サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 9

 十九世紀ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 楽観主義にうながされて、この真理を見誤ると、多くの不幸のもとになる。つまり苦悩がないと、その間じゅう、穏やかならぬ欲望のために、ありもしない幸福の幻想が本当らしく思われ、つられて、ついうっかりこれを追い求めてしまう。そうして、まぎれもない現実の苦痛をみずから招く。それから、軽率さゆえに失われた楽園のように、苦痛なき状態が今や過去のものとなり、もはや存在しないことを嘆くが、昔の状態に戻すのは、もはや徒な望みである。あたかも邪悪なデーモンがまやかしの幻影を用いて、最高の現実の幸福である苦痛なき状態から、たえず私たちをおびき出そうとしているかのようだ。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 p.194)

 苦痛は積極的なものであり、具体的な現象に他ならないが、幸福は飽く迄も「苦痛の欠如」という形で消極的に享受されるべきものである。従って我々が幸福を実感する為には、相応の発達した知性による精緻な省察が不可欠である。幸福は実体を持たず、我々の感官や意識に向かって直截に訴え掛けるものではない。苦痛の享受には人並の肉体と意識が備わっていれば充分だが、幸福の享受には一定の知性の働きが要る。それゆえに我々は幸福の実体に就いて誤った幻想を懐き、愚行に走った結果として数々の現実的な苦痛を呼び込むこととなりがちである。

 仮に幸福が積極的なものであり、明瞭な実体を有する現象であるならば、その欠如した状態である「倦怠」は堪え難い不幸のように感じられて然るべきである。けれども、仮に幸福や享楽が実体的なものであるならば、それが必ず「苦痛の解消」という迂遠な過程を経由せねばならない理由は存在しない。苦痛と快楽は相互に独立した形で、無関係に生起すればいい。しかし実際には、我々の感じる快楽は相対的なものであり、何らかの苦痛が解消される過程で一時的に生起する現象に過ぎない。

 こうした議論は必ずしもショーペンハウアーの独創ではなく、例えば古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇にも、快苦の相対的な関係に就いての考察が含まれている。

 「ところで君は」とぼくは言った、「病人たちの言葉を思い出さないだろうか――彼らが病気に悩んでいるときに口にする言葉を?」

 「どのような?」

 「いわく、『健康であることほど快いものはない。だが病気になる前には、それが最も快いものだということに、自分は気づかずにいた』と」

 「そのことなら思い出します」と彼は答えた。

 「また、何かひどい苦痛に悩まされている人たちが、『苦痛の止むことほど快いことはない』と言うのを、君は聞かないだろうか?」

 「聞きます」

 「そして、思うに、ほかにもこれと似た多くの状態に人々が置かれることに、君は気づいているだろう。そのような場合、人々が苦しんでいるときに、最も快いこととして讃えるのは、苦しみがないこと、その種の苦しみの止んだ静止状態なのであって、積極的な悦楽ではけっしてないのだ」

 「それはきっと」と彼は言った。「そういう場合にはその静止状態が、実際に快く望ましいものとなるからなのでしょうね」

 「そうするとまた」とぼくは言った、「悦楽が止んだときにも、快楽の止んだその静止状態は、苦しいものであることになるだろう」

 「ええ、おそらく」と彼。

 「だとすれば、いまさっきわれわれが両方の中間にあると言っていたもの――静止状態――が、ときによって両方――快と苦――になるということになるだろう」

 「そのようですね」

 「しかし、どちらでもないものが両方どちらにもなるというようなことが、そもそもまた可能であろうか?」(プラトン『国家』岩波文庫 pp.308-309)

 プラトンは精密な論証を通じて、苦痛の欠如した状態としての「幸福」或いは「快楽」が相対的な要素に過ぎないこと、従って「幸福」或いは「快楽」の本質を成す条件を満たしていないことを浮き彫りにしている。場合によって「快楽」とも「苦痛」とも呼ばれ得るものを本質的な「快楽」と看做すのは正しい判断ではないとプラトンは論じる。それゆえ世俗的な意味における「幸福」は、誤解に充ちた幻想に過ぎないと判定される。彼の考えに従えば「真実の快楽」は「苦痛の結果として生じる快楽」とは厳密に区別されねばならないのである。

 「さあそれでは」とぼくは言った、「ここでひとつ、苦痛の結果として生じるのではないような快楽を見てくれたまえ。君がさし当っていま、ひょっとして、快楽とは苦痛の止むことであり、苦痛とは快楽の止むことであるというのが本来のあり方だというふうに、考えることのないようにね」(『国家』岩波文庫 p.310)

 プラトンによって明確に排撃された、このような考え方が、貪婪な享楽主義を培養する根源的な土壌であることは論を俟たない。「苦痛の解消」としての「快楽」と「快楽の消滅」としての「苦痛」との間を無限に往復する態度が、人間を破滅的な現実の深淵へ突き落とすのである。そしてプラトンは、こうした性質を有する「快苦」が肉体を経由して享受されるものであることを強調する。無論、プラトンは人間の本質を「肉体」ではなく「霊魂」の裡に見出している思想家であり、肉体的=感性的認識に対する根深い不信を隠さなかった人物である。ここから肉体的享楽を蔑視し、専ら「真理の把握」による「霊魂の充足」を目指す観想的な幸福論が析出される。こうした議論は、ショーペンハウアーが「知的生活」における「苦痛の関与しない快楽」を称揚したことと符節を合するものであると言えるだろう。相対的な苦楽に関する原則が適用されるのは専ら肉体的=感性的な領域であり、その領域に対する固執を放下しない限り、我々は実体を欠いた幸福や享楽に憧れて無窮の彷徨を強いられる境涯から脱することが出来ない。

 ショーペンハウアーは「幸福」は消極的な幻影に過ぎないが、「苦痛」は積極的な現実であると述べている。しかし、プラトンの考えでは「苦痛」もまた一つの幻影に過ぎない。それゆえ彼は純然たる知性的快楽、つまり「快苦」の流動的な混淆とは異なる次元の快楽へ親しむことを、崇高な倫理的美徳として称揚するのである。こうした考え方は、プラトンにおける「実在」と「現象」との絶対的な階級性に基づいている。プラトンは「不確かなもの」を徹底的に排除する作業を積み重ねて「真理」へ到達しようと試みた人物であるから、状況に応じて「快楽」にも「苦痛」にも転じ得るものに「本質」を見出すことは看過し難い謬見であると判定せざるを得なかったのではないか。尤も、プラトンのように肉体的=現象的な世界における禍福を黙殺することは、万人に適した態度であるとは言い難いだろう。

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