サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(relativism and alternative facts)

*最近は専らプラトンの対話篇を読んでいる。断続的に取り組んでいた『国家』(岩波文庫)の繙読を漸く了えて、その後は『パイドロス』(岩波文庫)に進み、現在は『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に着手している。

 プラトンの厖大な対話篇が綴られたのは、紀元前の古代ギリシアである。今から二千数百年も昔に誕生した著述が、世界中で読まれ、詳細な研究の対象に選ばれ続けているというのは驚嘆すべき事実である。幸いにも散佚を免かれた御蔭で、彼の著作は未だに特権的な影響力を堅持している。そして彼が数多の対話篇を通じて論じた問題は今も猶、完璧な解明を得られぬまま、知性的な刺激の源泉として底知れぬ奥行きを湛えている。

 プラトンの思考は極めて緻密な論証の連鎖である。彼の提唱する「ディアレクティケー」(dialektike)は、あらゆる思考と認識を厳密な再審に附し、世間に横行する諸々の偏見の不完全な性質を見事に曝露する。それは他者との論争に勝利して名声を博する為ではなく、端的に「真理」を把握する為の営みである。普遍的な「真理」に到達する為に、あらゆる認識の妥当性を吟味すること。「テアイテトス」においてソクラテスが語った「助産」の比喩に示されているように、プラトンは何らかの学説を聴衆に信じ込ませる為に、厖大な言葉を費やした訳ではない。弁論術に長けたソフィストたちは、自説を聴衆に認めさせる為の技巧の錬磨に忙しい。しかし、プラトンの手で理想化された「哲学者の範型」としてのソクラテスは、独創的な自説を聴衆に向かって押しつけがましく語るのではなく、相手の抱え込んでいる素朴な偏見を解体することに専心している。「確実な認識」を手に入れること、それが「哲学者」の野心である。「自説への信頼」を獲得することは、飽く迄も饒舌な「ソフィスト」たちに固有の野心である。

 言い換えれば、プラトンの対話篇を学ぶことは、確立された学説を鵜呑みにすることではなく、外在的な知識を吸収することでもない。重要なのは「ディアレクティケー」という思考の技術を習得することだ。従って哲学的な知見は、絶えず四囲の現実に向かって具体的に適用されねばならない。プラトンは「パイドロス」において「ディアレクティケー」の実践的な原理として「綜合」と「分類」の二つの技法を提示しているが、このような論証的思考の過程を学習することが、最も肝腎な点なのである。

プラトンは論証に際して、一つ一つの言葉の厳格な「定義」を重視する。厳格な「定義」を省略した議論は、本来ならば異質な要素を混同して、曖昧で多義的な「言葉」や「認識」を生み出してしまうからだ。

 ソクラテス そのひとつは、多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめること。これは、ひとがそれぞれの場合に教えようと思うものを、ひとつひとつ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。(『パイドロス岩波文庫 p.133)

 「ただ一つの本質的な相」とは、別の言い方を用いるならば「イデア」(idea)であり、或いは「ウーシア」(ousia)である。事物の「本質」を探究することは、プラトンの提唱する「ディアレクティケー」の最も重要な秘鑰である。私見では、世上に蔓延する諸々の偏見や固定観念は、本来ならば相互に異質な事柄を安直な仕方で「混同」することによって培われ、知らぬ間に強固な「謬見」(doxa)として完成される。例えば「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的なイデオロギーは、これらの相互に異質な要素を「混同」することで成り立っている。しかし厳密に検討すれば、これらの要素は分離することが可能である。

 現行の日本国憲法は「婚姻」の根拠を「両性の合意」に求めている。この場合の「合意」という言葉は、必ずしも「恋愛感情」の介在を意味しない。経済的な理由、政治的な理由、宗教的な理由など、様々な事情を加味した上で、何らかの形で「合意」が成立すれば、当人たちが相互に性愛的な関心を懐いていなかったとしても、両者の「婚姻」は可能である。けれども「恋愛=結婚=生殖」の三位一体的なイデオロギーは、あらゆる「婚姻」が「親密さ」への性愛的な関心に依拠することを求める。若しも「婚姻」が性愛的な関心を欠いていたら、肝腎の「生殖」の過程が円滑に遂行されない懸念が生じるからである。伝統的な「婚姻」の制度は、社会の存続の礎である「生殖」の過程を保護し、促進することを目的として存在しているのだ。

 「結婚=生殖」の緊密な連携に「恋愛」という要素が附加されたのは、個人の「自由」や「権利」や「主体性」を尊重しようとする社会的な趨勢の影響であろうと考えられる。言い換えれば、個人の「幸福」という観念が「結婚=生殖」の連合的な観念に接続された結果なのである。「社会の存続」という公共的な義務の代わりに「個人の幸福」という主観的な基準が「婚姻」の制度を支配するようになったのだ。結果的に「婚姻」の可否は、個人の恣意的な裁量に委ねられるようになり、包括的な「非婚化」(即ち「離婚」及び「未婚」の増大)の亢進を惹起した。「不幸な結婚」は積極的に忌避され、解体されるようになったのである。

 「個人の自由」の優越は、端的に言って「個人的欲望の更なる充足」の優越と同義である。それは「貪婪」という伝統的な悪徳に肯定的な意味を賦与することに等しい。「欲望」は「節制」の対象から「厚遇」の対象へと移管され、画一的な道徳律への従属は必ずしも評価されなくなった。「謹直な人間であること」の価値は「退屈な人間であること」の無価値に置き換えられてしまった。相対的な「市場」の審判に屈することが(プラトンならば、それを「迎合」と呼ぶだろう)正当な振舞いとして認められ、普遍的規範は衰微し、個人の自由な意見や感覚が影響力を増した。極端な「相対主義」(relativism)は「公共的価値」(public interest)への関心や意欲を減殺し、広範な連帯の成立を阻害するだろう。

 自己の感覚や思考を絶対化すること、それが「相対主義」の風潮の中で育まれるということは逆説的な事実である。「各自の考えを尊重する」という方針が「普遍的な正しさの欠如」を伴って貫徹されるとき、我々は所謂「もう一つの事実」(alternative facts)の氾濫する世界へ投げ込まれるだろう。「デモクラシーから独裁が生じる」というプラトンの「国家」における洞察は、極めて犀利なものであったと言える。