サラダ坊主日記

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Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 1

 三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 フランスの夭逝した小説家レイモン・ラディゲに対する熱狂的な偏愛に、三島は随所で言及している。

 そのうち、ちらほら翻訳物なども読むようになったが、中学三、四年のころ、ラディゲを読んでショックを受けた。しかしそのとき「ドルジェル伯の舞踏会」が完全にわかったかというと、どうもあやしい。何だかわからないが、美しい馬をみて美しいと感じるように、作品のいおうようない透明な美しさははっきり見ていた。ラディゲの夭折、あの小説を書いた年齢も、私にファイトを燃やさせた。私は嫉妬に狂い、ラディゲの向うを張らねばと思って熱狂した。小説の反古作りに一段と熱が入ったのは、ラディゲのおかげである。私はしばらくラディゲの熱からさめなかった。ただ、だんだんに、ラディゲの小説の源を探りたい気がしはじめた。「クレエヴの奥方」を読み、「アドルフ」を読み、ラシイヌを読み、ギリシァ悲劇を読んだ。フランス文学の真にフランス的なものにラディゲはつながっていたのだな、ということがわかってきた。しかしフランス文学史や研究書をやたらに読みあさったのは、戦後のことである。(「ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴」『三島由紀夫のフランス文学講座』鹿島茂・編 ちくま文庫 pp.17-18)

 人間が如何なる事物に向かって本質的で特権的な共鳴を示すかという問題は、当人の主観的な個性に深く規定されているので、作品そのものの芸術的な良し悪しとは別に、つまり普遍的価値に対する正当な評価や崇敬とは別に、奇態な偏愛や熱烈な崇拝が生じることとなる。私の個人的な偏愛に就いて言えば、例えば坂口安吾であり、柄谷行人であり、車谷長吉であり、三島由紀夫である。それは作品そのものの歴史的な価値や一般的に定まった評価とは直截な関わりを持たない、極めて恣意的な感嘆の凝結に過ぎないのだが、こうした偏愛が人間の生涯を支える重要な礎石であり、精神の蝶番であることは論を俟たない。また、こうした消息は別に文学に限らず、文化のあらゆる領域に関して、同様の偏向的な事象は日常的に頻出し、世界的に続発しているのである。

 ラディゲに対する三島の深甚で濃密な共鳴は、ラディゲの遺した僅かな文業の裡に見出された特定の要素が、三島の世界観や価値観と見事に重なり合う部分を有していたことの帰結であると考えられる。もっと野卑な表現を用いれば、ラディゲの有する個性の一部が、三島の精神的欲望を励起したのである。無論、テクストに対する官能的欲望は、露骨なポルノグラフィが男根を熱り立たせるように、即物的な肉体性を宿している訳ではない。けれども、それは個人の精神的な中核に確実な興奮を齎し、沈滞を打破し、何らかの運動を喚起した筈である。肉体が興奮するように、精神もまた興奮することが有り得る。その意味では、文学的な感興も一つの官能的な経験に他ならない。

 ラディゲを語る上で重要なキーワードと目されるのは、三島自身も触れている「夭折」という明快な史実である。フランスの高名な芸術家ジャン・コクトーに才能を認められ、僅か二篇の小説だけでフランス心理文学の高峰に列なる栄誉を勝ち得ながら、腸チフスで夭折した彼の悲劇的な生涯は、三島が終生憧れ続けた一つの実存的範型を美しく象徴している。三島が悲劇的な栄光に対する強烈な執着を宿痾としていたことは、彼の遺した夥しい作品が悉く物語っている。尤も私見では、三島は単なる夢想家ではなく、悲劇的な栄光を無効化しようとするニヒリズムの性向も併せ持っていた。悲劇は無惨な現実に超越的な価値、絶対的な栄光を賦与するエピファニックな原理を擁しているが、ニヒリズムは事物に備わった意味を悉く否認し、裸形の物質的現実を明るみに出して、あらゆる人間的な価値を粉砕する。三島由紀夫という作家の巨大な振幅は、双極的な分裂の恒常化に由来するものと考えられる。

