避け難い惨劇であると、無慈悲な診断を下して躊躇いもしないのである。生得的な資質に恵まれない人間は、若年の頃は数多の享楽に群がってそれを意地汚く貪り、晩年に至っては享楽の側から見限られて度し難い倦怠と荒廃の裡に坐して死を待つほかないということだろうか?

 ありふれたふつうの人は、意志を刺激されて、すなわち彼の個人的興味をそそられて、何かある事柄に旺盛な関心を寄せる。だがあらゆる意志の持続的興奮は、少なくとも単純なものではなく、苦痛と結びついている。意志を意図的に興奮させる手段として、ごく些細な興味をかきたてることで、持続的でも深刻でもない瞬間的で微かな苦痛を引き起こし、その意味で意志をくすぐったにすぎないとみなしうる手段がある。これがトランプ遊びで、いたるところで「上流社会」の一貫した活動となっている。

 これに対して、圧倒的な精神的能力に恵まれた人は、「意志」をまったく介入させずに、純然たる「認識」によって強い興味を抱くことができる。いや、抱かざるをえない。彼は意志をまじえずに関与することで、苦痛とは本質的に無縁な境地、いわば神々が軽やかに生きる別天地に身を置くのである。だが世の常の人々は、個人的繁栄の細々した利害やあらゆる種類の悲惨さしか眼中になく、ぼんやりと一生を過ごし、どんよりした淀みをいくばくか掻きたてることができるのは荒々しい情欲の炎だけなので、前述した困苦と戦うことを目的とする活動が一段落し、自分自身に立ち返ると、たちまち耐え難い退屈におそわれる。これに対して、圧倒的な精神的能力に恵まれた人は、考えがあふれてきて、一貫して潑刺とした有意義な生活を送る。彼にふさわしい興味深いテーマに身をゆだねることが許されれば、たちまちそれに没頭し、そうでなくても、彼自身の中にこのうえなく高尚な楽しみの源泉を宿している。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.55-56)

 ショーペンハウアーは各自が「自由な閑暇」を用いて没頭する楽しみの種類を「三つの生理学的な基本能力」に基づいて区分し、それぞれに「再生力」「身体的な刺激」「精神的な感受能力」という名称を附している。彼は古代ギリシア以来の倫理学的伝統に則り、動物から区別された「人間」に固有の特性を「精神的な感受能力」或いは「認識」の裡に見出して、そこから「知的な楽しみ」こそが最も高尚で強力なものであるという見解を敷衍している。彼は純然たる「認識」に随伴する喜悦こそが、物質的な条件の脆弱性や、加齢によって齎される諸々の衰亡によって最も妨げられることの少ない、安定した幸福の源泉であることを強調する。この場面においても、生得的な資質の不平等に関するショーペンハウアーの断定的な信条は見事に貫徹されている。彼が幸福の「自家発電」の圧倒的な重要性を訴えるとき、その念頭に据えられているのは明らかに「精神的な感受能力」を通じて獲得される「認識」の無際限な歓びである。「再生力」や「身体的な刺激」と関連する諸々の享楽は、肉体的な条件と物質的な条件とに深く依存して形成される為、その確保は否が応でも他律的な原則に頼らざるを得ない。無論「認識」もまた、脳を始めとする肉体的な器質に依存しているので、その意味では絶対に堅牢な要素であると言い得る訳ではないが、少なくともそれが「人間」を動物から識別する明確な指標であり、固有の特質であることを鑑みれば、人間的な幸福に関する議論が「認識」或いは「知性」の重視に辿り着くのは論理的必然である。

 そのため、こうした長所をそなえた人間は、身辺にまつわる実生活のほかに、第二の、つまり知的生活を営むことになる。世の常の人々は、この味気なく空疎で悲しみに満ちた日々の生活そのものを目的とせざるを得ないのに対し、彼にとって、この第二の知的生活がしだいに本来の目的となり、第一の身辺にまつわる実生活は単なる手段に思えてくる。したがって彼は主として、この知的生活に没頭することになり、洞察と認識はたえず豊かさを増し、相互に関連が生じ、どんどん向上し、あたかも芸術作品が仕上がってゆくように、ますます練り上げられ、全体が完成する。この知的生活に比べると、他の人々の実利一辺倒で、個人的繁栄をめざすだけの人生、平面的に広がるだけで深みある成長ができない人生は、なんとも情けない対照をなしている。にもかかわらず世の常の人々は、前述したように、圧倒的な精神的能力に恵まれた人にとっては手段にすぎないこうした生活を本来の目的とせざるをえない。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.57-58)

 こうした論述は、プラトンアリストテレスの時代から連綿と持続する「観想=テオリア」(theoria)の理念と、その重要性に対する積極的な荷担を含んでいるように思われる。「テオリア」の齎す多様で強靭な歓喜は、人生における「苦痛と退屈」の双極的な構図を超克し、止揚する重要な契機を担っていると考えられる。「観想的生活」は、我々の実生活における諸々の利害とは無関係に、しかも外在的な「電源」に依存することなく営まれ、維持される。生得的な資質が孕む障碍ゆえに「観想的生活」への参与を阻まれている人々は、尽きることのない「倦怠」の悪魔的な権力から逃れる為の適切な隠れ処を確保することが出来ず、止むを得ず破滅的な享楽の数々へ身を寄せ、内面的虚無の齎す苦痛な症状を一時的に緩和する途を選び取る。内在的貧困に苛まれる人々が逃げ込む先は「享楽」及び「困苦」の何れかに限られる。どちらを選ぶにせよ、彼らを内在的貧困という堪え難い現実から解放するのは「激情」であり「興奮」であり「陶酔」である。苛烈な現実を忘却させる為に、豊饒な「認識」の蓄積に励む代わりに、寧ろ彼らは「認識」の積極的な破壊を熱望する。「忘我」の法悦こそ、彼らが最も珍重する人生の果実であり、それは慨嘆すべき内面的貧困を堅実な仕方で改善するのではなく、専ら視野の外部へ一時的に放逐する効能を有する。優れた人間は自己自身へ立ち返ることを至高の報酬として貴ぶが、資質の貧しい人間は自己自身を免かれる為に外在的な享楽へ耽溺する。仮に外在的な享楽が死滅するような事態に陥れば、そのとき堪え難い「倦怠」の媒介する強度の憂愁が、場合によっては彼らを自殺にさえ追い遣ってしまうだろうと思われる。