サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Ecstasy and Nihilism 三島由紀夫「ラディゲの死」 3

 三島由紀夫の短篇小説「ラディゲの死」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 少年の平静な目つきに、コクトオが見たものは、危機にはむかっている倨傲の影である。この目こそは青年たちがことごとく懐疑派になって、自暴自棄に陥っていた時代に、懐疑に与しなかった明澄な目である。

 コクトオには、この若い鹿のような目の表情がよくわかる。それは『僕は我慢ならない』と語っている。「舞踏会」であれほど人間の心を明晰にえがいてみせた作者にとって、この明晰さをおびやかすものは我慢がならない。ラディゲが理解した生命は、生きているという意識の極度の明晰さがその特徴であった。その背後から水晶のような生命をおびやかしてかかる不明瞭な影は、死のほかにはない。コクトオは、だからラディゲの告白に不安なものがまじると、それをすぐさま死の兆と思わずにはいられなかった。

 後年コクトオはこう書いている。

「僕が『天の手袋』と呼んでいるものを君は識っている筈だ。天は、手を汚さずに僕等に触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だった。彼の形は手袋のようにぴったりと天に合うのだった。天が手を抜くと、それは死だ。……だから僕は、あらかじめ十分用心していたのだった。初めから、僕には、ラディゲは借りものであって、やがて返さなければならないことが分っていた。……」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.324-325)

 天使は、超越的な存在である神と、地上的な存在である人類との媒介を担う。言い換えれば、それは「実在」と「現象」とが重なり合う奇蹟的な領域に宿るべき存在である。天使は仮初の現身を伴って実体的に降臨するが、その精神は生身の人間には到底及び得ない明晰な認識に充ちている。あらゆる感覚的謬見の彼方を透視する極限の明晰が、天使たちの備える揺るぎない習性である。極端に明晰な精神は当然のことながら、肉体や物質と謂った「仮有」の表象による「認識」の汚染を好まない。天使は神の御子であり、眷属であるから、その精神的機能において人智を遥かに超越した、畏怖すべき水準に達している。

 そうであるならば、作品の表題に掲げられた「ラディゲの死」という言葉は、単なる散文的事実の提示に留まるものではないと、推論すべきではないだろうか。極度の明晰を備えた精神、特別に「神性」の分有を認められた精神、それが物理的な死を遂げるということは、一つの神秘主義的な奇蹟の終わりを意味している。「忘我」を通じて、つまり自己の解体を通じて絶対者と融合することが、神秘主義的な欲望にとっての切迫した希求であるとするならば、レイモン・ラディゲは、その地上的な顕現を成し遂げた稀有の存在だったのである。つまり、生きながらにして絶対者と結合する不可能な夢想を、彼は自らの生命を通じて具現してみせたのだ。ラディゲの死、つまり一つの崇高な「奇蹟」の破綻は、ジャン・コクトーの精神に拭い難い悲劇的な傷痍の刻印を強いた。肉体的な「死」という事件は一般に、現象的な世界に縛り付けられた霊魂の祝福すべき釈放という含意を伴っている。けれどもラディゲの場合、肉体的な「死」は寧ろ、彼の天使的な本質を毀損する致命的な悲劇を意味する。ラディゲの死は、地上的な霊魂の天上への回帰ではなく、天上的な霊魂の地上的堕落として定義される。彼は選ばれた人間であり、肉身を与えられた奇蹟であり、それゆえに稀有な存在であったのだ。棺にも擬せられる死すべき肉体を脱ぎ捨てて昇天し、普遍的な「実体」だけが蝟集する彼岸の領域へ向かって旅立つことに祝福を見出すのは、凡百の俗人の辿るべき宿命の旅程である。しかしラディゲは、神にも等しい明晰な精神が、奇態な過誤によって肉身を纏い、地上へ顕現した姿なのである。

「でもこの原稿を読んだのはまだ君だけだぜ。世間はこの作品を読んで、掌を返して、僕を冷笑するかもしれないんだぜ」

「でも僕が傑作と認めている以上、間違いはない。とにかく二十歳で君がこれを書いたということは、生命へのおそろしい反逆でもあるんだよ。生命の法則の無視でもあるんだ。君より少し大人であるだけに、僕は法則の違反者に対する自然の残酷な復讐の例を見て来ている。生きているということは一種の綱渡りだ。君は二十歳で『舞踏会』を書いたことでこの平衡を破った。何で君が平衡を取戻すかが問題だ。しかも『舞踏会』それ自体が、完全な平衡を保った作品だということは何たる皮肉だ」(「ラディゲの死」『ラディゲの死』新潮文庫 p.326)

 通例、二十歳の少年には許されない卓越した水準の、仮借無い心理的省察によって組み立てられた傑作の創出は、一般的な自然過程の法則に叛いている。肉体と自然に対する暴力的な侮蔑のように、ラディゲの磨き抜かれた澄明な叡智は屹立している。その不均衡が、ラディゲという奇蹟を滅ぼす重要な原因として働いたのだろう。彼の存在は、肉体と自然によって構成された現象界における病的な異常値である。本来ならば、肉体を棄却しない限りは決して手に入る見込みのない筈の異様な明晰さが、ラディゲには天賦の才能として備わっていた。それゆえに強いられる夭折という論理的構図は、若年の三島が最も熱愛したロマンティシズムの偏執的な形態である。しかも、その悲劇的な病死には「神罰」という道徳的な抑圧のニュアンスが添えられている。抗い難い深刻な罪科の為に強いられる壮烈な「死」のイメージは、三島的な欲望の最も根源的で奇怪な焦点である。「戦死」或いは「殉教」という観念が、三島の官能に齎す甘美な陶酔の劇しさは相当なものであったろうと推測される。「仮面の告白」における「セバスチャン殉教図」への「射精」の挿話も、こうした消息を立証する明瞭な証拠であると言える。

ラディゲの死 (新潮文庫)