 しかしながら、こうした双極的分裂は見た目ほど異質な要素を包含している訳ではないかも知れない。絶対的な価値に憧れ、一体化を熱望する超越的な神秘主義も、あらゆる社会的価値を毀損して荒涼たる現実を剔抉する虚無主義も共に「人間的なものに対する嫌悪」という特性において共通しているように見えるからである。悲劇は人間を神に近似させ、ニヒリズムは人間を純然たる物体に還元する。何れの観念的操作も、人間の平均的で通俗的な様態を否認する営為に他ならない。人間に固有の価値を認めないという点で、神秘主義虚無主義は相互に通底しているのである。

 「ラディゲの死」は、三島の偏愛したレイモン・ラディゲの臨終を、盟友であり恋人でもあったジャン・コクトーの側に主要な視点を据えて描いた短篇である。この作品は明らかに、重大な悲劇に特別な啓示を読み取ろうとするエピファニックな世界観の系譜に列なっている。

 前の年の十二月十二日、巴里ピッシニ街の病院で、レイモン・ラディゲが死んでから、コクトオの心は不断の危機に在った。もともとこの詩人の精神は、軽業師のような危険な平衡を天性としていたのであるが、はじめて平衡を失しそうな危機に立ち至ったので、軽業師にとっては、このことは直ちに死を意味する。(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 p.309)

 ラディゲに憧れ、その夭折と才能に対する栄光に劇しく嫉妬したことを述懐しながらも、三島はこの作品において、ラディゲの内面に潜り込もうとはしていない。それはラディゲという人間が、特別な運命に庇護された超越的な存在であると定義されていた為であろうか。内面を明け透けに語り得るのは生身の卑俗な人間だけであり、超越的な絶対者には、そのような明快な内面など備わっている筈がない。無理にその内面へ忍び入って言葉を紡ごうとすれば、その超越的な栄誉は却って見失われるのではないか。「美しい死」の渦中にある人間は、如何なる客観的な言葉も、つまり小説的な叙述に相応しい言葉を語る能力も資格も有していない。彼はただ目撃され、証言され、崇拝され、追悼される為に存在している。言い換えれば、言葉を語ることは人間に割り当てられた固有の労役であり、神に等しい超越的な種族は、何事かを語る代わりに只管、特権的な「行為」に、つまり世界の総体を一変させ、腕尽くで更新してしまう破壊的な「行為」に殉ずるのみなのである。

 決定的で特権的な「行為」に対する憧憬は、その「行為」が一つの特異な象徴と化して、或る人物の生涯を要約する作用を有していることに基づいて形成されていると考えられる。言い換えれば、三島の強調する「行為」という概念は、単なる種々の行動を指し示すものではなく、恐らくは広義の「生命」を代償として行われ、尚且つ世界に対して決定的な変貌を迫るような類の行動だけを含意しているのである。例えば「憂国」における軍人の心中や「奔馬」における飯沼勲の割腹は、世界に向かって捧げられた「生命」の悲劇的な栄光を象徴的に表象している。こうした性向を要約すれば「殉教」という言葉に尽きるかも知れない。彼らは「生命」を差し出す代償として特権的な栄光に与る。逆に「生命」を節倹する態度は、三島の嫌悪する「老醜」を伴った「長寿」に帰結する。「生命」に関する吝嗇は、人間の堕落した形態であると、彼は頑迷に信じ込んでいたように思われる。ラディゲは自らの「生命」を極限まで磨耗させながら、歴史に名を刻む二篇の小説を遺した。彼は「生命」の積極的な蕩尽によって不朽の名誉を獲得したのである。こうした実存の様態に対する三島の精神的欲望は、その生涯の終幕に至るまで絶えず劇しく脈搏ち続けていたように見える。

ラディゲの死 (新潮文庫)