サラダ坊主日記

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プラトン「ティマイオス」に関する覚書 1

 プラトンの後期対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)に就いて書く。

 「ティマイオス」は、プラトンの遺した夥しい著作の中で最も広範且つ深甚な影響力を発揮した書物であると言われている。四世紀ギリシャ天文学者カルキディウスによるラテン語の抄訳は、当時の西欧社会に重要で決定的な知的衝撃を与え、宇宙の成り立ちに関する一つの強力なイメージを涵養することとなった。

 あの分厚い対話篇「国家」(ポリテイア)に比べれば、その分量は極めて僅少で簡素だが、見方を変えればそれだけプラトニズムの神髄が凝縮されているとも言える。宇宙の生成に関する序盤の議論は、他の対話篇において繰り返し語られてきたプラトン実在論的な思想の特性を鮮明に浮かび上がらせている。

 さて、私の考えでは、まず最初に次のような区別を立てなければならない。つまり、常にあるもの、生成しないものとは何か、そして、常に生成し、決してあるということがないものとは何かということだ。前者は、常に同一を保つので、理とともに知性によって捉えられる。他方、後者は、生成消滅し、真にあるということが決してないので、理と合致しない感覚とともに思いなしによって捉えられる。さらに、生成されるものはすべて、必ず何らかの原因によって生成しなければならない。すべてのものは、原因なしに生成することは不可能だからである。しかし、どんなものであれ、それの造り主(デーミウールゴス)が常に同一を保つものに目を向けて、そのようなものをモデルに用いて、それの形や性質を仕上げるのであれば、すべてのものは、必ず立派なものとして作り上げられる。しかし、生成したものに目を向け、生み出されたものをモデルに用いれば、仕上げられたものは立派なものにはならない。(『ティマイオス/クリティアス』白澤社 pp.34-35)

 「存在するもの」と「生成するもの」に関する区別は、プラトン以前の古代思想を通じて育まれてきた理論的な構図である。「万物流転」(panta rhei)の学説を掲げるヘラクレイトスは、普遍的な「存在」の観念を排斥し、他方、エレア派の始祖と目されるパルメニデスは「生成」の観念を否定して、普遍的な「存在」を事物の「実相」或いは「真理」と看做した。両者の対照的な性質を徴する限り、プラトンの思想が、ピュタゴラスパルメニデスを擁する所謂「イタリア学派」の系譜に強固な親和性を懐いていることは明瞭であるように思われる。

 この理論的区別は、古代ギリシャ哲学のみならず、人類の懐き得る思想の歴史全体を貫徹する最も普遍的で基礎的な争点の一つである。ピュタゴラス及びパルメニデスから継承された実在論の厳格な思弁的性質は、神学を含む後世の「形而上学」(metaphysics)の誕生と発展に大きく寄与した。その重要な首魁がプラトンであることは論を俟たない。彼は「常に同一を保つもの」即ち「生成しないもの」を、世界の正しい範型として定義した。彼にとって「ロゴス」(logos)は、生成的な現象の背後に見出される消極的で暫定的な「法則」に留まるものではない。つまり、経験的な観察や実験を通じて絶えず「反証可能性」(falsifiability)に怯え続けるような繊弱な真実ではない。プラトンにとって、感覚的認識は「正しい知識」(episteme)の把握という崇高な目標に対して完全に無力であり、寧ろ有害であると看做される。「生成するもの」とは即ち「存在しないもの」と同義であるから、それは真摯な考究の対象には値しないのである。

 「常に同一を保つもの」つまり「同一性」こそが事物の本質的な姿であるというプラトンの観念的な実在論は、当然のことながら生成的な現象の一切を不完全な「幻影」として貶下する結果を招く。彼にとって「生成」は、完全なる「同一的実在」の不完全な模倣を意味し、従って「生成」に関する感覚的認識から「真理」を導き出すことは不可能であると看做される。尤も、この「ティマイオス」において語られる宇宙論は、こうした「生成」と「存在」の区別に関して、聊か妥協的な折衷の措置を導入しているように思われる。少なくともティマイオスは、宇宙が「生成するもの」であることを明確に認めている。その上で、彼は万有の造物主であるデミウルゴスが、宇宙の創造に際して「存在」を規範とする場合と「生成」を規範とする場合とを比較し、その優劣を定義する。こうした記述は、対話篇「国家」における「ミメーシス」(mimesis)に就いての議論を想起させる(「存在」の不完全な模倣に過ぎない「現象」を更に模倣する芸術家の所業を指弾するもの)。

 人間が肉体的な存在として地上における活動を強いられている以上、様々な生成的現象を単純に否定することは必ずしも有益な判断ではない。プラトン自身、有名な「洞窟の比喩」(「国家」)において、事物の実相である「イデア」を目の当たりにした知者は、再び洞窟に暮らす囚人たちの許へ回帰しなければならないと説いている。彼の思想は極めて論証的で思弁的な性質を備えているが、その特徴は必ずしもプラトンが実践的な人間ではなかったことを断定的に立証するものではない。言い換えれば、彼は自己の抱懐する思想と、自己が現に巻き込まれている実存的な領域との調和を図る必要に迫られていた筈である。彼は単に感覚的な事物の実在を否定した訳ではない。重要なのは「正しい知識」つまり「真理」を把握する為には如何なる手段と方法を駆使すれば良いのかという設問だ。「真理」の把握は、彼にとって純然たる学術的関心の対象に留まるものではなかった。あらゆる哲学は、哲学者自身の内なる実存的要求に基づいて営まれ、養われる。プラトンは「絶対的な正しさ」を必要としていた。それが彼自身の内なる実存的要求に基づいていることは論を俟たない。いや、このような言い方は適切ではないかも知れない。要するに哲学者とは「絶対的な正しさ」を要求せずにはいられない実存的様式の持ち主を指す単語ではないだろうか? 不完全な認識、明晰ではない認識に満足することの出来ない実存的要求が、あの難解な「哲学」という思想的制度を創出するのである。

 尤も「絶対的な正しさ」という表現自体が、精密な検証に附されねばならないだろう。プラトンは普遍的に妥当する「真理」を得る為には、相対的な「知覚」(aisthesis)に論拠を求めてはならないと判断した。言い換えれば、彼は自己完結的な「論証」(proof)の完成に莫大な情熱を燃やしたのである。その哲学的な信念は、この「ティマイオス」において語られる完全な球体としての「宇宙」のイメージと照応しているように思われる。如何なる外在的な補助も必要とせず、ただ自己自身に内在する力だけで成立する自存的な「真理」の獲得、それがプラトンの夢見た終生の「理想」だったのだ。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本