Cahier(「哲学」と「文学」)
*プラトンの対話篇を読むことに疲弊して、三島由紀夫の繙読を再開しつつある。『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)の抽象的思弁の難解さに面食らって、特に後半に出現する幾何学的な論証の抽象性が一向に咀嚼出来ず、改めて自分の劣等な脳味噌に辟易したことが直接的な契機である。同時に、己の主要な実存的関心が何れの分野を求めているのか、少しずつ見えてきたような気がしている。
プラトンの思想は絶対的で普遍的な「真理」を何よりも重視する。彼がソフィストたちの駆使する迎合的な「弁論術」(rhetorike)を糾弾し、芸術家たちの仕事を「真実在」(ousia)の劣化コピーに過ぎないと痛罵する背景には、無時間的に正しいと看做される揺るぎない「知識」(episteme)への信仰が関与している。時空を超越して維持される事物の本質的要素だけが「実在するもの」として認められ、その他の要素は総て「生成するもの」に分類される。そして「生成するもの」は断じて「真理」の資格を満たさないというのが、プラトンの根強い主張である。彼の遺した対話篇は何れも、絶対的な「エピステーメー」の確立に向けた弛まぬ論証的思惟の過程として構成されている。その強靭なドリルを思わせる論証的思惟の威力は、様々な偏見や謬見を破砕し、贋造の「真理」を決して容認しない。
プラトンの提唱する哲学的な「ディアレクティケー」(dialektike)は、ソフィストたちの巧緻な「レトリケー」(rhetorike)に対置される。「ディアレクティケー」は断じて揺らぐことのない不動の「真理」を確定する為に、極めて精緻な論証を積み重ねる。単一の「真理」が事前に実在し、人間は知性の機能を通じて、それに触れることが出来るというのがプラトンの信条である。けれども、彼の批判する相対主義的な弁論家たち(例えばプロタゴラスの名を筆頭に挙げても良い)は、そのような単一の「真理」に到達することよりも、或る何らかの事実を聴衆に対して「真理である」と信じ込ませることに主眼を置いた。それは彼らが悪質な煽動家であったからではなく、普遍的で絶対的な「真理」を探り当てることの莫大なコストと、それが齎す実際の利益を比べて総合的に「引き合わない」と判定した為であろうと思われる。
プラトンの思想は極めて観照的なものである。彼は具体的な行為や実践を重んじない。そもそも、感覚的認識は悉く「謬見」(doxa)として排斥するのが彼の持ち前の流儀なのだから。だが、肉体的な感官の伝える夥しい信号を残らず軽蔑しながら、人間は優れた実践的行為を成し遂げることが可能だろうか? プラトンの思想は「肉体」を必要としない。寧ろ「肉体」は精密な「知識」(episteme)を獲得する妨げになると看做され、積極的に抑圧される。あらゆる行為は軽視され、純然たる知性の行使が称揚される。プラトンの論じる「幸福」は、地上に暮らす俗人たちに相応しい「幸福」ではなく、飽く迄も「神の似姿」を目指す超越的な求道者への贈り物である。
弁論家たちは巧みな口舌を用いて、普遍的な「真実」の代わりに「真実らしきもの」を聴衆に向かって提示する。ギリシャ語で「エイコス」(eikos)と呼ばれる「尤もらしさ」の概念は、プラトンの厳格な眼には「真理」の不完全な模造品として映じただろう。それは「真理」の本来的な価値を毀損する幻影のようなものである。しかし、所謂「相対主義」(relativism)の見地から眺めれば、数学的な論証のように、絶対的で普遍的な「真理」を発見することの困難な領域は幾らでも存在する。言い換えれば、この世界には「普遍的真理」の成立する領域と「流動的真理」の成立する領域の二つが存在する。幾何学の問題に関して、複数形の「真理」が登場するのは明らかに論証の不備に基づく謬見に過ぎない。だが、例えば「私は誰を愛するべきか」という実存的な課題に就いて、そもそも単一の普遍的な「真理」が成り立つだろうか?
プラトンの創始した厳密な「知識」(episteme)への信仰は、キリスト教の世界に移植されて、厖大な神学的議論の枝葉を繁らせた。感覚によっては捉え難い事柄に関する純然たる抽象的思弁(それは「論証」以外の手段を持たない)は、不可知の超越的存在である「神」を巡る議論と相性が良いのだろう。それでは、弁論術に長けた人々の後裔は何処に存するのか。恐らく彼らは「政治」や「芸術」の世界に、その遺伝子を引き継いでいる。「哲学」が常に厳密な論証を通じて「単一の真理」を探究するのに対し、弁論家たちの魂を継承した人々は「条件付きの真理」を模索する。例えば芸術家は、事物の多様な姿を描き出し、その普遍的な本質よりも、偶有的な多面性を重んじる。政治家たちの目的は「真実」を論証することではなく、諸々の実際的な課題を最善の帰結へ向かって力任せに衝き動かすことである。「それが真実であるかどうか」の裁定を、あらゆる問題に優越させる観照的なプラトニストの生き方は、万人に妥当する実存的な規範であるとは言い難い。そもそも感覚によっては把握し難い「観念」だけを取り扱う世界で、純然たる論証によって「真理」を確定させようと企てる「形而上学」(metaphysics)の欲望は、極めて奇態なものだ。
哲学は感覚的な証拠を必要としない(その意味で、例えばエピクロスは哲学者ではなく、科学者であると考えられる)。彼が用いるのは、純然たる論証に寄与すると思われる符号(言語と数式)だけである。彼は符号の力を借りて、感覚的な認識には聊かも頼らず、様々な論証を試みる。彼にとっての「真実」とは、経験的な事実ではなく、専ら「論理の整合性」に基づいている。哲学が信じるのは「合理性」だけである(無論、この言葉は「効率的である」という意味の現代的慣用句を含意していない)。少なくとも論証が成立しているならば、導き出された帰結は必ず「真理」の栄冠に値するのである。しかし、プラトンの弾劾した弁論家たちの野心は、そもそも「純然たる論証の成立」にも「感覚的に捉えることの出来ない事物」にも捧げられていなかった。彼らは「説得」を通じて他者の心を動かす政治的効用を追求していたのであり、その意味では、プラトンの投じた批難は御門違いである。如何に美しく精緻な論理的整合性を樹立し得たとしても、それが他者の心を動かさないならば、政治家にとっては何の価値もない。芸術家にしても同様で、彼らに期待される社会的役割は「創造」や「表現」であって「整合的な論証」ではない。
ここまで考えれば、最早結論は明らかだ。数学に象徴される「整合的論証」の世界に、私は特別な関心を持たない。それよりも私は、人間の実存や心理に興味がある。だから、三島由紀夫の繙読を再開することに決めたのである。